なかなか、観るのが怖くて、観れなかったが、やっと観れた。
観終わって、悲しくて涙が流れた。
何より、心が苦しかったのは、最後のデヴィッドのところだった。
何なのだろうか…。日本という国の虚しさを、わたしは見せつけられた。
日本が先進国でありながら、自殺大国であることの理由が、この冷ややかな虚しさのなかにあるのではないか。
それに比べて、他の国は、何故あたたかみがあるのか?
動物的な慈悲のようなものが、他の国にはあるように感じられた。
日本は無機質的で、無感情的で、作り物のよう(人工的)である。
だが、ただ釣崎清隆が無言で撮った最後の青木ヶ原樹海の髑髏は、冷たさや虚しさを感じることはなかった。
髑髏には青々とした苔が生えており、大自然の慈愛に包まれながら、完成されたひとつの現象として、感動的なものであった。短いシーンだけでとても残念である。

最も痛々しさを感じたのが、顔がぐちゃぐちゃの血と肉の塊となった死体の映像よりも遥かに日本の若者たちによる友人デヴィッドの納骨のシーンであった。
釣崎清隆の、あたたかい眼差しのフィルターを通しても、それを覆うことはできないほどに、どうしようもない空虚さに満ちており、胸が今でも苦しい。
これは『デスファイル完全版』を軽く超えるほどの死者に対する尊厳の欠如である。
損壊の最も激しいどの死体よりも遥かに、”残酷”なものである。
わたしはそう感じた。
でも唯一の救いは、この映像を釣崎清隆が撮ったことである。
それ以外に、何処にも救いはない。
そこにある闇は、底がない。
日本という国は、この世界で最も救いが必要な国なのではないか。
何故、ここまで寒々しいのか。
ただ丁寧に、慎重に扱うなら、それが死者に対する尊厳であるのだと、想い違いをしているのではないか?
日本というこの国に存在しているこの恐ろしい虚構が、一体、何処から来ているのか。

わたしはこの世界から拷問的苦痛のすべてを無くする訴えを、みずからのなかで強めたくて、死体をじっくりと、見つめることを決意し、釣崎清隆の存在を最近知った。
今、そのわたしを襲っているのは、”日本”という国が、どれほど”救いがたい”凍りついた国であるかということを知らされた吐き気を催すほどの悲しみである。
でも、あの髑髏が、この「ジャンクフィルム」のジャケットの青木ヶ原樹海で釣崎清隆が撮った此の世の何よりも幸せそうに、優しい寝顔で眠る髑髏が、わたしに言うのである。
「僕も日本人だった。」
そうだね…。君はわたしと同じ日本人だったんだ。
でも今は、今は、そんな縛りに縛られてはいない。
世界で一番冷めたこの国から、君は解放されたんだ。多分…。
きっと、そうだ。それとも、骨と魂は、全く、もはや別々の存在だからなのか。
嗚呼…僕は本当にこれまでずっと、髑髏恐怖症だったんだ、それなのに。
この映像の、綺麗な色んな個性を持つ髑髏たちに、なんて胸がときめいたことだろう!
これは釣崎清隆の真剣に死を見つめる愛の深さが、僕に反映したのだと、信じている。
彼の穢れなき愛と悲しみが、全く届かないほどに、この国の闇は、深いのである。