今日も俺は夕方に起き、トマトと胡瓜に自分で作った精進大根キムチと生姜の摩り下ろしをかけたやつを喰うたのだ。
もう、こんなことは、やめよう。やめたい。そう、俺は想ったのである。
何故二日続けて、二日酔いをするほど赤ワインを飲んでしまったのだろう。
或る男性に、返信にブチギレて、「一生孤独に生きろ」と返事したのは、夢のなかのことであったろうか。
夢のなかのことであってほしいと、できれば、俺は想いたい。
想えるなら、想おう。想えないのならば、想わないであろう。
想う必要があるというのなら、俺はすべてのことを想うのだろう。
ボタニカル柄のワンピースを着て、猛烈な陰雨に打たれながら、俺は想う。
彼奴は今頃、何遣っとるねんかな。俺を孤独にさせ、孤立させ、俺は今だれひとりとも、関わっておらないこの境遇を、彼奴の為に、そう想うと矢張り、はらわたが煮え滾って来て、歯を喰い縛り、眼は死んだ泥鰌の様を極め、酒も飲んでいないのに両の眼はだんだんと斜視って目尻に向って隠れようとするのである。
目の尻に目が隠れるとどうなるか?目尻は、目に向って言う。
御前が排泄するものとは、なんだ。俺?俺が排泄するものとは、目脂、涙、血、だ。
血を、目尻から排泄するマリア像を観たことがないか?あれは俺の仕事だ。
一生懸命に、尻を自らリアエンド(rear end)カットして切り、その血を、尻から流している。
痛くないのかって?麦稈。ものすっご、ものすっご、もっっすっっごっっ、痛いよ。
でもこれが俺の神からの至上命令である。
キリスト像も時に、あまりに悲しいと目尻から血を排泄するんだぜ。
どれほど美しい現象だろう。像なのに、まるで生きているように、血を流す。
あたかも生きているように、キリスト像は悲しむ。
人間たちは、その現象を観て、奇跡だと冷たい床にぬかずき、畏怖に恐怖す。
イエス像が何故、血の涙を流しているのか。
人智を超えた胸の痛みが、イエス像のうちに、存在しているのか。
しかしそんな現象を見ても、冷たい床にぬかずくことなく、代りに冷たい床でぬかずけを漬ける者もおる。
やがてはその冷たい床はぬか床と成り、ぬかずけた者はヌカヅケと成る。
朝、目が覚めると、自分がヌカヅケとなっていた。
ヌカヅケは鏡に映る変わり果てた自分の姿を見詰めながら打ち震え、激しく悔しぶ。
あのとき、イエス像が血の涙を流したその前で、床にぬかずくことなく、ぬかずけを漬けたから、こんな因果を今、予輩は受けているのだ。
ヌカズケ人(びと)たちは、その後ヌカズケ国を築き、どこの国よりも巨大なイエス像を造った。
巨大過ぎて、教会の屋根から食み出たそのイエス像の下に、毎日何度も足を運び、ヌカズケたちは祈り続けた。
話す言語もヌカヅケ言語でヌカヌカしてヅケヅケしていたが、イエス様にきっと届くと信じておったのだ。
ヌカヅケの子供たちは皆、ちいさなヌカ床ベッドのなかで眠る。
見た目透明なパック形の棺に見えるが、子供たちは幸せそうにヌカ床のなかに潜りて眠っていて、ベッドの蓋が開かなくなる日を恐怖することもない。
ヌカヅケ人たちは腸内だけでなく体内のすべてに乳酸菌がものすごい生きていて精力的に増加し続けている。
考えたら乳酸菌とはひとつひとつが生きているので、ヌカヅケ人の存在とは、その無数の乳酸菌たちの集合体に過ぎないと言えるかもしれない。
だから塊という字と、魂という字はよく似ているのである。
自分とは何か?と考え続けるときに、なぁんだ、予輩たちは無数の生命の塊に過ぎないんじゃん。と考えると、一気に救われるものはある。
例えば誰かに深く傷つけられたときも、その行為はその者を構成しているたった一つの乳酸菌や体内細胞が想って遣った行為であり、その者自身が、自分を傷つけたくて傷つけたわけではないのだと考えて、楽になることもできるかもしれない。
もしかすると本人も、その一つの菌や細胞が考えている自分が自分自身であると想いこんでいるかもしれない。
針金虫は宿主(しゅくしゅ)の体内でしか生きてゆくことができないという。
餌を通して蟷螂に寄生し、蟷螂の体内の栄養や卵を食べて成長し、最後は蟷螂の脳に特殊蛋白質を生成し水辺へ誘導する。
そして水のなかで産卵するらしいと考えられている。
水辺まで誘導された蟷螂は川魚の餌食となるか、数日後に死んでしまうという。
