街角の暗闇は、彼と彼女を非存在と存在に分けようとは想っていなかっただろう。
薄い闇と薄い光が彼らの影を退屈そうに撫でるときでさえ、初夏の肌寒い夜気が彼らを哀しいばかりの過去から切り離そうとしているかのようだった。
彼は夜露に濡れそぼった墓碑のようにそこにじっと俯いて突っ立っていたが、やがて現れた彼女の匂いを嗅いで現実からまどろみの夢に目覚めるように目を開けた。
彼女は、酷く疲れている様子を隠すことなく、罅割れ、枯れた薔薇のような色の唇をうっすらと開いてかすれて震えた声を発した。
「いつから、此処で待ってたの?」
彼女は見上げ、彼の喉を見つめていた。青白い皮膚に透けて、そこにまるで小さな彼が胎児の様子で眠っているのを感じた。
彼は確かにあの夜、彼女に自分が告げたことを今初めて想いだしたかのように想いだした。
彼は激しく心のなかだけで狼狽え、恥辱のなかに言葉を喪ってただただ彼女に静かにその存在をみまもられていた。
彼女は、彼の元気に躍動する喉元を見つめたままつづけて言った。
「ごめんなさい。すこし遅れてしまったわね。ほんとうはもっと早く来ようと想ってたの。でも店の後片付けを任されてしまって、遅くなってしまったの。」
彼は彼女の口から発せられる闇の細い空洞に突き刺された白く光るちいさなアマナの花と茎のような可憐な破壊的音色がこのあともずっとつづけられるだろうと想い目を瞑ったまま耳をじっと澄ましていた。
だが、それ以上、何も聴こえてはこなかった。
彼はそっと目を開け、視線を落として右の黒い叢を見つめながら言った。
「多分…一時間とちょっと前くらいかな。」
彼女はほんのちいさく、まるで雀がげっぷするみたいな声で溜め息を吐いた。
そしてほんとうにさり気なく、生温く湿った風が纏わりつくように彼の左手に右手を絡ませて囁いた。
「…ねえ、ここはとっても暗くて、何かを…まるで待っているみたいだわ。ほかの、もう少しあかるい場所へ行きましょうよ。」
彼は圧倒され、なにひとつ自身を動かすことができなかった。
そのあいだ、彼の脳内では様々な色の輝きが点滅のあとに爆発し、歓喜の雄叫びを挙げながら全細胞たちが狂って幼稚で野蛮なダンスパーティーを始めていたが彼はそこへ参加することができなかった。
何故なら、この瞬間、彼は経験したことのない言い知れぬ悲しみに打ちひしがれていて涙を流していたからだった。
彼女は混乱のなか、硬直し項垂れている彼の手を引っ張ってすこし歩き、ちいさな街灯の下まで行ってそこで彼を見上げてぎょっとした。
背筋がぞっとするほどの不気味さで彼が彼女を見つめて薄笑いしていたからだった。
しかも彼の両の頬は濡れており、さっきまでひっそりと泣いていたことがわかったのだ。
彼女は、何を言ってやればいいのかわからず、何かを言う代わりに(それは大変、面倒であった為に)そっと彼を抱き締めた。
ちょうど彼の臍の上あたりに、背を丸めた彼女のちいさな頭が押さえつけられ、彼女もまた、よくわからない不安のなかに震えていた。
それで、そのまま何分が過ぎようとも彼はその状態のまま何も変わらなかったので彼女は痺れを切らしてとうとう顔を彼のあたたかい腹から引き剥がして、すこし痰の詰まった声で吐き捨てるように言った。
「ねえ、ここからすこし歩いたところにわたしの部屋があるの。そこへ行って、お酒でも飲みましょうよ。音楽でも聴きながら…。ここは暗くて、すこし肌寒いわ。」
彼は、いまだ打ちひしがれており、なにをどうするべきかわからなかった。
何故なら、すべてが彼のなかで初めての経験であり、彼はどうすれば彼女を喜ばせられるか、それは根源的な意味のなかで女性に対する正しい、まったく神に背きはしない行為として、どうすれば彼女の意に適うものとして自分の行動が許されたものとして、それを移すことができるのか、今、彼のなかで混沌としたその何本もの発情した雄と雌の蛇の群れが彼の全身を巻きつけて締めつけ、立っていることでさえ限界に来ていたからだった。
彼女は、酸いも甘いも噛んで味わって知り分けてきた40歳を超えた女であり、彼はまだ未経験の18歳の男だった。
人間の想像し得るすべてのあらゆる悲劇が、彼と彼女を襲うことは起きなかった。
だが彼と彼女は、いつでもそれについて話した。
即ち、“まだ見ぬ人類(わたしたちの)の悲劇”について、彼と彼女はいつも楽しそうに話していた。
それは彼女の胎内で眠るときの彼が、ひっそりと今のわたしに教えてくれたことである。