ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

『夜と霧』 人間を真に救済するのは、人間を最高足らしめる最も苦しい受難








ここで述べられている最も重要なものとは、どのようなおぞましい悪夢よりも悪(苦しみ)の存在するなか(現実)に置かれたとき、人を真に救済するのは何であったかという人間がいつしか必ず直面するであろう何より深刻な問題である。
この世界には、いつから始まったのだろうか、その存在が堪えられないと感じるほどの悪(苦しみ)が。
人が悪を行うも善を行うも、その善と悪を享受するも拒むも、その決断する自由が、本当に平等にあるのならば。
そして、自由であるからこそ、そこに揺るがない"罪"として存在し得るのか。
人間が、本当に自由であると信じるとき、それは自分の身に降り掛かるすべての苦痛でさえ、みずからの自由の決断によって起こるべくして起こっていることを信ずるということである。
わたしはこのフランクルが何度と溢れる悲しみを抑えながら綴り続けたであろう『夜と霧』を読みながら感動で幾度も涙が流れたが、一つの深い不満を感じているのは、人間の"罪"の意識について、それが重要なものとして言及されていなかったと感じたからである。
罪の意識とは、顕在意識と潜在意識両方に存在できるが、その罪なる行為から目を背けている以上、例え人間が苦しみの底にあり続けようとも自分が赦される日が来ることを信じる(求める)ことはできないだろう。
わたしはこの本を人類が客観的視点、また過去に起きた悲劇として読んではならないと感じるのはまさに人類は未だ"本当"の強制収容所のなかに生きて死んでゆかねばならない存在(当事者)であることをわたしが知るからである。
もっとも、この強制収容所が現実に今もほとんどの国の場所に存在し続ける"断末魔の鳴り止まない地獄"の、その排泄物と血に汚れた場所とほとんどそっくりの在り方をしていることに気づいた読者は少なくないであろう。
"彼ら"もまた、自分にいつ"死"が訪れるかは知らない。
そして何故、自分たちがこのような"地獄"のなかで生きなくてはならないか、そして何故支配する者たちによって殺されねばならないか、その理由を知り得ない。
"彼ら"もまた、"人"として叫び続けているかも知れない。
「わたしたちは全くこれほどの酷い扱いを受けなくてはならないほどに悪いことをしたであろうか?」
"彼ら"は、助けてくれと、その悲痛なる"声"によって支配者に対して懇願する。
最期の最後まで、切実に"彼ら"は願う。
「わたしは殺されたくない。わたしは生きたいのだ。わたしは生きている。わたしにもあなたと同じ赤い血が流れている。あなたと何が違うのだろうか。」
ある日、囚人の為に、悦ばしいものが"食べ物"として与えられた。
囚人たちは夢中になって、その歓喜を挙げるほどに美味いものを口に運んだ。
そしてのちに、それが自分と同じ"仲間"だった者の"肉"であったことを知った。
それに気づいていながらも、それを味わって食べることをやめるすべを持たなかった。
わたしは想うのだが、これこそが、人間にとって、最も残酷な悲劇として、人間によって人間が人間で在り続けることを奪われる最も忌まわしく皮肉で悍ましい我々が経験し得る最悪な"罪"の意識として在ると言えるのではないか。
しかし実際には、どれほどの人がその罪の意識に最も苦しみ続けて生きて死んでゆけたであろうか。
わたしはこの本を読んで、最も気になったのは、本当に精神の倫理的、道徳的高みに達した極少数の人が、自分の身に起こる、時に堪えられないほどの苦痛と、みずからの"罪"の深層にある何より重く苦しい意識とを全く関係のないものとして切り離し続けて過ごしたのか、ということである。
つまり自分を"被害を受ける者"から、"加害を与えた者"としてみずからを省みて苦しむ瞬間が、どれほどあったのか。
これは原罪を信じる敬虔なクリスチャンやみずからの内にある善悪と常に向き合って来た仏教徒などばかりがここぞとばかりに与えられる特権的心理ではないはずである。
フランクルが、疲弊しきった心身を起こし、仲間たちに人間の救いを論ずる最後に、"犠牲"の価値(意味)について語り、それを聴き終えた者たちが涙して彼にぼろぼろの身体でよろめきながら歩み寄って感謝するシーンに、わたしは涙が流れた。
わたしもまた、人間にとって最も救いとなる意識は、みずから"犠牲"となることを望む精神にこそ在ると信じているからである。
しかしわたしの言う"犠牲"は、愛する者たちを最も救う為の犠牲ではなく、その意識には、自分が無関心を装い続けてきたすべての存在、そして何よりも自分がこれまで、愛することができなかったが為に、苦しめ、また殺して来た無数の存在たちに対する"罪"の意識がどうしても密接に関わっている必要があるのである。
