ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

啓示

生まれて初めて、自殺映像を、わたしは観た。

今日の午前3時過ぎ、わたしは人生で初めて、人の自殺映像を観た。
何度と、iPhoneで再生させ、speedを一番遅くさせても、何度も再生し、わたしが6歳の頃に、この地上に生まれ、わたしと同じこの世界を生きてきて、同じ時間に、色んなことを考え、悩み、喜んでは悲しみ、苦しみ続けてきた彼のとても優しい顔が、吹き飛んで、砕け、真っ赤な、血の肉の顔、死となるその現実の瞬間を、わたしは繰り返し観た。





米ミシシッピ州ニュー・アルバニーで先月(8月)31日、イラク戦争の退役軍人であるロニー・マクナットさん(33)が自宅でショットガン自殺した。
ロニーさんは自殺の様子をFacebookで生配信し、このときの映像は現在、海外の過激ニュースサイト「BestGore」で見ることができる。

 自宅の机の前に座ったロニーさんが、スマートフォンを机の上に置いた直後、自らの顔に銃口を向けた。
次の瞬間、銃声が鳴り響き、ロニーさんの頭は木っ端微塵に吹き飛んだ。
崩壊した顔面からは皮膚や肉が垂れ下がり、大量の血が滴っている。
音を聞きつけて、部屋の奥から小さな犬がやって来た。
この犬はきっと、ひじ掛けにもたれかかっている飼い主が既に息絶えていることを知らないのだろう。
自殺の瞬間はわずか数秒だが、一度見たら決して忘れられない衝撃的な映像である。

 ロニーさんは、イラク戦争から帰国した後、うつ病と心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいたという。
最近職を失った上にガールフレンドとも別れたことが自殺の原因だという報道もあるが、真偽は定かではない。

 友人のジョシュア・スティーンさんは、自殺直前のロニーさんは「信じられないほど酔っていました」と語り、そもそも配信を始めたときは自殺するつもりがなかったのではないかと考える。
スティーンさんは、配信が始まってから、ロニーさんにメッセージを送信したり、電話をかけたりした後、警察にも連絡したという。
しかし、自殺を阻止しようとする懸命の試みは奏功しなかった。







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実際に、人の自殺映像を観たのは、人生で初めての経験だったが、わたしのなかにとても強い既視感があった。
わたしは、わたしの過去生をもしかしたら観たのかも知れない。
奇しくも、「至近距離から、ショットガンなどの破壊力の強い銃で顔面を、とにかく何発も撃ちまくったら、きっとこうなるだろうと想像できる顔面の原形を全く留めてはいない、ほんの少し、頭部を仰け反らせるようにして椅子に座って死んでいる女性の死体の鮮やかなカラー写真」を97,8年に観たわたしの一番の死体写真としてのトラウマを創作のなかで表現し、それを切っ掛けにわたしがみずからのトラウマである死体写真や、スナッフフィルムなどを見つめて行こうとすることを決意したのが、彼の自殺した4日後の、9月4日だった。






Ronnie McNutt3






彼の、生前のあまりにも優しげな顔の写真を保存し、少し見つめたのち、椅子から立ち上がった。
昨日からいつもより精神が不安定で抑肝散ばかり飲んでいたが、またも飲んで、わたしは切実に救いを求めるなか毛布のなかに動悸の続く身体を横たえて潜り込み、眠りに就いた。
4,5時間、わたしは眠り続けた。
悪夢を見た記憶はなく、寧ろ、彼の魂やわたしの守護霊たちなどから心配されているかのような、深い愛の安らぎの感覚のなかにわたしは目覚めたのだった。

