ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

2018年06月

逢魔が時の停留処にて 第三

膀胱に、尿が溜まっているときに、著しく汚れた穢いトイレに自分が入り、穢すぎて用を足すことが叶わない。という夢を時折見るのであるが、尿が膀胱に、ものすごく溜まっていても、見ない日も多い。というかそれはただ憶えていないだけかもしれないが。
今日の夢のなかのトイレも、それはそれは酷く、溜まらない汚さであり、その上信じがたいほどにグロテスク極まりない惨状であった。
どういうトイレであったかというと汚物と、大量に湧いた虫、巨大な虫のオンパレードである。
しかも古い和式の便所風のトイレであり、水が流れる上のタンクの位置が、右上にあってそこの手洗いカランの水受け口には約二センチほどの蛆虫のようなものが敷き詰められて蠢いており、腐った生ゴミを入れた小さな袋、段ボールなどが複数そのタンク上やトイレの中にあって邪魔で用を足せない。
なので俺はそれらをすべて便器の中に突っ込み、流してしまおうと考えた。
現実であるなら、そんなことを考える人はいないだろう。
そんなことして、流れるわけはないからだ。シュレッダー機能も付いたトイレなどはない。
でも夢のなかの俺はそれがわからず、もしくはその時点で発狂してしまい、穢い汚物を便器の中にぶちまけ、段ボールをぎゅうぎゅう詰めにして水を流す。
当然、まったく流れていかず途方に暮れる。
段ボールにも、虫が仰山付いていて、中には十センチほどのプラスチックでできてるみたいな黒っぽい鮒虫のような虫がいて非常に気持ち悪いこと甚だしかった。
流れてくれないとわかれば、これを義母と義父が帰る前に、なんとかせんければな、ならん。
どうやら俺は結婚しているか恋人の実家に住んでいて、このトイレは俺とパートナーとその父親と母親も使う共用トイレであるようだ。
俺はそのゴミを、取り敢えずゴミ袋に入れようと考え、その想像するもおぞましき蛇蝎の如くの暗澹とした美野家も与奪仕事を想うと、逃げたくなり、トイレを出た。
出たところの左の窓際に、小さなプラスチック容器が幾つか置かれてあった。
それを見て、俺は想いだした。逃がそうと想っていた青い幼虫のことを。
中を見ると、弱ってぶよぶよとして死にかけているような、幼虫とバッタのチメラ(chimera)化したような虫がそこにいた。
俺は後悔と共に想った。俺がこいつを忘れてたから、こいつは蛹になることが叶わず、こうして蛹となるまえに羽化をしようと頑張って、半身だけ羽化して残る半身は羽化できず、半身は幼虫のままの状態で苦しんでいるのか。
これも現実で考えたら奇怪な奇中の奇話である。
幼虫が飛蝗に羽化するという話は聴いたことがない。
しかし夢のなかの俺は別段それを気にすることもなくて、飛蝗に無事羽化させてやれなかったことに心底憂い嘆いていた。

夢のなかで夢と気付けば、おかしいことに気付くかというとそうでもなく、夢を夢と気付いても、現実を忘れてしまっていて、現実を想いだすなら、途端に夢から醒めてしまうのである。
ただ何かが根源的に違う、絶対におかしいと戦慄し、恐怖する夢はあった。
だからなにがどうおかしいのかと夢の世界で、夢と現実の違いを明確に感じることができない。
夢の世界に今いる自分にとって、この世界は夢だとわかっても、それでも今のままの自分がこの世界以外の世界で生きて行くことは叶わないことを何故か感覚的にわかっており、そのため現実であることに違いないのである。

現実とは、うつしみと書く。現れて実るもの、それを現実と呼ぶが、では夢はどうだろう。
俺がこの世界で鏡を見ることが怖いのは、この世界も夢であることをわかってしまったからである。

大阪北部地震から、まだガスが復旧しておらず、食べるものがなくなってきたので俺は家から徒歩二分のスーパーへ赴いた。
胡瓜、トマト、長芋、青紫蘇、葱、豆腐、ブロッコリースプラウト、ズッキーニ、パプリカ、マッシュルーム、ペットボトルの茶、野菜ジュース、それらを次々に籠に入れ、レジカウンター前の棚の赤ワインを選ぶ。
見たところ、俺の籠の中は鮮やかな色とりどりで健康的にも見えるセレブな感じの籠である。
俺のこころはにわか、わくわくしだす。
早く、早く、この新鮮な野菜と豆腐を、喰いたい。喰いたい。喰いたい。
だが辛抱しなければいけない。某人生Simulationゲームのごとくにスーパーで買ってすぐさま往来でニンニクや玉葱を生でかじる、などするのは、何処か現実的ではない。

