ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

「死だけが希望」

今日も夜の七時頃に起きて、山芋と、生玉葱に


をかけて、ふんでアマニオイルかけて、ベジマヨと生醤油と辣油かけて、青紫蘇を散らす。
そしてそれを、喰うてこましたった。
やはり俺と、俺の胃は、生野菜や生果実が一番悦ぶようだ。

そういえば去年の今日の俺は、町田康師匠の夢を見た。
のどかな風景の中に、町田康師匠がひとりぽつんと何故か椅子に座っていて、(後姿であったが彼であるとすぐにわかった)
わたしは感激にうち震えて、つい、ほわんほわんと宙を蹴るように走ってって、
そして町田康師匠を想いきし、抱き締める。
町田康師匠はすこしうろたえるも、わたしを優しく抱き締め返してくれる。
良い夢であった。
そして今年の今日の俺は、亡き最愛の父の夢を見た。
しかし内容は、あまり良い夢ではなく、何故かわたしと父の手の平に、カブトムシが張り付いて、
その甲虫が両腕の前脚を二本、同時にわたしとわたしの父の手の平に深くめりこませ、離れようとせんのだ。
父のほうは幸い、そこまで傷が深くなかったが、一方わたしの手の平は、何か透明で黄色い液が、
血の如くにその傷口からちいさい泉のように湧いてきて、つらかった。
現実的な痛みでなかったにしろ、その夢の世界では強烈な痛みであった。
父も、わたしの手を心配していた。
のどかな風景の中で、たぶんわたしと父、それ以外に人はいなかった。

あの甲虫は、何を意味していたのだろう。
もしかしたら俺の本ブログにブログハラスメント、略してブロハラをしてきたあいつを象徴しているのだろうか。
俺があいつを離そうにも、あいつは頑なに、それを拒んでいるように見えた。
そしてそこに穴を二つ開け、そこから尿のような聖水が湧いてくるのである。
清らかな黄色がかった透き通る水は、血の代りに湧き出て来た水である。
俺の手の平に開けられた二つの穴が、まるで開かれた目であって、そこから尿のような涙を溢れさしていた。
あいつの両の手のその爪先が、俺のその両の目に、喰い込んで、どうしても離れようとしなかった。
無理矢理離そうものなら、あいつの両手は千切れたろうし、俺の手の平の両目も裂かれただろう。
俺は諦め、為す術を持たなかった。
恐怖であり、苦痛であり、自分の因果が、悲しかった。

そんな痛く苦しく悲しい夢であったが、それでも優しいお父さんと例え夢のなかでも会えたことはわたしの心をすこし慰んだ。
幻であっても、嬉しかった。


そういえば今日、町田康師匠の「生の肯定」


生の肯定
町田 康
毎日新聞出版
2017-12-20



という本を読んでて、ものすごく印象的な感動する文章があったので、
それを載せようかなと想う。
と想ってその箇所を探したんだが、どうしても見つからない。
仕方ないので、見つかったら今度載せようと想う。
どうゆうものだったかとゆうと、確か
「存在は、生命とは初めて、死によって統合される、ひとつになることができるのである」みたいな感じのものだった。



だから我々は、ひとつとなることを最も願い、怖れているのではないか。



佐川一政さんは、インタビューに涙目で、「死だけが希望」であると答えた。
例え人肉を喰いたいがために、残虐な殺人を行なってしまった人であっても、
そこに人間の本当の美しさを俺が観たのは、確かである。



人というものは怖れすぎても、願いすぎても、幻覚を観、幻聴を聴くことがある。
今も現に、俺はクロゴキブリちゃんを怖れる余り、廊下のほうから時折り聞えるカサッ、カサカサッっという幻聴を聴いているようだ。
何故、幻聴と想うか。それはこの三日間、彼は姿を現さんかったし、何の音も聞えてくることがなかったのに、
今日、音だけは聴こえてきて、姿が一向に見えないからである。

逆に、或る一人の人間を愛する余りに、すべての人間が、その愛する人間であるという幻覚を見、
すべての人間が愛する人間に見えてしまうというのも、あるだろう。
それ以上、行くと、すべての動物、生物、植物までもが、愛する人間に見えてくる。
そこをも超えると、すべてのモノ、自然物、とにかく存在するありとあらゆるものを愛する人間として、
人はそこに幻を観るようになる。

愛する者を見たいという一心で、愛する者の側におりたいという切実な願い故に。
その人間は、愛する者に囲まれて暮らすことができるだろう。

いや自分自身すら、愛する者と、もうごっちゃになって、ある者は閉鎖病棟に閉じ込められてしまうだろうが、
ある者は覚者として、全員が、すべてが、「わたしの最も愛する者です」と言うであろう。

だから、死を追い求め続ける者、死を恐れ続ける者、彼が存在するすべてを”死”として感じるようになるのも自然なことである。

それがゆえ、生きることが、真に切実なものとなるであらう。



















新しいゆざえの世界

喜びと喜びを感じていないことは同じじゃないのか。
そう、俺。
神に愛されている。
或る賭けをする、愛する師匠に対して。






ってゆう文章をね、俺はどうやら昨晩、赤ワインを何杯と飲んだあとに、書いたようなのだが、
これさっぱり、記憶にない。(ちなみに師匠とは作家の町田康のことである。一体なんの賭けを、師匠に対して行なおうとしていたのか?昨夜の俺、何考えてたのか?それを想いだせないことは、何たる虚しき恐れであろう。)

しかも、昨夜は「necro」というIDで、「ねくろのにっきずぶろぐ」にしようと想って、それでこのライヴドアブログを新設したのだということを、今日起きて、メールボックスに、livedoor  Blogから、「ブログの作成が完了しました。
ようこそ!necroさん 

