俺はうっすら、そうではないか。と、想っていた。
人間の、人類の怒りとは、根源に深い悲しみがあるのではないかと。
怒りっぽい、短気である人とは、うちの父もそうであったし、兄もそうで、自分自身もそれに当たると感じる。
自分でゆうのもなんだが、この家族の悲しみは相当深く、父は深い悲しみを抱えたまま他界してしまったが、遺された族である二人は、この悲しみの行き場が未だ、見付かっていないようだ。
詳しくは兄のプライバシーを損害する為、話すことができないが、兄は今も実家で、それも廃墟と化しているような家で暮らしている。
ブラック企業で働き、寝る時間は平均三時間だという。
短気であるとは、謂わば地下深くで蟠るマグマが普通よりも熱く、エネルギーが強く、その為、噴火する頻度は増え、噴火のエネルギーもまた強まるということであろう。
では情熱の深い人ほど、怒りやすいのか。というと情熱は深そうだが、いからない人も多いと感じる。
何故か、それは自分自身と、さほど反発していない情熱家だからではないか。
自分に厳しく、自分の何かにつけて許せないと感じるものが強くて多い人ほど、他者に牙が向きやすいように想えるのである。
だのでユングもシャドウの投影という人間の潜在心理を分析、心理学界に、驚愕の原理を打ち立てた。
しかし此処でこんな真理を出してきたら、俺の思索に支障が出るのではないかと想うかもしれないが、俺はこの真理を超えようとして思索に耽っているのである。
真理には、真の愛には、だれひとり、永遠に辿り着けない。と、かの銀色の聖者は言った。
俺もその通りであると想う。
苦しいことだが、それが真理であろう。
真理には、永遠に辿り着けない。それこそ、真の理。
考えると、吐きそうになるから、もうこの話はやめよう。
目を背け、俺の課題の続きを思索しよう。
ええっと、ああそうそう、怒りとは、深い悲しみから起こっているのではないか?という思索をしていたのだ。
此処で言いたいのは、悲しみにも、そら種類が在る。ということである。
誰もが同じ悲しみを悲しみとして悲しんでいるわけではない。
俺は、この悲しみを、まず大きく二つに分けてみて、考えてみた。
人の一番の悲しみとは、何ぞ?と考えたとき、それはやっぱり、あなた、愛、が、深く関係していますよ。
では、愛のなきところに、深い悲しみはないか。と考えると。
確かにそうであると俺は想ったん。
宇宙に、否、全宇宙に、愛がないならば、人がこれ程までに深く悲しみ続けることが在るで在ろうか。
例えば、今まで、五体満足で生きてきた人が両足をなくす、両腕をなくす、両目玉をなくす、鼻と口をなくす、はらわたをなくす、肛門をなくす、生殖器をなくす、頭髪をなくす、頭蓋をなくす、脳髄をなくす、視力と聴力をなくす、味覚をなくす、触覚をなくす、若さをなくす、肌のきめ細かさをなくす、皮膚をなくす、骨をなくす、などして、奇怪な蛸のような生命体となるならば、人間は、どれほど悲しみ、苦しみ続けることであろうか。
多くの人は、たった一日もその状態で生きて行くことに耐えきれず、自ら海へ帰って行くかもしれない。
耐えきれた少数の者も、自分は、本質は蛸状の生命体であったのであり、元々人間ではなかったのだと想い込むことでどうにか耐えて行く術を掴まざるを得ないかもしれない。
何故そこまで、自分が蛸のような奇妙な気持ちの悪い生命体になったからといって、耐え難い悲しみと苦痛を感じ、海へ帰ったり人間としての存在を否定したりするのか?
これも俺は、深い愛ゆえであると想われる。
人間は、何かと自分の容姿が気に食わないとか自分が健康でない、自分の今の境遇が気に入らないなどと言っては不満を嘆き続けることを得意とするが、人間が人間として存在できているということ自体、物凄いことなのであって、物凄い愛からできているからこそ、人間は人間として生きることの喜びを感じられるのであるだろう。
つまり人間が、人間として存在し、人間として生きられるそのことを満足せずに、一体何に満足しようとしておるのか?
容姿に不満、不健康であることに不満、人格に不満、人生に不満などといって、自分の観念、生活習慣も変えようとしない、そしてそれを、神の、人類の創造主のせいにしたりもする。
容姿に満足し、健康であることに満足し、人格がまともであることに満足し、人生がすんすんとうまい具合に理想の青写真通りに進むことに満足す。それが人間の満足というものだとでも想っとるのである。
そんなもん、人間の幸福とは呼ばない。
人間の幸福とは、人間が人間として生きられること、生きて行けること、人間と関わりながら様々な経験をしてゆけること、つまり、人間が、人間で在る。こと。
頓悟(とんご)だな。頓悟で罠悟。とんごびんご。どうやら俺は早くも、覚ってしまったようだ。
人間が人間として在る、存在すること以外に、以上に、人間の幸福はない。
あ、これ、来たな。来てる。俺に向かって、何かが遣って来てる。
はて、あれは、なにか知らん。
妙な、気色の悪い、蛸みたいな外から見える器官をすべてなくした深海の、そのまた地下深くに六十億年生存していましたというような顔のくにゃくにゃくねくねした、変な赤い奴。
あれが、あいつが、きゃつが?真理、か。
俺は座禅をbeachで組み、念仏を唱えた。
蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮......

