ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

僕らは死のなかで生きる


モダンフリークスPresents【進捗night出張版】






進捗ナイト終わりなのか…。
なんか自分の所為なんじゃないかと悲しいけれど、多分違うのだろう…。

最近、つくづく、人間味の深い人ほど、死に近いんだと感じる。
感性の鋭い人、愛の深い人、繊細で壊れやすい人、毎日、どうしようもない苦しみと悲しみのなかに生きている人。
そんな人達が、表現をしていることは、この世界で本当の救いだ。
でもそんな人達が最早、表現を続けて行けないことが絶望的であり、終る人がたくさんいる。
僕の表現を真剣に読む(読みたい)人はこの世界で多分、一人か、二人くらいしかいないだろう。
0人である年もきっとあるだろう。
それでも僕は表現を終わらせたくないし、死ぬまで僕にしかできない表現を遣り続けて死ぬ。
進捗ナイトが終わってほしくなかったけれど、きっと新しいもっと素晴らしいものがこれから起こることを僕は信じる。

僕は釣崎清隆氏を本当に心の底から死ぬまで特別な存在として愛し続ける。
そして福田光睦氏もケロッピー前田氏もピスケン(曽根賢)氏も僕は大好きです。
人間として、僕は信用している。

僕は本当にイかれてるし非常識な人間なのだろう。
でも僕のような人間にもこの世界でちいさなちいさな居場所が在って、僕が生きてゆけることをこの映像に映っていた人たちが陰からそっと応援してくれているような気持ちになる。

ピスケン氏は100年後には此処にいるみんな死んでいるのだから、僕らはみんな「亡霊が生きている」んだと言った。
僕らは生きている亡霊であって、そんな存在たちがずっとずっと生きていることと死んでいることの一体なにが違うというのか?と、死を見つめつづけて切実に問いつづけて生きている。
死を見つめつづける人たちの眼差しは真剣であり、ギロギロしており、光を喪って死んでいて、黒々と輝いていて、焦点を失くし、優しくて、悲しく、美しい。

僕らは死のなかでしか生きられないのに。
僕らは生きているときにしか、死を見つめることは、できないのに。



















グロテスクなものから目を背け続けてグロテスクなものに果てる世界。


【無料版】『バースト・ジェネレーション』 presentsNEO鬼畜道場 ver. 第四回 報道メディアにおけるグロテスク表現の変遷







確か聖書外典の記述だったと想うのですが、イエス・キリストが弟子たちと何日も荒野を歩き続けて弟子たちの疲労が限界に近づいていたとき、弟子がある一頭の馬か駱駝の腐乱した死骸を見つけ、あまりの悪臭と、その見た目のグロテスクさに、弟子たちは皆、顔を顰めて、何の罪もないその死骸に対して呪詛を吐きつけます。
自分たちはもう飲まず喰わずで死にかけているのに、その上こんなおぞましいものに出くわすなんて、なんという悪運だろうと。
しかし、イエスはそれを観て、すたすたとその死骸に近づいて行って、こう言ったそうです。
「なんと美しい白い歯だろう!」
イエスはその死体の醜さや死臭の何をも気にせず、その代わりに腐敗した肉の為に剥き出しになった白い歯に心底感動したようです。
弟子たちはそんなイエスに吃驚しました。
わたしはこれを読んだとき、本当に感動しました。
同時に、弟子たちの感性とは浅ましいものだなと感じました。

釣崎清隆氏は、『「イノセンス(innocence)」は害悪である。』と以前に仰られていたようですが、それは「無知」や「馬鹿」の意味があるからだと。
わたしは、上記の聖句を読んだとき、弟子たちはまったく無知で馬鹿で阿呆だと感じました。
これを有り難るのであれば、本当に無知で馬鹿です。

釣崎清隆氏は、またインタビューでこうも仰っておられました。

『死体っていうのは、それ以上でもそれ以下でもなくて、要するにブラックボックスだから、見る側の、自分を写す鏡だと思うわけ。
そこに自分を見ているんだと思うんだよ。
だから死体を見ていかがわしいと思う奴は、自分の心が卑しいんだと思う。』

『死体だけを穴が開くまで見ても、何も見えてこないんですよ。
死体っていうのはある意味で、”生きてる人を映す鏡”だと思うんで、人が見て、「気持ち悪い」って思う奴は、「本人が気持ち悪いんだ」っていうね。
なんかそういう風な見方も成り立つんじゃないかなって、最近は思うようになったんですよね。
その時に、その人の人間性が見えてくるっていうか。
死体に対応してやってる人間のそれぞれの対応の仕方っていうのは、非常に何かね、感動的なんですよね。』



人間は「イノセンス(無罪)」が必要なのではなく寧ろ、積み重なり、その重さで底の底まで行くような「罪」が必要なんだと感じました。
イエスという人は多分そういう経験を本当に多く経験してきた人なのだと想います。

そして「罪」が深まれば深まるほど、人間は本質へ近づいて行けるのかもしれません。
それはとんでもなく苦しい道のりであって、深い孤独である必要があると想うのです。

自分はグロテスク表現をずっと遣り続けて、誰からも反応すら貰えなくて、苦しくて孤独でなりませんが、これが「キャー」とか「ワー」とか人々から喜ばれる日には、自分はもう何を遣って行きてゆけばいいのかわからなくなるのかもしれません。

取り留めの無い話になってしまいましたが、人が死や死体を不快に感じることや、グロテスクなものから目を背けようとすることは大変に深いテーマであり、何故、この時代にグロテスク表現がこれほどまでに人々に受け入れられないのかを、もっと深く掘り下げて考察して行けると良いなと感じます。

























死への羽ばたき

ぼくはだれかを喜ばせたいなんて想っていない。
すべてを苦しめたいんだ。
喜んでいるすべての存在が、真に鬱陶しい。
ぼくはすべてが本当に救われることを心から祈りつづけている。
此の世はほとんどが吐き気のするほど軽薄だ。
どこかの知らない国の人が殺人罪で公開斬首刑に処されても、Facebookで自分の顔をショットガンで吹き飛ばす映像を苦しみつづけて生きてきただれかが生配信しても自分と自分の周りが無事でいることを祈り続けて生きてゆくんだ。
みんな気づいていない。
自分と他のすべてが、同じ一つの大きな存在であるということに。
ぼくを愛する存在は、本当にどこにも存在しないんだと気づいた。
死ぬことも、生きることも、ただただ虚しい。
生きるにも値しないし、死ぬにも値しない。
ぼくは永遠にだれをも愛することはできない。
この虚しさが、永遠につづいてゆく。
この虚しさが、終らない生命の孤独のなかで、存在を、無から解放しつづける。
永久に、死へと羽ばたく日は来ない。
我々すべて、死から羽ばたいて来たのだから。


























漫画「ねこぢるうどん」  実際に壊れてしまうことの悲しみを、壊れないほどの感性が、どれほど理解できるのか?






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ねこぢるの漫画は、多分、彼女がこの世を去ったすぐあとくらいに知った。
ねこぢるの漫画の良さをわかりたいと感じている自分がこれまでずっといた。
でもこれまで、ちゃんと読んだことはなかった。
それは切り貼りされた雑誌やネット上の漫画のシーンだけでは到底わかり得ることはできないそこに存在する物語の深さを、自分が感じ取ることはできなかったからなのかもしれない。
どうしても、切り取られただけのねこぢるの漫画に自分は不快感を感じていた気がする。
それをちゃんとじっくりと読みたいという気持ちにこれまでさせられなかった。
でも22年程が経ち、39歳となったわたしは吉永嘉明の「自殺されちゃった僕」を読んだきっかけで、初めてねこぢるの漫画「ねこぢるうどん」をメルカリで3冊購入し、静かに読んだ。
嗚呼、なんてわたしは勘違いしていたのだろうと想わずにいられなかった。
そういえば、今日布団のなかで泣いた気がする。
ねこぢるのことだけではなくて、色んなことが重なって、わたしは悲しくて泣いた。
言葉では表現するのが難しい世界が、この世界にはたくさん存在しているのだと感じる。
ねこぢる(彼女)の表現してきた世界も、そういう世界だ。
ひとつだけ、その世界に対して表現できそうな言葉がある。
”果てのない悲しみ”の世界だ。
どこまでも深くて、底は見えない、辿り着ける場所もない。
そんな世界だ。
人間の感情が創り出せる世界であり、”虚無”もまた、人間特有の感情なのだろう。
わたしは、本当に大きな勘違いをしていた。
彼女は、わたしと、とても似ているのだと感じた。
生きている世界が、離れてはいなくて、近いと感じた。
わたしが小学3年生のとき、同じクラスの女の子を傘立てに載って遊びながら思い切り突き飛ばして大怪我をさせてもわたしはニヤニヤ嗤っていた。
小学6年のときは、かつて仲が良かった女の子の家が火事になって、彼女が今、瀕死状態で、先生が助かるようにみんなで祈りましょうと言ったとき、わたしは彼女が死ぬことを祈り続けた。そして彼女が死んだことを知った瞬間に、心のなかで大声で歓喜をあげたのだった。
彼女の葬儀のための日に、無理に悲しんで泣こうとしたが全く泣けなかった。
自分は、人と大きく違うと感じるのは子供の頃だけではなく、今でも同じだ。
ほとんどの子供は、そんな経験をしない。
そんな経験をして、何十年経ってもずっとそのことで自分を殺したいほどに自分自身を責め続けて生きていない。
「子供は残酷だ」と、人はまるでそれが当然のように言ったりする。
でも何故、それが”壊れている”状態だとは考えないのだろうか?
イスラエルの大学による研究によれば、「 生後6ヵ月などの小さな赤ちゃんも、他者の苦痛に慈悲と共感を持っている」ことがわかったらしい。

「最初の実験では生後 5〜 9ヶ月の乳児たちが明らかにいじめの被害者たちに共感を示していることがあらわされ、乳児たちは中立のパーソナリティを選ぶのではなく、身体的に傷つけられ苦しんでいるほうのパーソナリティに共感を示した」
「 2番目の実験では、苦しんでいる他者に対する幼児の共感は不変ではないことを示した。同じように苦痛を現している対象であっても、苦しむ理由が明確ではない場合(苦しんでいるふりをしている場合)、その対象には共感を示さなかった」

