【無料版】『バースト・ジェネレーション』 presentsNEO鬼畜道場 ver. 第四回 報道メディアにおけるグロテスク表現の変遷







確か聖書外典の記述だったと想うのですが、イエス・キリストが弟子たちと何日も荒野を歩き続けて弟子たちの疲労が限界に近づいていたとき、弟子がある一頭の馬か駱駝の腐乱した死骸を見つけ、あまりの悪臭と、その見た目のグロテスクさに、弟子たちは皆、顔を顰めて、何の罪もないその死骸に対して呪詛を吐きつけます。
自分たちはもう飲まず喰わずで死にかけているのに、その上こんなおぞましいものに出くわすなんて、なんという悪運だろうと。
しかし、イエスはそれを観て、すたすたとその死骸に近づいて行って、こう言ったそうです。
「なんと美しい白い歯だろう!」
イエスはその死体の醜さや死臭の何をも気にせず、その代わりに腐敗した肉の為に剥き出しになった白い歯に心底感動したようです。
弟子たちはそんなイエスに吃驚しました。
わたしはこれを読んだとき、本当に感動しました。
同時に、弟子たちの感性とは浅ましいものだなと感じました。

釣崎清隆氏は、『「イノセンス(innocence)」は害悪である。』と以前に仰られていたようですが、それは「無知」や「馬鹿」の意味があるからだと。
わたしは、上記の聖句を読んだとき、弟子たちはまったく無知で馬鹿で阿呆だと感じました。
これを有り難るのであれば、本当に無知で馬鹿です。

釣崎清隆氏は、またインタビューでこうも仰っておられました。

『死体っていうのは、それ以上でもそれ以下でもなくて、要するにブラックボックスだから、見る側の、自分を写す鏡だと思うわけ。
そこに自分を見ているんだと思うんだよ。
だから死体を見ていかがわしいと思う奴は、自分の心が卑しいんだと思う。』

『死体だけを穴が開くまで見ても、何も見えてこないんですよ。
死体っていうのはある意味で、”生きてる人を映す鏡”だと思うんで、人が見て、「気持ち悪い」って思う奴は、「本人が気持ち悪いんだ」っていうね。
なんかそういう風な見方も成り立つんじゃないかなって、最近は思うようになったんですよね。
その時に、その人の人間性が見えてくるっていうか。
死体に対応してやってる人間のそれぞれの対応の仕方っていうのは、非常に何かね、感動的なんですよね。』



人間は「イノセンス(無罪)」が必要なのではなく寧ろ、積み重なり、その重さで底の底まで行くような「罪」が必要なんだと感じました。
イエスという人は多分そういう経験を本当に多く経験してきた人なのだと想います。

そして「罪」が深まれば深まるほど、人間は本質へ近づいて行けるのかもしれません。
それはとんでもなく苦しい道のりであって、深い孤独である必要があると想うのです。

自分はグロテスク表現をずっと遣り続けて、誰からも反応すら貰えなくて、苦しくて孤独でなりませんが、これが「キャー」とか「ワー」とか人々から喜ばれる日には、自分はもう何を遣って行きてゆけばいいのかわからなくなるのかもしれません。

取り留めの無い話になってしまいましたが、人が死や死体を不快に感じることや、グロテスクなものから目を背けようとすることは大変に深いテーマであり、何故、この時代にグロテスク表現がこれほどまでに人々に受け入れられないのかを、もっと深く掘り下げて考察して行けると良いなと感じます。