聖書を繰り返し読み続けて来たであろうフランクル(彼の”神”なる超越した存在に対する想いは『人生の意味と神』という彼の神についての対話の本を今後読んで知りたいと想う。)が、堪えられない地獄の生活のなかで人間のなかに積み重なり続けて来たであろう目を背け続けて来た人々とみずからの罪と人間の救済の関わりについて考察してくれなかったことが真に残念でならない。
イエス・キリストの尊い犠牲は、人類の罪がなくては、必要がなかったのである。
人間にとって、最も重要な決断、みずからを、最も苦しい地獄から救い出す為の勇気ある決断、それは、自分が愛する者の為の犠牲となることではなく、寧ろ自分がその痛みと苦しみをわからなかったが為に、その地獄から救うことに関心も持たなかったが為に、地獄の底に突き落とし虚しく生命を終わらせ続けて来た存在たちの為に、人はどれほど苦しくともみずから犠牲となることを心から求め続け、それを成就させようとする決意、みずからの神との約束なのである。
だからイエス・キリストは「容易に愛することのできる者(自分を愛してくれる者)だけを愛したからといって何の報いがあるだろうか。」と言い、自分を苦しめて迫害した者の為に祈り続け、自分の地獄の苦しみによって人類の(堪えられないほどの)罪を贖うことを信仰し、"真の愛"こそが自らを救うことを"人"の手本として見せる為に拷問を受けて磔となって処刑されたのである。
終末に恐ろしい速度で向かっているだろう今、我々人類が、本当の滅びに至るまでに、この"自己犠牲"の決断をできるかが、一人ひとりに試されているのではないか。
そのとき、自分の護りたい存在だけを助けようとし、自分たちの苦痛ばかりに囚われ、自分の望む未来だけを希望するならば、到底、最早われわれは、間に合わないだろう。
そこには永遠に続くと感じる強制収容所と比べ物にならないほどの、未曾有の状態が待ち受けてるかも知れないのである。
このようなホロコーストが、ジェノサイドが、何故起こってしまったのか?を考え続けながら、大多数の人類が現に今関わり続けている無慈悲なホロコースト(大量虐殺)から目を逸らし続ける限り、悍ましく悲惨な歴史は繰り返されるだろう。
人はまさしく人でありながら支配する人間たちの利己的な意識の為に家畜となり、屠殺されるが如き"地獄の死"に向かって生かされ、そして実にほとんどの者が、その場所から生きて出られないのである。
しかし人間には、精神の自由があるはずではないか。
精神とは、潜在する深層にある意識である。
人は本当の苦しみの底に在るとき、自分が自分の生死を決める権限を持ってはいないのだと信じる必要があるだろうか。
人は自分が本当に殺されたくはないのに、殺されるときには自分の望みも虚しく殺されるのだということを信じる必要があるだろうか。
そしてその信仰によって、人は救われるだろうか。
人は真に救いを求めずにはいられぬほどに苦しみ続けた末に、自分は救われないことを信じて、自分の信仰によって虚しく救われないまま死ぬ必要があるだろうか。
わたしは、はっきりと言いたいが、人間の真の悲劇、真の不幸は、これ(堪えられないほどの地獄が持続し続ける苦しみ)を経験して死んだ者よりずっと、これを経験できないで死ぬことに在ると言いたい。
それは存在が永遠の無限の自由であることをわたしが信じる以外は、わたしがどうしてもこの世界に納得できないほどに、この世界も自分自身の人生も、堪え難い苦しみが絶えないからである。
フランクルの言った"光(喜び)と闇(苦痛)のコントラスト"は、真実を表している。
だからこそ、みずからどこまでも苦しもうとする者ほど、確かにどのような苦しみにも堪え忍ぶことのできる強さを与えられ、その者は、その力によって真の喜びを創造する未来をみずから約束し、みずからの放つ光によってみずからを救うことができ得るのである。
そしてみずからどこまでも苦しみを求むこととは、自分に堪えられるだけの苦しみを神が自分に与えることを真に信じる信仰であり、それによって初めて人は本当に恐れを手放し、我が人生のすべてに身を委ね、みずからの傷を癒やし、安心することができるだろう。
安易な希望と未来(みずからに都合の良い世界)を信じ、自分の罪も省みないで苦しみが取り除かれることを祈る道は自己を崩壊する道であるのに対し、ひたすら自分のすべての罪悪が正しく裁かれることを祈り続け、自分の愚かさを嘆き、すべてへの贖いとすべてを救う為に自分が堪え得る限りの苦しみの犠牲となることを祈り続ける道は、自己を真に救済する道であることをわたしは人々にもフランクルにも言いたい。
多分彼なら、わたしの言い分を快く認め、頷いてくれるように想える。
この一つの抜け出ることの許されぬ場所(地上)に生きる哀れな、ほとんど誰も読まない言葉を綴り続け、切実に救いを請い求め続ける罪深く愚かな独りの人間に対して。

