ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

悲しみ

漫画家ねこぢる 本物の価値が、残酷に消費され続ける世界で。





11月21日追記:
わたしは自分の記憶が違っていたことを想いだした。
わたしが一番最初に月刊漫画ガロをリアルタイムで書店で手にとって買ったのは1998年4月号 NO.396だった。
そしてその次に手にとったのが、ねこぢるの猫の絵が表紙の1998年5月号 NO.397だった。表紙を良く憶えている。


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彼女が亡くなったのが1998年5月10日なので、多分このガロは彼女の死後に出版されたものだと想う。
わたしは彼女の死を知ったすぐあとに、多分このガロを買って読んだ。
そこに収録されていたねこぢるの作品は、


月刊漫画ガロ


「ぢるぢる昔話」の多分「がぐや姫の巻」だったんじゃないか。なんとなく憶えている箇所があった。
「ねこぢるまんじゅう」に収録されていた。
読んでみたが、全く面白さを感じられなかったし、不快さも感じる。どう無理をしても、笑えなかった。ただ残酷なばかりで、登場する猫たちの顔も性格も、無機質で可愛げもない。読み終えるのが苦痛なほどに退屈だ。
当時、わたしはきっとこの漫画がねこぢるの漫画なのだと想って読んだ。
そして良いものが何も感じ取れなかったので、彼女の死が何故かずっとずっと自分のなかに特別な苦しみとして存在していたのに、漫画を買ってじっくりと読もうという気持ちにはどうしてもなれなかった。
この作品は確かに彼女自身も関わって描かれた作品なのかもしれない。
でも夫である山野一氏が、おおかた作って描かれたのではないか?とわたしは想った。
そうであってほしいという気持ちになる。
何故なら、この作品や、後期のほとんどの作品には、初期の作品の多くに存在していた温かみが、皆無に感じられるから。
残酷なのにあたたかくて、悲しいはずなのに面白くて何故か幸せな気持ちにもさせられて、何処か懐かしい気持ちにさせる、ついその続きの世界を自分のなかで創りたくなってしまう、終わらせたくはないと感じさせるほどの空間が、その魅力が、後期の作品の多くには欠如してしまっている。
でもほとんどの読者は、出版会社は、編集者は、其処に気づかなかったのだろうか?
次から次へと作者に眠る時間さえ奪うオーバーワークを続けさせてまで新作を催促し、要求し続け、無理矢理に苦しんで出した感の否めない作品たちを、賞賛し続けたのだろうか?
例えば同じ「ねこぢるまんじゅう」に収録されている「おつかいの巻」なんて、込み上げてくる笑いを堪えるのが難しいほど面白い。
そして猫たちが本当に愛らしくて純真で憎めない。だからこそ、残酷さとのコントラストが激しく、素晴らしくて感動して感服する。
これが、本当の才能というものなのである。描こうと想って、描けるものじゃない。
本人でさえ、よし描くぞと想っても、とても描けない。そんな都合良くぽんぽんと出てこない。
その本物の価値を、人々は死に追いやったのか?
それが上手いこと量産できるものだと、要求すれば出てくるものだと、何故想ったのだろうか…?
そんなことできるはずないだろうに…。本物の芸術の作品が量産できるものだと、何故考えたのだろう?
本物の価値をだれも見分けることができなかったからなのか?
ただただ可愛げな顔をした猫たちが残酷なことを繰り広げていたらそれでOKだと多くの人は評価していたのか?
一体、なんの価値があるのだろう?作者に無理やり全くつまらない作品を描かせ続け、作者を死へ追い込むことが。
この世界は、人間も、動物も、生きて行くことこそが、一番大切なことなんだよ…。
何故それが、僕たちはわからないんだ…。
豚の死体を喜んで食べながら屠殺される豚が可哀想だと人々は平気で言う世界で、動物の死体を食べない彼女は家畜の生涯の残酷さを何度と描いて表現した。そして豚を見ることが不快なのだと素直に言った。
彼女は、本当に不快だったのだろうと想う。この世界が。
ほとんどのことが、いや、ほぼすべてのことが、彼女にとって苦しくて堪らないことだったのだろうと想う。
彼女はインタビューで、「ゲームの世界に生まれたかった。」と言っていた。
現実世界が苦しくて堪え難いから、生きられる世界に、逃避せねばとても生きられなかったのだと想う。
彼女の描く漫画は、残酷じゃない。この現実よりずっと。
現実のほうがよっぽど無慈悲で、無機質で、無感覚で、無関心で、虚無なんだ。
彼女はそれを多分わかってた。
ほとんどの人は、無残に殺される家畜の姿を描こうなんて想うこともない。その残酷さを表現しようなんて想わない。不快だし、それ以前に、家畜たちに対して関心もないから。
一時はねこぢるの作品はものすごい評価されて売れまくって、人々は新作を求め続けた。
でも彼女が此の世を去って、22年が経ち、Amazonのレビュー欄を観てみると、彼女の作品を心から賛美している人の数の少なさに、堪らない虚しさを感じるのはわたしだけなのだろうか?
本当は生きたいのだと願っている動物を殺し、その死体を味わって食べたあとは排泄して、食べた肉のことなんて忘れて、どうでもよくなる。それが肉食という行為の一番の虚しさだとわたしは想う。
でも動物だけじゃない。人々は、人間さえも、そうして消費して、すぐに忘れてしまうのだろうか?
そこに存在する本当の価値を、理解していない人々が。

























漫画「ねこぢるうどん」  実際に壊れてしまうことの悲しみを、壊れないほどの感性が、どれほど理解できるのか?






