ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

母禍死

ペキンパーVol.6の、元AV監督であった現在、死体写真家である釣崎清隆のインタビューのなかの、
「性器とは何なのか?性器というからにはそこで遊んじゃったらダメなの。」
という、性器表現の規制についての言葉を読み、色々と考えている。
性器で、遊んでは駄目なのだ。という人間の本能的感覚が、一体どこから来ているのか。
わたしはその感覚が、人間の本質であり、美しく、悲しいものだと感じる。
性器は、おもちゃではない。
性器を遊ばれたら、人間は深く傷つき、悲しむ。何故なのか?
わたしは「性器というからにはそこで遊んじゃったらダメなの。」という言葉を読んで、
自分の過去を想いだした。
性器で遊んでしまった、自分の過去を…。
あれは確か2009年のクリスマス前の日だった。
今から十一年前、わたしは28歳だった。
今住んでいるこの大阪の姉の家の近くのマンションに引っ越してきて、生活保護を受け始め、
少し経った頃だった。
某yahoo婚活出会い系サイトで、知り合った2歳年上の男性と、運命的な出会いをした。
彼は、今まで色んな事を遣ってきた人だった。
芸人とかも遣ってきたが、何一つ評価されず、
いつでも、野望を抱いて、自分は今のこんな仕事を続けているべきじゃないのにという切迫した緊急感を常に感じながら自分の才能と可能性を疑わない人だった。
彼の言葉はいつでも、重く、誠実だった。
ふと彼が、素直な願望をわたしに話した。
海外に、また行きたいと想っていると。
それは、勿論、独りでである。
結婚したい想いがあって、婚活サイトに登録していたんじゃないのか?
嗚呼、彼にとって、わたしの存在とは、何なのだろう。とわたしは絶望した。
まだ、会ってもいない頃に、わたしは早くも彼に本気で恋をして依存し、苦しんだ末に、大量の某トリップ&安眠系市販薬を、致死量の半分くらい、オーヴァードーズ(OD)した。
そのとき、わたしは初めて幻覚というものをはっきりと観た。
今でも貴重な経験だったと想うが、二度と、繰り返したいとは想えない。
寝ゲロしたものが、乾かぬ間に、彼はとうとうわたしを心配してわたしのマンションに突然遣ってきた。
写真の何倍と美しい、悲しい顔をした猿顔の男前であった。
彼は、差し入れを持ってきただけなんだと震える声と身体で言って、すぐにドアの前から去って帰ろうとした。
わたしは彼の手を掴み、引き留め、彼を部屋に入れて、自然と彼に全身を激しく震わせながら、背の高い彼に背伸びして抱き着いたのだった。
彼はわたしを優しく抱き締めながら心配し、「大丈夫…?」と言った。
その後、彼は、わたしを愛らしいと想ったようで、付き合うことになった。
だが、わたしの彼に対する悲しみが、変わらなかった。
「また海外に行きたいんだ。」と言ったその言葉が、ずっとずっと潜在意識に絶望として存在していた。
わたしは、最初に会った日に、彼に自分の寝ゲロを指差して言った。
「これ、生きてる何かにずっと見えててん。幻覚で…。ほんまの話。」
彼は、小さく表情を震わせ、同時に、わたしを憐れんだ。
初めて会った数日後である。
彼が、「一緒に住もうか。」と言ってきても、わたしはずっとずっと不安さが消えなかった。
そして約二週間後、わたしは彼に対する不満と悲しみが限界に来た。
その夜、わたしの部屋で彼と一緒に寝た。
キス以上の何もしていない関係であった。
夜明け前である。
わたしは、未だに何一つ性的な行為を誘ってこない彼に不満を抱き、そんなわたしの苦しみをなんとも気付いていない彼に猛烈に腹が立った。
わたしは眠っている彼の男性器を直に触って弄った。
弄っていると、彼が目を醒まし、何事か?と、わたしを見つめて吃驚した。
わたしは無邪気に微笑み、彼に厭味を言った。
「これはおもちゃ(玩具)だよ。(笑)」
すると彼はものすごい傷ついた悲しい真剣な顔をして諭すように言った。
「それは、良くない考え方だね…。」
わたしは彼の深い悲しみが伝わってきて、心が打ち震えたが、わたしはわたしで傷つき果てた心情の結果の行為であり、意地でも彼の陰茎を握り締めることをやめなかった。
彼は諭しても、行為をやめないわたしに怒(いか)り、わたしの下着を脱がそうとした。
わたしはそれを拒んだ。
すると彼がブチ切れ、真夜中だというのに声を張り上げて言った。
「自分から誘っておきながらパンツ脱がしたら嫌がるのはおかしいよね?それが嫌ならなんで僕のを触って勃たせたりするの?パンツ脱がされたくないなら触らへんかったええやないかっ。」
わたしは恥ずかしくて、笑って「壁が薄いから大声立てんといて。」と言った。
彼はわたしの反応にまたも、怒(いか)った。
わたしの下着を無理に脱がすと自分も脱いで挿入しようとした。
だが、なかなか彼は挿れられなかった。
何故なら、わたしの性器が、濡れていなかったからである。
わたしは彼に、全く興奮していない様子で「濡れてる…?」と訊いた。
彼は返事をしないで、寂しげな顔をしてすぐさま、諦めて挿入をやめた。
その日の午後、わたしと彼は初めて近くの公園にデートに行った。
そして日が暮れて帰ってきて、彼は今日は帰ると言った。
明日も彼は休日だった。
でも彼は、家事などを色々としなくちゃならないから帰ると言った。
わたしは女がいるのかと訊ねた。
彼は呆れた、また寂しい顔で否定した。
わたしは泣いて、布団に突っ伏した。
彼は長い時間、ずっとわたしの側に放心しておった。
しかし立ち上がって、帰る用意をしだした。
わたしは帰ろうとする彼の足を、ひっしと強く掴んだ。
彼は隙をとられ、倒れた。
わたしは立ち上がろうとする彼の腕を思い切り引っ張り、
涙を流しながら彼に言った。
「なんで…なんで…。わたしが間違ってるん…?」
彼は、本当に苦しそうな半泣きのわたしの知る彼の最も美しい顔でわたしを見つめた。
その後、泣き疲れ、わたしはまた布団に横たわり、
彼は無言のまま帰った。
それ以来、彼とはもう、会えなかった。
これほど後悔した恋はなかった。
彼の性器をおもちゃにした罰は、何ヶ月とわたしを苦しめ続け、
セックスをしなかった唯一の恋人である彼への未練は、今も深く残り続けている。