わたしの子供時代のサイコパス度が、子供として普遍的なものだとは自分でも想えなかった。
だから、わたしはとても苦しかった。
自分だけが、違う世界に生きているような気がいつもしていた。
この世界のほとんどのことがくだらなくてつまらなくて、不快で嫌い。
ほとんどの人が怖い。
ほどんどの人が、動く自動人形のように想えて怖い。
空想の世界にしか、自分の居場所(生きられる場所、生きているという感覚を感じられる場所)は存在しないと感じる。
殺された動物の死体を食べない。
人々が、驚く、バカにするようなことで日々深く傷つき続けて生きている。
他者のなかに存在する悲しみや孤独、苦痛の感覚に対する共感能力が特に深い。
他者(外界)と自分(内界)の境界がほとんど存在していない。
動物(弱い存在)を本当に愛しているのに、彼らが自分の想い通りにならないとき、自分が壊れてしまう。
愛が深いほど、人は苦しみ、限界値を超え、壊れてしまう、壊れてしまうから、殺してしまう、というこの世界の残酷さに、気づいてしまっている。
人々はそんな人達を、鬼畜や気違いや気狂いと呼んで排除しようとしている。
「ねこぢるうどん3」の「西友の巻」でにゃーことにゃっ太と一緒に遊んでいた”ぶたお”が最後、無残な死体と化し、食肉用の豚の死体を積んでいるリヤカーの上に載せられる。


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これを読んで、人は何を感じるだろうか?
この話を書いたねこぢる(彼女)自身は、肉(動物の死体)を食べない人だった。
彼女はにゃーこにぶたおを「みてるとにゃんかいやなきぶんににゃる」と言わせる。
豚の死体を何とも思わず食べている多くの人々が、豚のキャラクターを観て、可愛い可愛いと言っているこの世界で。
彼女は豚の死体(豚肉)を決して食べないが、豚を見ると不快な気持ちになることをにゃーこに言わせる。
わたしも豚を見ると、どうしても不快な気持ちになる。
可愛いと、喜べる瞬間もない。
彼らは毎日大量に殺され(惨殺され)続けていて、明日も、明後日も、ずっと、ずっと、死体となる瞬間が、わたしのなかでいつも再生され続けている。
それに豚は家畜のなかで人間に最も似ている。
この世界のおぞましい虚構に、そこに存在する堪えられない悲しみに、彼女が限界に達して死んでしまったのではないと、だれか言えるだろうか…?
ねこぢるの漫画は当時ものすごい人気を博し、どの会社も作者の心労など何も考えずに新作を求め続け、そのオーバーワークのなかで彼女はみずから命を絶った。
ねこぢるの作品の読者のなかに、彼女の本当の苦しみや悲しみを理解していた人がどれくらいいただろうか…?
わたしはまるでスーパーの鮮肉コーナーに惨殺された動物の死体が消費されてゆく商品として綺麗に並べられ続けるように、そこに存在している掛け替えのない価値が貪り喰い潰され続けゆくこの世界に、堪え難い苦しみと悲しみを感じないでいることはできない。









11月21日、追記を載せました。

















死体が、わたしを呼んでいる。







敬愛なる死の同志であられる釣崎清隆氏へ

わたしはずっと、樹海という場所を異様に恐れてきました。
『樹海 死体』等という検索ワードで、絶対にGoogle画像検索できなかったわたしが、釣崎清隆氏のお陰で、あなたとの縁で、やっと、日本の樹海で亡くなられた方たちの死体を、見つめることができるようになりました。

来月に入って、お金が入れば、すぐに村田らむ氏の、『樹海の写真集』も是非購入しようと考えています。
もう怖いものは、死体の内には、ありません。
わたしが無感覚になることの方が、よっぽど恐ろしいのです。

釣崎清隆氏が、本当に撮りたいのは日本の死体なのだと言った言葉に、わたしは深い喜びを感じると同時に、それがほとんど叶わないことを本当に残念に感じています。
わたしもなのだと、気づいたのです。
わたしも、最も見つめたい死体は、最も見つめる必要があると感じる死体は、わたしと同じこの虚しい、きっと世界一虚無に支配されているこの日本という国で生きてきた最も近い同胞である日本人の死体であるのです。

最近、村田らむ氏の『樹海考』を読みながら、涙が流れました。
樹海まで来て、人は、最後の晩餐を独りで食べるために、樹海へ入る前にあったセブンイレブンへ立ち寄り、そこで自分が自殺をする前に、最後の最期に食べたいものを選び、飲み物も買って、そして樹海の奥へ入って行き、小鳥たちが木洩れ日のなかに囀ずり、木の葉が風に揺れて擦れる音を聴きながら、静かに湿った朽ち木や枯れ葉の上に座って独りで、黙々と、もうあと何分後には、死体となり、死体現象をひたすら辿り、腐乱してゆく自分の身体のなかに、本来、生きるための食べ物と飲み物を摂り込んでは、身体は、その内部は、一生懸命に、生命維持の為に、けなげに消化してゆくのです。

食べて、飲んだあとは、おならやげっぷが出たり、排泄したくなる欲求を覚えたかも知れません。
生まれて間もない赤ちゃんや、幼児と変わらないのです。
人間は何年生きようが、あと数分後には、動かぬ人形のような死体と化す前までは。
でも、もう、御別れなのです。
自分を、必死に、生きてゆくこと、ただそれだけの為に生かしてきたこの、肉なる自分とは。

ふと、空を、見上げたかも知れません。
いいえ、ちょうど良い、吊り下がれそうな枝を見つけるために空を仰いだはずが、木々の間から、綺麗な、縹色をした空が、まるでマグリットの「大家族」の絵の、荒れる暗い海とゆくあてを喪ったような空にぽっかりと浮かぶ大きな鳥のフォルムのなかにある優しい色の青空が、その目に映ったかも知れません。
懐かしさを、感じて、切なくて胸が苦しくなったかも知れません。
でも、もう、後戻りはできない。
もう、決めたことなのだから...もう、生きてゆくことはできないから、生きてゆくことに堪えられないから、此処へ来たのだから。
帰り道は、闇に覆われていて、帰る術も、帰る場所も、なくしてしまった。
もう死ぬしか、もう死ぬことしか、できない...

わたしは、死体を見つめる人が、死体に寄り添うことができないならば、何の意味もないと感じました。
死体を見つめて、その人が生きているときを、自分のなかで鮮やかに再生できないならば、虚しいばかりなのです。
わたしは、わたし自身が虚しいと感じました。
あなたが撮り溜めた何枚もの死体の写真を見つめながら、何も、想像できなくなった自分が、死体より遥かに、虚しい存在であると感じました。

わたしは確かに、今からおよそ24年前、あなたの撮った痛々しい右手の写真が自分のなかに鮮明に存在し、その右手はずっとずっとわたしのなかで生き続けて来たはずでした。
わたしは、そのままにしておくべきだったのかと、複雑な苦しみに襲われ続けています。
あなたは、わたしがまだ15,6歳のときに確かにわたしに素晴らしい贈り物を命懸けで贈り届けて下さって、わたしはそのトラウマを克服する術を持ちませんでした。
24年あまりが経ち、そのパンドラの箱でもあり、玉手箱でもあるあなたからのgiftの箱を、再びわたしは開けてしまった。
其処に、女性の右手は、その死体の一部は、転がっていました。
でも違う...それはまるで別の右手であって、わたしの記憶のなかで地面に転がっていた、あの、わたしの深層の区域に常に其処に転がっていた右手ではないのです。
わたしは、狐につままれた想いで、わたしのなかの右手を、捜しあて、見付け出す為に、樹海へ行き、わたしはホッとしたいのか、此処にあったのかと。
でもそこにあるわたしの見つめる目の前に存在する死体は、紛れもなく、わたし自身の死体であるはずなのです。

わたしは、死に場所を求めるかのように、青木ヶ原樹海へ共に行ってくれる人を募りました。
誰かは、わたしの衝動的で不可解で危険極まりない行為を、冷笑するように、こう言うかも知れません。
死体が、貴女を呼んでいるのだと。




こず恵(Twitter:yuzae1981)
























