浦島太郎が、目を開けると、側に乙姫がいて、彼女は静かに言った。
今日から、あなたはわたしの夫であり、わたしはあなたの妻です。
浦島太郎は、乙姫と官能的な蜜月を竜宮城で三千年間過ごしたあと、最悪なものを目撃した。
浦島太郎は我が目と目を疑ったが、三度目に見た時には、もう良いや、と想った。
もう、終わりだ、お終いだ、お開きだ。と想った。
太郎は、激流の涙を流し終えたあと、乙姫に向かって言った。
乙姫は、長い黒髪を鏡の前で櫛で梳かしておった。
「乙姫どの」
乙姫は、愛らしいあどけない顔で振り向き、太郎のぎろぎろとした気色の悪いほどに燃えているような両の目を見つめて答えた。
「太郎さん。どないしはったのですかえ。具合でも悪いのかえ。顔色も悪いし。」
太郎は目をぎゅっと瞑ると黒い血を吐き出すように言った。
「わたしは見たのだ。」
「何を見たのですかえ。」
「そなたが…わたし以外の男と、契っているところをです。」
すると、乙姫は太郎と同じように青褪めた顔になり、ふたりで変な汗をたらたら流し合った。
乙姫は動悸のするなか言った。
「黙っていたことを、本当に申し訳なく想います。わたしはあなたを失いたくなかったので、これまでずっと言えなかったのでございます。あなたの星では、結婚や契りをたった一人の者とすることを決まりとして良いことだと考える人がほとんどであることはわたしは知っておりました。しかしこのわたしの星では、そうではありません。この星では人は何人でも愛せるのです。人は何人とでも結婚できて無限に愛する人と契ることができるのです。愛に制約は一切ありません。あなたの星に、愛に制約をつけることばかり好むことをわたしたちはとても不思議に感じています。わたしはあなた以前に夫が千人以上いますし三万人以上の人と契りました。」
浦島太郎は、実に黒雲が晴れたという顔をして言った。
「実家に帰らせて戴きます。」
乙姫は悲しんでしくしくと泣いた。
「何故泣くのですか。あなたにとって、わたしは特別に愛する存在ではないのに。千人以上いる夫のなかの一人にしか過ぎない。」
乙姫は涙声で言った。
「確かにだれもわたしにとって特別ではありません。わたしはすべての存在を同等に愛しているからです。あなたと結婚し、契りを交わしたのもあなたの遺伝子とわたしの遺伝子が相性が良いことをわたしの潜在記憶が知っていたからです。そうでなければ、あなたをこの星へ連れてくることなどしませんでした。」
浦島太郎はきょろきょろとして言った。
「わたしを乗せて来た亀は何処です?早く用意して来てください。今すぐに、即刻、家へ帰りたくなりました。」
その時であった。
地下の扉が開かれ、巨大な亀型宇宙船が地下からゆっくりと上がってきて、自動ドアが静かに開いた。
浦島太郎は振り向くことなく亀型宇宙船のなかに入り、ドアが閉まるのを待っていた。
だがなかなかドアは閉まる様子がなかった。
乙姫が、地下に降りて四角い金属でできた小箱を持って上がって来て、それを浦島太郎に手渡した。
「なんですか、この箱は。」
浦島太郎がそう訊ねると乙姫は哀しげな顔で言った。
「それはタマテバコという箱です。あなたの魂が入っている箱です。あなたはもともと三つの魂がありましたが、わたしの星に着いたときに一つの魂をこの箱のなかに閉じ込めねばなりませんでした。そうしなくてはこの次元にあなたは適応できなかったからです。」
浦島太郎は驚いたが、返して貰えたことにホッとして応えた。
「そうですか。それでなんだか、夢のなかにずっと暮らしているような心地がいつもしておったのですね。夢から覚めて、わたしは良かった。本当に良かった。これで家に帰ればすぐに箱を開けて、廃人のように生きて独りで死のうと想います。」
「いいえ、その箱は決して開けてはなりません。」
「なんでなのですか。開けたらわたしが発狂するからですか。わたしがショックのあまりに老いぼれるからですか。わたしが絶望のあまりに体内細胞のすべてが死滅するからですか。わたしのアホ過ぎる魂と対面してわたしは堪えきれずに死ぬるからですか。なんでなのですか。なんで開けたら駄目なのですか。」
乙姫は、言葉を探しているようだったが、瞬きを三度すると浦島太郎を見つめて言った。
「その箱のなかの魂は紛れもなく、あなたなのです。あなたはこの、三千年間、ずっと箱のなかに閉じ込められていたのです。そのあなたが、あなたを三千年間、呪い続けてきたからです。箱を開けたなら、呪いの封印は解け、あなたはみずからの呪いを受ける。あなたは最早、生きていることはできません。」
「では何故、これをわたしに持たせるのですか。」
「それはあなただからです。あなたのものであり、あなた自身だからです。もしあなたを此処に置いて帰ると言うならば、わたしはいつか箱を開けたくなるかもしれません。あなたはわたしの愛する夫だからです。」
浦島太郎は笑って言った。
「ははは、口が上手いな。あなたはそんなことを言って、わたしの呪いが怖いのでしょう。わたしの呪いは凄まじ過ぎて、あなたの呪術でも封印し続けることが難しいと想ったからでしょう。もういい。もう聴きたくない。早く故郷へ帰りたい。だれもいない海辺で酒とドラッグをキメて早く寝続けて早く死にたい。早く竜宮城から離れて、早くあなたのことを忘れたい。海月になって太陽に溶かされたい。もう何も考えたくない。わたしは終わった。今すぐにこの玉手箱を開けて自分の玉のすべてを封じ込めて鯛になって蛸と烏賊に迎えに来てもらって木筒を叩きたい。じぶんがなにをいってるのかもうわからない。酢を飲んで血を吐きたい。雷に打たれてところてんをケツから出産したい。ミニバケツを頭に被って瓢箪を腹に巻きたい。そして巻き簾を食べたい。ブリキ缶のささくれに肘を擦って血を流したい。水と泥で新しい常世の国を創りたい。乾燥素麺を一ミリ単位に切ってそれを砂浜に全く同じ間隔で綺麗に立てて並べたい。あなたと最後にキスしたい。そしてあなたと永遠に絶縁したい。」
そう言い終わると浦島太郎は涙を流しながら乙姫と口付けを交わし、玉手箱を右の小脇に抱えて亀型宇宙船に乗って地球に帰った。
はたして浦島太郎は、故郷へ無事に帰って来れた。
だれもいなかった。
なんの生命も、生きていなかった。
辺りは灰の山に囲まれ、灰の海と川が音もなく流れ、灰の地は、底がないように想われた。
それもそのはず、この星は、浦島太郎が発ったあと、五十万年がとこら過ぎていた。
だれもなにも、生きていない星に、浦島太郎は独りで帰って来た。
浦島太郎は、渇いた声で笑った。
「ははは。」
玉手箱の紐を解き、蓋を開けた。
そして、中を覗いた。
するとそこに、自分の顔が無限に映っていた。
中は鏡張りだった。
蓋の内側も鏡でできており、蓋を閉めると六面鏡が合わせ鏡となる。
浦島太郎は、すべての悲しみを封じるかのように深い深い息をそのなかに吐くと蓋を閉め、紐で硬く結び、目を閉じた。

夢のなかで、乙姫が哀しげに微笑んでじぶんに向かって言った。

「わたしはあなたをしか、愛せないのです。」