やけに性器とおもちゃの話の前置きが長すぎたのだが、今から、本題である。
性器をおもちゃにしてきた世の男共たちを、殺す勢いで、文章を書こうではないか。
いきなり、核心を突こう。
アートであると評価でき得るもの以外の、すべての性の表現は、性器をおもちゃにして来た。
優れた芸術作品として、人を感動させるものと、娯楽として、人を楽しませるものの違いとは、
それは、神が宿っているものと、神が宿っていないものの違いである。
芸術とは、神が、まさに産み通したものであり、それを確信できる作品に於いて何をも規制など必要ではない。
それがだれひとり、不快にさせないと言っているのではない。
不快でトラウマになるほどのものであるのに、同時に、人に、”真の光”というものを感じさせるもの。
それが、芸術というものである。
例えば、現代美術家であるマシュー・バーニーの黙示録(終末)をテーマにした映画の予告を観たことがある。
最も印象的なシーンとして、女性器がはっきりと映されており、女性器から真っ黒な泥がどくどくと流れてくる、地の母が、死を産み落とすことを暗喩しているのであろうとても印象的なシーンがあった。
あのシーンに、ケシもボカシもモザイクも、まったく必要ではないのは、芸術作品として、真に優れており、神がかっているものであることを人々が認知しているからであり、絶対に、隠してはならない部分であり、重要不可欠なシーンであることを理解しているからである。
でもこれが、浅はかなテーマで撮られている作品のなかのシーンとして、女性器から泥が流れてくるシーンだった場合、ボカシを入れられ、人々は、肝心なところを観せてもらえない為、イライラが積り、悶々となって、もんじゃ焼きみたいな、なんとも捉えようのない顔をして、こう言うのだ。
まったく、遣ってらんねえぜ。これだれがたれが撮ったんや、責任者、やなくて監督の名前はなんだよ。何?ツリサキぃ?ツリサキと言えばあの、美を追求して35年、美意識が誰よりも高い死体写真家、美に殉ずる為に、生まれてきたAVが大好きな、あの、(美しかった…)男か。
死体撮らないで、何を撮っとるのだ、一体。
おまんこ消されてんじゃねえよ。自分の母親のおまんこ撮れや。糞が。
死体を見つめてきた男が、ポルノもAVも撮るな。
本物の芸術以外の、何一つ、昇華できていないくだらない作品を撮るのはやめてくれ。
死体に対する、最悪の冒涜罪であり、
吐きそうなほど、絶望的なものを感じるから。





















それが、光か。

昨日、姉から、兄の飼っているチャッピーという猫が死んだと連絡があった。
痛々しい赤い悪性の大きな腫瘍がチャッピーの顎の下にできており、彼がどれほどの癌の痛みに堪えて生きてきたのか、わたしたちにはわからない。
彼は、わたしとお父さんが寝ていたずっと開かずの間にしていた猫たちが荒らしまくっているおぞましく散乱して訳のわからない虫たちが湧き続けている人間の戦慄する状態にある部屋で死んでいて、古いエアコンの殆ど効かない窓を締め切った部屋で、これではどんどん腐敗してゆくと姉が言った。
兄の鬱症状は重く、チャッピーはそのままの状態でほったらかされていた。
わたしはそんな兄を責める姉を責めた。
これ以上責めたら、兄は本当に死んでしまうと言った。
でも姉には、それが理解できなかった。
ただドライアイスを買ってきて、チャッピーの遺体を腐らないように冷やすことがなんでできないのかと。
わたしはそれすらもできなくなってしまうことが鬱という病気なんだと言った。
今、一番に苦しみ続けているのは兄なんだ。それを理解することが今一番必要なんだ。
でも姉は、それを理解しようともしない。
この世界に存在している一番の問題は、それであるんだ。
人間が他者の堪え難い苦しみを理解しようとしないことが、すべての堪え難い苦しみの根源であるんだ。
人類が地獄で苦しみ続けるのは、当然じゃないか。
何故、自分の飼っている猫の苦しみをどうにかしようと必死になりながら、屠殺場で拷問を受けた後に殺され続ける家畜たちの苦しみには全く関心を向けないのだろうか?
そしてほとんどの人が、生命は死ねば無になって楽になるのだと信じて、虚無のなかに生きて死んでゆく。
その虚無のなかに一体、どこに救いが在るのか。
人類の地獄が、終るはずなんてない。他者の地獄から、目を背け続けているのだから。
人類の拷問の苦痛は終わらない。
”光”とは何か?
自分の食卓の上に、拷問を受けて、生きたまま解体されて殺された動物の刻一刻と腐敗しているその腐乱死体を食べ続けて生きることが、人間にとっての”光”なのか。
そして自分の愛することのできる存在だけを愛して死ぬことが人間にとっての光なのか。
永遠の虚無に向かって生きることが、それが、光か。









プロフィール 1981生 ゆざえ

ユザエ

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