それで、わたしはずっと目が覚めてから彼が、ショットガン自殺をライヴ配信した理由について、考えていた。
ロニー・マクナット(Ronnie McNutt)氏が、敢えて破壊力の凄まじいショットガンによって、みずからの顔を粉砕させて自殺し、その映像をライヴ配信した理由について、人々は、何も深刻に考えようとせずに、とにかくトラウマとなるから人に見るなと注意を拡散したり、早く削除するようにと要請したり、観たくないものを観てしまったと後悔したりしている。
人々は、気付いている筈なのに、気付いていない振りをしている。
残酷なことから、目を背け続けていても、残酷なことはこの世界から一向に、なくなっては行かないのだということに。
ロニー・マクナット氏が、戦場で一体、何を見て、どんな経験をして帰ってきて、彼が独りでずっと苦しみ続けてきたのか、わたしたちはわからない。
でも彼のその経験と、彼の自殺の方法が、深く関係しているかもしれない。
そして彼の苦しみと、わたし自身の苦しみは、離れているものではないのかもしれない。
わたしは2012年から、ずっとずっとこの世の本物の、終わらない地獄に対して、人々に訴え続けてきた。
それは、人間が、利己的な理由によって動物たちを大量に殺戮せしめ、自分の利己的欲望(家畜は皆、美味しい肉にするだけの為に、生きたまま解体されてから惨殺される)を満足させる為だけに、動物たちを地獄に突き落とし続けても、それが人間は元来、野蛮な生き物なのだから仕方ないと、或る意味、"正しい"ことなのだと嘯き続けているこの現実に対して、わたしはずっとずっと、訴え続けてきた。
その行為は、必ずや"自分自身"に、すべての人類に、返って来るのだと。
彼は、戦場で人を殺してしまったのかも知れない。
自分の罪の重さに、もはや堪えられなかったのかもしれない。
彼は、自分が撃った兵器によって、顔が砕け散って、醜い肉塊と化して死んでいる人の死体を、見てしまったのかもしれない。
彼は、自分が安らかに死ぬべきではないのだと、願っていたかも知れない。
自分の顔を、無惨に撃ち砕いてグロテスクな死体と、その、無念さを、人々に見せしめることによって、彼は自分の絶望と、自分の堪え難い苦痛と、この世界にある、暴力と殺戮の残酷さを、そこにある虚しさを、支配している虚無を、訴えたかったのかも知れない。
こんなにも悲惨で、虚しい”悪”はあるかと。
職が、人を殺す以外の、僕の仕事が、僕の遣るべき仕事が、他にあったならば、僕は殺さなくてもよかったはずだと。
屠殺人も、同じことを想うかも知れない。
他の仕事を、本当は与えて貰いたかったのだと。
殺す以外の、自分の仕事を。
どうか彼の、割れて砕けて、見るに堪えない肉の塊となったその顔から垂れる真っ赤な肉から床に滴り落ちつづける音を静かに聴きながら、想像してみてほしい。
これが、"誇り"だと信じられた仕事をしてきた人間の、最期に相応しい姿なのか。
動物を殺す仕事も人間を殺す仕事も、"何か"から、それを"誇る"べきだと、信じ込まされ続けている。
これは、一番に、人間をマインドコントロールすることのできる簡単な常套手段であり、この世界のほとんどの人が、それを、賞賛しながら、同時に、差別し続けている。
"殺す"という仕事に就いてきた人間を。
人々は、潜在意識に罪悪を感じながらも、彼らに感謝する。
あなたが殺してくれたから、わたしの”悦び”があるのだと。
肉を食べながら、人は屠殺した人間に感謝し、いざ、屠殺した人間がその苦しみの末に自殺したとき、人はその現実から、目を背け、顔を歪めて想う。
嗚呼、なんて醜い肉(死体)だろう...。
これがわたしと同じように、つい最近まで生きていた人間の姿だなんて...。
観たくないものを観てしまった...。
彼は、自分の仕事に誇りを持ってるのだと言っていたはずだが...。
そうだ、彼は、こう話していた。
自分が、人々の遣りたくはない、できない仕事をしているから、人々は、美味しい肉を食べられて、幸せを感じられるのだと。
この仕事に、誇りを持って、ずっと遣ってきたと。
でも彼は、その後、屠殺業を辞め、鬱病と心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされていたなんて、知らなかった。
わたしは、それを、知らなかった。
彼は、もう二度と、動物を殺す職業には就きたくないと、
生きてゆきたいのだと、自分に目で必死に訴えて来て、請い願う生命を、もう自分の手で殺したくはないのだと話していたことも。
わたしは、知らなかった。
わたしは、想像もできなかった。
わたしは、彼の苦しみに、無関心だった。
わたしは、わたしは、知らなかった。
殺し続ける行為が、どれほど人を、破壊するかということを。
その殺された死体の肉の塊が、どれほど彼に対して、その地獄をずっとずっとずっと、訴え続けて来たかということを。
