最後に終盤で彼が語った印象的な言葉を載せる。



『われわれは「幸福」を問題としないのである。
 われわれを支えてくれるもの、
われわれの苦悩や犠牲や死に意味を与えることができるものは「幸福」ではなかった。」



















映画『SHAME -シェイム-』 兄と妹が求め合う完全なる愛




『エイリアン:コヴェナント』であまりに美しいアンドロイドを演じたマイケル・ファスベンダーが観たくて、セックス依存症の兄と恋愛依存症とリストカット依存のある妹の話ということだけ知って、良さそうな映画だと感じたのでこの映画を観た。
観るまでは、わたしはまるで当事者ではないような気持ちでこの映画を観始めた。
しかし観ていくなかで、わたしは自分と兄の関係を観ていることがわかった。
この映画はあからさまな兄と妹の共依存(相互依存)の関係が描かれているが、わたしと兄の場合、互いにそれをずっと隠し合い続けてきた。
兄とわたしは、ブランドンとシシーのように言いたいことをぶつけ合えるような瞬間がこれまでなかったように感じる。
わたしは兄に甘えられるときはなかった。
兄はいつも本当に些細なことでわたしを罵り、心から軽蔑し、酷いときは顔に痣ができたり柱に頭を思い切りぶつける、思い切り蹴るなどの暴力を奮った。
わたしは兄を殺人犯にしてしまうことを恐れ、父が死んで兄と二人で暮らしてきた家を出た。
兄は、わたしの知る限りはセックス依存症ではない。
しかしこの映画の主人公のブライドンのように、”人(女性)を好きになれない”人間であり、例え交際した女性と関係を持っても、一緒に暮らしたい、結婚したいなどの気持ちが芽生えることがないと話していたことを姉から聴いた。
一方、わたしは22歳のときに最愛の父を亡くしてから初めて男性と交際し始め関係を持ち、セックス依存症ではないが性に対してあまりに奔放に(サイトで出会った男性とその場限りの関係をし続けて)生きてきたし、39歳の今でも好きになった人に激しく依存する境界性パーソナリティ障害の症状が抜けることがない。
ブライドンもシシーも、確実に幼い時分の親からの愛情の飢えが関係しているだろう。
わたしは兄が6歳のときに生まれてわたしが2歳のときに母が乳がんを発覚し、その2年後に母は他界した。
兄はまだ母からの愛情を一途に欲していた時期にわたしに母を横取りされ、潜在意識でわたしに対する嫉妬が常にあったことだろう。
わたしはわたしでまだ乳離さえできていたかわからない頃に母が入院して母と引き離され、それは寂しい想いをしたことだろう。
母に対する愛情飢餓を、兄とわたしは今度は父に対して全力で満たすために求めて生きてきたはずだ。
しかし、父はどうしても息子であり上の子でも在るわたしの兄に対しては厳しく、また時には過保護であり、わたしは末の娘なので兄に比べて甘やかされて育てられてきたのだと想う。
兄もわたしも、父に対して言いたいことを言えるような関係ではなかった。
それほど父は威厳があり、また不器用な人で、容易に刃向かえない(父を苦しめることができない)ほどにわたしも兄も父を深く愛していた。
でも父が本当に心配していたのはわたしだった。
それは、わたしのほうが遥かに激しく父に依存して、父もまたわたしに依存していたからだと想う。
だがその共依存の関係が父とだけではなく、兄ともあるのを知ったのは父が他界した翌年の頃だった。
兄は鬱で働く気力のないわたしにいつも暴力を奮った。それに堪えられずに一度目に家を出たとき、帰ってきたら兄は長年安定して務めることができていた正社員の仕事を辞めていた。