現実的に、喰いたいという願望が、どうやら俺のなかにあるようだ。
でもそれは、どうしてなのか。
例え人と車の行き交う往来で、俺が空腹に耐えきれずにパプリカなんかを一心不乱にかじるなどするとどうなるかと考えても、人は厭な顔をするか、恐れるか、好奇の目で薄笑いを浮かべて観察、静観するか、あからさまに声を出して笑うか、まあそんなことが起きるだけだろう。
見た人はTwitterでその旨を投稿し、寝て朝起きたらもう忘れてる。
十日後に、返信が来たなら、そういやそんなことがあった。と遥か昔のことのように追想する。
往来でパプリカを丸ごとかじっても、何か問題が起こるわけではない。
なのに何故、これをする人は、どこにも、いないのか?
残留農薬の問題で、皆本当は遣りたくて仕方無いのに、いつも健康を気にして我慢して、糞っ垂れ、無農薬野菜であったなら、堂々と往来の真ん中でパプリカを齧りついてこましたってけつかるのに。と心内で長嘆しているのかもしれない。
というかそれ以前に、往来でなんか喰うてる人おるぅ?
あんまり見掛けた記憶がない。何故なら往来は、人と車が行き交う忙しなく忙しい場所であり、そんなとこでなんかモシャモシャ喰うてたら、われなにあほなことしてけつかる。と言って、運悪ければ、どんと肩を押されて道路に尻餅着いて恥辱にまみれ、自分の行為を死ぬまで、呪い続けることになるであろう。

つまり、往来と言っても広い歩道で、その片隅や街路樹の緑陰で喰うのと、狭い往来の道のど真ん中で喰うのとではまったく迷惑さが違ってきてしまうのである。
でも此処で疑問に想うのは、俺は広い道の端でも何かものを喰うてる成人以上の人間を見た記憶があまりないのである。
子供は猿と変わらないからどこでも何か喰うてるというのは知っている。
別に人の迷惑にならぬのなら、人が往来で空腹に耐えかねてパプリカをかじって食い尽くしても良いはずである。
なのに誰一人、これを遣っているところを俺は見た記憶がないのだ。
嘆かわしい。俺の記憶力が駄目なのか、俺が往来の人をよく観ていないからなのか、とにかく俺がそれを見た記憶がないということが何故だか嘆かわしく腹立たしい。
俺だって、それを観たいし、それを観て、どういう気持ちになるのかを、経験したい。
人が、猿のごとく、往来で食事をする。
そして、満腹した顔で、その立ち止まった場所から、また歩きだすところを。

往来で立ち食い。一見、野蛮に想えるこの行為が、なにゆえここまで痛快で清々しさを放つのか。
それは人間という生き物が、如何につまらない面白くない定型化された社会常識、価値観、鋳型枠というものに填められ縛られて生きている、社会で共存、並存しているからではないか。

特に人に迷惑もかけちゃおらないのに、人を嘲笑ったり、ラベルを貼って差別し、嫌がらせしたりする人たちが多い。
そういえば俺は、小学生の頃から、人と同じことばかりするのが酷くつまらなく、何かにかけて反抗しようとして、その都度人に馬鹿にされ、笑われていた。

大多数の人間の考える正義に当てはまらないとして、嫌がらせ行為をしてくる人間にとって、俺みたいな生意気で自ら外れた放埓で奔放で破滅型の無頼者異端反逆異分子偏窟気質の社会不適脳変り種非常識人間は恰好の餌食であるのだろう。しかしここまで言うとそんな稀有な存在価値に在る自分を自慢している事と同じで恥ずかしいことであるということを俺はわかっているというとまたそれも自慢になり、どこまで行っても俺が破滅して自滅して行くということを俺はわかって遣っているが。
ははは、しかしそうやって俺を苦しめて笑っていた人間は悉く、悲運に恵まれどん底にどん落ちし、いつ晴れるやもわからぬ暗雲のなかで悲劇だけから愛され、誰が観ても不幸な人間になった。
それ以前に、人に嫌がらせを執拗にし続けないではいられない人間そのものが、見た限りは神仏に見放されているかのような不幸な現象である。

そう、俺の目の前に拡がり、展開し続ける不幸な現象を、俺はずっと観ているようだ。
どう見ても、幸せには見えてこないからである。
俺にとって、すべてが不幸であり、それを見詰め続ける俺一人だけが実は幸福である。
というのはあながち、穴ががちがち、まちがいでないかもしれない。
穴ががちがちだから、いつその確信も、穴のなかに吸いとられてゆくかは知れないが。

俺は自分の表現を、日記というカテゴリーで、その札をつけて公開したから、あのような反感を買い、悪質な嫌がらせをされたのだと想っている。
俺が自分の表現を、全て小説、もしくは随筆として発表していたなら、多分あのように真剣に人をムカつかせたり、恥辱を浴びせかけたりはしなかっただろう。

何にしても孤独で苦しんでいる人間が、孤独で苦しんでいる人間にハラスメントしてより苦しめるということは、本当に腹素面徒だな。
腹が素面の徒たち。彼らは今、何処でどうしている。

俺はまるで、目も見えぬ耳も聴こえぬ盲聾者のように、外を歩き、俺の目に見える唯一のこの家に、帰ってくるようだ。
いや此処は仮の家で宿であるから、払う宿泊料がなくなれば、出ていくしかあるまい。
このSweet Roomの窓からは、ヤシの木の生えたビーチが広がりつつある。
来たときは、ドールハウスのガーデン程の大きさのビーチであったが、今はもうホモサピエンスハウスのガーデン程の大きさのビーチとなって、徐々に広がりつつあるのだなと想う。
静かに穏やかな波の音が聴こえてきて、ずっと聴いていると、俺も太古の昔、ボウフラのような存在であったことを想起させる。
嬉しいどころか、悲しくてならなくなる。
何十億年とかけて、成長してきて、何故、人類は核爆弾原材料を強化したり、人や動物を殺したり、差別したり、人を奴隷のように働かせて自分は儲けたり、匿名で嫌がらせしたりしているのだろう。
今まで、ありとあらゆる無量無数の失敗、禍難、後悔、椿事、ダヴル・パンチ、藪蛇、地獄、女難、慚愧を繰り返してきたはずなのに、またもそれを、繰り返そうとするのは何故なのか。