Mince

死体をミンチ状にしたことって、経験ある?
どうしたの。突然…。
マグロとかさ、たたきにしたことある?俎板の上で。
あるかな…。記憶に無いけど…。
そういう感じにさ、人間の顔面をミンチ状にしたいなって想ったことある?
…ないよ。
そう…。可笑しいね。僕もないけど、見たんだ。
何を?
今朝、見たんだ。女性の顔を、ミンチ状にする夢を。
またえらい悪夢見たね…。
貴方の撮った死体写真の影響だよ。
そうか…。
最初は、大きなシャベルで切断して、細かく切り刻んでゆくんだ。
仰向けになっている女性の顔を。
夢のなかだから、なんでもありで、上手く切断できるんだよね。
でもそのあと、ミンチ状にするっていう工程なんだ。
彼女の頭部はさ、最初からミンチ状になるっていう決まりがあって、人類の大半が、それを認めてるんだ。
彼女の顔はさ、最初からミンチ状になる為に、存在していたものだし、彼女の顔面はミンチ状になる為に、ずっとその顔が、そこに存在していたって事なんだよ。
ツリが撮った死体写真もさ、ミンチ状まで行かないとしても、それに近い状態のものがあったじゃん。
そうだね。
その人たちもさ、そうなる未来が、決まっていたんだよ。
肉の塊、ブロックやたたき、その違いがあるだけでさ、人間が調理して食べる肉と同じようなものにさ、最期はなるために、その顔が、その身体が、その肉があったんだよ。
でも誰も食べないでしょ…。
いや、食べるんだよ。
誰が?
遺された人間たち。遺された者たちがさ、食べるんだ。食べやすいためにさ、ほら、よく死体写真にもモザイクがかけられてるんじゃん。屠殺場の映像と同じにさ、見せたくないんでしょ。グロすぎるって言ってさ。同じだよ。神聖で穢されるべきものじゃないからモザイクかけるんじゃないんだ。ひたすらグロくて、不快で、人間が精神病まないで生きてくためにさ、見せるべきじゃないって魂が死んでる人たちがさあ、想うからだよね。
人間の顔だってさ、マグロのたたきや牛や豚や鶏のミンチ(挽肉)と変わりないでしょ。
何の為に存在してるの?マグロのたたきや牛や豚や鶏のミンチ(挽肉)を美味いっつって何とも想わずに食べてきた人間の顔がさ、何の為に存在してるの?
同じものでできてるのにね。死体喰い続けて来た人間がさ、生きてるなんてほざいてさ、生きてるわけないのにね。
生きてないからさ。最初から生きてなんていないのわかってたからさ、ミンチにしてやったんだ。僕が彼女の顔を。
まだ生きてる間にしただろってさ、非難受ける筋合いなんてないよ。
ミンチの顔の人間たちにさ。
手前ら、死ねじゃなくって、生きろよって(笑)生きてから非難しろよ。
で、僕の顔、今日ビデオに撮ってさ、Instagramに投稿したんだけどさ、ミンチ状になってんの(笑)僕の顔がさあ。
それで想いだしたんだ。嗚呼、そうだった。僕、散々ハンバーグとか、餃子とか、つみれとか、メンチカツとか、麻婆豆腐とかさ(笑)喰って来たじゃんって。それ全部、僕が僕の顔をミンチ状にしたやつだった!って想いだして、僕の顔が存在してるわけないってやっとわかったんだ。
そうだよ、時間が無いんだから、この世界は本当は。すべて、僕の食べてきた肉は僕の死体だったし、僕は一生懸命に、自分の食べる死体の為に、僕の顔を切断し、細かく切り刻んで、砕いてたんだ!
毎日、毎日、毎日…!
おぞましい、腐乱死体の姿で。
自分自身の顔をミンチ状にするその行為を延々と、繰り返し続けるんだ。
すべての、死体を食べ続ける人類のように。


























右手

人が、雑誌を読んでいて、ページをめくる。
おや?なんだろう...この写真は。
道端に落ちて踏み潰された生の手羽先かな...?
すると次のページには、その写真をズームアウトした本来の姿が映し出され、人は、あっ、と声に出して驚く。
人間の右手ではないか...。

人はその時、不快な感覚を覚えないでいることはできない。
そして、ふと思い出す。
そういや昨夜、手羽先食べたんだ。
この交通事故で亡くなった女性から千切れた、黄色みがかった脂肪や腱と白い骨の見える切断面の右手にそっくりな手羽先を...。

人は、思うのだった。
嗚呼、夜の道に、生の手羽先開いたものを置いてたら、人は、ドキッとするだろう。
これは人間の肉片ではないよな...と。
恐ろしいが、人は、それがなんであるかを確かめたいので、近づいてよく観ることだろう。
しかしどんなに近付いても、それが人間の死体の一部なのか、動物の死体の一部なのか、わからないだろう。
何故なら、その二つは、切り取られた場合、見分けが全くつかないものだからだ。
人は、気になるため、警察に電話し、こう言うだろう。
あのぉ...実はわたしの目の前に、道端に、人間の肉片らしきものが転がっているのですが...。
警察が遣ってきて、肉片を拾って、人にこう言う。
「"何の"肉か、検視の結果が出ましたら、改めて御連絡致します。」
翌日、電話が掛かってくる。
「検視の結果が出ました。あの肉片は、鶏の"死体"でした。どうやらあの近くで飼われていたクックたんという名の、雌鶏の死体の右の前肢(翼)の部分であるようです。誰かのいたずらでしょう。御協力、ありがとうございました。」
人は、受話器を置いたあと、あてどない悲しみを感じないではいられない。
クックたん...殺されたのか...。なんて酷いことをする人間だろう...。
嗚呼、お腹が空いた…。なんか食べよう。そうだ、チルドに入れたままの手羽先...忘れてた。あれ早く、食べないと...。
人はそれをフライパンで焼き始めたが、胃液が込み上げてくるのだった。
嗚呼、よりによって何故、わたしは手羽先を今から食べなくてはならないのか...。
一体、何の罪で、わたしは今から手羽先を食べなくてはならないのか。
クックたんが虐待され、生きたまま解体されたあと惨殺され、その死体が、スーパーに並べられ、わたしがその死体を買って、わたしが今、クックたんの死体を焼いて食べようとしているのだ。
人間の死体とそっくりで、見分けることさえできなかったクックたんの死体を、わたしは今から何故、食べなくてはならないのか...?
クックたんは、実際、どのように殺害されたかを、わたしは知らないが、クックたんは殺される直前まで、きっと鳴いていたのだろう。
クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック...
嗚呼、そして...そして...何が起きたのだ...その次の瞬間...
人は気づけば、外に飛び出していた。
真夜中の道路、涙で、視界がぼやけていた。
人は何を想ったのか、咄嗟に、道路を渡ろうとした。
人は、スピード狂の車に激しく跳ねられ、轢き潰され、千切れた右の手首が30m先に飛んで、道端に落ちた。
その場所は、クックたんの殺害現場であった。
人が、そこを通り掛かった。
その落ちている肉片を観て、人は思った。
これは、鶏か...。
何故なら、それが、ずっと、ずっと、クック、クック、クック...と悲しげに鳴き続けていたからだった。


