我が死の同志である釣崎清隆へ

自分は、わたしの表現をいくつも読んで戴けたら理解して戴けるかと願いますが、グロテスクなものが、苦手で堪らないのに、グロテスク表現、過激表現によって、人間が、自分の目覚めの力によってみずからを救いだせることを、信じて自分の表現を遣り続けています。
それはわたし自身が、2012年に見たあまりに現実的な悪夢を切っ掛けに、現実の地獄とその悪夢がリンクし、ようやく自分が此の世に真剣に救いを求めたことによって、ヴィーガンになることができて、例え自分を犠牲にしてでも此の世(全存在)の真の救いを求めて生きられるようになったからです。
そして其処に行き着くまでの自分のこれまでの人生が、如何に虚しいものであり、利己的なものであり、此の世の最大の悪(生命に対する強制的な拷問の地獄の苦痛)に加担し続けてきたかに、気づくことができたからです。
でも、誤解して貰いたくないのは、わたしが本当に遣りたいこととは、飽く迄、フィクションであるということです。
その点に於いても、現実の死体を見つめ続け、その死体を芸術作品として昇華させるべく命懸けで表現し続けながらも、本当に遣りたいことは劇映画を撮ることなのだと言った釣崎清隆氏に、わたしは深く共感を覚えています。
自分は、啓蒙的表現には、真の喜びを感じられてはいないように感じています。
これは、使命であり、抗うこともできなければ、抗う必要もないわたしの死ぬまでの、身命を賭してでも遣り遂げねばならない責務なのです。
いつでも、自分の啓蒙的表現には、不満を感じています。
そんな容易く、この問題を昇華できるはずもありません。
わたしのバイブルである我が生涯の師、町田康の「告白」のように、最も愛する存在を、みずからの手によって殺す。それを、表現し切ること。その苦しみがなくては、とてもカタルシスを生み出すことはでき得ません。
わたしの根源的訴えとは、「何故、自分自身(他者)に拷問の地獄を与え、そして殺すのか。」という問いなのです。
今日の午前3時過ぎに、わたしは初めて、自殺映像なるものを観ました。
人間が、みずからカメラに向かって自殺する、その瞬間の映像をです。
彼は、自分の顔面をショットガンで見事に吹っ飛ばし、虚しく死にました。
自分を、悲惨な方法で殺害することで、彼はすべての人間に、訴えたかったのだと感じました。
何故、自分自身(他者)を、人は殺すのか。と。
胸を撃って自殺するだけで、十分に悲惨であるはずなのに、彼はそれだけでは、きっと許せなかった。
彼は、自分の最も遣るべき、自分に相応しい方法で、自分を殺したかった。
彼がグロテスクなものが好きだったか苦手だったか、知り得ませんが、どちらにしろ、彼は最もグロテスクな死に様の一つである顔面を吹っ飛ばして死ぬという方法を選んで、自分を殺して死にました。
こんなことを、わたしが他の誰よりもあなたに向かって話すのは、あなたは既にわたしの表現のなかで、わたしが、わたしの実名で殺した、実名の、たった一人の存在だからなのかもしれません。
わたしはあなたを殺してしまった。
でも殺したのはあなたの姿を取ったわたし自身であり、わたしが殺したいのは、わたし以外には存在しません。
わたしは、自分を殺す瞬間を、確かに観ました。
今日の午前3時過ぎに。
それは、酷く既視感の在るものでした。
わたしは既に、それを知っていた為、わたしが、そのヴィジョンに、ずっとずっと、執着してきたはずだと、気付いたのです。
わたしはこれまでずっとずっと、”顔”と、”顔”がない、その状態に執着し続け、最早、わたしは自分や家族を含めるどの人の顔も、現実ではその造形を覚えることが困難になりました。
人の”顔”は、肉(肉体)によって、できているのではないのです。
眼には観えない心や、魂や、霊といったものが、眼では観えないその部分に、現れているはずのもの、それが、”顔”というものなのです。
その”顔”という、最も大切な部分が、一瞬で、吹っ飛んで、真っ赤な鮮血を滴らせ続けるばかりのただの醜い肉となったのです。
それが、わたしの顔であり、すべての人の顔であるのです。
わたしは、グロテスク表現と、過激表現を、どれほど孤立し、人を傷つけ、自分も傷つき、絶望的な孤独のなかに生き続けるとしても、死ぬまで遣り続けたいと願っています。
実際、本当に誰一人、何一つ届かないのかも知れませんが、わたしには、他に方法がありません。
わたしと、すべての顔を取り戻す、方法がないのです。

























生まれて初めて、自殺映像を、わたしは観た。

今日の午前3時過ぎ、わたしは人生で初めて、人の自殺映像を観た。
何度と、iPhoneで再生させ、speedを一番遅くさせても、何度も再生し、わたしが6歳の頃に、この地上に生まれ、わたしと同じこの世界を生きてきて、同じ時間に、色んなことを考え、悩み、喜んでは悲しみ、苦しみ続けてきた彼のとても優しい顔が、吹き飛んで、砕け、真っ赤な、血の肉の顔、死となるその現実の瞬間を、わたしは繰り返し観た。





米ミシシッピ州ニュー・アルバニーで先月(8月)31日、イラク戦争の退役軍人であるロニー・マクナットさん(33)が自宅でショットガン自殺した。
ロニーさんは自殺の様子をFacebookで生配信し、このときの映像は現在、海外の過激ニュースサイト「BestGore」で見ることができる。

 自宅の机の前に座ったロニーさんが、スマートフォンを机の上に置いた直後、自らの顔に銃口を向けた。
次の瞬間、銃声が鳴り響き、ロニーさんの頭は木っ端微塵に吹き飛んだ。
崩壊した顔面からは皮膚や肉が垂れ下がり、大量の血が滴っている。
音を聞きつけて、部屋の奥から小さな犬がやって来た。
この犬はきっと、ひじ掛けにもたれかかっている飼い主が既に息絶えていることを知らないのだろう。
自殺の瞬間はわずか数秒だが、一度見たら決して忘れられない衝撃的な映像である。

 ロニーさんは、イラク戦争から帰国した後、うつ病と心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいたという。
最近職を失った上にガールフレンドとも別れたことが自殺の原因だという報道もあるが、真偽は定かではない。

 友人のジョシュア・スティーンさんは、自殺直前のロニーさんは「信じられないほど酔っていました」と語り、そもそも配信を始めたときは自殺するつもりがなかったのではないかと考える。
スティーンさんは、配信が始まってから、ロニーさんにメッセージを送信したり、電話をかけたりした後、警察にも連絡したという。
しかし、自殺を阻止しようとする懸命の試みは奏功しなかった。







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実際に、人の自殺映像を観たのは、人生で初めての経験だったが、わたしのなかにとても強い既視感があった。
わたしは、わたしの過去生をもしかしたら観たのかも知れない。
奇しくも、「至近距離から、ショットガンなどの破壊力の強い銃で顔面を、とにかく何発も撃ちまくったら、きっとこうなるだろうと想像できる顔面の原形を全く留めてはいない、ほんの少し、頭部を仰け反らせるようにして椅子に座って死んでいる女性の死体の鮮やかなカラー写真」を97,8年に観たわたしの一番の死体写真としてのトラウマを創作のなかで表現し、それを切っ掛けにわたしがみずからのトラウマである死体写真や、スナッフフィルムなどを見つめて行こうとすることを決意したのが、彼の自殺した4日後の、9月4日だった。






Ronnie McNutt3






彼の、生前のあまりにも優しげな顔の写真を保存し、少し見つめたのち、椅子から立ち上がった。
昨日からいつもより精神が不安定で抑肝散ばかり飲んでいたが、またも飲んで、わたしは切実に救いを求めるなか毛布のなかに動悸の続く身体を横たえて潜り込み、眠りに就いた。
4,5時間、わたしは眠り続けた。
悪夢を見た記憶はなく、寧ろ、彼の魂やわたしの守護霊たちなどから心配されているかのような、深い愛の安らぎの感覚のなかにわたしは目覚めたのだった。

それで、わたしはずっと目が覚めてから彼が、ショットガン自殺をライヴ配信した理由について、考えていた。
ロニー・マクナット(Ronnie McNutt)氏が、敢えて破壊力の凄まじいショットガンによって、みずからの顔を粉砕させて自殺し、その映像をライヴ配信した理由について、人々は、何も深刻に考えようとせずに、とにかくトラウマとなるから人に見るなと注意を拡散したり、早く削除するようにと要請したり、観たくないものを観てしまったと後悔したりしている。
人々は、気付いている筈なのに、気付いていない振りをしている。
残酷なことから、目を背け続けていても、残酷なことはこの世界から一向に、なくなっては行かないのだということに。
ロニー・マクナット氏が、戦場で一体、何を見て、どんな経験をして帰ってきて、彼が独りでずっと苦しみ続けてきたのか、わたしたちはわからない。
でも彼のその経験と、彼の自殺の方法が、深く関係しているかもしれない。
そして彼の苦しみと、わたし自身の苦しみは、離れているものではないのかもしれない。
わたしは2012年から、ずっとずっとこの世の本物の、終わらない地獄に対して、人々に訴え続けてきた。
それは、人間が、利己的な理由によって動物たちを大量に殺戮せしめ、自分の利己的欲望(家畜は皆、美味しい肉にするだけの為に、生きたまま解体されてから惨殺される)を満足させる為だけに、動物たちを地獄に突き落とし続けても、それが人間は元来、野蛮な生き物なのだから仕方ないと、或る意味、"正しい"ことなのだと嘯き続けているこの現実に対して、わたしはずっとずっと、訴え続けてきた。
その行為は、必ずや"自分自身"に、すべての人類に、返って来るのだと。
彼は、戦場で人を殺してしまったのかも知れない。
自分の罪の重さに、もはや堪えられなかったのかもしれない。
彼は、自分が撃った兵器によって、顔が砕け散って、醜い肉塊と化して死んでいる人の死体を、見てしまったのかもしれない。
彼は、自分が安らかに死ぬべきではないのだと、願っていたかも知れない。
自分の顔を、無惨に撃ち砕いてグロテスクな死体と、その、無念さを、人々に見せしめることによって、彼は自分の絶望と、自分の堪え難い苦痛と、この世界にある、暴力と殺戮の残酷さを、そこにある虚しさを、支配している虚無を、訴えたかったのかも知れない。
こんなにも悲惨で、虚しい”悪”はあるかと。
職が、人を殺す以外の、僕の仕事が、僕の遣るべき仕事が、他にあったならば、僕は殺さなくてもよかったはずだと。
屠殺人も、同じことを想うかも知れない。
他の仕事を、本当は与えて貰いたかったのだと。
殺す以外の、自分の仕事を。
どうか彼の、割れて砕けて、見るに堪えない肉の塊となったその顔から垂れる真っ赤な肉から床に滴り落ちつづける音を静かに聴きながら、想像してみてほしい。
これが、"誇り"だと信じられた仕事をしてきた人間の、最期に相応しい姿なのか。
動物を殺す仕事も人間を殺す仕事も、"何か"から、それを"誇る"べきだと、信じ込まされ続けている。
これは、一番に、人間をマインドコントロールすることのできる簡単な常套手段であり、この世界のほとんどの人が、それを、賞賛しながら、同時に、差別し続けている。
"殺す"という仕事に就いてきた人間を。
人々は、潜在意識に罪悪を感じながらも、彼らに感謝する。
あなたが殺してくれたから、わたしの”悦び”があるのだと。
肉を食べながら、人は屠殺した人間に感謝し、いざ、屠殺した人間がその苦しみの末に自殺したとき、人はその現実から、目を背け、顔を歪めて想う。
嗚呼、なんて醜い肉(死体)だろう...。
これがわたしと同じように、つい最近まで生きていた人間の姿だなんて...。
観たくないものを観てしまった...。
彼は、自分の仕事に誇りを持ってるのだと言っていたはずだが...。
そうだ、彼は、こう話していた。
自分が、人々の遣りたくはない、できない仕事をしているから、人々は、美味しい肉を食べられて、幸せを感じられるのだと。
この仕事に、誇りを持って、ずっと遣ってきたと。
でも彼は、その後、屠殺業を辞め、鬱病と心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされていたなんて、知らなかった。
わたしは、それを、知らなかった。
彼は、もう二度と、動物を殺す職業には就きたくないと、
生きてゆきたいのだと、自分に目で必死に訴えて来て、請い願う生命を、もう自分の手で殺したくはないのだと話していたことも。
わたしは、知らなかった。
わたしは、想像もできなかった。
わたしは、彼の苦しみに、無関心だった。
わたしは、わたしは、知らなかった。
殺し続ける行為が、どれほど人を、破壊するかということを。
その殺された死体の肉の塊が、どれほど彼に対して、その地獄をずっとずっとずっと、訴え続けて来たかということを。
