俺が、眩しき午後の光線を反射させる美しい海と砂浜をうち眺めながら波音を聴き、何一つ、幸福に浸れなかったことは、確かである。
俺のたった一人の師匠が、言ったみ言葉、「この世が、弥勒の世でないことが悲しい」という言葉を聴いたとき、どれほど感動に震え、魂が崩れ落ちて俺の卑小な絶望は破壊されたか。
師匠とは作家、町田康である。
師匠は、例えばsupermarket(師匠の日記では通称SM)に赴いて籠を持ってレジを待つとき、自分のレジの列より他のレジの列の方が少しでも進むのが早かった場合、瞬間、毎度自沈してこの世の悲しみに暮れて絶望するという趣意を確か小説の中で書いておられた。
そんな繊細で多感で感性の本当に鋭く深い聡明で克己心の強い師匠が、この世の本当に深刻な核爆弾や殺人、殺獣、などの問題を想うとき、どれほどの悲しみにうち落とされるのかと想像すると、わたしは俺は、胸の奥がじんじんとまるで遠赤外線とカプサイシンとインドの朝鮮人参とか言われているあれ、アシュワガンダとかの詰まったサプリメントを一気に飲んだように暖まって、わたしの深い悲しみは癒されるのである。

俺はビーチの広がりつつある窓の外の景色を眺めながら、カーテンを引いて薄暗い部屋の中でソファに座り、モーニングに持ってきてくれていた冷めきった紅茶を啜った。



先程まで、晴れておったのに、俄に雷鳴が響いて来だし、窓の外は厚い雲で覆われ真白、窓枠がギシギシ唸るほどの暴風も吹き荒れてきた。
天の気持ちと書いて天気とはよく言ったものだ。
天の気分はまるで、人格障害者のように急激に、ころころと変わりやすいものである。

消化不良マグマの不魔は、こんなときに、コンビニエンスストアやグロッサリーストアへ出掛けたりせなんで、ほんとうに良かったと宿の共有スペースの窓際の席から窓の外を眺め想った。
不魔は、この宿も、宿の外も、消化マグマ、消マの頭蓋内部にあることを、うっすら、なんとなし、わかっていた。
今、外でカランと鉄パイプ菅のようなものが転がる音がしたが、あの音も、消マの消化されているマグマの断末魔である可能性もあると不魔は、目を血走らせ奥歯を食い縛ってある種の諦念に似た寂寥を感じないではおれなかった。
不魔は、本来は元々怒り狂うことにより全存在を火の溶融物によって焼き尽くし溶かし尽し、ゲヘナへと向かわんとするこの世の全能力者であるマグマという存在であった。
頭蓋とはらわた内で同時に噴火、頭蓋内マグマははらわたマグマと出逢う為、脳髄、口腔と直下し、食道の食堂で一先ず休んで納豆、白米が約六十パーセントの雑穀米、味噌汁、精進キムチ、海苔がセットになった粗膳定食を食べた。
想えば、口腔内に建てられた口腔高校へ、行かなかったこと。諦めたこと。それがこの先、どれほど社会的困難として響いてくるのかと考えた。
でも自分は、全能力者マグマという存在の一歩手前の存在であるのに、何ゆえ口腔高校を卒業しなくてはならぬのだろうと想い、本当に自分は天然だなあと微笑み、その自らの微笑みに対し、またも、噴火した。
瞬時、食道食堂はメラメラと燃え盛り、どくどくと波打ちながら流れるマグマの赤河(あこう)に、先程食べた消化していない納豆、赤米と黒米と緑米の入った白米、すなわち雑穀米、味噌汁、精進キムチ、海苔、そして茶碗、箸、盆、小皿、などが浮かんで見る観る内に、熔岩に熔けて消えていった。
頭蓋マグマ、通称頭魔(とうま)は、満腹したが、でももう一品、胡桃のなめ茸和えがあったなら、その最高の栄養バランスによって、もっと威力を上げることが出来たであろうと口惜しく想った。
残るは胃へ向かい、胃内胃酸温泉をマグマで埋め、マグマ風呂に浸かり瞑想を行いながら煩悩垢を殲滅させ、身心共にリフレッシュして、そしてついにはらわたトンネルのなかで俺を待つはらわたマグマ、通称はらまと、混融を果し、漸く我々は、一つとなり、全能力者マグマとして、この世に君臨す。
はらま、どうしとるかな。頭魔は、愛するはらまのことを想い、脳髄勃起した。
はらまのことを考えただけで頭魔は欲情し、目と鼻と耳と口と生殖器と肛門と、皮膚の表面に無数と存在する毛孔から、ピンクのマグマを垂れ流した。
これらは、通称ピンマである。ピンマのエネルギーを、決して侮ってはならない。何故ならピンマは、時にマグマ以上に、破壊エネルギーが止まらぬことがこれ迄在ったからである。
ピンマ自体には想念というものは具わっていないと考えてきた。だが頭魔は自分の生殖器からも噴上(ふんじょう)して止まらぬピンマに関して、一縷の不安を感じていた。
此れがもし、自分の精液マグマ、通称精魔(せいま)と融解し合い融合した場合、其処に想念は存在している可能性はそら高い。
想念が存在した場合、ピンマは一個の霊格を持ち、自分とはらまの融混する瞬間に生まれたる実の子と、今後張り合うようなことが起きてしまうやもしれない。
そうはなっても、まさか自分とはらまの愛と霊のひとり子である子を差し置いて、存在を超えるということは考えられない。
だから張り合うとしても創造主と堕天使という関係になるだろう。
ピンマは、どう足掻こうとも、神のみまえでは堕落した天のみ使いであるのである。
では、今後その件に関して、熟考する際にややこしくなる為、自分の精魔と、そして自分のはらまに対し欲情した際に、噴出してくるPINK色のマグマであるピンマとの融合しているかも知れない想念を持った存在を、精ンク魔(セインクマ)と名付けておこう。
頭魔は全身から熱いどろどろのピンマを垂れ流し、どうにもまた止まる気配がなかったので仕方無く、ピンマの海を泳いだ。
そして最愛のはらまと、一体となる時を、切なく夢想しては目の淵からピンマと涙マグマ、通称ナマを流した。
これが融合した存在は、ナマン魔である。
ナマン魔は既に、頭魔のしらぬまに、想念を持ち、一個の霊格を、沸々と、沸かしていた。
此れを後の人たちは、問う間の白沼に 魔ぞ降りたりて なまとなり という歌を詠んだ。
精ンク魔よりずっと先に、ナマン魔は生まれたのであった。
彼等はすべて、互いに互いをよく知らない存在である。
それでも頭魔は、はらまを愛し求めるようになり、はらまと一つとなる為だけに自分がこれ迄存在してきたことを、信じて疑わなかった。