人類の拷問の地獄は、決して終わらない







僕の親愛なる友、春馬へ






この「TWO WEEKS」という昨年の作品が、三浦春馬、春馬、君にとって、君の主演のドラマ作品としての最後の作品、遺作となったのは、深い理由があるはずだ。
何故...何故、君は死んでしまったのだろうと、始終胸を苦しませながらこのドラマ作品を僕は一昨日から最後まで間に三時間ほどの仮眠を入れて一気に観た。
そして悲しみに疲れて眠り、目が覚めて毛布にくるまれながら横になって今これを携帯で打っている。
春馬、僕は2006年、25歳の僕が「14歳の母」を観ていたとき、君に仄かな恋心を持って観ていたことを想いだしたよ。
君は僕の9歳年下だ。
僕は確かにあの頃、君に仄かに恋をしていた。その理由が、今、僕はわかった気がするよ。
君は僕と、良く似ているんだ。
魂の根源、本質的なものが。
君が十年前に寺脇康文と話していた対談を一昨日に観たときに、僕は気づいた。
僕らは...とても、とても、とても、その深層部分が、その心髄のような場所が、深く、深く、深く、闇(空虚)なんだ。
だからどんなに信頼する人と話をしていても、家族と話をしていても、いつでも、意識は自分のその場所をもう一人の自分が、眺め、観つづけていて、どんなに笑っても、泣いても、感謝をしても、心の底では、虚しくて、悲しくて、寂しくて堪らないんだ。
自分でそれを良くわかっている。
だからずっとずっと、僕らは独りだったし、苦しかった。
ユーモアセンスがないということにも、真面目過ぎるということにも苦しんできたね。
人と話すのが、だからとてもつらくて、苦手なんだ。いつでも、自分の意識していない部分でもすごく無理をしなくては人と話せない。人の目を見れない。笑うことが、できない。
いつだって人の話に、自分の話に、集中できない。
いつも、自分のなかに存在し続ける真っ暗な闇が、その空っぽの真っ白な穴が、自分を見つめつづけているから。
苦しいよ...僕もずっと。生きているだけで苦しくてしょうがない。
でも僕は、君と大きな決定的な違いがある。
僕は、親の愛を、信じている。
でも君は、違った。
君は、君のなかには、僕のなかに在りつづける親からの愛と親への愛という本当の光、本物の希望が、なかった。
君は、今まで良く、堪えて、強く生きてこれたな...
自分が、何処にもいなかったのに。それをずっと、繊細な君はわかってたのに。
でも、君の苦しみに比べたら僕の苦しみなんて...って、僕はちっとも想わないけどね。
僕はそれでも毎日身を引き裂かれるような感覚のなかに今も苦しみつづけているから。
でも僕がそれでも光を見喪わずに生きて行けるのは、僕のなかには確かな親の愛が生きつづけているからなんだ。
春馬、僕は君を必ず救いに行く。
いや、今、命を懸けて約束しているんだ、君に。
僕は必ず、死のなかから、すべての存在を救う。
そこに、いま君の魂はいるが、君は、僕だ。
それを僕は知っているから。
君が死につづけるということは、僕が死につづけるということだ。
君が、死のなかに、いつづけるということは、僕が、この死のなかに、いつづけるということだ。
僕は必ず、絶対に、この命を懸けて、すべての死のなかにいる存在を救うよ。
その為ならば、あらゆる幸福を犠牲にしてやろう。喜んで、今以上の孤独と苦しみと悲しみを求める。
僕らは死に支配されていると、春馬、君は想うか?
違うよ。僕が、死を支配しているんだ。
そして君も、本当はね、死を支配しているんだよ。
でもその力を発揮する能力を、僕らが使いこなせるようになる為には、一体どれほどの絶望と、みずからの闇と向き合いつづけなくてはならない苦しくて堪え難い時間が、必要だと想う?
僕は本当に寂しくて堪らない。
もうこの世界には、僕を愛している存在は存在していないことを僕は知っているからね。
僕は4歳で母を、22歳で最愛の父を喪った。
来月で39歳になる。僕はこの世界に対しては、本当に絶望している。
何故なら、僕は愛されてはいないんだ。誰にもね。
この地球上には、だれひとり、僕を本当の愛で愛することのできる存在はいない。
僕は散々、母の記憶がない僕にとって、父が、僕のすべてであったのだと人々に話してきたが、本当の意味で、それを真に理解し、共鳴する人はほぼいない。
僕のこの絶望を、本当のところでみんなわからないんだ。
僕は最も愛するぼくのすべてであるお父さんが死んだときに、僕も共に死んだ。
だから君と同じ、僕は同じ、死のなかに生きているんだ。
ずっといま君がいるそこでね、僕は生きてきたし、これからも、生きてゆく。
僕の命も、この人生も、長くないのかな。
春馬は知ってた?信じられないほど、今、この星は最悪な時代、最悪な”その時”に向かって、猛スピードで、爆走している時代なんだぜ。
早くて、数十年以内、もうこの地球上は、もうどの生命も、絶滅するかもしれない。
1万5000人以上の科学者たちが、人類は今すぐにでも「植物中心の食事(つまりヴィーガンかベジタリアン)」へと移行せねば、この地球は第六の大量絶滅を免れないともう何年も前から人類に向けて警告し続けているのにも関わらず、ほとんどの人たちは、それに無関心さ。(検索ワード「地球への脅威はるかに悪化、科学者1万5000人による「人類への警告」
人類があまりに、愚かに、身勝手に、愛の喪われた虚無のなかに、生きてきた結果、この地球という星はまた一に、戻るかもしれないんだ。
本当に、間に合わないのならば、また最初から遣り直しさ、またこの星に人類が誕生するまでには、何十億年と、かかるかもしれない。
後悔しても、もう遅いんだよ...。
春馬...それは、君という大切で、絶対に、死んではならないという存在が、死んでしまったという事実、現象、この一つの悲劇である現実として、変えることはできないということだよ。
どれほど、いま君がその死の闇のなかで、ひとりで苦しみつづけているか、僕はわからない。
でも僕は確かに君に約束をした。
すべての、僕の幸福を喪ってでも、僕は必ず君を救う。
僕の絶望は終わらない。
春馬、君はさ、愛する”君の娘”である彼女のもとに、戻るつもりはないんだろう?
君は"彼"とのカルマを、すぐに清算することはできない。
何十回と輪廻転生を繰り返しても、多分、足らないだろう。
"それ"は恐ろしいほどに、深いものなんだ...
それを清算するまえに最愛の彼女のもとに戻るならば、つまり、彼女との幸福を手に入れようとするならば、彼女を、あらゆる危機にさらすだろう。
君はそれを決して許さない。
だから君にとってのこの作品は、君が今いるその世界、"天国"から、寂しそうに、彼女(のいるこちらの世界)を振り返るシーンで終る。
今、僕は泣いている。
君は、気の遠くなるほどの時間、永遠に感じるほどの時間、きっと彼女のもとへは戻らないだろう。
彼と、本当の決着(結着)を着けるまではね。
君の今のその苦しみには、勿論、終りがある。
だが生命は、みずから、更なる深さを、追い求めつづける。
それが生命である僕らという、すべての光の存在なんだ。
僕らはすべて、永遠に、生きつづける。
時間の存在しない世界で。
その愛と光による、孤独と、苦痛と、その悲しみに、終り(果て)はない。
春馬、君は、今も、生きているんだ。
眼には見えない世界で。