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ねこぢるの漫画は、多分、彼女がこの世を去ったすぐあとくらいに知った。
ねこぢるの漫画の良さをわかりたいと感じている自分がこれまでずっといた。
でもこれまで、ちゃんと読んだことはなかった。
それは切り貼りされた雑誌やネット上の漫画のシーンだけでは到底わかり得ることはできないそこに存在する物語の深さを、自分が感じ取ることはできなかったからなのかもしれない。
どうしても、切り取られただけのねこぢるの漫画に自分は不快感を感じていた気がする。
それをちゃんとじっくりと読みたいという気持ちにこれまでさせられなかった。
でも22年程が経ち、39歳となったわたしは吉永嘉明の「自殺されちゃった僕」を読んだきっかけで、初めてねこぢるの漫画「ねこぢるうどん」をメルカリで3冊購入し、静かに読んだ。
嗚呼、なんてわたしは勘違いしていたのだろうと想わずにいられなかった。
そういえば、今日布団のなかで泣いた気がする。
ねこぢるのことだけではなくて、色んなことが重なって、わたしは悲しくて泣いた。
言葉では表現するのが難しい世界が、この世界にはたくさん存在しているのだと感じる。
ねこぢる(彼女)の表現してきた世界も、そういう世界だ。
ひとつだけ、その世界に対して表現できそうな言葉がある。
”果てのない悲しみ”の世界だ。
どこまでも深くて、底は見えない、辿り着ける場所もない。
そんな世界だ。
人間の感情が創り出せる世界であり、”虚無”もまた、人間特有の感情なのだろう。
わたしは、本当に大きな勘違いをしていた。
彼女は、わたしと、とても似ているのだと感じた。
生きている世界が、離れてはいなくて、近いと感じた。
わたしが小学3年生のとき、同じクラスの女の子を傘立てに載って遊びながら思い切り突き飛ばして大怪我をさせてもわたしはニヤニヤ嗤っていた。
小学6年のときは、かつて仲が良かった女の子の家が火事になって、彼女が今、瀕死状態で、先生が助かるようにみんなで祈りましょうと言ったとき、わたしは彼女が死ぬことを祈り続けた。そして彼女が死んだことを知った瞬間に、心のなかで大声で歓喜をあげたのだった。
彼女の葬儀のための日に、無理に悲しんで泣こうとしたが全く泣けなかった。
自分は、人と大きく違うと感じるのは子供の頃だけではなく、今でも同じだ。
ほとんどの子供は、そんな経験をしない。
そんな経験をして、何十年経ってもずっとそのことで自分を殺したいほどに自分自身を責め続けて生きていない。
「子供は残酷だ」と、人はまるでそれが当然のように言ったりする。
でも何故、それが”壊れている”状態だとは考えないのだろうか?
イスラエルの大学による研究によれば、「 生後6ヵ月などの小さな赤ちゃんも、他者の苦痛に慈悲と共感を持っている」ことがわかったらしい。

「最初の実験では生後 5〜 9ヶ月の乳児たちが明らかにいじめの被害者たちに共感を示していることがあらわされ、乳児たちは中立のパーソナリティを選ぶのではなく、身体的に傷つけられ苦しんでいるほうのパーソナリティに共感を示した」
「 2番目の実験では、苦しんでいる他者に対する幼児の共感は不変ではないことを示した。同じように苦痛を現している対象であっても、苦しむ理由が明確ではない場合(苦しんでいるふりをしている場合)、その対象には共感を示さなかった」

わたしの子供時代のサイコパス度が、子供として普遍的なものだとは自分でも想えなかった。
だから、わたしはとても苦しかった。
自分だけが、違う世界に生きているような気がいつもしていた。
この世界のほとんどのことがくだらなくてつまらなくて、不快で嫌い。
ほとんどの人が怖い。
ほどんどの人が、動く自動人形のように想えて怖い。
空想の世界にしか、自分の居場所(生きられる場所、生きているという感覚を感じられる場所)は存在しないと感じる。
殺された動物の死体を食べない。
人々が、驚く、バカにするようなことで日々深く傷つき続けて生きている。
他者のなかに存在する悲しみや孤独、苦痛の感覚に対する共感能力が特に深い。
他者(外界)と自分(内界)の境界がほとんど存在していない。
動物(弱い存在)を本当に愛しているのに、彼らが自分の想い通りにならないとき、自分が壊れてしまう。
愛が深いほど、人は苦しみ、限界値を超え、壊れてしまう、壊れてしまうから、殺してしまう、というこの世界の残酷さに、気づいてしまっている。
人々はそんな人達を、鬼畜や気違いや気狂いと呼んで排除しようとしている。
「ねこぢるうどん3」の「西友の巻」でにゃーことにゃっ太と一緒に遊んでいた”ぶたお”が最後、無残な死体と化し、食肉用の豚の死体を積んでいるリヤカーの上に載せられる。