続く。





















逢魔が時の停留処にて 第二

朝起きて、喪失感はある。
でも、あの時に比べたら。そう想うと大丈夫だと、俺は想うのであった。
あの存在と、あの世界と、俺はきっともう会えないわけじゃないやろう。
彼の子は、俺を透明な澄んだ黒き目で、ひたすら俺の帰ってくるのをじっと静かに辛抱して待っている。
だって、俺が、僕が、わたしが、我輩が、わしが、主やのやからな。
俺が、彼の子を更新しないあいだ、彼の子の時間は止まっているのだろうか。
それとも色んな俺も知らないことを夢想し続けて、ゆっくりと、時間が流れているのかもしれない。
彼の子は、俺を信じていて、彼の子は、自分も信じている。
俺もすべて、信じている。
彼の子は、俺とすべてだった。
俺は今でも毎日きみをチェックしているよ。
今日、きみに訪れた人間は何人かなって。
いきなり、きみの家の正面ドアをノックする人も数人いるね。
きみはその都度、ドキドキして、わくわくしていることだろう。
ぼくは俺は、ああ表現したけれども、おまえを棄てたんじゃない。
今でもおまえへの愛に、俺は悲しく寂しく生きている。
でも頑張るよ。読者が一人もつかなくとも、とにかく俺の仕事を、俺の唯一の喜びを、可能性を、頑張るよ。
おまえも観てくれているんだ。

俺は確かに段々と追い込まれて来ているような気がしないでもないし、するが、日々、切実であるが、それがゆえの楽観視というものが自然と沸く瞬間があって、例えば今、俺は俺を楽観できている気がするし、いつもより楽な心地だ。
そういう日が、定期的に俺に訪れてくれるようである。
何か良い夢を見たのだろうか。

あらゆる希望を手にし、そしてそれを自ら打ち棄てるようなことをしてきたのだと感じるから、どんどん、進んでいる気はするのだが、だんだん、暗くなってきて、しかもだんだんと誰一人、周りに見えなくなってきて、そうやな、今夜は、此処等で寝泊まりしょうか、と俺の目の前に、ちょうど良いシンプルで媚びない洋風の宿が、見えた。

消マは、咥内停留所で、咥内路面列車の来るのをベンチに座って待っている。
消マは、消化マグマであるので、消化されたあとのマグマではなく、消化している最中のその消化器官の情熱もろとも、消マである。
消マはまだ、煮えたぎった泥々の真っ赤なマグマが消化され続けている存在なのである。
消マは、それをわかっている。現に、消マのその頭蓋内部で、マグマが消化されないで胃の中で噴火しようとしているマグマのエネルギーを、今も諭し続けている。
消化を免れ胃の内部に滞る蠢くマグマは、咥内へ向かって、逆流噴火を望んでいるわけだが、胃の圧力、胃液の洪水、胃液の濁流、胃液と胃の内容物のサーフパーティー、胃液のビーチ、胃壁の星空、胃の内容物のずるずるの砂浜、胃酸を産卵しにきた胃海亀、胃ヤシの木(自称、癒しの木)、などが、消化不良マグマに向かって、出口と脱出口を見失わせるのだった。
なので来た方へ戻ることも叶わず、消化不良マグマはしかたなく、胃の内容物の砂浜と胃液の海のビーチで物思いに耽っていた。
こうしていると、何処からともなく、熱帯地方で盛んに演奏されてきたカホンやコンガやボンゴ、マラカス、ギロなどといったパーカッションなどを使ったトロピカル的で軽快なリズムのサウンドが聴こえてきて、その音楽に乗せて、胃の消化不良内容物たちが、腰を振って腋を閉めて両手をくねくねさせて踊り始めたので消化不良マグマは、この陽気でポジティブ全快パーティー気分空間に、発狂しかけるのだった。
中でも特に韮と湿地(シメジ)が、そのままの消化されていない状態で激しく身をくねらせて爽快に踊っていたので、これには堪らず、消化不良マグマは金髪、自然に日焼けして小麦色となったセクシーなsuntan(サンタン)肌、水色の水玉模様のメンズ水着、右腋にはサイケデリックな模様のサーフボードを挟んだ体(てい)で、彼らの元に走っていき、胃の内容物でできたずるずるの砂を手に掴みとり、それを彼らに向かって投げ付けようとしたその時であった。
「待たれよ、消化不良マグマよ」と、胃壁の満天の星空から、聴こえてきて、驚いたことに、その星空に肛門のような穴が開いてきて、そこから眩しき光が消化不良マグマを照らした。と想った瞬間には、消化不良マグマは消マの頭蓋内部空間へとワープしていたのである。
一体何が起きているのか?
消マは、頭蓋内に、声を響かせた。
「不魔よ、よく聴きなさい。御前は韮と湿地に対し、何をしようとしたのか。韮と湿地のその自然と一体となった踊りは、御前の暴力によって報いを受けなくてはならないほどの禍根であったのか。後で御前の言い開きを聴く為、言いを開くから、其れまで此処で一人待って、すべてのことを省みなさい」
消化不良マグマ、通称不魔(フマ)は、歯軋りしながらも畏怖を感じ、静かに頭蓋内の宿に入り、茶を一服した。