8月8日追記:
今日、春馬が僕の夢に出てきました。
彼は僕に向かって何気ない顔でこんなことを言いました。
「きみが何処で何をしてて、どんな服が今欲しいと想っているか、ぼくにはすべて観えているんだよ。」
僕は夢のなかでは、マジ?って顔で吃驚していたけれども、夢から覚めて、色々考えている。

もしかしたら君は、”だれか”を助けるために、そっちに行ったのか?

それとも、僕の願いが、君の姿になって現れたのかな。

君は僕の内と外で、生きているんだね。








8月18日追記:
昨日から、「条件付きの愛 劣等感」、「条件付きの愛 完璧主義」等で検索して、色んなことを考えていました。
自分の、本質的なところに、空虚で、透明な感覚がいつまでも抜け落ちないのは、わたしが親から、条件付きの愛でしか、愛されてはいないのだと、わたし自身が感じて来たからなのではないかと。
わたしが4歳9ヶ月の時に他界した母は、敬虔なエホバの証人だった。
家族のなかで唯一人、忠実なクリスチャンであった母は、一体どれほどの厳しい躾のなかで、わたしを育てたかを、わたしは記憶にない。
父から聴いた話では母からも、剥き出し(裸)の尻を皮の鞭で何度と叩かれるという躾を行われていたという。
わたしは泣きながらそのなか、絶叫し続けていた。
その厳格な躾も、今のわたしの何をしても拭えない劣等感や完璧主義と関係しているだろうか。