姉が「おまえが出て行ったから○○(兄の名)は仕事辞めたんやで。」と責めるように言った。
ほとんどの兄と妹がそうではないのだろうが、わたしが10歳の頃、16歳の兄はわたしに性的関心があり、兄がわたしに性的欲求を求めて来ることが恐ろしくてトイレに父が帰ってくる時間まで閉じ籠もっていた時期があった。
しかしわたしに対する兄の性的欲求は奥深くへと閉じ籠められたかのように、わたしが成長するにつれて表には出ないようになった。
わたし自身、父にも兄にも顕在意識で性的欲求を覚えたことはない。
だがその想いは複雑であり、父や兄と性的な関係を持つ夢は幾度と見るし、愛する理想の男性を想い浮かべて性的な感情に満たされているときに、よく父と兄の存在は夢想する男性と入れ替わるように出てきてはその都度わたしを苦しめる。
もしかしたら兄もそんな複雑な苦しみを抱えてきたのだろうかと想う。
わたしは、セックスで満たされたと感じた経験がない。
自分の書く小説は自然と近親相姦的な話ばかりになってきた。
現実で、愛する男性によって満たされることを諦めているというよりも、わたしはそれを求めていないと感じる。
わたしが求めているのは、常に母と父と兄との愛であり、それは決して性的(肉体的)な次元のものではない。
その愛を、性的な次元で満たすことは不可能なのである。
そのことを、わたしも兄もわかっているし、この映画の兄と妹であるブライドンとシシーもわかっているからこそ、苦しみ続けている。
言うなれば、本当に愛する存在から愛され続けるという欲求を満たすとは、”肉体的”なものなのである。
愛する者を独占したいというこの欲望こそ、”肉欲”なのである。
それをどうしても得られないとき、人は相手に対する愛憎の念を潜在的に抱えずにはいられない。
本当に愛する存在(父と母と兄・妹)に対する潜在意識の愛憎の本質とは、”自分がダメだから愛されないんだと感じる自己憎悪・自責”の意識である。
だから愛されないダメな自分に対する自罰行為として、最も手っ取り早く、自分を最も苦しめて傷つけ、破壊せしめることのできる行為、自傷行為(セックスやリストカットやアルコール)に依存してしまうのである。
この依存症を克服するのは、あまりに困難である。
しかし克服するために、必要なものがある。
それは自分の”外”には、決して何も求めないということである。
わたしはずっとずっと、”完全なる愛”をわたしの外に求め続けて生きてきた。
何故、わたしは愛されないのか。何故、最も求める愛を、得られないのか。
そう叫び続けてきた。
しかし何故、それが在ると信じてきたのだろう。
わたしのなかにないならば、わたしの外にもない。
みずからの”内”に存在している愛に目覚めるまで、何故そのすべては虚構であるとわからなかったのか。
わたしの母(父・兄)なのだからわたしは完全なる愛によって愛されるべきだという根底にある観念が、わたしをずっと苦しみの底に突き落としてきた。
昨日か一昨日だったか、こんな夢を見た。
わたしと兄の今までの悲劇のすべては、並行世界(パラレルワールド)では起きていなくて、わたしは今でも兄と仲良く暮らしているのだと兄に教えるという、とても悲しい夢だった。
わたしが兄との仲を、取り戻すことは死ぬまでできないとわかっている。
家を出てからは、わたしは兄に何も求めることはなくなった。
その代わり、兄のすべてを赦してきた。
そして自分を赦してほしいと祈り続けて生きてきた。
その想いをずっと持ち続けるならば、いつの日か、きっと死後だと想うが、わたしと兄は、本当に心から赦し合える日が来るかもしれない。