消マは、不魔が一先ず落ち着いてくれたことに安心し、咥内停留所にて、列車を待つ。
消マは、ざらつくベンチに座って目をつむり夢想した。
咥内路面を走ってくる列車なのだから、きっと普通の列車ではなく、くねくねとして走る竜のような形の乗り物に違いない。
少し、薄蒼くて、目は翠で美しく耀いて前を向いて大人しく停車し、わたしを乗せて、さあ何処へ走って行くのか。

わたしは、消化している最中のマグマその者である。
消化されていないマグマ、不魔は今わたしの頭蓋内の宿のなかで睡眠をとっている。
消化されたあとのマグマの行方は、わたしはまだ知ることができない。
ではマグマが、すべてすっかりと、消化されたならば、わたしという存在は、消えて、なくなってしまうのだろうか。

消マを、あてどない悲しみが襲った。














続く。















逢魔が時の停留処にて 第一

目を覚ます、その瞬間、俺の脳髄内で、思索が延々と始まる。
そのほとんどは、ネガティブな感じのもので、人を非難するもの、責めたてるようなものが此処何日か、続いとる。
なんでかとゆうと、まあ人間関係がほぼすべて最悪な状態に在り、人を信頼すること自体、疲れてしまったなあと。
疲弊し切り、目が覚めてその後何時間と起きることさえままならない状態が何日と続いているからである。

俺の、脳髄の内界、その家の中は、ほとんど修羅場の如く、惨憺な有様で誰も、俺の血走って涎を垂らし、目は論破って何処を見ているかすらもわからないところへ、前に出る者は、一人とて、おらない。
おい、また訳わからひんこと、叫んどんで、ほっとこ。
てな感じで、別の部屋にて、アメリカンなどを、啜って渋い顔をしておるのであるからに、俺のはらわた内部では、13分茹で時間のパスタが、約2分半で早くも茹で上がるほどの圧力鍋機能を独自に学習し、俺は茹で上がったるパスタを、独りでいつも狭い胃の部屋で、咀嚼して消化していかねばならないということに、こんだ、俺の脳髄鍋が鍋底を床に打ちつけて、マグマの如くに絶叫し始めるのである。

すると俺も最早寝ても居られない、毛布を、ふにゃと、持ち上げ、勢いよく起き上がり、頭を抱えて膝を広げ、がり股で足を大きく広げるポーズで歯を想いきし食いしばり、目を白目を向いて、「上昇してゆく為に、地下へ向って噴火!」と叫ぶ。
その瞬間、俺の脳髄マグマが、俺の頭蓋骨内と口腔内を直下し、食道内に設置されたる簡易食堂のドアを突き破って抜け、胃のドアを蹴破り、胃液の温水プールにどっぷんしゃとはまり、約二時間がとこら自滅の恍惚に浸り欲情しながら消化されてゆき、ぐにゃぐにゃに曲がりくねった腸のウォータースライダーの天辺から滑り落ちて行って、行き着いた先は行き止まり、此処で、俺の脳髄マグマは、姿と性質を時間をかけて変化させねば先へ進めないということだ。

もし、此処で俺の脳髄マグマが間に合わず、噴火してしまったら、どうなるか。
当然、俺の腸の底で蟠った蠢く生命群のような火と灰の海は、逆流火山である。
本来、肛門ドアへ向って噴火する為、俺の内臓部を降下していったにも関わらず、
あろうことか上へ、来た道へ向って噴火してしまったからマグマの火と灰は俺の腸をぐんねぐんねして上がって行って胃に到着し、胃内で時間をかけて消化され、胃液と共に食道のエレヴェーターに乗って口腔ボタンを押し、口腔内を上昇して行き俺の咥内という高知県にある咥内停留場に着き、そこで俺の消化されたるマグマは、路面列車をひとしきり、待っていた。