そしてこの躾(教育)は、わたしの未だ続いている離人症的苦しみ(現実離れの感覚)や、底がないと感じるほどの空虚感に、関係しているのだろうか。
容姿端麗の両親の間に生まれたわたしは、母がわたしの新生児時代の醜さを嘆く日記を母の死後、数年後に読む前から、それを察していたことだろう。
「じぶんは、可愛くないからという理由で、実の母からも、愛されないのか。」つまり条件付きでしか、愛されないのだというこの感覚が、いまもわたしを苦しめ続けているのか。
僕は小学校5,6年時、学年で一番可愛いと言われていた。
そうにも関わらず、自分の鏡を観るたびに、自分の顔が、いつも気に入らなかった。
自分の容姿に、常に劣等感を持ち続けて生きてきた。
どれほど、他人から褒められようが、自分はそうは想えない。

この苦しい感覚を、僕以上に、春馬はずっとずっと感じて生きてきたんじゃないか。
どれほど、周りから才能があると言われても、自分のなかの空虚さが薄れることがない。

この”渇き”が、一滴たりとも、癒えることがない。
何故ならこの渇きを癒せるのは実の親であることを、わかっていたからではないか。

”真の親”とは、何がどうなろうと、変わらぬ愛で愛してくれる存在である。
わたしは、親の愛を信じていると同時に、”闇”のなかに生きているのは何故か。
そのひとつの原因を、「条件付きの愛でしか愛されていない」というみずからの感覚にあるのだと、わたしはわかっていたことに、改めて気付かされた。

きみに、足りないものは何なのかなんて、考えない。
きみに、足りないものなんてない。

ダムを想像して欲しい。
溢れる水が堰き止められねば、甚大な被害を被る。
でもこのダムを造ることができるのはだれなのか。
ダムを造ることの被害については、だれが被るのか。
僕が言いたいのは、人々の苦しみと悲しみには、”限界(limit )”が在るということ。
他者の限界値に気づけないのはみずからの限界値を、”決壊”させても平気でいられる”こころ”として、生きてしまっているからかもしれないということを。








8月19日:追記
”愛”とは、なんなのだろう?
ほんとうにたくさんの人たちが、三浦春馬という一人の男の子が自分の命を殺してしまったということに、ショックを受け、嘆き、悲しみ、深い無念さや虚しさを感じている。
でもその”愛”とは、”条件付きの愛”なのだろうか?
それとも、何の条件も付けない、”無条件の愛”、本当の、”無償の愛”なのだろうか。
僕は彼の魂が、こう今も悲しんでいるように感じている。

ぼくが、容姿がほんとうに醜くて、だれひとりにも好かれない人間で、性格も、気持ち悪くて、気味が悪くて、奇妙な、だれにも理解されない気色の悪い趣味を持っていて、ほんとうに、何の才能もなくて、いつもうじうじとしていて、だれにも優しくなくて、何の想い遣りもなくて、引きこもりで、国の税金でお酒を飲んで生きていて、なにひとつ、なにひとつ、良いところがない人間だったとしても、ぼくはだれかに、こんなふうに、惜しまれたのかな…。

きみは…どう想う…?








8月20日追記:
『私がある人を条件付きではなく愛するとは、たとえその人がどのような人であろうとも、私はその人の存在を承認し、肯定し、祝福するということだ。たとえその人が私の望んだような人間ではなくても、たとえその人が私の枠組みを破壊するような存在であったとしても、たとえその人が私のいまの快適な生活や人生を根底から崩すような存在であったとしても、私はその人の存在を承認し、肯定し、祝福するということだ。いくら私がつらくなり、苦しみ、声を上げて叫びそうになったとしても、私はけっして目の前にいるその人から一方的に逃げたりしないし、どこかへ閉じこめたりしないし、存在を抹消したりしないということだ。「条件付きではない愛」とは、大切な人に対して、このような態度を貫くことである。』
『無痛文明論』森岡 正博著 P62より

僕たちはどれほど、人を”条件付きではない愛”によって、愛しているのだろうか?
そしてどれほどの人から、その愛によって、愛されているのだろうか?
僕は三浦春馬という一人の存在が、死のときも今も、自分と他者にそれを訴えているように感じる。
繊細で優しい者たちが次々とみずから命を絶ってゆくこの世界で、遺された僕らは、その愛によって人を愛し、愛されているのだろうか。
何かがおかしい…
人はどれほど苦しくとも、自分という一人の人間を殺してはならない。
でも人がいつまでも条件付きの愛でしか他者と、そして自分を、愛せてはいないことに気づかないままに生きて死ぬことで、一体、僕らは誰を犠牲にしてきたのかということを、深刻に考えることもなく、死んで良いことにはならない。