Mince

死体をミンチ状にしたことって、経験ある?
どうしたの。突然…。
マグロとかさ、たたきにしたことある?俎板の上で。
あるかな…。記憶に無いけど…。
そういう感じにさ、人間の顔面をミンチ状にしたいなって想ったことある?
…ないよ。
そう…。可笑しいね。僕もないけど、見たんだ。
何を?
今朝、見たんだ。女性の顔を、ミンチ状にする夢を。
またえらい悪夢見たね…。
貴方の撮った死体写真の影響だよ。
そうか…。
最初は、大きなシャベルで切断して、細かく切り刻んでゆくんだ。
仰向けになっている女性の顔を。
夢のなかだから、なんでもありで、上手く切断できるんだよね。
でもそのあと、ミンチ状にするっていう工程なんだ。
彼女の頭部はさ、最初からミンチ状になるっていう決まりがあって、人類の大半が、それを認めてるんだ。
彼女の顔はさ、最初からミンチ状になる為に、存在していたものだし、彼女の顔面はミンチ状になる為に、ずっとその顔が、そこに存在していたって事なんだよ。
ツリが撮った死体写真もさ、ミンチ状まで行かないとしても、それに近い状態のものがあったじゃん。
そうだね。
その人たちもさ、そうなる未来が、決まっていたんだよ。
肉の塊、ブロックやたたき、その違いがあるだけでさ、人間が調理して食べる肉と同じようなものにさ、最期はなるために、その顔が、その身体が、その肉があったんだよ。
でも誰も食べないでしょ…。
いや、食べるんだよ。
誰が?
遺された人間たち。遺された者たちがさ、食べるんだ。食べやすいためにさ、ほら、よく死体写真にもモザイクがかけられてるんじゃん。屠殺場の映像と同じにさ、見せたくないんでしょ。グロすぎるって言ってさ。同じだよ。神聖で穢されるべきものじゃないからモザイクかけるんじゃないんだ。ひたすらグロくて、不快で、人間が精神病まないで生きてくためにさ、見せるべきじゃないって魂が死んでる人たちがさあ、想うからだよね。
人間の顔だってさ、マグロのたたきや牛や豚や鶏のミンチ(挽肉)と変わりないでしょ。
何の為に存在してるの?マグロのたたきや牛や豚や鶏のミンチ(挽肉)を美味いっつって何とも想わずに食べてきた人間の顔がさ、何の為に存在してるの?
同じものでできてるのにね。死体喰い続けて来た人間がさ、生きてるなんてほざいてさ、生きてるわけないのにね。
生きてないからさ。最初から生きてなんていないのわかってたからさ、ミンチにしてやったんだ。僕が彼女の顔を。
まだ生きてる間にしただろってさ、非難受ける筋合いなんてないよ。
ミンチの顔の人間たちにさ。
手前ら、死ねじゃなくって、生きろよって(笑)生きてから非難しろよ。
で、僕の顔、今日ビデオに撮ってさ、Instagramに投稿したんだけどさ、ミンチ状になってんの(笑)僕の顔がさあ。
それで想いだしたんだ。嗚呼、そうだった。僕、散々ハンバーグとか、餃子とか、つみれとか、メンチカツとか、麻婆豆腐とかさ(笑)喰って来たじゃんって。それ全部、僕が僕の顔をミンチ状にしたやつだった!って想いだして、僕の顔が存在してるわけないってやっとわかったんだ。
そうだよ、時間が無いんだから、この世界は本当は。すべて、僕の食べてきた肉は僕の死体だったし、僕は一生懸命に、自分の食べる死体の為に、僕の顔を切断し、細かく切り刻んで、砕いてたんだ!
毎日、毎日、毎日…!
おぞましい、腐乱死体の姿で。
自分自身の顔をミンチ状にするその行為を延々と、繰り返し続けるんだ。
すべての、死体を食べ続ける人類のように。


























BURST GENERATION ―絶滅へ向かうこの世界を救う唯一の、絶滅しゆくものとは、絶望の死と悲しみである。








自分は1981年生まれで80年代と90年代に、最も重要な経験をして来たと言える人間である。

97年に酒鬼薔薇事件が起きて深く影響され(5年間、彼と自分を重ね合わせ、恋をし続け)、97,8年に兄の持っていたBURSTで釣崎清隆の撮った死体写真を観て衝撃を受け、深くトラウマとなり続けながらも、丸尾末広の「笑う吸血鬼」や糞尿まみれの童貞厠之助や「少女椿」の徳利児鞭棄などに本物のエロスを感じ、月刊ガロを読み耽り、猟奇的なものに官能的なものを覚え、フィッシュマンズの佐藤伸治の死に泣きながら暮らしていた90年代(十代)を生きて来て、最も愛する漫画家は華倫変で、生涯の師匠は町田康であるわたしが、サブカルチャーにあまり詳しくなくて、”カウンターカルチャー”という言葉すらつい最近知った。

Tattoo、ドラッグ、人体改造、エロ、ハードコア類…どれも興味がないのである。
はっきり言って、何一つそこに惹かれるものはない。
寧ろ、不快さを感じるし、面白くない。
そんなわたしが一番愛する映画とはアレックス・コックス監督、ゲイリー・オールドマン主演の「シド・アンド・ナンシー」である。

わたしが、約24年振りに、昔の「BURST」を買い占め、この「BURST GENERATION」を買ったのは主にたった一つの理由、死体と、釣崎清隆という人間を見つめるためである。

読んでいて、ほとんどはつまらぬ記事だと感じたのだが、非常に切ない気持ちにさせられるものも幾つかあった。
だが全体的に切なく、嗚呼、この雑誌きっと続かないんじゃないのか。という儚さを感じさせられる感覚であり、直観的にこの雑誌は、今この世界に求められているように感じなかったのである。
今求められているものとは、本当に反吐の出るくだらないものばかりであって、本物(本物の死体や、本物の人間の悲しみ)を切実に知りたいと願っている人間など、絶滅危惧種なのである。

例えば『父のロリータ』という記事は自分の境遇と凄く重なるものがあり、不快な苦しみと同時に人間の底知れぬ悲しみを感じて、とても良い記事だと感動したのだが、こういった記事を毎回読みたいのだと願う読者はどれくらいいるだろうか。
現代の大きな社会問題として”孤独死”の問題があって、孤独に暮らす人間にとって、明日は我が身の問題でもある。
浴室のドア下のコンクリートの床に頭を打ち付け、べっとりと黒い血痕と頭髪がそのまま付着しているその写真を掲載し、読者に、彼女の父親の最期を、想像させてくれる記事が、この時代にどれほど有り難いことか、どれほど貴重であることか、ほとんどの人は、知ることもない。
死体写真と同じく、人間の最期を嘘偽りなく観せてくれることを安心できる、決して消費されはしない、一生残り続けるであろう記事を載せてくれるこの雑誌自体もまた絶滅危惧種であり、そんな雑誌を、ほとんどの人は一度も手には取らず、死んでゆくことだろう。

p.s.釣崎清隆が撮ったからなのか、わからないが、青木ヶ原樹海の髑髏が、またも、どの死体より、どの生きた人間よりも優しい幸せそうな顔で安らかに眠っているのだった。
わたしは本当にこれまでずっと髑髏恐怖症だったのに、彼の撮った髑髏があんまりに愛おしくて、最近、髑髏を連れて帰りたくてしょうがない。

最後に、この雑誌にわたしからの御願いがある。
本当の地獄の苦しみの末に亡くなったであろう自殺者の死体(仏様)の次のページに、エロが来るのだけは、やめて戴きたいと願う。


