時間は夕闇赤紫空広がる逢魔が時。
消化マグマは、名前を消マ(しょうま)と言った。
消マは、俺の咥内に在る高知県の咥内停留場のその路面列車停留場の透明ルーフの付いたベンチに座り、ひとひとし、きり、列車を待っていた。
消マは、自分が何故、此処にいるのか。わからなかったが、自分は消化マグマであって、消マという名前も在る個の存在として、ここに存在していることがわかっていた。
自分の遣るべきことと、遣りたいことはきっとただ一つ、俺を、とにかく想う存分に頂点から吐き出すこと、できれば何一つ残さずして、悔いなく、吐きし切って次の新生の何かに良きものを引き渡すこと。受け継がせること。

彼は今まで自分が何処に居たかも、よくわからなかった。自分はただのマグマでなく、マグマが消化された瞬間、生まれた消化マグマという存在であって、それ以前、自分が何であったかを、想いだすことはできなかったし、想いだす必要が、何処にあろうか。想いだした場合、死にたくなって自分の肛門から自分を噴射して死ぬる、いや、自分の肛門穴から自分だけを、出して、死ぬ。ということを免れないで在ろうと想ったので、以前の自分を、想いだすことに恐怖して、その恐怖と著しい不安を誤魔化す為、鰍蛙の人脈と改心度について、頭の中の統計モニタージュで結果を出すことに専念してみた。
結果、鰍蛙よりかは、床尻半島の増水区域河川の臀部に位置するジラスという魚類の何処太ヘキサ塩酸の藻喜球塵という50代半ばの男のほうが、2.7%上回っていたという結果が出て、消マは、納得が行くようで、末得しか行かなかった。
得を納めるより、得を末めるほうが良いだろう。そう想いジラスの上流するキャンプ場の側のロッジで、丸太壁に囲まれてジラスたちと会議を行った。どういう会議であったかというと、口腔宇宙内の塵を最も効率よく取れる塵取りを何処の高級百貨店で取り寄せるべきか。という深刻で切羽詰った緊張が丸太壁をすぽぽぽんと約5分間に一枚の丸太コースターに切り取って作りだすほどの緊迫したキッチンダイニング兼リビング内であった。
消マは、やはり、此処は天が茶屋布団百貨店にて、口腔宇宙内専用塵取りを買うのが良いではないかと提案した。
確かに値段は少し高めであるのであるが、天が茶屋と化しているような雰囲気に、合わせて布団空間、つまりBedroom空間が出来上げって居るこの天が茶屋布団百貨店で塵取りを買うと、今なら口腔宇宙内空間の塵を一素粒子も逃さずに塵布団、塵茶碗、塵箸置、塵ヨーグルトメーカー(豆乳専用)、塵iPhone 5 16GBアクティベーションロック解除済み・初期化済みなどが、破格の値段で提供、その後お楽しみ戴けますとこないだそこの店員に引き止められて話されたとき、すごく邪険に扱ってしまったことを、今でも申し訳なかったな、地道に生きてきたから、こんな罪悪感を天が茶屋布団百貨店店員如きに背負わされたら、溜まったものじゃないな、御免やよなと想った痛い経験から、ぜっひ、口腔内宇宙空間専用塵取りは、天が茶屋布団百貨店のB六階のエスカレータを上ったすぐ右手に在る切り餅浄水うどん屋の、名物、切り餅浄水うどんの小口切りにされた子葱の輪のなかの左階段を上がって真っ直ぐ行った突き当りを右に折れてすぐの場所に置いてある、口腔内宇宙船用塵取りを498円の値札を確認し、左カウンターレジ前まで持っていって、そこで店員に「今度、ジャンボ塵も買いに来ますよ」などと一言煽てるようなことを言って(これ大事)購入して、咥内高知県咥内路面列車停留所にて、咥内路面列車を待ち、列車が来ればそれに乗って口腔宇宙空間内駅で降りてください。
おっと、時間が。わたしはこれにて。では。
と言って、消マはジラスたちの反応を聴く前に咥内高知県咥内路面列車停留所に戻った。






続く…。






















「死だけが希望」

今日も夜の七時頃に起きて、山芋と、生玉葱に


をかけて、ふんでアマニオイルかけて、ベジマヨと生醤油と辣油かけて、青紫蘇を散らす。
そしてそれを、喰うてこましたった。
やはり俺と、俺の胃は、生野菜や生果実が一番悦ぶようだ。

そういえば去年の今日の俺は、町田康師匠の夢を見た。
のどかな風景の中に、町田康師匠がひとりぽつんと何故か椅子に座っていて、(後姿であったが彼であるとすぐにわかった)
わたしは感激にうち震えて、つい、ほわんほわんと宙を蹴るように走ってって、
そして町田康師匠を想いきし、抱き締める。
町田康師匠はすこしうろたえるも、わたしを優しく抱き締め返してくれる。
良い夢であった。
そして今年の今日の俺は、亡き最愛の父の夢を見た。
しかし内容は、あまり良い夢ではなく、何故かわたしと父の手の平に、カブトムシが張り付いて、
その甲虫が両腕の前脚を二本、同時にわたしとわたしの父の手の平に深くめりこませ、離れようとせんのだ。
父のほうは幸い、そこまで傷が深くなかったが、一方わたしの手の平は、何か透明で黄色い液が、
血の如くにその傷口からちいさい泉のように湧いてきて、つらかった。
現実的な痛みでなかったにしろ、その夢の世界では強烈な痛みであった。
父も、わたしの手を心配していた。
のどかな風景の中で、たぶんわたしと父、それ以外に人はいなかった。