追記:わたしと父、わたしと兄は、過去生では互いに深いカルマを負い合うほどに苦しめ合った恋人の関係にあったのだろうと感じている。
母の愛情の飢餓や、性質の遺伝などでここまで依存し合わなくてはならないのだとは想えない。
父は母の死後、あらゆるものを犠牲にしてわたしと兄を育ててくれた。
わたしも兄も父のその愛をわかっていた。
しかしそれでも、わたしと兄は父の愛に激しく不満を抱いて苦しんでいた。
この映画では親が毒親であって、それが原因であるかのように想わせる台詞があるが、近親相姦愛やセックス依存性や恋愛依存症はそれほど単純な原因によるものではないだろう。



劇中に出てくる兄ブランドンのPCのHD内にあったファイル用語”Creampi”とはなんだろうと検索してみると”膣内射精”の隠語だった。
この映画の兄妹は私と同じキリスト教徒の親のもとに生まれ、聖書の教えのもとに育てられたのかもしれない。
聖書は絶対的に避妊や、姦淫(配偶者以外との性行為、配偶者以外の人間を性的な目で見ること、即ちポルノビデオの鑑賞などすべて)を禁じている。
それは神に背く行為である為、セックス依存や性の奔放さは最も罪深い自罰(自傷)行為の一つとなるのである。
膣内射精は夫婦の契りと神から子を授かる為の重要な行為である。
その神聖なる行為を夫婦以外が行ったポルノビデオを鑑賞するという行為がどれほど罪深くて神(自分自身)を悲しませる背徳行為であるかをブランドンはわかっており、その行為によってどこまでも自分を破壊してゆけることを願っていたのだろう。




追記:16日
この映画を見終わったあと、晴れやかになる気持ちはなく寧ろ苦しいのだが、毎日この映画を観たくなるのは確かなカタルシスを生んでいる作品だからだろう。
自分が無意識に避け続けてきた兄との問題について深く考えさせてくれる。
わたしは父には甘えられる時があったが、兄には甘えられなかった。
でもそれは兄の愛を感じられなかったからではなく、兄がそれを拒んでいるように感じていたからだと想う。
普段は、兄はいつもわたしにアホなことを言ってお腹が苦しくなるほど笑わせてくれたりするような人だった。
でもほんのちょっとしたことで兄はわたしにキレて、恐ろしい形相でわたしという人間に対する蔑みと憎しみをぶつけてきた。
父も怒ると怖かったが、兄は父の何倍も恐ろしかった。
父が死んでから、わたしは遊び目的ではなく、真剣に支え合える人を求めて出会い系サイトで知り合った男性とよく会うようになった。
ある時、当時働いていなかったわたしが家に帰ってきて、何処へ行ってたのかと兄に訊ねられ、わたしが素直にネットで知り合った男性にハンバーガーを奢ってもらったことを伝えると、兄はあからさまにわたしを見下す顔で笑いながら「その見返りにヤラせたんか。」とわたしに言った。
わたしはそう言われたとき、あまりにショックで確か返事ができなかった気がする。
”妹に対する愛憎や嫉妬”という言葉ではとても言い表すことのできない複雑な感情が兄のなかにはあったのだと想う。
兄は自分の顔が、妹であるわたしの顔とよく似ていると言っていた。
それは外面よりも、内面がよく似ていることをわたしも兄もわかり合っているのだと感じる。
互いに、苦しくてならない人生だが、兄はそれでも生きており、わたしも生き抜くことを願っていることが、今の唯一の救いであると感じる。




