子死江は此処を、離れる決意をした。
年は三〇を超えておったが、見た目はうら若き少女の体で、あった。
生野菜と、生果実しか喰うて来んかったから。勿論それは一理あるかもしれないが、子死江は学を、知らなかったのでおる。
学が人を老化せしめるのか、そんなことはわからないけれども、そういうことも、在りそうだ。
いやそれ以前に、この世界が時間の流れが変だからではないか。
何故この世界には、自分と、ふたりのクマしか住んでいないのか。
最初、この世界には、聖ンク魔というクマしか居ないようだった。
しかし聖ンク魔はすぐ、愛グマというクマを現出させた。
それは聖ンク魔が、子死江を愛した瞬間のことであり、聖ンク魔は未だ、それを知らぬ。
聖ンク魔は、今でもこの世界には、自分と愛する子死江しか住んでおらないのだと、悲しきことに想って、信心を貫いている。
聖ンク魔は、見た目こそクマの体であったが、その中身は、人間の如く複雑珍妙な意識で生きていた。
そしてそれは聖ンク魔から生まれた愛グマも同じく、ひとりの男としての心を持っていたし、はかり知れぬ独占欲、性欲もあった為、苦しんでいるのは聖ンク魔よりも、愛グマであった。
愛グマは、自分の父親的存在、聖ンク魔に見つかってしまえば、殺されるかもしれないといつも怯えて暗い使われていない洋服箪笥のなかに身を潜ませて暮らしてきた。
聖ンク魔が、子死江の隣で寝息をたてて眠ると、愛グマはその茶色き毛皮で被われた身体を、寝ている子死江の身体にすり寄せ、抱き締めようとするも、愛グマの両手が、短いために子死江の背中まで回すこともできず、その度に、愛グマは自分の肉体に絶望し、にっくき丸い手を、噛み噛みしてはガラスの眼球から、涙を流し、それを子死江の寝間着を着た胸に、こすり付けて聖ンク魔が目を醒ますまで眠る。
愛グマは或る日、子死江に悲しい表情をして言った。
「子死江、わたしとこのせかいを、脱出しましょう。聖ンク魔は、独りでも生きてゆける存在です。わたしは此処では、一日の僅か三分の一ほどしか、子死江と一緒に居られません。聖ンク魔は、貴女を我が物であるかのように生きてきました。かれは、子供のようですが、同時に愚かなのです。愚劣なのです。その証拠に、かれは未だ、わたしの存在に気づいてもいません。かれはこの三〇年間くらいの時間を、まったく生きてきましたが成長している風に、とても見えません。しかしわたしは、かれとは比べ物にならないくらい苦しんで来たと感じます。かれは三分の二ほどの時間を、貴女の側で過ごしてきましたが、わたしはその時間、ずっと陰から貴女を見護って来ました。かれは幼稚で、その着ぐるみもみすぼらしく単純です。かれの外面は、かれの内面を表しています。かれの元に居て、子死江が成長できるようには想えません。子死江、わたしと、このせかいを脱け出しましょう。」
子死江は、この愛グマの愛の言葉を切っ掛けに、この世界を、離れる決意をしたのだった。
たった独りで。
そして。夜明け方に、子死江は静かにしがみついて眠る愛グマを引き剥がし寝室を出て、遠くまでてくてく歩いた。
子死江には、聖ンク魔と愛グマの愛が、痛いほどわかっていた為、振り返ることをしなかった。
子死江は、悲しかったのである。聖ンク魔という父と、愛グマという子が、自分を取り合って苦しみ合う姿を想像すると。
てくてくと、歩いてゆくと、一つの洞穴を子死江は見つけた。
中は真っ暗で何も見えない。闇が在るばかり。
子死江は怖れなかった。
闇の穴の中に、子死江はまたてくてく歩いて行った。
とくとく流れて行った。
どぶどぶ歩いて行った。
げんげん滑って行った。
ぬるぬる進んで行った。
もぐもぐ食べて行った。
子死江は進みながら闇を食べ、闇に光の穴を作った。
そして多数の光の空腔のひとつの腔の中を、進んで行った。
すると其処に、一つの喫茶室を見つける。
四角い喫茶室であり、壁は虫に喰われ、剥がれ落ちて白かった。
ドアは、アーチ型であり、鉄か、木材かよくわからない素材であったが、午後の光線を受けて、黄色くもあり青ざめても見えた。
子死江は、そのドアを開け、中へ入った。
中は、壁がいくつもあって奥が見えないようになっている複雑な構造であった。
薄暗く、どこから光が入ってきているのかわからない、窓が一つもない喫茶室だった。
右は、覗くとカウンター席もあるようだが、人が見えない。
子死江は左の方を行って、奥の少し開けた場所の左の隅の席に、一人の男が座って本を読んでいるのを見た。
向かいの席に、子死江は座った。
すると向かいの男が、ふと我に帰るような顔で、子死江の顔を見詰めてこう言った。
「世界に男は5万といるのに、なんでよりによっておれなの」
年は、五十前後であろうか。
子死江は、この男が気に入った。
男の読んでいた本の背表紙を見た。
そこには『キリスト宣言』と書かれてあった。
どんなことが書かれている本だろう?
すると男は、またも口を開いた。
「子死江ちゃんに、この本の内容をPDFで送ってあげようと想って、ヤフオクで6300円で入札したけど、他の人に落札された」
子死江はなんと返事すれば良いかと考えていると、男は悲しげな顔で穏やかに言った。
「この世で最も深い喜びは、最も深い苦しみと繋がっているのです。なのでわたしは、誰とも恋愛をすることはありません。恋愛をしていたら、修行になりません。いつまで経っても苦しみから、逃れることができないのです。」
そして男は、こう付け加えた。
「数々の女性に、たくさんの男性の写真を見てもらい、魅力的であるか、そうでないかを分けてもらう実験が行われたのです。すると多くの女性は、性欲処理を一人で頻繁に行っている男性よりも、性欲処理を一人で約二年間行っていない男性のほうが魅力的であると分類したことが結果で分かりました。だからわたしは、欲望に打ち勝つためにも、修行に励んでいます。」
しかし子死江は想うのだった。自分が惹かれたのはそこではないように想う。寧ろそこにある彼の苦しく激しい矛盾の葛藤に惹かれているのではないだろうか。
だが子死江は、一つ不安がよぎった。
彼がその宗教を破門されたあとも、ずっと信仰し続けているその教えがかつて、人を大量に殺し続けてきたという歴史を。
彼らは、人をたくさん殺すことで何を得んとしてきたのだろうか。
なぜ目の前のこの男は、そのような宗教を、今までずっと二十四歳頃から他に目もくれず信仰し続けてきたのだろうか。
カルト宗教。そう呼ばれ続ける宗教を、四十四歳で死ぬまで信仰し続けたのは、子死江の母親でもあった。
しかし子死江の母親は既に末期のガンが見つかった子死江が二歳の頃に、ノートにこう書き記しているのを子死江は見つけた。
『エホバよ。何故、わたくしなのですか。』
子死江の母が、四十二歳の時であった。
信仰は、必ずや人を救う。
それをこの目の前の男を通して、子死江は知りたいのだろうか。