ツリの煩悶地獄 六

今日も、遺品整理のバイトを終えて帰宅し、家に就いて、ツリは一服していた。
ビール缶を片手に、豆おかきを食べながら、疲弊を感じながらも、今日一日を無事に過ごせたことを感謝する気持ちで、幸福を噛み締めている時だった。
玄関のチャイムが、突然鳴った。
ツリは、吃驚した。一体、こんな時間に、誰だろうか?ツリは大変に訝った。
すると、ドアの前で、男の声がした。
「ヤマト宅急便です。」
ツリはホッとした。なあんだ、宅配便か。はて、何が届いたのだろう。
ドアの前まで行って、覗き窓から外を覗くと、確かにヤマト運輸の緑色の制服を来た男が、緑色の帽子を被って立っておった。
安心し、ツリはドアを開けた。
その瞬間、物凄い速さで、男に腹と、頭部を鈍器で殴られ、気絶した。
次の瞬間、ツリは、ヌルヌルとした、熱い血の味で目が醒めた。
鈍痛を、頭部の左上部分に感じて、ツリは想った。
俺の頭から血が流れており、その流れてきた俺の血を、俺が舐めている、そういうことか。
そして、あっ、とツリは想いだしたのだった。
そうだ俺、訳がわからないが、ヤマト運輸の男に突然、殴られたんだ…。
ツリは、此処は、はて、何処だろう…?と想った。
薄暗くて、良く観えなかった。
何か、物があるようにも観えるし、何もないようにも観えた。
とにかく狭いようで、広いようにも感じられたが、室内であることはわかった。
何故ならば、室内にいるときの、雨の音が、外から聴こえて来るからだった。
気温も暑くもなく、寒くもなかった。
一つ、明確にわかることは、自分は椅子に座らされており、両手首を、椅子の背凭れの部分に強く縛り付けられており、両足頸は、椅子の足に、それぞれ拘束され、自分は身動きがまったく取れない状態であるということであった。
一体、何が起こっているにだろうか…。
「いるにだろう」って何…?ツリは自分で突っ込んだ。
嗚呼、俺は…。俺は…。とうとう、捕まっちゃったのか。ツリは絶望した。
誰かわからないけれども、俺は、本当に捕まえられちゃったんだ。
色々と、ヤバいこと俺は遣ってきたものなあ…。遣りたいことを。
いつか、こうなっても可笑しくないことを、俺は遣ってきた。
いやさ、ずっと想ってたんだよ俺は。なんで俺以外の人間たちがさ、続々と殺されたり、死んだりしてゆくこの世界で、俺っていう何でも好きなこと遣ってきた人間が、まだ本当にヤバいことにはなってないのかなって。
いつか、こうなるって、何処かで恐れてたのかなぁ。
それが、叶っちゃったんだ。叶えられちゃったんだ。俺の潜在的恐怖が。
…。しかし此処は何処なのだろう?
ツリは、独り言をずっと喋って気を紛らわそうと必死だったが、いよいよ、堪え切れなくなり、不安が暗黒のコクーン(cocoon)のように、ツリを覆ったのだった。
目の前が、薄暗い感じだったのが、真っ暗になった。
嗚呼、俺とうとう、死ぬのか…。
誰かに、殺されるか、このまま、死ぬのかな。
助けてくれる奴、誰もいないのか。
俺みたいな人間、命懸けて助けてくれる奴、いないよなぁ…。
嗚呼、そういやあの娘、俺に”死の同志”だなんつった、はは、こず恵は…どうしているのだろう。
彼女、俺のストーカーになって、本当に俺の家にいつか遣って来るんじゃないかって想ってたんだがなぁ。
一向に、来ないんだよな。つまらんことに…。
死の同志とか、大層なこと言っておきながら、そんなもんなのか。
まったく、根性のない女だよ。俺を殺す勢いでさ、俺を殺すほどにさ、俺を愛してみろっつうんだよね。
死の同志だなんて言うならね…。
俺を、助けてくれないのか…。こず恵も。
ツリは、魂の底で、こず恵を、死の同志であるその彼女を、呼んだ。
その時である。
眩しい光の漏れる、ドアの隙間が開き、ドアが、閉められた。
何処かの角に、蝋燭の火でも灯ったかのように、部屋が、少し明るくなったような気がした。
ふと、気づくと、ツリの目の前、ニメートルほど先に、こず恵が、白いレース生地の花柄のミニワンピースを着て、神妙な顔で、彼を見つめて立っていた。
ツリが、驚いて、黙っていると、彼女は哀れむ顔をして言った。
「ごめんなさい…。」
ツリは、彼女に深く、息を吐いたあと応えた。
「やはり…貴女だったか…。」
彼女は、黙っていた。
その憐れむ顔は、何処か微笑んでいるようにも観えた。
ツリは、優しく、「おいで…。」と彼女に言った。
彼女が、涙を、絶え間なく流し始めたからだった。
ツリは、人相は、悪いが、本当に情に弱い、人情深い男なのだった。
彼女が、哀れで可哀想でならなくなったので、優しくしてあげたいと素直に想ったのだった。
でも彼女は、まるで一度、幼いときに父親に棄てられた娘のように、緊張してツリに近づくのを拒んでいた。
だから、ツリは、もう一度、ツリのなかに存在し得る、慈悲を最大限にした声で、彼女に言った。
「こず恵…。おいで…。」
すると、彼女は、不安げな顔のまま、つたたたたたたん。と、幼女のようにツリのもとへ駆け寄り、ツリの膝の上に、ちょこなんと痩せ細った身体を横にさせて載ったのだった。
ツリは、笑うのを我慢した。
堪えながら、優しく彼女に微笑みかけて、黒く、丸い目をして見つめる彼女を見つめ返した。
すると、初めて、彼女はツリに、恥ずかしげに微笑み返した。
ツリは、彼女が最愛の亡き父と、自分を重ねていることに気付いていた。
彼女の父親が、まるで自分のせいで死んで、父親がすべてであった彼女も一緒に死んだのだと、責められ続けて来たことも気付いていた。
ツリは、彼女に対し、潜在意識で深く罪悪心を懐いていた。
Twitterで、彼女が自分に対し厭味を言い始めた時、いよいよ始まったかと想った。
積年の、愛憎による呪詛の始まりが、とうとう始まったことを知り、ツリは居た堪れなくなり、ツリは、彼女を仕方なくBlockした。
彼女は、自分に対して、理想の父親であって欲しいのである。
何故ならば、彼女は理想の父親と、理想の母親をしか、この世に求めてはいないからだ。
でもそんなことは、到底、無理な話である。
一体、どうやって、他人である男が、彼女を無償の愛で愛し続けることができるというのか。
ツリは彼女の本当の欲求に、何も応える気はなかったし、応えられることは何もないことを知っていた。
此処に存在している虚しさを、彼女も、ツリも感じていた。
彼女は、自分に対して、殺意以上の、恐ろしい感情と念があるのも、ツリはわかっていた。
でも、どうだろう。今、実際にこうして彼女に拘束され、頭蓋骨も多分、陥没させられ、血が、だらだらだらだらと流れ続けて来るなかに、彼女を(心のなかで)抱っこして、ツリは観念しているのか、変な安心を感じているのだった。
嗚呼、きっと俺はもうすぐ死ぬのだろう…。
彼女は、俺の頭蓋骨陥没に、当然、気付いているはずなのだが、一向に、応急処置をしようともしないじゃないか…。
そんな自分の悲しみに彼女はエンパスなので、すぐさま気づき、ツリを睨みつけた。
嗚呼、俺は睨まれている…。蛇に睨まれたる蛙の如きツリは彼女を深い眼差しで見つめて言った。
「だいぶ…朦朧としてきたよ。こず恵…。俺の命も、もうすぐ事切れるのかもしれない。」
彼女は、ツリの陥没した頭の肉の割れ目を観て、ツリに向き直るとホッとした顔で微笑んで言った。
「大丈夫。ツリ。生きてるよ。」
「…。」
話が通じてるのかな…この娘(こ)…。
ツリが、絶望の闇のなかで煩悶していると、彼女が、急にツリの膝の上でもじもじとし始め、何かを自分に要求していることに気付いた。
ツリは流れ落ちて来る血に、目を瞬かせて血の涙を流して訊ねた。
「何かして欲しいことがあるの?言って御覧。後生だからね…。」
すると彼女は、恥ずかしげに身をくねらせながら、頬を赤らめて、幼女のようにツリに向かって囁いた。
「パパ…。キスして…。」
ツリは、生唾をごくりと飲んだ。とうとう、来たか…。これはただのごっこではない…。
もう本当に、死ぬな…。俺、死ぬわ…。ツリは、自分の意識が薄れて行きそうな気がした。
嗚呼、もう本当に俺は死ぬよ。死ぬなら…最期に、彼女の望みを聴いて死んでやろうじゃないか…。
ツリは、彼女にそっと、父親のようにキスしてあげた。
すると、嗚呼、どうしたことだろうか、こんな死の間際に。
ずっとEDだったのに…。ツリは自分の陰茎が激しく勃起して、彼女の太腿に突き立てていることに気づき、興奮した。
ツリは、彼女と激しくキスし始めると、舌を彼女の喉の奥に突っ込み、自分の熱い血を彼女に飲ませた。
そして、もう堪らなくなったので、彼女に懇願した。
「こず恵…。縄をほどいてくれ。」
彼女は、不安で仕方ないという顔をして、ツリを見つめると、首を横に振った。
ツリは、倒れそうな感覚のなか、彼女に言った。
「こず恵を、この手で強く抱き締めたいんだよ…。」
彼女は、目を伏せ、涙を流した。
ツリは彼女の涙を舐め回し、勃起した男性器をぐりぐり彼女の女性器に激しく擦り付けた。
彼女も、激しく欲情し、小さく喘ぎ始めた。
あまりに激しく、ツリの身体に寄り掛かってくる為、椅子が後ろに倒れ、後頭部をしたたか打ち付け、ツリは衝撃で少しの間、気絶した。
そして、気絶から目が醒めると、縄はほどかれており、ベッドの上に、横たわっていた。
彼女が、幸せそうな顔で自分の身体に抱き着いて、寝息を静かに立てて眠っていた。
白いシーツが、殺害現場のように、真っ赤に染まっていた。
俺の血、全然止まる気配がないじゃないか…。
ツリは、何を想ったのか、側にあったデスクの上に、カメラを見つけると、彼女の着ている自分の血で染まった白い花柄のレース生地のミニワンピース姿を、その血のなかで、死んでいるかのような彼女の姿を、死体として、撮影し始めた。
そして、次は脱がして裸にすると、カメラを手に取ったが、ツリは、深い溜め息を吐いてカメラをデスクの上に戻した。
彼女は、静かにまだ、眠っている。
ツリは、死体を犯すように、彼女と交わった。
絶頂に達する瞬間に、彼女は息を吹き返すかのように息を深く吸い込んで目を覚まし、彼を見つめた。
自分の頭から流れ滴る血で、彼女の顔もまた、血だらけであった。
ツリは、もうすぐ、世界は終わることを知っていたが、彼女の目を父親のような眼差しで見つめ、静かに言った。
「こず恵、今から俺とこず恵の、結婚式を挙げよう。」
彼女は、本当に幸せそうに、微笑むと、うんと、頷いた。
そして次の瞬間、自身の背中に手を伸ばすと彼女はツリの額に銃口を突き付け、黒々とした目で言った。
「もうすぐ、生まれる。わたしたちの愛する子が…。」
彼女はトリガーに指を当てた。
ツリは、涙を湛えて絶望した美しい顔で彼女を見つめながら「何故なんだ…。」と言いかけた。
言い終わる前に、彼女はトリガーを引き、ツリは衝撃で後ろに激しく倒れる形で頭部と上半身を跳ね上がらせた。
だが、彼女を覆うように身体を載せている状態だった為、バウンドして彼女の身体の上に激しく倒れ込んだ。