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これを読んで、人は何を感じるだろうか?
この話を書いたねこぢる(彼女)自身は、肉(動物の死体)を食べない人だった。
彼女はにゃーこにぶたおを「みてるとにゃんかいやなきぶんににゃる」と言わせる。
豚の死体を何とも思わず食べている多くの人々が、豚のキャラクターを観て、可愛い可愛いと言っているこの世界で。
彼女は豚の死体(豚肉)を決して食べないが、豚を見ると不快な気持ちになることをにゃーこに言わせる。
わたしも豚を見ると、どうしても不快な気持ちになる。
可愛いと、喜べる瞬間もない。
彼らは毎日大量に殺され(惨殺され)続けていて、明日も、明後日も、ずっと、ずっと、死体となる瞬間が、わたしのなかでいつも再生され続けている。
それに豚は家畜のなかで人間に最も似ている。
この世界のおぞましい虚構に、そこに存在する堪えられない悲しみに、彼女が限界に達して死んでしまったのではないと、だれか言えるだろうか…?
ねこぢるの漫画は当時ものすごい人気を博し、どの会社も作者の心労など何も考えずに新作を求め続け、そのオーバーワークのなかで彼女はみずから命を絶った。
ねこぢるの作品の読者のなかに、彼女の本当の苦しみや悲しみを理解していた人がどれくらいいただろうか…?
わたしはまるでスーパーの鮮肉コーナーに惨殺された動物の死体が消費されてゆく商品として綺麗に並べられ続けるように、そこに存在している掛け替えのない価値が貪り喰い潰され続けゆくこの世界に、堪え難い苦しみと悲しみを感じないでいることはできない。









11月21日、追記を載せました。

















生まれて初めて、自殺映像を、わたしは観た。

今日の午前3時過ぎ、わたしは人生で初めて、人の自殺映像を観た。
何度と、iPhoneで再生させ、speedを一番遅くさせても、何度も再生し、わたしが6歳の頃に、この地上に生まれ、わたしと同じこの世界を生きてきて、同じ時間に、色んなことを考え、悩み、喜んでは悲しみ、苦しみ続けてきた彼のとても優しい顔が、吹き飛んで、砕け、真っ赤な、血の肉の顔、死となるその現実の瞬間を、わたしは繰り返し観た。





米ミシシッピ州ニュー・アルバニーで先月(8月)31日、イラク戦争の退役軍人であるロニー・マクナットさん(33)が自宅でショットガン自殺した。
ロニーさんは自殺の様子をFacebookで生配信し、このときの映像は現在、海外の過激ニュースサイト「BestGore」で見ることができる。

 自宅の机の前に座ったロニーさんが、スマートフォンを机の上に置いた直後、自らの顔に銃口を向けた。
次の瞬間、銃声が鳴り響き、ロニーさんの頭は木っ端微塵に吹き飛んだ。
崩壊した顔面からは皮膚や肉が垂れ下がり、大量の血が滴っている。
音を聞きつけて、部屋の奥から小さな犬がやって来た。
この犬はきっと、ひじ掛けにもたれかかっている飼い主が既に息絶えていることを知らないのだろう。
自殺の瞬間はわずか数秒だが、一度見たら決して忘れられない衝撃的な映像である。

 ロニーさんは、イラク戦争から帰国した後、うつ病と心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいたという。
最近職を失った上にガールフレンドとも別れたことが自殺の原因だという報道もあるが、真偽は定かではない。

 友人のジョシュア・スティーンさんは、自殺直前のロニーさんは「信じられないほど酔っていました」と語り、そもそも配信を始めたときは自殺するつもりがなかったのではないかと考える。
スティーンさんは、配信が始まってから、ロニーさんにメッセージを送信したり、電話をかけたりした後、警察にも連絡したという。
しかし、自殺を阻止しようとする懸命の試みは奏功しなかった。







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実際に、人の自殺映像を観たのは、人生で初めての経験だったが、わたしのなかにとても強い既視感があった。
わたしは、わたしの過去生をもしかしたら観たのかも知れない。
奇しくも、「至近距離から、ショットガンなどの破壊力の強い銃で顔面を、とにかく何発も撃ちまくったら、きっとこうなるだろうと想像できる顔面の原形を全く留めてはいない、ほんの少し、頭部を仰け反らせるようにして椅子に座って死んでいる女性の死体の鮮やかなカラー写真」を97,8年に観たわたしの一番の死体写真としてのトラウマを創作のなかで表現し、それを切っ掛けにわたしがみずからのトラウマである死体写真や、スナッフフィルムなどを見つめて行こうとすることを決意したのが、彼の自殺した4日後の、9月4日だった。






Ronnie McNutt3






彼の、生前のあまりにも優しげな顔の写真を保存し、少し見つめたのち、椅子から立ち上がった。
昨日からいつもより精神が不安定で抑肝散ばかり飲んでいたが、またも飲んで、わたしは切実に救いを求めるなか毛布のなかに動悸の続く身体を横たえて潜り込み、眠りに就いた。
4,5時間、わたしは眠り続けた。
悪夢を見た記憶はなく、寧ろ、彼の魂やわたしの守護霊たちなどから心配されているかのような、深い愛の安らぎの感覚のなかにわたしは目覚めたのだった。