あの甲虫は、何を意味していたのだろう。
もしかしたら俺の本ブログにブログハラスメント、略してブロハラをしてきたあいつを象徴しているのだろうか。
俺があいつを離そうにも、あいつは頑なに、それを拒んでいるように見えた。
そしてそこに穴を二つ開け、そこから尿のような聖水が湧いてくるのである。
清らかな黄色がかった透き通る水は、血の代りに湧き出て来た水である。
俺の手の平に開けられた二つの穴が、まるで開かれた目であって、そこから尿のような涙を溢れさしていた。
あいつの両の手のその爪先が、俺のその両の目に、喰い込んで、どうしても離れようとしなかった。
無理矢理離そうものなら、あいつの両手は千切れたろうし、俺の手の平の両目も裂かれただろう。
俺は諦め、為す術を持たなかった。
恐怖であり、苦痛であり、自分の因果が、悲しかった。

そんな痛く苦しく悲しい夢であったが、それでも優しいお父さんと例え夢のなかでも会えたことはわたしの心をすこし慰んだ。
幻であっても、嬉しかった。


そういえば今日、町田康師匠の「生の肯定」


生の肯定
町田 康
毎日新聞出版
2017-12-20



という本を読んでて、ものすごく印象的な感動する文章があったので、
それを載せようかなと想う。
と想ってその箇所を探したんだが、どうしても見つからない。
仕方ないので、見つかったら今度載せようと想う。
どうゆうものだったかとゆうと、確か
「存在は、生命とは初めて、死によって統合される、ひとつになることができるのである」みたいな感じのものだった。



だから我々は、ひとつとなることを最も願い、怖れているのではないか。



佐川一政さんは、インタビューに涙目で、「死だけが希望」であると答えた。
例え人肉を喰いたいがために、残虐な殺人を行なってしまった人であっても、
そこに人間の本当の美しさを俺が観たのは、確かである。



人というものは怖れすぎても、願いすぎても、幻覚を観、幻聴を聴くことがある。
今も現に、俺はクロゴキブリちゃんを怖れる余り、廊下のほうから時折り聞えるカサッ、カサカサッっという幻聴を聴いているようだ。
何故、幻聴と想うか。それはこの三日間、彼は姿を現さんかったし、何の音も聞えてくることがなかったのに、
今日、音だけは聴こえてきて、姿が一向に見えないからである。

逆に、或る一人の人間を愛する余りに、すべての人間が、その愛する人間であるという幻覚を見、
すべての人間が愛する人間に見えてしまうというのも、あるだろう。
それ以上、行くと、すべての動物、生物、植物までもが、愛する人間に見えてくる。
そこをも超えると、すべてのモノ、自然物、とにかく存在するありとあらゆるものを愛する人間として、
人はそこに幻を観るようになる。

愛する者を見たいという一心で、愛する者の側におりたいという切実な願い故に。
その人間は、愛する者に囲まれて暮らすことができるだろう。

いや自分自身すら、愛する者と、もうごっちゃになって、ある者は閉鎖病棟に閉じ込められてしまうだろうが、
ある者は覚者として、全員が、すべてが、「わたしの最も愛する者です」と言うであろう。

だから、死を追い求め続ける者、死を恐れ続ける者、彼が存在するすべてを”死”として感じるようになるのも自然なことである。

それがゆえ、生きることが、真に切実なものとなるであらう。



















新しいゆざえの世界

喜びと喜びを感じていないことは同じじゃないのか。
そう、俺。
神に愛されている。
或る賭けをする、愛する師匠に対して。






ってゆう文章をね、俺はどうやら昨晩、赤ワインを何杯と飲んだあとに、書いたようなのだが、
これさっぱり、記憶にない。(ちなみに師匠とは作家の町田康のことである。一体なんの賭けを、師匠に対して行なおうとしていたのか?昨夜の俺、何考えてたのか?それを想いだせないことは、何たる虚しき恐れであろう。)

しかも、昨夜は「necro」というIDで、「ねくろのにっきずぶろぐ」にしようと想って、それでこのライヴドアブログを新設したのだということを、今日起きて、メールボックスに、livedoor  Blogから、「ブログの作成が完了しました。
ようこそ!necroさん 

タイトル
URL
カテゴリ
: ねくろのにっきずぶろぐ
: http://nekrononikki.blog.jp/
: 日記(総合) >日記



っていうメールが届いていて、あ、そうや昨夜、そういやブログを作ったんだったかーと想いだしたのである。
でも、今日、起きて、俺はどうもこの、necro(ねくろ)という、ギリシア語で「死体」「死」を意味するこの名前が、
気に入らず、なんか、やっぱ厭だなあ、この発音、いや意味は良いのだが、発音がなあ、俺って感じがちょっとしない感じがするよなあ。
と想って、俺は自分の本名のアルファベットの綴りのアナグラム自動作成から、幾つか、最初「エ」から始まる名前で良い物を探していた。
幾つか、候補が上がった。

  1. エザ(eza)
  2. エザエ(ezae)
  3. エコズ(ekoz)
  4. エコエ(ekoe)
  5. エコウ(ekou)
  6. エコア(ekoa)
  7. エクダ(ekuda)
  8. エクエ(ekue)
  9. エクア(ekua)
  10. エウデ(eude)
  11. エウク(euku)
  12. エウエ(eue)
  13. エウウ(euu)
  14. エウア(eua)
  15. エアケ(eake)