予輩は考えるのだが、寄生された蟷螂が針金虫を喪うことですぐに死んでしまうのは、自己を見失うからではないだろうか。
何故なら針金虫は蟷螂の脳までも操ることができるほど蟷螂のアイディンティティを脅かす存在である。
針金虫が水辺へ行きたいが為に蟷螂の脳内物質を変容させる、蟷螂は何故だかわからぬが、激烈に水辺へ行きたくなる。
我々もなんでだかわからぬが、無性に腹が立ったり、無性に人を愛しく感じたり、無性に人を呪ったり、無性に人を救ったり、無性にツイート(tweet)してしまうことがあるだろう。
でもそれには必ずわけがあるはずだと、そのわけを人間は死ぬ迄考え続ける。
わけもわからずに人を愛したり、人を憎んだり、ツイートすることが苦しくてならないからである。
宿主の蟷螂も、突如、無性に水辺へ赴きたくなったのは、必ず理由がどこかにあるはずだと考える。
そういえば、最近、水辺へ行ってなかったなあ。水辺といえば原初の生命が誕生した場所であり、わたしにとって、魂の故里であるのだろう。
そんな懐かしい故里へそういやもう随分と、わたしは行っていない。
いや、行きたいなとふと想うときは今までも何度かあったようにも想う。
でもこれほどまでに、魂が揺さぶられるほどに行きたくなったのは初めてだ。
水辺がわたしを、呼んでいるようだ。水辺がわたしに逢えないことの悲しみを日々募らせていて、このたび、限界値に来たのかもしれない。
水辺がわたしに向かって、叫んでいる。「はやく来てください。懐かしいあなたと再会したい。」と。
わたしだって、故里へ帰りたいよ。でも今まで行かなかったのはわけがある。
危険だからだよ。水辺へ向い、そのまま帰らなかった家族、友、知り合いたちが本当にたくさんいる。
嗚呼、何故!何故かれらはみな、帰らなかったろう!
でもわたしは今でもずっと、かれらを待ち続けている。
わたしたちにとって、水辺とは黄泉の国に通じる場所であると考えられている。
そう、水辺は死者の国の入り口なのだ。入り江なのだ。
だからいつも、子供たちにはきつく教えている。
絶対に水辺へ行ってはなりませんよ。と。
わたしたちの故郷である水辺に恐怖の印象を与えることがどれほど悲しくつらかったか。
そういえば、「命よりも、水辺が大事だ」と言って水辺へ向って不帰の客となった者もいたな。
不帰の客とは、不帰家の客人という意味があるだろう。
一度、その門を潜り抜け、土間を上がるなら決して帰ることの出来ぬ家、それが不帰家である。
わたしの先祖のひとりは、その不帰家の居間まで上がり、茶を一杯飲んで一晩そこで寝泊りをして帰ってきた。
ところが帰ると、祖の人格、話し方、雰囲気が一変してまるで別人のようであったという。
祖は死ぬまでの三年間、「われとは何か」、たったそれだけを考え続けて死んだという。
水辺にその不帰家が建っていることはわかっている。
その不帰家は、どんな宿であるか、幾つもの浮説がある。
一つは、マイアミビーチ市にあるコロニーホテルのような外装である。
一つは、いや、キャンプ場にあるロッジ風の丸太を水平方向に井桁のように重ねて積み上げ、交差部には切欠きを使い組み上げた構造のログハウス系の宿である。
一つは、地下鉄のプラットフォーム状の宿である。
一つは、得体の知れない人間の口腔内のような感じの宿である。






咥内停留所のベンチの上に、一匹の蟷螂が乗って両前脚で器用に身繕いをしていた。
消マは左へ首を傾いでそれを観て微笑んだ。
なんというけなげな生き物であろう。自分が何者であるかをわかっていなくともこうして、何一つ疑問に想わず切に生きて生命を謳歌しているようだ。
手を近づけると蟷螂は怖れることなく手の甲の上に乗ってきた。
愛らしいその存在を打ち眺めていると、ふと脳内に、きっと長旅になるであろうから、この者を旅のお供にしようか。という想いが浮かんだ。
消マは蟷螂に向って、「御前はわたしに着いて来るか」と訊ねた。
しかし蟷螂は首を横に振り、水辺のほうに向って、歩いて行った。
消マはひとりで水辺へ向って歩いてゆく蟷螂の後姿を眺めながら。
そうか、御前は其方へ、ゆくのだな。と小さく言った。
でもそのあと、想わず涙が零れ、自分でも何故かわからぬが、声が出た。
『御前はどうしても、行ってしまうのか』