すると、遣ってきている気配を感じなくなり、俺は眼を開けた。
ザザザザザザザザアン。と、ビーチに俺だけが居て波音が聴こえていて、あれまだ朝の九時?俺は腕時計を観て、まだこんな早い時間かと想った。
ぴゃあ、ぴゃあ、ぴゃあ、と鴎か海猫たちが鳴いて飛び交って旋廻していた。

酷く、疲弊していた。多分脳細胞の殆どが死滅したのかもしれない。此れが覚醒状態なのだろうか。まるで三度続けて射精し続けた後のようだが、俺の課題を放り出すことはできない。
俺は強い怒りと深い悲しみの因果関係を解明せねばならない。
人間の悲しみには、種類があり、それを大きく二つに分けるならば、
①愛されていて愛している。深い愛を知るがゆえの悲しみ。
②愛されていないし愛していない。深い愛を知らぬがゆえの悲しみ。
に分かれるのではないかと考えた。
前者は、親の愛や兄弟や友人や恩師の愛などによって、愛されていることを知り、また自分も愛していることを知る愛の深い者である。
一方後者は、今まで誰からも愛を感じることができなかった。例えば、道路の真ん中で糞をしている野良犬に出逢ったとき、最初は自然と助けてやろう、此処で糞していたら車に跳ねられてしまうと懸念し、糞している最中の野良犬を抱きかかえようとした。すると、あろうことか、その野良犬は、恩を仇で返すが如くに自分の顔を見て、ふんと鼻で笑い、そのあと後ろ足で排泄したばかりの糞を自分の顔目掛けて蹴り飛ばして来たのだ。これが、五歳の頃の後者の記憶である。この時、後者は、愛とは、他者を愛するとは、無駄である。と人生の答え、結論に至った。何故なら、後者は、この時、命を懸けて野良犬を助けようとしたのに、その尊き犠牲愛が、野良犬には全く届かないものであることを知ったからである。はっ、俺は誰からもどうせ愛されていてへんし、誰も愛せへんのだ。深い愛?ファックでしょう。糞と同じ。とにかく臭い。愛を語るなど、白々しい。だるが、だるを、愛していると言えるんだ?往来に出れば何人もの恋人同士、夫婦がなかむつまじく歩いているが、例えば、自分と相手、どちらかが八つ裂きにされねばならない極限の境地に立たされたなら、わたしは嫌だ。頼むからあの人を八つ裂きにしてくださいと懇願する人間ばかりでないのか。俺にはそう見えるね。愛など、虚構だ。俺は愛を信じない。気付けば、親も兄弟も友も先生も神も、俺を白い目で見ていた。そして、俺自身さえ、俺を白い目で見る。創造主は、俺を玩具として、作っただけなんだ。要らなくなったら、飽きたら、すぐに消滅させる。苦しめるだけ苦しめて、ゲヘナへ投げ棄てる。俺は、その後もう永遠に存在しない。それまで転ばせられ、落とされ、吊り上げられ、振り回され、打ち付けられ、溺れさせられ、餓えさせられ、渇かせられ、怒らされ、泣かされ、叫ばされ、欲情させられ、恨まされ、辱しめられる。