約一月後、ベッドの隣で眠る腐乱死体と化した彼の頭部の腐肉のなかに手を突っ込み、彼女は彼の頭蓋骨を取り出すと、湯船に溜めていた温かいお湯のなかで綺麗に洗い、すべての醜く穢れた肉を洗い落とした。
そして彼の死体の隣で、赤子のように彼の白白とした頭蓋骨を胸に抱いた彼女は横たわると、此の世の何より幸せそうな優しい顔で眠る髑髏を見つめ、彼女は幸福に満たされながら言った。
「これは、わたしの愛する子。わたしの、死の息。」


























oOoOO - Starr


























死と性と女 釣崎清隆に捧ぐ

『バースト・ジェネレーション』 presents NEO鬼畜道場 ver. 第三回(収録配信)で、
死体写真家である釣崎清隆が話していた。
「ヤバいと想いながら、ヤバい女とやっちゃうってことありますからね僕も。今はほとんどないんですけれども。」
と。
わたしはこれを聴いて、「ヤバい女」とは、一体、何なのか?ということを考えた。
自分自身が、或る意味「ヤバい女」として生きる一人である。
人間の「ヤバさ」は、人間の数だけあるはずである。
しかし自分にとって、相手が何故ヤバいのか?と考えると、
それは後々に、自分に降り掛かる”リスク”の、ヤバさであるはずだ。
自分に降り掛かるリスクの高さが、高い可能性がある相手ほど、自分にとって、ヤバい人間であるはずだ。
女ならまず、セックス依存症や、よっぽどの自罰心理がない限り、こいつはヤバいな。と感じる男と、やったりはしないのではないか。
でも男の場合、ヤバいと感じても、やるのは”性欲”というどうしようもない問題があるからだと、想う人は多いかも知れない。
待ってくれよ。とわたしは言いたい。
どういうことなんだ。セックスをするにあたって、”リスク”の重さ、重いリスクを被る可能性の高いのは、
女の方だという考えが、何故スルーされているんだ?
もし、それをスルーしていなかったならば、「ヤバい女」という浅ましい侮蔑の表現で、自分がセックスをした女性に対して、表現することなどないのではないか?
”セックス”とは、どのように避妊しようが、妊娠する可能性を0%にすることはできないことくらい、
釣崎清隆も知っているだろう。
女にとって、100%、妊娠する可能性を防ぐことはできないセックスに於いてのリスクとは、
妊娠、堕胎、出産(出産時や産後鬱などによる死)、養育費、産めば子供を育てることに多くの時間を費やすリスク、
堕胎すれば、我が子を殺したという罪の意識(カルマ)から逃れられないリスク。
これらのリスクの可能性がある上で、女はどの男ともセックスするしかないのである。
わたしは9人の男性とセックスした過去があるが、避妊をしてセックスをしたことはこれまで一度もない。
相手が勝手に膣外射精をした時は、相手を真剣に責めた。
避妊(膣外射精をも含む)は、自分の内に存在する神に背く行為だからである。
セックスをして子供を授かることとは、”自然”という神の存在の最も深い愛の現象だからである。
人生とは皮肉なもので、ずっとずっと子供が欲しいと望んできたわたしは一度も妊娠できずに、
わたしの姉は一度、堕胎の経験があるが、その後、未婚で元気な男の子をもうけた。
ずっとずっと政府は隠し続けてきたが、日本の死因の第三位は実は”人工妊娠中絶”である。
【数字でみる人工妊娠中絶】日本人の死因ランキングTOP3に入る?驚きの人工中絶数と順位
わたしは前世できっと何度と、堕胎された経験も堕胎した経験もあるのだろうと感じるほど、
”堕胎”という人間の行為について、あまりに敏感であり、耐え難い苦しみを感じる。
堕胎を行い、二度と子供を産めなくなる女性や、堕胎が原因で死に至る女性、
そして出産でも、命を落とす女性がいることを当然知った上で、”ヤバい女”とセックスしてきたと、釣崎清隆は表現したのだろうか?
好き好んで、女性を苦しめて快楽を感じる趣旨であるレイプもののAVを監督して撮ってきた釣崎清隆が”ヤバい女”と表現するとき、女性を見下しているように感じてしまう。
釣崎清隆に、わたしの最愛の父を喪った原因であるわたしにとって人生で一番の苦しみのトラウマはアダルトビデオなんだと告白し、
このトラウマを克服してゆく為に、釣崎清隆の撮ったAVを最初に観たいのだという趣旨を話し、
どうしたら観れるのかと三度、質問したが、三度とも、答えてくれなかった。
わたしは、釣崎清隆が、許せない。
死と性と女を冒涜し続けてきた釣崎清隆を、わたしは許すことはできない。
死と性と女、わたしにとってそのすべて、わたしの母であるからでらる。
わたしが4歳の時に、母は死んで、死体となった。
母の死体を見つめつづけたわたしにとって、死と、すべての死体は、わたしにとって母である。
そしてすべての女性器は、わたしの生まれてきた神聖な場所であり、わたしにとって母である。
すべての女性に対し、わたしが深いコンプレックス(感情の複合体のこと。 衝動や欲求・記憶などの、さまざまな心理的要素が無意識に複雑に絡み合って形成されるもの)を懐き続けて来たのは、すべての女性にわたしの母を映し、母を求めてしまうからである。
釣崎清隆は、わたしの母を、本当に好きなように傷つけ、陵辱し、侮辱し、恥辱と汚辱を味わわせ、果てには、呆れたことに、Tシャツやトランプにまでしてきた。
わたしは、釣崎清隆にTwitterをブロックされてしまったが、今でも変わらず愛している。
本当に愛しているからこそ、あえてこんなことを話さなくてはならない。
貴方に、これまでと同じように、死体と、女性を撮り続けてはほしくないんだ。
貴方には、自分の最も愛する存在として、死体と女性を、表現することは、撮ることは、見つめ続けることは、できないのですか。
自分を産み落とした母(死と性と女)に対して、このまま犯し続け、死んでゆくおつもりですか。
決して、安らかではない死に様で。


























ツリの煩悶地獄 四

ツリは、彼の命懸けで撮り続けて来た死体写真集、『THE DEAD』 の刊行に寄せての言葉のなかで、こう述べていた。







「世界は残酷だ。

 それでも世界はやはり美しい。」






僕は、そんなツリに、昨日、Twitterのダイレクトメールで、こう問うた。

ツリの愛する人が、こんな最期を迎えても、「世界は美しい」と、言えるのですか…?と。

















しかし、わたしはツリから、とうとう答えて貰わぬ内に、アンフォローされてしもうた。
理由は、ダイレクトメールによる「私信の濫用」であるようだ。
わたしは昨夜、朝から夜までずっと、酒を飲んでおった。
昨日はわたしの愛兎、みちたの、一回忌であった。
とにかく、ずっと飲んでいた。何も、何も、何もしたくなかった。
何もしたくなかったから、愛する死の同志であるツリに、何度と切実に話し掛けた。
酩酊状態で、何もしたくなかった。
僕のメッセージをスルーし続けるツリに、僕は切実にこう厭味を言った。
『自分のドウデモイイツイートはするのに、わたしの切実なメッセージは読んで戴けないのですね。』
ツリは、いい加減、怒(いか)った。
「一度冷静にご自身の書き込みをかえりみてもらえますか? 
その上で、これ以上分をわきまえないようでしたらブロックするしかありません。
私信を濫用しないでください。
ただそれだけです。
僕はこう見えても忙しいんですよ。」
と優しく言いながらも、心では、想い切り、ムカついていた。
僕はツリと、その後、約一時間ほどかけて少し会話したのち、9人おったフォロワーの、ケロッピー前田氏を含む、8人全員を、アンフォローさせた。
そして、嬉々として、ツリに、言った。
「フォロワーがツリだけになった!」
数秒後、ツリは、僕を無言でアンフォローした。(僕は謝罪の言葉を一言も言っていない。)
僕は、絶望にうちひしがれ、ツリを、罵りたくなった。
寝ても、目が醒めると、ツリに対する悲憤と不満が溢れてきて、とうとう、ツリに電話を掛けた。
留守電やった。
僕は、緊張しながらも、絶望と悲しみとアルコールの残留で朦朧としながらも留守電にこう遺した。
「何故、教えて、戴けなかったのでしょうか...?
 何故、釣崎清隆氏の、撮ったアダルトビデオを、どうしたら、観れるのか?
 という質問に対し、答えて戴けなかったのでしょうか...?
 良ければ、御答えください。ガチャっ。」
そう必死に、蚊の哭くような声で、きれぎれに言って、携帯の受話器を置いた。
ツリから、電話は掛かってこない。
彼は、僕に対して元々、真摯に向き合いたいという気持ちが、あらへんのです。
いいえ、彼は、根源的に、人を、愛せないのです。
だから、「世界は美しい。」と、言って退けるのです。
違いますか?
ほとんどの人は、生きたまま解体された動物の惨殺死体を喰らいながら、笑ってる。
その世界を見ても、「世界は美しい。」と、言えるのは、ツリが人を愛せない人間だからなのです。
愛していないから、別に、人が、誰が、地獄に堕ちようとも、ドン底に突き落とされようとも、
拷問を受けて死のうとも、ええのですと、想っとるのです。
違いますか?
卵を大量生産する為に、雄のひよこは全員、






このように毎日、毎日、大量に生きたままミンチにされている。
それを観ても、ツリは、言うのデス。
「それでいて世界は美しい。」
レンダリングプラントで、瀕死の牛や馬がブルドーザーで運ばれてきて、丸まま巨大撹拌機に投げ込まれ、そのなかで、地獄の底からの悲鳴と絶叫を上げる者がいようとも、