それで、わたしはずっと目が覚めてから彼が、ショットガン自殺をライヴ配信した理由について、考えていた。
ロニー・マクナット(Ronnie McNutt)氏が、敢えて破壊力の凄まじいショットガンによって、みずからの顔を粉砕させて自殺し、その映像をライヴ配信した理由について、人々は、何も深刻に考えようとせずに、とにかくトラウマとなるから人に見るなと注意を拡散したり、早く削除するようにと要請したり、観たくないものを観てしまったと後悔したりしている。
人々は、気付いている筈なのに、気付いていない振りをしている。
残酷なことから、目を背け続けていても、残酷なことはこの世界から一向に、なくなっては行かないのだということに。
ロニー・マクナット氏が、戦場で一体、何を見て、どんな経験をして帰ってきて、彼が独りでずっと苦しみ続けてきたのか、わたしたちはわからない。
でも彼のその経験と、彼の自殺の方法が、深く関係しているかもしれない。
そして彼の苦しみと、わたし自身の苦しみは、離れているものではないのかもしれない。
わたしは2012年から、ずっとずっとこの世の本物の、終わらない地獄に対して、人々に訴え続けてきた。
それは、人間が、利己的な理由によって動物たちを大量に殺戮せしめ、自分の利己的欲望(家畜は皆、美味しい肉にするだけの為に、生きたまま解体されてから惨殺される)を満足させる為だけに、動物たちを地獄に突き落とし続けても、それが人間は元来、野蛮な生き物なのだから仕方ないと、或る意味、"正しい"ことなのだと嘯き続けているこの現実に対して、わたしはずっとずっと、訴え続けてきた。
その行為は、必ずや"自分自身"に、すべての人類に、返って来るのだと。
彼は、戦場で人を殺してしまったのかも知れない。
自分の罪の重さに、もはや堪えられなかったのかもしれない。
彼は、自分が撃った兵器によって、顔が砕け散って、醜い肉塊と化して死んでいる人の死体を、見てしまったのかもしれない。
彼は、自分が安らかに死ぬべきではないのだと、願っていたかも知れない。
自分の顔を、無惨に撃ち砕いてグロテスクな死体と、その、無念さを、人々に見せしめることによって、彼は自分の絶望と、自分の堪え難い苦痛と、この世界にある、暴力と殺戮の残酷さを、そこにある虚しさを、支配している虚無を、訴えたかったのかも知れない。
こんなにも悲惨で、虚しい”悪”はあるかと。
職が、人を殺す以外の、僕の仕事が、僕の遣るべき仕事が、他にあったならば、僕は殺さなくてもよかったはずだと。
屠殺人も、同じことを想うかも知れない。
他の仕事を、本当は与えて貰いたかったのだと。
殺す以外の、自分の仕事を。
どうか彼の、割れて砕けて、見るに堪えない肉の塊となったその顔から垂れる真っ赤な肉から床に滴り落ちつづける音を静かに聴きながら、想像してみてほしい。
これが、"誇り"だと信じられた仕事をしてきた人間の、最期に相応しい姿なのか。
動物を殺す仕事も人間を殺す仕事も、"何か"から、それを"誇る"べきだと、信じ込まされ続けている。
これは、一番に、人間をマインドコントロールすることのできる簡単な常套手段であり、この世界のほとんどの人が、それを、賞賛しながら、同時に、差別し続けている。
"殺す"という仕事に就いてきた人間を。
人々は、潜在意識に罪悪を感じながらも、彼らに感謝する。
あなたが殺してくれたから、わたしの”悦び”があるのだと。
肉を食べながら、人は屠殺した人間に感謝し、いざ、屠殺した人間がその苦しみの末に自殺したとき、人はその現実から、目を背け、顔を歪めて想う。
嗚呼、なんて醜い肉(死体)だろう...。
これがわたしと同じように、つい最近まで生きていた人間の姿だなんて...。
観たくないものを観てしまった...。
彼は、自分の仕事に誇りを持ってるのだと言っていたはずだが...。
そうだ、彼は、こう話していた。
自分が、人々の遣りたくはない、できない仕事をしているから、人々は、美味しい肉を食べられて、幸せを感じられるのだと。
この仕事に、誇りを持って、ずっと遣ってきたと。
でも彼は、その後、屠殺業を辞め、鬱病と心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされていたなんて、知らなかった。
わたしは、それを、知らなかった。
彼は、もう二度と、動物を殺す職業には就きたくないと、
生きてゆきたいのだと、自分に目で必死に訴えて来て、請い願う生命を、もう自分の手で殺したくはないのだと話していたことも。
わたしは、知らなかった。
わたしは、想像もできなかった。
わたしは、彼の苦しみに、無関心だった。
わたしは、わたしは、知らなかった。
殺し続ける行為が、どれほど人を、破壊するかということを。
その殺された死体の肉の塊が、どれほど彼に対して、その地獄をずっとずっとずっと、訴え続けて来たかということを。
























わたしの死胎を撮らないでくれ。






























































































右手

人が、雑誌を読んでいて、ページをめくる。
おや?なんだろう...この写真は。
道端に落ちて踏み潰された生の手羽先かな...?
すると次のページには、その写真をズームアウトした本来の姿が映し出され、人は、あっ、と声に出して驚く。
人間の右手ではないか...。

人はその時、不快な感覚を覚えないでいることはできない。
そして、ふと思い出す。
そういや昨夜、手羽先食べたんだ。
この交通事故で亡くなった女性から千切れた、黄色みがかった脂肪や腱と白い骨の見える切断面の右手にそっくりな手羽先を...。