後者は、自分自身に絶えず憤怒んし続けている。だからいつも自分に対して苛ついているので他者が何かとアホなこと、自分をムカつかせること、またはモラルに欠けていると感じることをやらかした場合、おもっくそ、はらわたで煮えた怒りのマグマが爆発し、口や目から、噴火して、酷いときには手や足からも噴火する。
時に、口から出た、またはインターネットを通して手先から出たマグマがキーボードを打ち込み、正論を述べまくる時も多い。
だが怒る内容に関係なく阿修羅の如くの破壊威力となるときも多く、止められるものは最後、国家権力しかない。
暴力は、絶対的に正義とはならないからである。
しかし言葉だけの暴力には、国家権力はなかなか動かない。
俺は最近も、精神的ストレスにより死にそうになるほどの言葉による暴力を匿名で受け、その行為について幾つもの問いを真剣に投げ掛けたのだけれども、相手は話し合おうともせずに、未だ、返事がない。
俺は、その遣るだけ遣って逃げて行く暴力に対し、どう対処すればいいのか?
俺が受けた卑劣な暴力に対し、俺のマグマは煮えたぎり、噴火するのを待っているようだ。
しかしそのマグマが、全く関係のない者に向かって噴火し、その者を傷付けてしまう場合、俺の罪は積み重なるのである。
いや俺に暴力を奮った者に向かって噴火しても、神はそれを喜ぶとは想えない。
イエスはどんなに酷いことをされてもそれを遣り返すことを神は望まない存在であることをずっと説いていた。


転た寝をしてしまった。
もう夕方の五時。夢で父と姉と逢っていた。
芸術系の店に父と一緒に入り、わたしは前から見ると短めのボブで後ろから見ると長髪という変な髪型にしてもらい、満足して帰りに其処で売っていたクッキーを買うかどうか悩んでいた。
その店を出て、わたしはお父さんに何故かワンピースをプレゼントする為、そのワンピースを置いている店に父を連れて行き、其処の試着室で父にワンピースを着てもらった。
黒い生地にスカートの裾の辺りには赤や灰色などのラインの入ったレトロなデザインのワンピースを着た父が、試着室のカーテンを開いてわたしの前で少し困った様子で居たが、わたしは「似合ってる」と喜び、父もわたしのプレゼントを有り難く受け取ってくれた。

一方、わたしは自分の部屋で寝ていると姉が遣ってきて、姉とわたしはまだ関係が悪いままであったが上下別々の上は半袖のカットソー、下はタイトスカートを姉にあげようと考えていた為、それを試着してもらった。
姉はあまり気に入らない様子で、タイトスカートに付いたままになっていた値札の4700円を見て、姉はこれを買ってやると言った。
わたしはプレゼントするつもりだったが、姉がそう望むならとそれに承諾した。

場面は父との時間に戻り、わたしと父は其処のデパートを出る為、広い階段を登りながら話をしていた。

そして場面は変わり、わたしは姉の運転する車に乗っていた。
姉はわたしに、お父さんとの、これからの話をしようと言った。
それを意味するのは、わたしたちがお父さんを喪うことを、どのように耐えて生きて行くか、という話だった。
わたしはお父さんが近いうちに居なくなってしまうことを何となく気付いていたが、それを考えることから逃げていた。
でも姉は今からそれに向き合おうとしていて、今から考えておいた方が良いとわたしに話したのだった。

四歳で母を亡くしわたしが母の記憶を喪ったのは、母がわたしが父を母のようにも愛するようにと願ったからなのか。
わたしにとって父は母でも在り、父のなかに居る母に、あのワンピースをプレゼントしたのだろうか。
スタイルのとても良かった母があのワンピースを着たら、良く似合ったことだろう。



