ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

グロテスク

映画「パラノイドパーク」 彼はもう、イノセンスを必要とはしない









最近、ガス・ヴァン・サント監督の作品が好きで続けて観ている。
何年か前に最初に観た作品は「エレファント」だった。
良い作品だと感じた記憶はあるのだが、何故かそれ以外の記憶がない。
「ラストデイズ」も自分の求めているものとは少し違った。
この「パラノイドパーク」に、僕は特に何も求めておらず、世間の評価もあらすじも予告も何も見ないで観た。
それがきっと良かったのだろう。
優れたドキュメンタリーを観た後に、それを良いや悪いで判断することもできなければ、判断する意味もないと感じるような感覚のなかで、僕の胸は今とてつもなく苦しんでいる。
観た昨夜は、そんな苦しみも感じなかったが、今朝、毛布に包まれながらみんなのレビューを読んでから、僕の胸はどんどん押し潰されてゆくように悲鳴を上げ出した。
現実にも起こり得る話を、僕らは映画を通して観ている。
現実はこれ以上に残酷でグロテスクであるだろう。
現代の先進国の16歳と言えば、観たいときに、ネットであらゆるグロ動画も観れる。
そして映像を通して、それを体験する。
何かを満たす為に。何かを補う為に。何かを、紛らわす為に。みずからの、罪の意識の為に。
観ることに罪悪感を感じながらも、その罪について真剣に考えたりはしない。
そんな16歳の少年の一人が、ある瞬間、一人の大人としての責任を負う。
それは彼が自分の罪の重さを初めて認識する瞬間だろう。
人はそれを知った瞬間、最早こどもではいられない。
彼が喪ったものは、どれほど大きいのか。
親に愛されない悲しみのなかで生きてきた少年が人を誤って殺してしまう。
彼は、神を信仰していない為、神に向かって何故なのかと問うこと、救いを求めることもできない。
ただ漠然とした世界で、みずからの罪を独りで抱え込んで生きてゆかなくてはならない。
苦しみを言葉にすることで吐き出すと良い。とガールフレンドは彼に薦めた。
彼は彼女への手紙に書いた。
でもそれを読ませることに彼は堪えられなかった。
それは罪をシェア(共有)することであって、罪を追体験させることになる。
そしてその告白は、懺悔であり、罪の赦しを請う行為でもある。
彼は、まだ16歳だったけれど、それをするのは早過ぎるときっとわかっただろう。
それにそんなことをしても、罪自体は、軽くなったりしない。
たった16歳の少年が、自分の死ぬまで続く堪え難い罪のなかに生きることを、書いた告白を燃やしながら決意するシーンで、この映画は静かに終る。
いや、監督はそんな姿をわたしたちに観せたりしない。
観ているわたしたちは、想像するのだった。
彼はあのあと、どんな風に生きてゆくのだろう…?
生きてゆけるのだろうか…。
強く生きてゆければ…。

監督は、こう言っているように聴こえる。
「あなた自身だ。あなたは、どう生きてゆくのか。」
僕は、ハッとする。
そうだ、この世界で、一体だれが、イノセンス(無罪)だというのか…。
罪に気づくのが遅いか早いかの違いがあるだけで、
僕らは全員、同じ罪にあるじゃないか…。


















グロテスクなものから目を背け続けてグロテスクなものに果てる世界。


【無料版】『バースト・ジェネレーション』 presentsNEO鬼畜道場 ver. 第四回 報道メディアにおけるグロテスク表現の変遷







確か聖書外典の記述だったと想うのですが、イエス・キリストが弟子たちと何日も荒野を歩き続けて弟子たちの疲労が限界に近づいていたとき、弟子がある一頭の馬か駱駝の腐乱した死骸を見つけ、あまりの悪臭と、その見た目のグロテスクさに、弟子たちは皆、顔を顰めて、何の罪もないその死骸に対して呪詛を吐きつけます。
自分たちはもう飲まず喰わずで死にかけているのに、その上こんなおぞましいものに出くわすなんて、なんという悪運だろうと。
しかし、イエスはそれを観て、すたすたとその死骸に近づいて行って、こう言ったそうです。
「なんと美しい白い歯だろう!」
イエスはその死体の醜さや死臭の何をも気にせず、その代わりに腐敗した肉の為に剥き出しになった白い歯に心底感動したようです。
弟子たちはそんなイエスに吃驚しました。
わたしはこれを読んだとき、本当に感動しました。
同時に、弟子たちの感性とは浅ましいものだなと感じました。

釣崎清隆氏は、『「イノセンス(innocence)」は害悪である。』と以前に仰られていたようですが、それは「無知」や「馬鹿」の意味があるからだと。
わたしは、上記の聖句を読んだとき、弟子たちはまったく無知で馬鹿で阿呆だと感じました。
これを有り難るのであれば、本当に無知で馬鹿です。

釣崎清隆氏は、またインタビューでこうも仰っておられました。

『死体っていうのは、それ以上でもそれ以下でもなくて、要するにブラックボックスだから、見る側の、自分を写す鏡だと思うわけ。
そこに自分を見ているんだと思うんだよ。
だから死体を見ていかがわしいと思う奴は、自分の心が卑しいんだと思う。』

『死体だけを穴が開くまで見ても、何も見えてこないんですよ。
死体っていうのはある意味で、”生きてる人を映す鏡”だと思うんで、人が見て、「気持ち悪い」って思う奴は、「本人が気持ち悪いんだ」っていうね。
なんかそういう風な見方も成り立つんじゃないかなって、最近は思うようになったんですよね。
その時に、その人の人間性が見えてくるっていうか。
死体に対応してやってる人間のそれぞれの対応の仕方っていうのは、非常に何かね、感動的なんですよね。』