人は、思うのだった。
嗚呼、夜の道に、生の手羽先開いたものを置いてたら、人は、ドキッとするだろう。
これは人間の肉片ではないよな...と。
恐ろしいが、人は、それがなんであるかを確かめたいので、近づいてよく観ることだろう。
しかしどんなに近付いても、それが人間の死体の一部なのか、動物の死体の一部なのか、わからないだろう。
何故なら、その二つは、切り取られた場合、見分けが全くつかないものだからだ。
人は、気になるため、警察に電話し、こう言うだろう。
あのぉ...実はわたしの目の前に、道端に、人間の肉片らしきものが転がっているのですが...。
警察が遣ってきて、肉片を拾って、人にこう言う。
「"何の"肉か、検視の結果が出ましたら、改めて御連絡致します。」
翌日、電話が掛かってくる。
「検視の結果が出ました。あの肉片は、鶏の"死体"でした。どうやらあの近くで飼われていたクックたんという名の、雌鶏の死体の右の前肢(翼)の部分であるようです。誰かのいたずらでしょう。御協力、ありがとうございました。」
人は、受話器を置いたあと、あてどない悲しみを感じないではいられない。
クックたん...殺されたのか...。なんて酷いことをする人間だろう...。
嗚呼、お腹が空いた…。なんか食べよう。そうだ、チルドに入れたままの手羽先...忘れてた。あれ早く、食べないと...。
人はそれをフライパンで焼き始めたが、胃液が込み上げてくるのだった。
嗚呼、よりによって何故、わたしは手羽先を今から食べなくてはならないのか...。
一体、何の罪で、わたしは今から手羽先を食べなくてはならないのか。
クックたんが虐待され、生きたまま解体されたあと惨殺され、その死体が、スーパーに並べられ、わたしがその死体を買って、わたしが今、クックたんの死体を焼いて食べようとしているのだ。
人間の死体とそっくりで、見分けることさえできなかったクックたんの死体を、わたしは今から何故、食べなくてはならないのか...?
クックたんは、実際、どのように殺害されたかを、わたしは知らないが、クックたんは殺される直前まで、きっと鳴いていたのだろう。
クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック、クック...
嗚呼、そして...そして...何が起きたのだ...その次の瞬間...
人は気づけば、外に飛び出していた。
真夜中の道路、涙で、視界がぼやけていた。
人は何を想ったのか、咄嗟に、道路を渡ろうとした。
人は、スピード狂の車に激しく跳ねられ、轢き潰され、千切れた右の手首が30m先に飛んで、道端に落ちた。
その場所は、クックたんの殺害現場であった。
人が、そこを通り掛かった。
その落ちている肉片を観て、人は思った。
これは、鶏か...。
何故なら、それが、ずっと、ずっと、クック、クック、クック...と悲しげに鳴き続けていたからだった。


























ツリの煩悶地獄 四

ツリは、彼の命懸けで撮り続けて来た死体写真集、『THE DEAD』 の刊行に寄せての言葉のなかで、こう述べていた。







「世界は残酷だ。

 それでも世界はやはり美しい。」






僕は、そんなツリに、昨日、Twitterのダイレクトメールで、こう問うた。

ツリの愛する人が、こんな最期を迎えても、「世界は美しい」と、言えるのですか…?と。

















しかし、わたしはツリから、とうとう答えて貰わぬ内に、アンフォローされてしもうた。
理由は、ダイレクトメールによる「私信の濫用」であるようだ。
わたしは昨夜、朝から夜までずっと、酒を飲んでおった。
昨日はわたしの愛兎、みちたの、一回忌であった。
とにかく、ずっと飲んでいた。何も、何も、何もしたくなかった。
何もしたくなかったから、愛する死の同志であるツリに、何度と切実に話し掛けた。
酩酊状態で、何もしたくなかった。
僕のメッセージをスルーし続けるツリに、僕は切実にこう厭味を言った。
『自分のドウデモイイツイートはするのに、わたしの切実なメッセージは読んで戴けないのですね。』
ツリは、いい加減、怒(いか)った。
「一度冷静にご自身の書き込みをかえりみてもらえますか? 
その上で、これ以上分をわきまえないようでしたらブロックするしかありません。
私信を濫用しないでください。
ただそれだけです。
僕はこう見えても忙しいんですよ。」
と優しく言いながらも、心では、想い切り、ムカついていた。
僕はツリと、その後、約一時間ほどかけて少し会話したのち、9人おったフォロワーの、ケロッピー前田氏を含む、8人全員を、アンフォローさせた。
そして、嬉々として、ツリに、言った。
「フォロワーがツリだけになった!」
数秒後、ツリは、僕を無言でアンフォローした。(僕は謝罪の言葉を一言も言っていない。)
僕は、絶望にうちひしがれ、ツリを、罵りたくなった。
寝ても、目が醒めると、ツリに対する悲憤と不満が溢れてきて、とうとう、ツリに電話を掛けた。
留守電やった。
僕は、緊張しながらも、絶望と悲しみとアルコールの残留で朦朧としながらも留守電にこう遺した。
「何故、教えて、戴けなかったのでしょうか...?
 何故、釣崎清隆氏の、撮ったアダルトビデオを、どうしたら、観れるのか?
 という質問に対し、答えて戴けなかったのでしょうか...?
 良ければ、御答えください。ガチャっ。」
そう必死に、蚊の哭くような声で、きれぎれに言って、携帯の受話器を置いた。
ツリから、電話は掛かってこない。
彼は、僕に対して元々、真摯に向き合いたいという気持ちが、あらへんのです。
いいえ、彼は、根源的に、人を、愛せないのです。
だから、「世界は美しい。」と、言って退けるのです。
違いますか?
ほとんどの人は、生きたまま解体された動物の惨殺死体を喰らいながら、笑ってる。
その世界を見ても、「世界は美しい。」と、言えるのは、ツリが人を愛せない人間だからなのです。
愛していないから、別に、人が、誰が、地獄に堕ちようとも、ドン底に突き落とされようとも、
拷問を受けて死のうとも、ええのですと、想っとるのです。
違いますか?
卵を大量生産する為に、雄のひよこは全員、






このように毎日、毎日、大量に生きたままミンチにされている。
それを観ても、ツリは、言うのデス。
「それでいて世界は美しい。」
レンダリングプラントで、瀕死の牛や馬がブルドーザーで運ばれてきて、丸まま巨大撹拌機に投げ込まれ、そのなかで、地獄の底からの悲鳴と絶叫を上げる者がいようとも、