消マは今も、黄昏る咥内停留所でひとり、列車を待っている。
だれがために、噴火するのか。
消化している最中のマグマのエネルギーとは、複雑で神妙なエネルギーである。
それでも消マは、己れの存在に、たったひとり、耐えねばならない。
生まれてしまった存在とは、消滅するその瞬間まで、生きなければならないからである。
だれがために、消化するのか。
噴火したいだけ、噴火して、本当にすべてを喪ってしまった存在は多いであろう。
何故ならばマグマとは、存在そのものを構成する固体が溶融したもの、生、そのものを構成する固体が溶融して存在するようになったマグマを噴出させ続けるものは、いずれ死を迎えることを、避けられない。
帰するところ、怒り、瞋恚(しんに)のエネルギーだけが、マグマと成り、どんどんと高温になってゆくのではないのである。
わたしはそのマグマを、一体何に消化し続けているのかというと、わたしはマグマを、愛として消化している。
それがわたしの存在課題である。
でも今、消化されていないすべての消化不良マグマである不魔の存在を想う時、わたしが哀しむ。
わたしはマグマを消化し続けることで生きている存在に過ぎない。
いずれは不魔をも、わたしは消化してゆくだろう。
彼は、わたしにずっと、こう請う。
俺を、消化しないでくれ。死が怖い。御前が俺を消化するなら、俺はきっと死ぬるのであろう。
御前に消化される為に、俺は消化不良マグマとして存在するようになったというのか。
だとしたらなんという残酷なことだろう。
俺だって、結婚もしたいし子供も授かりたい、でもそのあとなら御前に消化されても良いという話ではなく、俺はずっと、俺という存在として、生きてゆきたい。
御前は俺の請願を、愚劣で軽薄なものとして取り合わず、御前が生きてゆく為に消化(こな)すつもりか。
誰が為に、御前は俺を消化するのか。
御前も俺も生きてゆく道が、本当にないのだろうか。
それに何故御前は咥内へ向っているのかわかっているのか。逆流であるのだぞ。
口は出入り口であるが消化されたものが口から出るとは嘔吐、吐瀉であり御前の噴出するものとは吐瀉物であり、それが言葉となるなら言葉のゲロだ。
御前はマグマを、愛として消化していると言ったな。
でも御前に言っておく。それは愛だとしても、詮ずる所、愛のゲロだ。
通称、愛露(あいろ)、そいつが生まれるだけだ。



不魔は、丸太壁でできたロッジ宿の共有スペースのダイニングテーブルの前に座ってゲロみたいな見た目のシチューを食べながらふと、右手の窓の向こうに広がる暗い景色を眺め想った。
何もかもが、まるで絶望的に想えてくるではないか。
此処から、消マの頭蓋内のこの空間から、脱出する方法はないのか。
壁時計を見ると時間は午後の九時半過ぎである。
時間は確かに過ぎて行っているようだが、あまりその感覚にない。
時間が過ぎて行っているということは、俺が消マに消化される死の宣告時に向って進んでいっているということであろう。
死刑囚の気持ちが、わかってくるようだ。
でも俺の罪とは、果て何か?
消化不良マグマとして誕生してしまったこと、それが俺の罪なのか。
気付けば消化不良マグマとして存在していた。ただそれだけなのに、刻一刻と、処刑台へ向って進むこの時間を、此処で独り、耐え忍んで過ごして行かねばならぬなど、許せぬことぞ。
俺を誕生させたのは誰か?純粋マグマが、御前に消化されることがなければ、消化不良マグマなど、存在することもなかっただろう。
消マ、御前の存在に因って、俺が存在するようになったんだ。
此処は御前の頭蓋内部なのだから、俺の声が聴こえぬ筈はない。
俺が御前の存在に由って誕生したということは、畢竟、俺という存在とは、御前の息子のような存在なのではないのか。
嗚呼、何と言う私利私益からの生殺与奪!俺と言う存在は、何と言う悲しき定め。
御前は俺の父親である為、子の俺を生かすも殺すも、その喜びを与えるも奪うも御前の私意次第であるということか。
まるで俺とは、母親の胎内から抜け出すことのできぬ親に殺される日を恐怖して生きる堕胎児のようだ。
敢えて今から、消マ、御前のことを御父(みちち)と呼ぼう。
御父よ。わたしの声を御聴きください。
何故、貴方の息子であるわたしを、消化せねばならないのですか。



消マの頭蓋内部の宿の一角が、ぐつぐつと煮え滾り、消マは気が朦朧とした。
確かに不魔は、わたしの存在によって誕生したわたしのひとり子のような存在である。
わたしが親で在る限り、不魔を愛する必要があるだろう。
しかし一度愛してしまったなら、どうしてそれを消化することができようか。
何故、わたしはマグマを消化するのか?
それはわたしが消化マグマとして、存在してしまったからである。
存在に逆らう時、一体どうなってしまうのだろう。