ツリは、言うのデス。
「世界は美しい。」
生きているのに、手脚を切断される人間と動物が、なくならないこの世界を見て、ツリは、それでも言う。
「世界は美しい。」
ははは、そうだよ、ツリ、貴方にとっては、世界は美しいのDEATH 。
人を、動物を、愛せない貴方にとって、世界は本当に、美しいのDEATH 。
耀いているのDEATH 。キラキラ光り続けていて、眩いのDEATH 。
目が眩むほどに。
貴方の愛する娘が、家畜の如くに、レイプされ、生きたまま解体されるか、生きたままミンチにされようとも、世界は光り耀き続け、眩むほど、美しいのDEATH 。
嗚呼、そんな人間が、この世界にどれ程いるだろうか...!
20代で、スプラッターポルノ・SM・レイプ物のAVを監督し、その後、四半世紀も死体写真を撮り続けて来た男が、普通であるはずがないやろう。
普通の感覚で、人間を愛することなんかできないのDEATH 。
狂気も病気も、とうに超えてしまっているんDEATH 。
普通に人間を愛せないのDEATH 。
人間を苦しめることが、人間を地獄に突き落とすことが、ツリの人間に対する愛なんDEATH 。
ははは、僕は、最初の最初から、それに気づいていたんDIE 。
そうでなければ、僕はツリを、愛さなかった。
僕はだから、ツリが、本当に、どうしようもないほどに悲しくて、美しい存在であると、確信した。

僕なんだよ。
俺なんだ。

わたしは、人間を、愛せない。

だれも、愛せない人間DEATH 。

愛する貴方と同じに。








「世界は残酷だ。

 それでも世界はやはり美しい。

私はただひたすら美に殉じたいと願うばかりだ。」

釣崎清隆







IMG-8613


























ツリの煩悶地獄 二

わたしは愛するツリと、本当に、
SEX蛾死体DEATH。」

と、とうとう一線を越えた言葉を、私は危ない気狂い系の熱烈なふぁんの女性から、Twitterのダイレクトメールで告げられてしまつた。
うーん。また、この糞忙しいときに、ファンと見せ掛けたアンチツリによる嫌がらせではあるまいな...?
私は今、急いで脱稿せんければならぬ執筆に気が気でならず、筆が進まぬ気晴らしにTwitterをちょいと触ればこの在り様。
怒濤のように私に対するこの女性からツイートとDMが送られてきよるから、どうしたものかな。
この女性はもしかしてアレなのかな、私を脱稿させたいのではなくて、脱肛させたいのかな?
本気なのであろうか?
私から返信がなくて苦しいのだと言われても私も今、私のあらゆる苦しみに苦しんでいて、もう何をどうしたら、何をどう着たら良いのか分からず、ステテコを頭から被ってみたものの、そんなことをしても、何一つ、筆は進まなかったではないか。阿呆たん。
それで、一体にこの女性は私に何を求めているのかと想っていたら、今日の午後、こんな言葉が彼女から届いたのである。

「僕は愛するツリと、本当に、
 SEX蛾死体DEATH。」

一体、何なのだ。これは。
おちょくっているのか、この私を。
死体写真家として死体で飯にありついてきた私に対する嘲りと愚弄と憫笑と陵辱なのか。
私は、深い深い溜め息を吐き、目を閉じた。
うーん、目が、目が、じんじんするな。
そして疲れて憑かれて私は横になっていた。
す、る、と、闇のなか、彼女が、私に向かって言った。
これは、暗号だよ。大事な暗号なんだと。
私は夢と現実の合間で、闇の内側から囁く彼女と共に、この暗号を解き始めだす。
""の形を見つめてごらん。
これは...。
あっ、これは...。
そうだよ、真っぷたつに、されてるでしょう。
永遠のマーク、無限の印が。
を、縦にして、真っぷたつに切断すると、になるんだ。
あっ、本当。これはすごい発見だ。
次行こう。
早いな、おい。
次はなに?
次は""だよね。
あっ、早くも、わかった。
何?
これも真っぷたつにしてるんだね。
と言う字を。
そうだよ!
日本が真っぷたつにされるという預言だよね。
違うよ。
違うんか。
日は、太陽だ!
太陽が、真っぷたつにされるのか。
そうさ、光のもとが、二つに切断され、分かれるんだ。
これは詩的だ!
では次行こう。
もう行くのか。
次は、""!
見つめてごらん。
ピラミッドの上に逆ピラミッド乗っかってる!?
土台と天井の線がないやろ。
ないね。
わかったぞ!
なんだ?!
傾けた十字架だ!
ツリ!その調子!
イエスが磔にされている十字架が、傾いてるのがなんだ!
素晴らしい!
でも、何故に傾いてるの...?
土壌がワヤやから?
ちゃんと深く地に、突き刺さんかったから?
これは、イエスの心境が表れているんだ。
人は、恍惚の時も、地獄の時も、傾くんだ。
...。
立っていられないんだよ、真っ直ぐに。
もうぐらぐらで、どっかのおっさんに肩ちょっと当てられただけで、倒れそうになるほど、グラグラヤネン。
で、ワレどこ見てさらしとんねん。ゆうておっさん傾いてた十字架を振り返る。
つとそこに、傾いとった十字架あったはずやのに、見たらあらへんねん。
おい、ワシ、幽霊でも見よったンけ、キリストの亡霊見てもうたんけ。縁起ええんかよおないんか、わかりまへんなあ、正味。ゆうて、まあ気ィ取り直して一杯道頓堀で酒飲んで帰ってこましたろ。ちゅて、おっさん、去(い)んで(去って)もうてんね。
...何の話...?ツリ...。
あっ、聴いてた?私、寝てた...。  
おい...大丈夫?ツリ...心配やね。 
あなたがゆうな。 
では、次、行って、こましたろ。
throughか!
次は、""!
これは昆虫の蛾の字やんね。
せやで、よう見ておくんなっしゃ。
うー。うー。うー。
何?
うーぱーるーぱー?
違う!わかっちったぞ!
なんだよ。
虫編に、(われ)と書いて、やないか!
そう。
あれ?そるで、それで終わり?
終わってへんが!
終わってへんがか!そらすまへなんだ。
知らんのか、あんたさん。
何のこと?
あの、戦慄の、実験を。
何?それ、怖そう...。
ぼくさ...。
どうした。
ぼくさ、最近、遣っちゃったんだよな。
何を遣っちゃったんだよね、あなた。
だからさ、アレ、だよ。
ドレ、だね。 
だから...ぼくさ、前にとうもころし買ってきてン。
とうもろこし🌽ね。
とうもころしの先っちょ、切ってンね。
カスカスやったさかい。
ふんだらね、
踏んだのか。
踏んでへんよ、ふんだらね、
ほいだらね、ほたらね、...切断してもうてん。
ともうころしの先を?
ちゃうよ、そんままやないか!
蛾の蛹をだよ...!
マジか...!
知らんかってん。ほんまぼく、知らんかってん。真っぷたつに、蛾の蛹、ちょんぎってもうたんや。
ふんでどうしたんだ。
ふんでね、二つに分かれた上半身と下半身を、くっつけたんや。
くっつけて、くっつくのですか。
死への羽ばたき」というアメリカの昆虫学者カロール・ウィリアムズ博士が
1942年に行った実験について、調べてみようでは、ないか。
(蛹の正面の構造が人間のペニスとヴァギナを合わせたような形であることにも注目しよう!)
うむ…。








horror-pupal-test


①は完全なサナギである。
②は半分に切って、それぞれの断面にプラスティックをかぶせた。
③は切り離したサナギの前後を、プラスチック管で連結したもの。
④は前後を連結してあるが、管のなかには可動の球が入れてあり、両者の間に組織が移行しないようにしてある。





一ヶ月後


horror-pupal-test5


①は普通に変態し、ガとなった。
②は前半の部分だけが変態し、後半部はそのままだった。
③は傷が回復し、ホルモンが流れるように管のなかに組織が橋渡しされて、前半部も後半部も変態を起こした
④は可動の球が組織の発達をさまたげて変態が起こらなかった。

死への羽ばたき


horror-pupal-test6


実験の最高潮である死の飛行

前と後ろの両部分とも変態した③のサナギは

羽化して蛾となり翅を羽ばたかせて、飛び立とうとした。

しかし、プラスティック管内で発達した弱い組織はすぐに切れ、

蛾は地に落ちて死んでしまった…


僕が、アワノメイガの真っ二つにしてしまった上半身と下半身の蛹をくっつけて、固定させ、
何が何でも羽化させようとしたのは、
今でも、本当にDangerousな実験だったと感じている。
でも、もし、無事に成功したならば、彼(彼女)は、夜の大空へと、羽ばたけたはずなんだ。
死への羽ばたきではなく…。
一体…そのアワノメイガの蛹は、どうなったの?
残念ながら、白い黴がほっわほっわ生えてきて、放っといてたらカッスカスになってしまったよ。
……。
つまり、実験は、失敗に終わった…。
彼(彼女)を、羽化させることが、僕にはできなかった。
そのことが、心残りなのかね。
…。違うよ、死と、蛾は、かけ離れていないんだ。
どういうことだね?
つまり…人間もまた、”死への羽ばたき”をする可能性のある実験として、
この地上に生まれてくるんだよ。
……。
僕らは皆、自分自身を、実験しているんだ。試しているんだよ、常に。
なるほど…そういうことか。
どこまでの恐怖に堪えられるのか?どれほどの痛みに、苦しみに、悲しみに、堪える力を身につけられるのか?
どんなに深い愛で、他者を、我を、愛して死んでゆけるのか?
すべてを愛せるのか?
愛することのでき得る者だけをしか、愛せないのか?
すべてを、本当にすべてを経験する為に、僕らは自分のこの不自由と感じる肉体の、この狭苦しく、暗い殻のなかで、ひっそりと息衝きながら、夢を、抱いて眠っているんだ。
ある者は、へと羽ばたき、死んでしまう。死体と化してしまうんだ。
でもある者は、何処かへ羽ばたいて、飛んで行ってしまう。
自分でも何処にいるのか、わかってないんだ。
ずっとずっと地の上を這い続けて、一度も羽ばたかずに、事切れる者もいる。
何がで、何がでないのか。
最早、僕たちはわからない。
そのすべてを表現した言葉が、
SEX蛾死体DEATH。」
この暗号の意味を、僕は決して、忘れないだろう。

