ツリは、言うのデス。
「世界は美しい。」
生きているのに、手脚を切断される人間と動物が、なくならないこの世界を見て、ツリは、それでも言う。
「世界は美しい。」
ははは、そうだよ、ツリ、貴方にとっては、世界は美しいのDEATH 。
人を、動物を、愛せない貴方にとって、世界は本当に、美しいのDEATH 。
耀いているのDEATH 。キラキラ光り続けていて、眩いのDEATH 。
目が眩むほどに。
貴方の愛する娘が、家畜の如くに、レイプされ、生きたまま解体されるか、生きたままミンチにされようとも、世界は光り耀き続け、眩むほど、美しいのDEATH 。
嗚呼、そんな人間が、この世界にどれ程いるだろうか...!
20代で、スプラッターポルノ・SM・レイプ物のAVを監督し、その後、四半世紀も死体写真を撮り続けて来た男が、普通であるはずがないやろう。
普通の感覚で、人間を愛することなんかできないのDEATH 。
狂気も病気も、とうに超えてしまっているんDEATH 。
普通に人間を愛せないのDEATH 。
人間を苦しめることが、人間を地獄に突き落とすことが、ツリの人間に対する愛なんDEATH 。
ははは、僕は、最初の最初から、それに気づいていたんDIE 。
そうでなければ、僕はツリを、愛さなかった。
僕はだから、ツリが、本当に、どうしようもないほどに悲しくて、美しい存在であると、確信した。

僕なんだよ。
俺なんだ。

わたしは、人間を、愛せない。

だれも、愛せない人間DEATH 。

愛する貴方と同じに。








「世界は残酷だ。

 それでも世界はやはり美しい。

私はただひたすら美に殉じたいと願うばかりだ。」

釣崎清隆







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ツリの煩悶地獄 三


漸く、わたしは時間を遡り、時間を止めることのできる能力を、覚えることに成功した。
そして、わたしは彼らを、助けに行くことにした。
一緒に来てくれないかと、わたしはツリに言った。
ツリ以外に、頼める人はいなかった。
彼は、三日間の間、沈黙した。
だが、四日目の朝に、彼はそれを承諾し、一日でわたしたちは準備をし、時間を止めたその当日のイラクの地に、降り立った。
わたしたちは時空を超え、彼らがショットガン処刑を受ける0,001秒前に、彼の前に降り立った。
イスラム国の黒い覆面を着けた男に、ショットガンの銃口を顔面に突き付けられている美しい若い青年が、跪かされて地を見つめ、手を後ろで拘束されている。
他にも同じ赤い服を着せられ、2人の男が並ばされて跪かされていた。
彼が顔面を激しく破壊されて銃殺処刑される0,001秒前、彼の額の前に擦れ擦れで、銃弾が中空で止まっている。
僕とツリは顔を見合わした。
僕らは、過去に来ている。
もう何年も前に、彼らは、人類史上、最も残虐な方法の一つで、殺されたのだ。
でも僕らは、こうして過去に戻って来れることができた。
僕は、その彼の美しい顔を見るに堪えないものにしたその銃弾を、指でつまんでポケットに入れた。
その銃弾は、摩擦で、燃える火箸のように熱かった。
ツリは僕の手を掴んで見た。
だが何も火傷しておらなかった。
時間が止まっている為に、本当の熱さではないからだろう。
僕は感覚だけを、感じた。
さあ、早いところ、連れて帰ろうよ。
僕は深い息を吐き出すように力なく言った。
ツリは僕に訊いた。
何処に連れて帰るんだ。
僕はツリの悲しい目を観て言った。
この国やこの国の近くにおらせとったら、また捕らえられて、処刑されてしまう可能性があるだろう。
だからやはり、僕らのいる時間、あの日本に連れて帰るのが良いと想うんだ。
彼処におれば、イスラム国が遣って来ることはないだろう。
ツリは、溜息を吐いて言った。
殺される運命に在る者は何処に行ってもいつか殺されるのではないか。
君も言っていたじゃないか。
これは人類の罪による”犠牲”なのだと。
では彼らが殺されなかった場合、その犠牲は一体誰が代わりに払うんだ。
僕は充血する見開いた眼でツリの眼を見つめて言った。
決まってるじゃないか。僕とツリだよ。
僕らが彼らの身代わりになる為に、今、僕とツリは此処にいるんじゃないか。
他の誰かを身代わりになんてできないからね。
何なら、ツリ一人だけで彼らを日本に連れ帰ってくれよ。
僕一人此処に残って、イスラム国の男たちに時間を戻したあとにこう言うんだ。
悪いが彼らを殺させるわけには行かない。
その代わり、僕を好きなようにレイプしたあとに殺せば良い。
僕はきっと彼らに良いようにされるだろう。
彼らは顔を見合わし、驚いて困惑しながらもニヤニヤして嗤っている。
この男たちは、自分がこれから何をするのか、全くわかっていないんだ。
僕はその場に跪いて手を後ろにし、処刑される姿勢で叫んだ。
神よ…!あなたの御心が、成就されんことを…!
ツリは話を聴いていなかった。
さっさと彼らの拘束具を外し、彼らを起き上がらせ、憂いのたっぷりと籠もった表情で僕を正面から見つめて突っ立っていた。
そして少し鼻で笑うと優しい顔で言った。
さあ、日本へ帰るか。時間が戻らない内に。
僕は、心底、ホッとした。
ツリは僕を起き上がらせ、捕らえられていた三人の男と共に日本に戻って来た。
彼ら三人は、日本語がわからないし、英語も知らない。
各々に、彼らは自分の国の言葉で僕とツリに向かって、あらゆる言葉を話した。
一体、此処は何処なんだ?
何故、僕たちは、此処にいるんだ?
あなたがたは、一体、誰なのだ。
何を僕たちに、するつもりなんだ。
僕たちは、さっきまでイスラム国に捕らえられて、ショットガン処刑を受けるところだったはずなのだが…
あなたがたは、僕たちを助けてくれたのか?
どうやって助けたんだ?
あなたがたは、超能力者たちなのか?
それとも、此処は、夢のなかなのか…?
此処は、ツリの部屋で、外は嵐が過ぎたあとでどんよりと曇っていた。
僕はツリの部屋にあった赤ワインのボトルと、グラス5つと、豆おかきを持ってきて彼らの座る前の床の上に置いて、赤ワインをすべてのグラスに注いだ。
そして彼らの手と、ツリの手にグラスを渡し、みずからもグラスを手に持って言った。
今日は、神に祝福された日だ。
神の血を、一緒に飲もう。
僕は、涙を流していた。
僕は、先に自分だけ赤ワインを飲んだ。
すると安心してか、彼らもそれを飲んだ。
最後にツリも、飲んで豆おかきを食べた。
僕らはみんなで、言葉も通じないのに、気づくと微笑み合って、ホッとした気持ちでお酒を共に飲んで、共に豆おかきを食べた。
この日、何かが始まったんだ。
この宇宙で、死が、何かを産み落としたんだ。