追記18日:
ブランドンとマリアンがレストランでボーイからラムの焼き加減に”ピンク色”を勧められるシーンについて、ずっと考えていた。
黒人であるマリアンの肌の色は焼かれたラム(仔羊)のその表面の色を表しており、黒人の肌の色によって目立つピンク色の女性器の色は仔羊の肉の生焼けの色を表していると想えてならない。
これは卑猥な意味合いではなく、聖書的な意味(人間としての罪の意味)合いがあるように感じる。
かつてわたしは「悲しみの男カイン」という小説でカインという男が性欲のうちに貪る女と食欲のうちに貪る肉を同じものとして考えることを表現した。
そしてその罪が同等のものであることをこの主人公はわかっていた。
仔羊が望んでいるのは、焼かれて食べられ、虚しく生命を終えることではない。
同様に、この映画のマリアンも、虚しい関係をブランドンと持ち、自分が仔羊のように貪られて終わることを望んではいない。
スティーヴ・マックイーン監督がそれを意図していたかはわからないが、表現とは自分の意図していない部分をも示すものであり、それ故に色んなことを深く考えさせられる。




















存在していない世界

こともあろうことか。わたしは牛頭天王を祀る神社の帰りに、家のすぐ近くで歳が十も下の男に声を掛けられ、男の要求を断り切れず、家に上げた途端に激しく接吻をされ、男は翌日に自分は発達障害であることをわたしに告白したのだった。
これがつい、五日前の話である。
今年の八月でわたしは四十歳、人生初めての難破であった。
最初に出会った日にはわたしは男に恋愛感情を抱かなかったが、三日前に会った日には男を恋しく想い、この男と生涯連れ添いたいと願ったのだった。
男は最初の日も次に会った日も、履いているグレーのチノパンの丁度陰茎のある辺りにカレーを零した痕が付いていた。
わたしはそれを指摘した。
男は次は洗って来ると言った。
わたしは二日前から、吐き気が治らず、一日中身体は熱っぽい。
男と会っているあいだは、そんな症状は起きなかった。
次の休みに、男はわたしと会う約束をしてくれなかった。
だからわたしは男に別れを告げた。
今日も、悲しくて何度と涙が流れた。
男はあの後、わたしに何かをインターネットという通信術によって言ってきただろうか。
わたしはそれを知らない。
男からの連絡のすべてを遮断したからである。
わたしは自分の人格、性質、欠点、問題点などをできるだけ男に教えたつもりでいたが、男は何も理解できていなかったのだろうか。
男は今までに交際してきた女のすべては優しかったと言った。
一方、わたしは今までに交際してきた男のすべてを殺しかけた。
精神が、真に死ぬる処まで追い詰めてきた。
魂も、じゃりじゃりに成って、ぷるぷるに成り、果てはすらすらに成るくらいまで、男を攻めに責め、咎めてきた。
そう、わたしと交際した男のすべてが真の地獄へと突き落とされた。
その地獄は、わたしが男をすっかりと忘却の果てに押しやった後にも永久に続いた。
最初に交際した男に、わたしはこう言われたことがある。
「君は鬼のように暗い。」
まだ二十二歳の頃だった。
わたしは己れを人間より鬼に近く、実際に鬼なのではないかと想うことがよくあった。
人間共と暮らしていること自体が、間違っているのだろう。
わたしは人里離れた山奥の、だれも辿り着かぬ谷底の、暗くて冷たい洞窟のなかに暮らすべき存在なのだと、わたしは自分の鏡から、言われた。
だから、わたしは独り、家を後にし、山のなかを歩いていた。
もうすぐ、日が暮れそうだった。
食べるものもなにも持って来なかった。
腹がしつこいほど鳴り、喉も渇いて脱水状態にあった。
それでもわたしは洞窟を探して、わたしの永遠に骨をうずめる場所を求めて歩いていた。
