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ねこぢるの漫画は、多分、彼女がこの世を去ったすぐあとくらいに知った。
ねこぢるの漫画の良さをわかりたいと感じている自分がこれまでずっといた。
でもこれまで、ちゃんと読んだことはなかった。
それは切り貼りされた雑誌やネット上の漫画のシーンだけでは到底わかり得ることはできないそこに存在する物語の深さを、自分が感じ取ることはできなかったからなのかもしれない。
どうしても、切り取られただけのねこぢるの漫画に自分は不快感を感じていた気がする。
それをちゃんとじっくりと読みたいという気持ちにこれまでさせられなかった。
でも22年程が経ち、39歳となったわたしは吉永嘉明の「自殺されちゃった僕」を読んだきっかけで、初めてねこぢるの漫画「ねこぢるうどん」をメルカリで3冊購入し、静かに読んだ。
嗚呼、なんてわたしは勘違いしていたのだろうと想わずにいられなかった。
そういえば、今日布団のなかで泣いた気がする。
ねこぢるのことだけではなくて、色んなことが重なって、わたしは悲しくて泣いた。
言葉では表現するのが難しい世界が、この世界にはたくさん存在しているのだと感じる。
ねこぢる(彼女)の表現してきた世界も、そういう世界だ。
ひとつだけ、その世界に対して表現できそうな言葉がある。
”果てのない悲しみ”の世界だ。
どこまでも深くて、底は見えない、辿り着ける場所もない。
そんな世界だ。
人間の感情が創り出せる世界であり、”虚無”もまた、人間特有の感情なのだろう。
わたしは、本当に大きな勘違いをしていた。
彼女は、わたしと、とても似ているのだと感じた。
生きている世界が、離れてはいなくて、近いと感じた。
わたしが小学3年生のとき、同じクラスの女の子を傘立てに載って遊びながら思い切り突き飛ばして大怪我をさせてもわたしはニヤニヤ嗤っていた。
小学6年のときは、かつて仲が良かった女の子の家が火事になって、彼女が今、瀕死状態で、先生が助かるようにみんなで祈りましょうと言ったとき、わたしは彼女が死ぬことを祈り続けた。そして彼女が死んだことを知った瞬間に、心のなかで大声で歓喜をあげたのだった。
彼女の葬儀のための日に、無理に悲しんで泣こうとしたが全く泣けなかった。
自分は、人と大きく違うと感じるのは子供の頃だけではなく、今でも同じだ。
ほとんどの子供は、そんな経験をしない。
そんな経験をして、何十年経ってもずっとそのことで自分を殺したいほどに自分自身を責め続けて生きていない。
「子供は残酷だ」と、人はまるでそれが当然のように言ったりする。
でも何故、それが”壊れている”状態だとは考えないのだろうか?
イスラエルの大学による研究によれば、「 生後6ヵ月などの小さな赤ちゃんも、他者の苦痛に慈悲と共感を持っている」ことがわかったらしい。

「最初の実験では生後 5〜 9ヶ月の乳児たちが明らかにいじめの被害者たちに共感を示していることがあらわされ、乳児たちは中立のパーソナリティを選ぶのではなく、身体的に傷つけられ苦しんでいるほうのパーソナリティに共感を示した」
「 2番目の実験では、苦しんでいる他者に対する幼児の共感は不変ではないことを示した。同じように苦痛を現している対象であっても、苦しむ理由が明確ではない場合(苦しんでいるふりをしている場合)、その対象には共感を示さなかった」

わたしの子供時代のサイコパス度が、子供として普遍的なものだとは自分でも想えなかった。
だから、わたしはとても苦しかった。
自分だけが、違う世界に生きているような気がいつもしていた。
この世界のほとんどのことがくだらなくてつまらなくて、不快で嫌い。
ほとんどの人が怖い。
ほどんどの人が、動く自動人形のように想えて怖い。
空想の世界にしか、自分の居場所(生きられる場所、生きているという感覚を感じられる場所)は存在しないと感じる。
殺された動物の死体を食べない。
人々が、驚く、バカにするようなことで日々深く傷つき続けて生きている。
他者のなかに存在する悲しみや孤独、苦痛の感覚に対する共感能力が特に深い。
他者(外界)と自分(内界)の境界がほとんど存在していない。
動物(弱い存在)を本当に愛しているのに、彼らが自分の想い通りにならないとき、自分が壊れてしまう。
愛が深いほど、人は苦しみ、限界値を超え、壊れてしまう、壊れてしまうから、殺してしまう、というこの世界の残酷さに、気づいてしまっている。
人々はそんな人達を、鬼畜や気違いや気狂いと呼んで排除しようとしている。
「ねこぢるうどん3」の「西友の巻」でにゃーことにゃっ太と一緒に遊んでいた”ぶたお”が最後、無残な死体と化し、食肉用の豚の死体を積んでいるリヤカーの上に載せられる。


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これを読んで、人は何を感じるだろうか?
この話を書いたねこぢる(彼女)自身は、肉(動物の死体)を食べない人だった。
彼女はにゃーこにぶたおを「みてるとにゃんかいやなきぶんににゃる」と言わせる。
豚の死体を何とも思わず食べている多くの人々が、豚のキャラクターを観て、可愛い可愛いと言っているこの世界で。
彼女は豚の死体(豚肉)を決して食べないが、豚を見ると不快な気持ちになることをにゃーこに言わせる。
わたしも豚を見ると、どうしても不快な気持ちになる。
可愛いと、喜べる瞬間もない。
彼らは毎日大量に殺され(惨殺され)続けていて、明日も、明後日も、ずっと、ずっと、死体となる瞬間が、わたしのなかでいつも再生され続けている。
それに豚は家畜のなかで人間に最も似ている。
この世界のおぞましい虚構に、そこに存在する堪えられない悲しみに、彼女が限界に達して死んでしまったのではないと、だれか言えるだろうか…?
ねこぢるの漫画は当時ものすごい人気を博し、どの会社も作者の心労など何も考えずに新作を求め続け、そのオーバーワークのなかで彼女はみずから命を絶った。
ねこぢるの作品の読者のなかに、彼女の本当の苦しみや悲しみを理解していた人がどれくらいいただろうか…?
わたしはまるでスーパーの鮮肉コーナーに惨殺された動物の死体が消費されてゆく商品として綺麗に並べられ続けるように、そこに存在している掛け替えのない価値が貪り喰い潰され続けゆくこの世界に、堪え難い苦しみと悲しみを感じないでいることはできない。









11月21日、追記を載せました。