『JUNK FILMS ジャンクフィルム 釣崎清隆残酷短編集』 僕たち、日本人は、本物のJUNK。最も、死体から遠い国に住んでいる。








なかなか、観るのが怖くて、観れなかったが、やっと観れた。
観終わって、悲しくて涙が流れた。
何より、心が苦しかったのは、最後のデヴィッドのところだった。
何なのだろうか…。日本という国の虚しさを、わたしは見せつけられた。
日本が先進国でありながら、自殺大国であることの理由が、この冷ややかな虚しさのなかにあるのではないか。
それに比べて、他の国は、何故あたたかみがあるのか?
動物的な慈悲のようなものが、他の国にはあるように感じられた。
日本は無機質的で、無感情的で、作り物のよう(人工的)である。
だが、ただ釣崎清隆が無言で撮った最後の青木ヶ原樹海の髑髏は、冷たさや虚しさを感じることはなかった。
髑髏には青々とした苔が生えており、大自然の慈愛に包まれながら、完成されたひとつの現象として、感動的なものであった。短いシーンだけでとても残念である。

最も痛々しさを感じたのが、顔がぐちゃぐちゃの血と肉の塊となった死体の映像よりも遥かに日本の若者たちによる友人デヴィッドの納骨のシーンであった。
釣崎清隆の、あたたかい眼差しのフィルターを通しても、それを覆うことはできないほどに、どうしようもない空虚さに満ちており、胸が今でも苦しい。
これは『デスファイル完全版』を軽く超えるほどの死者に対する尊厳の欠如である。
損壊の最も激しいどの死体よりも遥かに、”残酷”なものである。
わたしはそう感じた。
でも唯一の救いは、この映像を釣崎清隆が撮ったことである。
それ以外に、何処にも救いはない。
そこにある闇は、底がない。
日本という国は、この世界で最も救いが必要な国なのではないか。
何故、ここまで寒々しいのか。
ただ丁寧に、慎重に扱うなら、それが死者に対する尊厳であるのだと、想い違いをしているのではないか?
日本というこの国に存在しているこの恐ろしい虚構が、一体、何処から来ているのか。

わたしはこの世界から拷問的苦痛のすべてを無くする訴えを、みずからのなかで強めたくて、死体をじっくりと、見つめることを決意し、釣崎清隆の存在を最近知った。
今、そのわたしを襲っているのは、”日本”という国が、どれほど”救いがたい”凍りついた国であるかということを知らされた吐き気を催すほどの悲しみである。
でも、あの髑髏が、この「ジャンクフィルム」のジャケットの青木ヶ原樹海で釣崎清隆が撮った此の世の何よりも幸せそうに、優しい寝顔で眠る髑髏が、わたしに言うのである。
「僕も日本人だった。」
そうだね…。君はわたしと同じ日本人だったんだ。
でも今は、今は、そんな縛りに縛られてはいない。
世界で一番冷めたこの国から、君は解放されたんだ。多分…。
きっと、そうだ。それとも、骨と魂は、全く、もはや別々の存在だからなのか。
嗚呼…僕は本当にこれまでずっと、髑髏恐怖症だったんだ、それなのに。
この映像の、綺麗な色んな個性を持つ髑髏たちに、なんて胸がときめいたことだろう!
これは釣崎清隆の真剣に死を見つめる愛の深さが、僕に反映したのだと、信じている。
彼の穢れなき愛と悲しみが、全く届かないほどに、この国の闇は、深いのである。
























僕の裸を撮ってくれへんか。

















まだ生きていない

皿の上に、美味そうな肉が在る。
思わず、唾液が溜まってくる。

前者は、その肉を、味わって食べる。
後者は、手を出さない。それは死体だから。

夜の空き地に、一人の少女の全裸死体が転がっている。
性器からは、血が滴っている。
どうやら殺されたばかりらしい。
思わず、欲情し、下半身が疼いてくる。

前者は、その肉を、貪り喰らうように、交わる。
後者は、手を出さない。それは死体だから。

僕は死体を愛している。だが前者となり、死体と一体となる必要はない。
僕が愛しているのは僕自身であり、僕は既に死体であることを知っている。
死体は死体を欲しない。
僕は既に、死体と一体である。

死んでいる者が欲する者、それは生きている者である。
僕はほとんどの人を欲しない。
ほとんどの人は、生きていない。
そして、まだ生きていないので、死んでもいない。
ほとんどの人は生きても死んでもいないので虚しく、自動人形のように、生きている振りをする。

僕は死体だと言っても、だれも信じない。
人々は、自分は生きているから、死体を食べるんだと思っている。
でも僕はいま死体だからわかるんだ。
死体を食べ続けて来た僕は、生きてもいなかったし、死んでもいなかった。
僕はいま生きている者が欲しい。
この世界の、何処かにいるはずだ。
























What it is Without the Hand That Wields it

人々は、彼に向かって言うだろう。
何故、あなたの手はそんなに穢れているのですか。
穢らわしい。ぬるぬるしているし、悪臭が酷い。
それは死臭ではないですか。
よくそんな仕事ができますね。
わたしにはできない。
恐ろしくて、わたしにはとてもできない。
あなたの側にはいたくない。
あなたの身体には、死と肉と血の匂いが、染み付いている。
わたしに近寄らないでほしい。
臭いが移りそうだ。
あなたの手は、血濡れている。
その手から、彼らの悲鳴が聴こえてきそうだ。
おぞましい…
わたしにそれを想い起こさせないでほしい。
あなたの顔も観たくない。
あなたの顔を観ると、彼らの断末魔が聴こえるのです。
それは何より恐ろしい。
わたしは心から想う。
あなたにそれを、奮う手がなければ良かったのにと。
あなたの手は、やがてあなたを手に掛けるだろう。
それでもあなたは、
あなたは、
わたしたちの未来を、屠り続けるのか。





















































「死だけが希望」

今日も夜の七時頃に起きて、山芋と、生玉葱に


をかけて、ふんでアマニオイルかけて、ベジマヨと生醤油と辣油かけて、青紫蘇を散らす。
そしてそれを、喰うてこましたった。
やはり俺と、俺の胃は、生野菜や生果実が一番悦ぶようだ。

そういえば去年の今日の俺は、町田康師匠の夢を見た。
のどかな風景の中に、町田康師匠がひとりぽつんと何故か椅子に座っていて、(後姿であったが彼であるとすぐにわかった)
わたしは感激にうち震えて、つい、ほわんほわんと宙を蹴るように走ってって、
そして町田康師匠を想いきし、抱き締める。
町田康師匠はすこしうろたえるも、わたしを優しく抱き締め返してくれる。
良い夢であった。
そして今年の今日の俺は、亡き最愛の父の夢を見た。
しかし内容は、あまり良い夢ではなく、何故かわたしと父の手の平に、カブトムシが張り付いて、
その甲虫が両腕の前脚を二本、同時にわたしとわたしの父の手の平に深くめりこませ、離れようとせんのだ。
父のほうは幸い、そこまで傷が深くなかったが、一方わたしの手の平は、何か透明で黄色い液が、
血の如くにその傷口からちいさい泉のように湧いてきて、つらかった。
現実的な痛みでなかったにしろ、その夢の世界では強烈な痛みであった。
父も、わたしの手を心配していた。
のどかな風景の中で、たぶんわたしと父、それ以外に人はいなかった。

あの甲虫は、何を意味していたのだろう。
もしかしたら俺の本ブログにブログハラスメント、略してブロハラをしてきたあいつを象徴しているのだろうか。
俺があいつを離そうにも、あいつは頑なに、それを拒んでいるように見えた。
そしてそこに穴を二つ開け、そこから尿のような聖水が湧いてくるのである。
清らかな黄色がかった透き通る水は、血の代りに湧き出て来た水である。
俺の手の平に開けられた二つの穴が、まるで開かれた目であって、そこから尿のような涙を溢れさしていた。
あいつの両の手のその爪先が、俺のその両の目に、喰い込んで、どうしても離れようとしなかった。
無理矢理離そうものなら、あいつの両手は千切れたろうし、俺の手の平の両目も裂かれただろう。
俺は諦め、為す術を持たなかった。
恐怖であり、苦痛であり、自分の因果が、悲しかった。

そんな痛く苦しく悲しい夢であったが、それでも優しいお父さんと例え夢のなかでも会えたことはわたしの心をすこし慰んだ。
幻であっても、嬉しかった。


そういえば今日、町田康師匠の「生の肯定」


生の肯定
町田 康
毎日新聞出版
2017-12-20



という本を読んでて、ものすごく印象的な感動する文章があったので、
それを載せようかなと想う。
と想ってその箇所を探したんだが、どうしても見つからない。
仕方ないので、見つかったら今度載せようと想う。
どうゆうものだったかとゆうと、確か
「存在は、生命とは初めて、死によって統合される、ひとつになることができるのである」みたいな感じのものだった。



だから我々は、ひとつとなることを最も願い、怖れているのではないか。



佐川一政さんは、インタビューに涙目で、「死だけが希望」であると答えた。
例え人肉を喰いたいがために、残虐な殺人を行なってしまった人であっても、
そこに人間の本当の美しさを俺が観たのは、確かである。



人というものは怖れすぎても、願いすぎても、幻覚を観、幻聴を聴くことがある。
今も現に、俺はクロゴキブリちゃんを怖れる余り、廊下のほうから時折り聞えるカサッ、カサカサッっという幻聴を聴いているようだ。
何故、幻聴と想うか。それはこの三日間、彼は姿を現さんかったし、何の音も聞えてくることがなかったのに、
今日、音だけは聴こえてきて、姿が一向に見えないからである。

逆に、或る一人の人間を愛する余りに、すべての人間が、その愛する人間であるという幻覚を見、
すべての人間が愛する人間に見えてしまうというのも、あるだろう。
それ以上、行くと、すべての動物、生物、植物までもが、愛する人間に見えてくる。
そこをも超えると、すべてのモノ、自然物、とにかく存在するありとあらゆるものを愛する人間として、
人はそこに幻を観るようになる。

愛する者を見たいという一心で、愛する者の側におりたいという切実な願い故に。
その人間は、愛する者に囲まれて暮らすことができるだろう。

いや自分自身すら、愛する者と、もうごっちゃになって、ある者は閉鎖病棟に閉じ込められてしまうだろうが、
ある者は覚者として、全員が、すべてが、「わたしの最も愛する者です」と言うであろう。

だから、死を追い求め続ける者、死を恐れ続ける者、彼が存在するすべてを”死”として感じるようになるのも自然なことである。

それがゆえ、生きることが、真に切実なものとなるであらう。



















プロフィール 1981生 ゆざえ

ユザエ

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