翌朝、雑魚寝している皆のなかで一人起きて、美しい僕の愛する彼が、僕を起こして、寂しそうな顔で言った。
「故郷へ帰りたい。一緒に、帰って欲しい。僕の家族が、君を祝福する。」
僕は涙を流し、彼を優しく抱き締めて言った。

でも、観て御覧よ…。
僕は部屋のカーテンを開け、彼に外を観せた。
この世界。
このツリの部屋以外に、何一つ、存在していないよ。
もうみんな、すべて、滅び去ったあとなんだ。
今日は、2025年10月10日。
君が殺されたあの日から、十年、経ったろうか…?

























人類の拷問の地獄は、決して終わらない







ツリの煩悶地獄 一

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見よ。この、美しき、悲し気な慈悲の眼差しを。
一心に、彼は何かをずっとずっと見つめている。
全人類が、彼の命懸けで撮った写真を、見つめ続ける必要がある。
何故なら、彼は、一体、何を撮っているかというと、一体全体、何を25年も撮り続けて来たかというと。
御覧なさい。
あなたには、見えないか。
彼が、何を見つめているのか。
彼は、一つのものをしか、撮り続けて来なかった。
彼が、命を惜しまずに、また、拷問の地獄に怯えることもなく、
世界各国の犯罪現場、危険地帯で撮り続けて来たものとは、そう。
何も隠す必要はない。
死体である。
人間の死体を、彼はずっとずっと、撮り続けて来た。
世界を渡って、死体だけを撮り続けて来た男。
この世界で唯一無二の存在。
死体写真家、釣崎清隆。愛称、ツリ。
人々は、彼の撮った写真を初めて観たとき、アッと心のなかで声をあげて驚く。
これは、死体ではないか。
何だって?死体を撮り続けて来た男が、この国におるだって?
信じられないよ。本当なの?嘘じゃないの?嘘だと言ってくれないか。なぁんて、ね。別にそんなこと、俺にはどうだって良いよ。
こんな気色の悪いものを、あえて観たいなんて想わない。
吐き気がする。
気味が悪い。早く、その写真、何処かへ遣ってくれないか。
俺は見たくないんだよ。
だってすべての人間が、これに辿り着くんやろう?
キモいっすね。
いや、マジで。俺たち全員、こんなんになるんだね。
マジで、キモいよ。
生きてる意味在るのか?俺たちは。
最後はこんなに、醜いものになるのに。
生まれてくる意味があるのか?
だからさ、例えば交通事故の死体とか、本当に一度、一瞬でも観ただけで、
人間の一生のトラウマになるその死体に、俺たち全員、なる可能性のある世界なんだっつってんだよ。
わかってんの?
子供、産み落とすなよ。もう。
これに、この、この世で最も最悪な代物に最後にするために、人は自分の子を、
自分の子を最も愛して育て、本物の死体から、目を背け続けてるじゃないか。
発狂してる?
洗脳されてんのか、何者かに。
オウム真理教みたいなカルト宗教に、人類のほとんどが、洗脳されとんのか。
違うなら、何故、死体を見つめないんだよ。
可笑しいぢゃないか。
なんで毎日、死体を喜んで大量生産しているんだ。
死体に、するためだろう?
本当の絶望を自分と、人間に与えてくれる死体にするために、自分の愛する子どもを、
グロテスクな死体にするためにだろう?
違うって言うのか?
死体を観て、何を想うんだ?
気持ち悪い?
観たくない?
可哀想?
自分はこんな死体にはなりたくない?
お前だよ。
お前の姿だよ。
お前の死体が、お前が食べるその死体が、お前の姿だよ。
そんなに、キモいか、お前の食べ物と、お前自身が。
お前が殺したんやないか。
お前が食べる為に、お前が味わって食べるために、お前が、生きたまま解体して殺害したんやないか。
どの、人間の死体よりもグロテスクなそのスナッフフィルムをお前自身が喜んで撮り続けてるのも同じやないか。
お前の腹ン中で、お前と、お前の子どもが、生きているうちに解体されて惨殺されているその殺害シーンと死体の映像が無限に、回り続けとんねん。
わかってんの?
お前は自分自身と、自分の子どもを大量に殺戮し続ける為に、
死体を大量生産してきたんだよ。
俺は今、その無間地獄を、ずっとずっと、見つめてるんだよ。
顔を顰め、堪え難い苦痛を感じながら、此処から。
この、俺の足の脛まで、既に完全に浸かってしまっている、脂肪とぐちゃぐちゃに混じり合った、すべての人と動物の死体からずっとずっと流れ続けている血溜まりの上で。


