ふと、自分の枯葉や朽木を踏む音に混じって人の声が聴こえた気がした。
わたしは振り返った。
すると3メートルほど先に、鼠色の無紋の服を着た虚無僧が杖を付いて立っておった。
わたしはその者を訝った。虚無僧は今の時代にはいないはずだ。
天蓋の籠を深く頭に被り、顔の見えない虚無僧がわたしに向かってまた声を掛けた。
「お主、なにゆえにこのような危険な場所を独りで歩いておるのだ。危ないではないか。もうすぐ日が暮れる故、さあ我と共にこの山を降りましょう。」
わたしは恐れ、その男に向かって叫ぶように答えた。
「俺は鬼だ。お前の肉を食い千切り、骨を三日かけてしゃぶるぞ。それをされたくなければ、俺から離れろ。」
虚無僧は、少し顔を俯けてじっとしておった。
わたしが手に汗握って反応を待っていると、虚無僧が恐ろしく重低音の響くチベット密教の聲明のような声でゆっくりとわたしに言った。
「我はお主を救う為に此処へ呼ばれて来た。我はお主も知る牡牛様からの遣いである。牡牛様がお主を戻せと我に命令したのだ。何があろうと我はお主を戻す。」
わたしはそれに応えず、虚無僧を後にしてすたすたと山中を歩いた。
虚無僧が後ろから走って来た。
「お主、待たれよ。」
わたしは振り返らず答えた。
「ふん。そんなこと言って、本当かどうかわからないよね。俺はもう決めたんだ。洞窟のなかで一生を過ごし、だれも知らない処で生きて死ぬる。すべての宇宙でだれひとり俺を知る者はいなくなり、すべての存在の記憶から俺は消えて失くなる。俺の本願を奪う権利はだれにもない。俺は絶対に戻らない。もしどうしても戻したいならば俺を殺せば良い。この肉体は戻るだろう。だがこの鬼の魂は、最早戻れる場所はない。」
虚無僧は何も言わず、無言で後を着いてきた。
俺は構わず、俺を永久に閉じ籠める地下の穴を探しながら歩いた。
日が、暮れかけていた。
日が暮れたあとは、山のなかは真暗闇、月明かりも星明かりも届かぬ場所でそれでも俺は歩いた。
気づくと俺の両の目から涙が流れていた。
やっぱり俺は鬼だったんだ。暗闇のほうが、すべてが見えて来る。
すべてが懐かしく想えて、俺は泣いていた。
虚無僧が、ぼそっと後ろから声を掛けた。
「鬼も泣くのか。」
夜のあいだ中、ずっと歩き通し、谷底を降りて行った。
其処は、まるで奈落のように見えた。
その穴の底に、俺は降りて行った。
虚無僧は身軽な足取りで着いてきた。
光の存在しない洞窟の奥で、俺はホッとして身体を母の胎内で眠る児のように丸めると眠りに就いた。
虚無僧は五本の蝋燭を眠る俺の周りに並べ、それに火を付けた。
そして結界の外で低く囁くように呪詛を唱えた。

かぁごめかごめ かごのなかのとりは いついつでやる
よあけのばんに つるとかめがとぅべった
うしろのしょうめんだぁれ

その瞬間、すべての火がふっと消えた。
わたしは夢を見た。
巨大な牛頭人身の魔物が、わたしの大切な人のすべてを生きたまま食べる夢だった。
わたしは以前に見た夢を憶いだした。
世界が終わる前には、時間が止まっているように感じる。
そのことを何者かがわたしに夢で伝えた。
時間が過ぎない。
時間が過ぎているように感じない。
終末のとき、すべてがそう感じる。
時間が過ぎることをどれほど祈ろうが、時間は存在していないのである。
虚無僧がわたしに優しく声を掛けた。
「さあ眠りから覚めなさい。その日に堪えられるように、いつでも目を覚ましつづけていなさい。」
わたしは目を開けた。
其処に、存在する世界があった。























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