などである。
どれも、やはり自分の名前のアナグラムであるからか、心地好いというか、良いなあと想える発音である。
この中から、どれかを選び取ったろうか知らん。と想い、どうしようかなと考えてたら、次の候補、「エザヅ」で検索したときに、「エザ カタカナ語ワールド」という検索結果が出てきて、そのサイトをクリックして色々観ていて、

エザ カタカナ語ワールド

でかい猫かうさぎと、ちいさい猫が対話をしているへなちょこ系漫画があって、

ezaz

こうゆうやつなのだが、すごく可愛くて面白いなと俺は想って、このサイトで、こんだ、俺のペンネームを探してしまったのである。
すると当然、ここには俺の名前のアナグラム用語だけがあるわけでないので、
関係のない用語のほうが多い。
エザホ とか、ザユエ とか、エザユ とか、あと「ユエザ」「ユザエ」なんかも、ええなあと想って、まあユエザとユザエは可愛いこれの漫画じゃなかったので残念であるのだが、(と想ったら、どうやら漫画は更新ごとに変わるようである。)


yuzae



【ユザエの属性を妄想する】
ユザエの感じ:らうらうい,ひどい
ユザエの固有色:薄い水色
ユザエの関連アイテム:オレンジジュース
ユザエの装備:せいすい
ユザエの固有数値:80



と右手にあって、これが、あ、ええなこれと想って、ユザエは「らうらうい(気高く美しい(うつくしい)、上品で可愛らしい(かわいらしい)、巧み(たくみ)だ、ものなれている」)のに、同時に「ひどい」で、
しかも固有色は薄い水色であり、装備は「せいすい」であるという。
これが結構、俺なのではないか。とまあちょっと想って、最終候補、「ユザエ」に今んとこ、決定した私大(次第)である。
と、こんなことをゆーと、え、貴女の何処が?気高く美しくて、上品で可愛らしいと言うのか?と言う人がおるかもしれないが、そんなものは、俺を、まったく知らぬ人が言うことであって、俺は何処かが、気高く美しくて、上品で可愛らしい部分を持っているのではないかという淡い自恃、そこに消滅しかけたる難波船みたいな切実さがあると考えることによって、自分で自分を支える、ということに挑戦してみようではないか、挑戦する価値は大いにあるだろう。

ちなみに難波船とは、難しい困難な波の上に浮いて漂い続けている無人の無尽の船のことである。

で、話を戻すとそうゆう訳あって、我が新しいブログの名前を、「ゆざえのにっきずぶろぐ」としてみたのである。
すると、あ、いいかもしれない。と気に入ったので、ゆざえでええかな、とまあ俺の本名に「Y」のアルファベットはないのだけれども、俺のずっと書いている小説の主人公の名前が「ユス」で、最初に「y」が入っているので、これを合わせたアナグラムとして、「yuzae」はいいなと想ったのだ。
「uzae(ウザエ)」は、俺の本名のアルファベットのアナグラムである。
だから俺の本名が知りたい方は、ここから解読してください。

「ユザエ」を気に入ったのは、どこか「ユダ」、「ユダヤ」みたいな発音で良いなと想ったのもある。
『ユダ』はユダ(Judah、 イェフーダー Yehudah)もしくは ジューダス(Judas)
という綴り、発音があり、「Y」は、「J」の発音とよく似ているということがわかる。
だからユザエも、「Juzae」という綴りであっても良いかもしれない。


ezaho




エザホは、こうゆうやつであるらしい。
エホバの、「エ」と「ホ」が入っているにも関わらず、すごくアホそうな響きに感じてしまうのは何故であるのだろうか。
しかも遣ってきた、飛んできたやつも、何かアホそうな蟹と蝶と蝉と蝸牛とバルタン成人が合体したような変な奴である。
これが、人間の固定観念、偏見、その他諸々の価値観であるのかもしれない。

取り敢えず、俺のIDはnecro(死)であるが、このブログでの名は、『ユザエ(yuzae)』にすることにした。

だから、このブログは今のところ本ブログからの避難場所、駆け込み寺、サイクロンシェルター、アジールの、仮設ブログである為どれほど続けていくか見当がつかないのであるが、
俺は表現を遣る以上は死ぬ気と生きる気で真剣に、命懸けて遣りたいと想っているので、皆様、宜しくお願い致します。

俺の本ブログ、○年、真剣に続けてきて、俺がこのブログをやめますとブログで言った際、俺の新設ブログはどこか?作ったら是非教えてくれ。と言ってくださる方は、まだ一人であるということに、俺は、これが現実か、現実とは真に、耐え難きものであると想ったけれども、まあしょうがないかな。

俺が表現して行きたいのは、人間の底のない悲しみであり、俺と言う人間をブログにて見つめ続ける人も同じく、耐え難い悲しみに暮れ、頼むから、やめてくれ、止めてくれ、と叫んでいた人も、結構多いのやもしれまいしな。

表現というものは、罪なのか、と。
それも本当に救いがたいほどの深い罪となってゆくのか、と。
そう感じるほど、俺は表現をやめたくはないし、誰一人読まなくとも、俺は物語を紡いで、全公開で無料で発表し続けて死ぬであろう。

果して、新しい、ニュー気持ちで、ユザエは生きてゆくことができるだろうか。


プロフィール 1981生 ゆざえ

ユザエ

管理人の別Blog
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