僕らは、春馬の尊き犠牲によって、”自分自身”を、どのように変化させてゆけるのだろうか?
どのように、自分と他者を愛して、死ねるのだろうか。








8月22日追記:
『(相手が)私に、なにかの「幻想」を貼り付けていた場合、私は愛を失うのを恐れるあまり、必死になって自分をその幻想に合わせようとするだろう。自分を相手の幻想に合わせることによって、相手のお気に入りとなり、相手が要求する条件をクリアーでき、愛を握りしめておくことができると考えるだろう。
しかしながら、実際にそれをつづけていったとしよう。そのうちに、相手の幻想を演じている自分と、自分にいちばんぴったりくる自分とのあいだのギャップが、どうしようもなく開いてくる。しかし、愛を失うことがいちばん恐いのだから、私は相手の幻想を演じる自分のほうにこの私を重ねていこうとする。そうやって、自分にいちばんぴったりとくる自分を殺していく。
するとどうなるか。私は自分が自分であるというリアリティを徐々に失っていくのだ。この私が自分の人生を生きているのだ。という充実感がしだいに失われていき、ロボットのようになる。私は私だが、私ではない。私は嘘の人生を生きることになる。』
『無痛文明論』森岡 正博著 P84より

芸能界はまるで、人々の『幻想』の掃き溜めのようだ。
芸能人はいつまで人々のつまらぬ幻想のなかで生きなければならないのか。
何故、芸能人は、自分の至らない部分や醜い部分を少しでも曝け出すと、たちまちに嫌われ、誹謗中傷を受け続け、まるで「言葉の殺人凶器」のような恐ろしい非難を受け続けねばならないのだろう?
一人の俳優の弱さや受け容れたくはない要素を、これでもかと言わんばかりに否定する人々たちのなかで、彼らは自分を殺しつづけ、人々の幻想のなかに生きてゆくしかないのか。
僕は正直に言うと、三浦春馬の演技力や容姿の美については、そこまで評価していない。
僕は彼のファンだったわけではない。
目くじら立てて、此処が駄目だとか、何かに付けてダメ出しの評価もしてこなかった。
僕は彼は、まだまだこれからなんだと想っていた。(彼は作品に恵まれていないと感じて、僕が心から観たいと想える作品に彼が出演していなかったことも理由である。)
それでも彼は怪優と言われる岸田森や、三國連太郎のような俳優にこれから成る素質があったかもしれない。
だが俳優のなかで、ほんの少数がそういった俳優になれる世界で、人々の評価が、どういうところで一人の俳優を絶望させてしまうのか。

僕らは一人の俳優を、弱い部分も醜い部分もあるだろう一人の人間として、みずからの「幻想」を捨て去って、静かに見つめる必要があるのではないだろうか?
そしてそれはすべての人間と、”自分自身”に対しての幻想を、どのように剥がして、”無条件の愛”に向けて愛してゆけるのかという課題に、だれもが真剣になる必要があるのだと、僕は改めて想う。































人間は絶望のなかで死んでゆく

ぼくは目覚め、ヴィーガンになってから、大変に複雑で矛盾した想いに駆られ続けている。
ぼくはこの苦しみを誰かにわかってもらいたいと感じる。
だが、ほとんどの人は多分、これを理解はできないだろう。
ぼくがヴィーガンになったのは、ひとつの長いとても現実的な悪夢を見たことが切っ掛けであった。
その悪夢とは、ぼくの目の前で白い袋を頭から被せられた人々が並ばされ、次々に跪かされて斬首されて殺される夢であった。
この悪夢を、ブログに記した日から、さらなる現実の悪夢がぼくに続いた。
ぼくはネット上で、偶然にもサウジアラビアで公開斬首刑になる寸前の一人の少女の写真を見た。
悪夢とその写真、二つともぼくが彼らの後ろから眺めるアングルであった。
その写真と、ぼくの見た悪夢はぴったりと重なり、何日間も自分の首が切り落とされる感覚と痛みに苦しみ続けた。
ぼくは生まれて初めて、本当の真剣にこの世の救いを求めた。
何故、人類が、このように残酷な拷問の地獄のなかで殺され、死んでゆかねばならない世界なのか。
そしてぼくのこの問いに行き着いたものが、生々しい屠殺場の映像であった。
今から約8年半前、ぼくは初めて屠殺場の映像を見た。
それで、全身の震えが止まらないほどの恐怖と苦痛と、血の気が一気に引く感覚と、悲しみで止まらない涙のなかで、ぼくはやっと気づいたのだった。
嗚呼、ぼくは…ぼくの愛する両親を殺し続けて食べてきた。
ぼくはぼくの家族を、そしてぼく自身を、生きたまま解体して虐殺して、食べ続けてきた。
終るはずなんてないじゃないか…人類の地獄と拷問が…。
人類は、自分の来世(未来)を拷問にかけ、何度と繰り返し殺し続けているんだ。
それをやめるまで、人間は地獄のなかで死んでゆくだろう。
本当の地獄のなかで、人間は救いを求める手を差し出すが、目の前には自分がこれまで無関心に殺し続けて来た家畜たちの悲しい目が自分の目を見つめているだろう。
そしてその家畜の目は、自分の目であることに漸く気づく。
それをやめるまで、人間は絶望のなかで死んでゆくだろう。
その絶望の目は、屠殺されゆく動物たちの目である。
ぼくは人間も動物も救いたくてヴィーガンになったが、ヴィーガンになって、ぼくは人間を地獄に落とさなくてはならないことがわかった。
それは今ぼくがいる、寝ても覚めてもこの堪え難い地獄の世界(現実)である。
