人間は「イノセンス(無罪)」が必要なのではなく寧ろ、積み重なり、その重さで底の底まで行くような「罪」が必要なんだと感じました。
イエスという人は多分そういう経験を本当に多く経験してきた人なのだと想います。

そして「罪」が深まれば深まるほど、人間は本質へ近づいて行けるのかもしれません。
それはとんでもなく苦しい道のりであって、深い孤独である必要があると想うのです。

自分はグロテスク表現をずっと遣り続けて、誰からも反応すら貰えなくて、苦しくて孤独でなりませんが、これが「キャー」とか「ワー」とか人々から喜ばれる日には、自分はもう何を遣って行きてゆけばいいのかわからなくなるのかもしれません。

取り留めの無い話になってしまいましたが、人が死や死体を不快に感じることや、グロテスクなものから目を背けようとすることは大変に深いテーマであり、何故、この時代にグロテスク表現がこれほどまでに人々に受け入れられないのかを、もっと深く掘り下げて考察して行けると良いなと感じます。

























我が死の同志である釣崎清隆へ

自分は、わたしの表現をいくつも読んで戴けたら理解して戴けるかと願いますが、グロテスクなものが、苦手で堪らないのに、グロテスク表現、過激表現によって、人間が、自分の目覚めの力によってみずからを救いだせることを、信じて自分の表現を遣り続けています。
それはわたし自身が、2012年に見たあまりに現実的な悪夢を切っ掛けに、現実の地獄とその悪夢がリンクし、ようやく自分が此の世に真剣に救いを求めたことによって、ヴィーガンになることができて、例え自分を犠牲にしてでも此の世(全存在)の真の救いを求めて生きられるようになったからです。
そして其処に行き着くまでの自分のこれまでの人生が、如何に虚しいものであり、利己的なものであり、此の世の最大の悪(生命に対する強制的な拷問の地獄の苦痛)に加担し続けてきたかに、気づくことができたからです。
でも、誤解して貰いたくないのは、わたしが本当に遣りたいこととは、飽く迄、フィクションであるということです。
その点に於いても、現実の死体を見つめ続け、その死体を芸術作品として昇華させるべく命懸けで表現し続けながらも、本当に遣りたいことは劇映画を撮ることなのだと言った釣崎清隆氏に、わたしは深く共感を覚えています。
自分は、啓蒙的表現には、真の喜びを感じられてはいないように感じています。
これは、使命であり、抗うこともできなければ、抗う必要もないわたしの死ぬまでの、身命を賭してでも遣り遂げねばならない責務なのです。
いつでも、自分の啓蒙的表現には、不満を感じています。
そんな容易く、この問題を昇華できるはずもありません。
わたしのバイブルである我が生涯の師、町田康の「告白」のように、最も愛する存在を、みずからの手によって殺す。それを、表現し切ること。その苦しみがなくては、とてもカタルシスを生み出すことはでき得ません。
わたしの根源的訴えとは、「何故、自分自身(他者)に拷問の地獄を与え、そして殺すのか。」という問いなのです。
今日の午前3時過ぎに、わたしは初めて、自殺映像なるものを観ました。
人間が、みずからカメラに向かって自殺する、その瞬間の映像をです。
彼は、自分の顔面をショットガンで見事に吹っ飛ばし、虚しく死にました。
自分を、悲惨な方法で殺害することで、彼はすべての人間に、訴えたかったのだと感じました。
何故、自分自身(他者)を、人は殺すのか。と。
胸を撃って自殺するだけで、十分に悲惨であるはずなのに、彼はそれだけでは、きっと許せなかった。
彼は、自分の最も遣るべき、自分に相応しい方法で、自分を殺したかった。
彼がグロテスクなものが好きだったか苦手だったか、知り得ませんが、どちらにしろ、彼は最もグロテスクな死に様の一つである顔面を吹っ飛ばして死ぬという方法を選んで、自分を殺して死にました。
こんなことを、わたしが他の誰よりもあなたに向かって話すのは、あなたは既にわたしの表現のなかで、わたしが、わたしの実名で殺した、実名の、たった一人の存在だからなのかもしれません。
わたしはあなたを殺してしまった。
でも殺したのはあなたの姿を取ったわたし自身であり、わたしが殺したいのは、わたし以外には存在しません。
わたしは、自分を殺す瞬間を、確かに観ました。
今日の午前3時過ぎに。
それは、酷く既視感の在るものでした。
わたしは既に、それを知っていた為、わたしが、そのヴィジョンに、ずっとずっと、執着してきたはずだと、気付いたのです。
わたしはこれまでずっとずっと、”顔”と、”顔”がない、その状態に執着し続け、最早、わたしは自分や家族を含めるどの人の顔も、現実ではその造形を覚えることが困難になりました。
人の”顔”は、肉(肉体)によって、できているのではないのです。
眼には観えない心や、魂や、霊といったものが、眼では観えないその部分に、現れているはずのもの、それが、”顔”というものなのです。
その”顔”という、最も大切な部分が、一瞬で、吹っ飛んで、真っ赤な鮮血を滴らせ続けるばかりのただの醜い肉となったのです。
それが、わたしの顔であり、すべての人の顔であるのです。
わたしは、グロテスク表現と、過激表現を、どれほど孤立し、人を傷つけ、自分も傷つき、絶望的な孤独のなかに生き続けるとしても、死ぬまで遣り続けたいと願っています。
実際、本当に誰一人、何一つ届かないのかも知れませんが、わたしには、他に方法がありません。
わたしと、すべての顔を取り戻す、方法がないのです。

























プロフィール 1981生 ゆざえ

ユザエ

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