我が敬愛なる釣崎清隆へ





釣崎清隆氏、昨夜は、わたしに優しい笑顔と慈悲の御言葉をくださり、本当にありがとうございました。
今日になっても、まだ胸の底が感動で震えており、それで、今日になって、想ったのです。
せや、わたしの、一番の苦しみを、釣崎清隆に知って貰おう。
釣崎清隆に、わたしの最も苦しいトラウマを、聴いて、知って戴きたい。

その前に、わたしが過去に書いたわたしと父との関係と、わたしが最愛の父を亡くすに至った経緯を、まとめたものがあるので、是非、読んで戴きたい。



映画「小さな唇」感想 男と少女の姿は父親と娘のもう一つの話



この記事では、具体的に書くことのできなかった事柄があります。
わたしが、本格的に寝たきりとなる鬱症状を発したのは、20歳の時です。
父がわたしが元気になるようにと買ってくれたパソコンを、父もたまに使っていました。
皮肉なことに、父はそのパソコンで、無料でDownloadしたAV(アダルトビデオ、ポルノ映像)を観ていました。
父は、パソコンについて何も知らなくて、ダウンロードした動画のアイコンがデスクトップ上に堂々と在り続けていることにも、多分気付いていなかったと想います。
わたしはそれらをあえてクリックすることはありませんでした。
観たくもないのに、たった一度だけ、わたしは偶然的に、観てしまったのです。
何故か、勝手に、QuickTimeか何かの履歴の映像が、画面に流れてしまったのです。
その映像のなかには、一人の若い裸の女性(華奢なわたしの身体つきと良く似た裸の、顔がはっきりと観えない女性)が、カメラに向かって座ってみずからの性器をいじり、自慰行為をして必死に喘いでいる姿が映されました。
わたしは血の気が一気に引き、映像をすぐに消しました。
嗚呼、こんなものを観て、父は興奮し、欲情しているのか…。
わたしと、歳の変わらない、もしくは同い年かも知れない、顔も判然としない女性の喘いでいる自慰行為を見つめながら。
自分自身の、最も穢らわしく、嫌らしい醜い姿を、わたしは見せられ、そのわたしの自慰行為を観ながら父が性的快楽を感じているかのような、わたしにとって、まさに本物の地獄の経験でした。
それが、わたしのなかで最も深いトラウマで在り続けているのだと想います。
15,6歳の時、釣崎清隆の撮った死体写真を観たトラウマや、小学高学年から兄の持っていた数々の、遊人などのレイプ物の漫画の描写によるトラウマを、超える自分のなかの最も深い絶望として、一つのアダルトビデオが、わたしの記憶のなかにずっと在り続けています。

そして、わたしはわたしの本当のすべてであった最愛の父を、自分のなかの”性”に対する深い嫌悪と自責の苦しみによって、喪ってしまったのだということを、今でも信じています。

このトラウマを、克服すべく、わたしが今まで手を伸ばしたAVは、すべて西洋のものでした。
それらを観ても、わたしのトラウマに何か変化が起こることはありませんでした。
どうしても、わたしと同じ、日本人の女性である必要があるのです。
それなのに、わたしはこれまでまだ一度も、日本のAV(アダルトビデオ)を、ちゃんと観れないのです。

でも最近、わたしは釣崎清隆という、貴方の存在を知り、貴方がわたしの最も尊敬する命を懸けて死と、死体と向き合い続けてきた死体写真家で在りながら、同時に、わたしの最も嫌悪感の抱くAVというものを監督してきたAV監督であることを知って、わたしは自分の苦しいトラウマとなる死体を見つめると同時に、最も苦しいトラウマであるAVをも、見つめる必要があると感じています。

最も、観たくはないものを、みずから見つめること、此処にしか、このトラウマを克服する手段は、きっとありません。
この世に、AVが、ポルノ映像が、性的快楽を、肉欲と姦淫を煽るすべてのものが、なかったならば、きっとわたしはこのような地獄のなかで最愛の父を喪い、その絶望のなかにずっと生き続ける重度の引き籠りの生活保護者で、慢性的鬱症状の在るアルコール依存症ではなかったと想います。
でも同時に、わたしは想うのです。
わたしはこの、本物の地獄のなかにずっと生き続けてきたからこそ、ヴィーガンとして、自分が苦しい犠牲になってでも、すべての存在が救われることを一心に願い続けて生きて行ける人間に、なりたいのだと、いつも願い続けて生きている人間として生きられているのだろうと。

だから、わたしは感謝しているのです。
わたしのこの地獄の苦しみは、これからもずっと、在り続けるのだと想いますが、それでも感謝しています。

わたしが、何よりも、愛しているのは人間の深い悲しみであり、深い悲しみこそ、最も美しいと確信しているのですが、愛する貴方のなかにも、”どうしようもない”ほどの深い悲しみが、ずっと在るのだと感じました。

釣崎清隆という存在は確かに、わたしに消えないトラウマとなる贈り物を、贈ってくださった人であり、これからも、きっと贈ってくださるだろうことを、心から期待しております。

釣崎清隆氏、人間の、最も苦しい、最も地獄のその写真を、その映像を、撮り続けて、わたしたちにどうか見せてください。

どれほど苦しくとも、それを見つめ続けて生きようとすること、そこにしか、存在していない人間の真の救いが、必ずや在るはずなのです。









追伸:釣崎清隆氏の撮った、できれば、レズビアン物以外のアダルトビデオを、わたしはどうすれば観ることができるでしょうか…?




最後まで、お読みくださり、真に感謝致しております。


こず恵




















プロフィール 1981生 ゆざえ

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