灰の丘

それが、闇か。
本当の闇というものを、ぼくがきみに、教えてあげようか。
それを”恐怖”と、表現しないでくれ。
それは、恐怖という感覚でみずからを誤魔化している”未知なる悲しみ”である。
だれもがそれを、知る日が来る。
それを、すべての宇宙でそれだけを、ぼくは”悪”と表現しよう。
だれの手も、乳飲み子のちいさな手さえ、血濡れていることを、やがてきみは知るだろう。
我々は、いつ、全身を血の川へ、投げ入れたのだろう。
みずから、その悪へ全身を染め、もうだれがだれであるかも、わからない。
きみはいつから、きみだったか?
いつからきみが、その痛みを、忘れたのか。
想いだすその日まで、みずからの屍が、血の海の底に沈んでいるのを、知っているだろうか。
それは叫びつづけている。
聴く耳を持つ者だけ、聴きなさい。
イエスが灰の丘に立ち、叫んでいる。
あなたの血が、叫んでいる。あなたの肉が、叫んでいる。
あなたが今日食べた血と肉が、明日のあなたとなる。
あなたが今日食べたその死体は、未来のあなたである。
あなたのうちから、死が叫んでいる。
聴く耳の在る者だけ、近づきなさい。
あなたは今も、自分の愛する生命の死を、哀しんでいるが、
かつて生きていた生命の死は、あなたの霊のうちで悲しみつづけている。
あなたの為にそれは殺されたので、最早あなたから離れることはない。
今、焼かれつづける炎のなかで、あなたの血と肉が、叫んでいる。
血にまみれた灰のなかで、かつてあなたであり、
今あなたとなった血と肉が、あなたに向かって叫んでいる。

あなたは忘れたのか。
あなたの血と肉となるもの、それはあなた(わたし)である。
































それが、光か。

昨日、姉から、兄の飼っているチャッピーという猫が死んだと連絡があった。
痛々しい赤い悪性の大きな腫瘍がチャッピーの顎の下にできており、彼がどれほどの癌の痛みに堪えて生きてきたのか、わたしたちにはわからない。
彼は、わたしとお父さんが寝ていたずっと開かずの間にしていた猫たちが荒らしまくっているおぞましく散乱して訳のわからない虫たちが湧き続けている人間の戦慄する状態にある部屋で死んでいて、古いエアコンの殆ど効かない窓を締め切った部屋で、これではどんどん腐敗してゆくと姉が言った。
兄の鬱症状は重く、チャッピーはそのままの状態でほったらかされていた。
わたしはそんな兄を責める姉を責めた。
これ以上責めたら、兄は本当に死んでしまうと言った。
でも姉には、それが理解できなかった。
ただドライアイスを買ってきて、チャッピーの遺体を腐らないように冷やすことがなんでできないのかと。
わたしはそれすらもできなくなってしまうことが鬱という病気なんだと言った。
今、一番に苦しみ続けているのは兄なんだ。それを理解することが今一番必要なんだ。
でも姉は、それを理解しようともしない。
この世界に存在している一番の問題は、それであるんだ。
人間が他者の堪え難い苦しみを理解しようとしないことが、すべての堪え難い苦しみの根源であるんだ。
人類が地獄で苦しみ続けるのは、当然じゃないか。
何故、自分の飼っている猫の苦しみをどうにかしようと必死になりながら、屠殺場で拷問を受けた後に殺され続ける家畜たちの苦しみには全く関心を向けないのだろうか?
そしてほとんどの人が、生命は死ねば無になって楽になるのだと信じて、虚無のなかに生きて死んでゆく。
その虚無のなかに一体、どこに救いが在るのか。
人類の地獄が、終るはずなんてない。他者の地獄から、目を背け続けているのだから。
人類の拷問の苦痛は終わらない。
”光”とは何か?
自分の食卓の上に、拷問を受けて、生きたまま解体されて殺された動物の刻一刻と腐敗しているその腐乱死体を食べ続けて生きることが、人間にとっての”光”なのか。
そして自分の愛することのできる存在だけを愛して死ぬことが人間にとっての光なのか。
永遠の虚無に向かって生きることが、それが、光か。









プロフィール 1981生 ゆざえ

ユザエ

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