タイトル
URL
カテゴリ
: ねくろのにっきずぶろぐ
: http://nekrononikki.blog.jp/
: 日記(総合) >日記



っていうメールが届いていて、あ、そうや昨夜、そういやブログを作ったんだったかーと想いだしたのである。
でも、今日、起きて、俺はどうもこの、necro(ねくろ)という、ギリシア語で「死体」「死」を意味するこの名前が、
気に入らず、なんか、やっぱ厭だなあ、この発音、いや意味は良いのだが、発音がなあ、俺って感じがちょっとしない感じがするよなあ。
と想って、俺は自分の本名のアルファベットの綴りのアナグラム自動作成から、幾つか、最初「エ」から始まる名前で良い物を探していた。
幾つか、候補が上がった。

  1. エザ(eza)
  2. エザエ(ezae)
  3. エコズ(ekoz)
  4. エコエ(ekoe)
  5. エコウ(ekou)
  6. エコア(ekoa)
  7. エクダ(ekuda)
  8. エクエ(ekue)
  9. エクア(ekua)
  10. エウデ(eude)
  11. エウク(euku)
  12. エウエ(eue)
  13. エウウ(euu)
  14. エウア(eua)
  15. エアケ(eake)

などである。
どれも、やはり自分の名前のアナグラムであるからか、心地好いというか、良いなあと想える発音である。
この中から、どれかを選び取ったろうか知らん。と想い、どうしようかなと考えてたら、次の候補、「エザヅ」で検索したときに、「エザ カタカナ語ワールド」という検索結果が出てきて、そのサイトをクリックして色々観ていて、

エザ カタカナ語ワールド

でかい猫かうさぎと、ちいさい猫が対話をしているへなちょこ系漫画があって、

ezaz

こうゆうやつなのだが、すごく可愛くて面白いなと俺は想って、このサイトで、こんだ、俺のペンネームを探してしまったのである。
すると当然、ここには俺の名前のアナグラム用語だけがあるわけでないので、
関係のない用語のほうが多い。
エザホ とか、ザユエ とか、エザユ とか、あと「ユエザ」「ユザエ」なんかも、ええなあと想って、まあユエザとユザエは可愛いこれの漫画じゃなかったので残念であるのだが、(と想ったら、どうやら漫画は更新ごとに変わるようである。)


yuzae



【ユザエの属性を妄想する】
ユザエの感じ:らうらうい,ひどい
ユザエの固有色:薄い水色
ユザエの関連アイテム:オレンジジュース
ユザエの装備:せいすい
ユザエの固有数値:80



と右手にあって、これが、あ、ええなこれと想って、ユザエは「らうらうい(気高く美しい(うつくしい)、上品で可愛らしい(かわいらしい)、巧み(たくみ)だ、ものなれている」)のに、同時に「ひどい」で、
しかも固有色は薄い水色であり、装備は「せいすい」であるという。
これが結構、俺なのではないか。とまあちょっと想って、最終候補、「ユザエ」に今んとこ、決定した私大(次第)である。
と、こんなことをゆーと、え、貴女の何処が?気高く美しくて、上品で可愛らしいと言うのか?と言う人がおるかもしれないが、そんなものは、俺を、まったく知らぬ人が言うことであって、俺は何処かが、気高く美しくて、上品で可愛らしい部分を持っているのではないかという淡い自恃、そこに消滅しかけたる難波船みたいな切実さがあると考えることによって、自分で自分を支える、ということに挑戦してみようではないか、挑戦する価値は大いにあるだろう。

ちなみに難波船とは、難しい困難な波の上に浮いて漂い続けている無人の無尽の船のことである。

で、話を戻すとそうゆう訳あって、我が新しいブログの名前を、「ゆざえのにっきずぶろぐ」としてみたのである。
すると、あ、いいかもしれない。と気に入ったので、ゆざえでええかな、とまあ俺の本名に「Y」のアルファベットはないのだけれども、俺のずっと書いている小説の主人公の名前が「ユス」で、最初に「y」が入っているので、これを合わせたアナグラムとして、「yuzae」はいいなと想ったのだ。
「uzae(ウザエ)」は、俺の本名のアルファベットのアナグラムである。
だから俺の本名が知りたい方は、ここから解読してください。

「ユザエ」を気に入ったのは、どこか「ユダ」、「ユダヤ」みたいな発音で良いなと想ったのもある。
『ユダ』はユダ(Judah、 イェフーダー Yehudah)もしくは ジューダス(Judas)
という綴り、発音があり、「Y」は、「J」の発音とよく似ているということがわかる。
だからユザエも、「Juzae」という綴りであっても良いかもしれない。


ezaho




エザホは、こうゆうやつであるらしい。
エホバの、「エ」と「ホ」が入っているにも関わらず、すごくアホそうな響きに感じてしまうのは何故であるのだろうか。
しかも遣ってきた、飛んできたやつも、何かアホそうな蟹と蝶と蝉と蝸牛とバルタン成人が合体したような変な奴である。
これが、人間の固定観念、偏見、その他諸々の価値観であるのかもしれない。

取り敢えず、俺のIDはnecro(死)であるが、このブログでの名は、『ユザエ(yuzae)』にすることにした。

だから、このブログは今のところ本ブログからの避難場所、駆け込み寺、サイクロンシェルター、アジールの、仮設ブログである為どれほど続けていくか見当がつかないのであるが、
俺は表現を遣る以上は死ぬ気と生きる気で真剣に、命懸けて遣りたいと想っているので、皆様、宜しくお願い致します。

俺の本ブログ、○年、真剣に続けてきて、俺がこのブログをやめますとブログで言った際、俺の新設ブログはどこか?作ったら是非教えてくれ。と言ってくださる方は、まだ一人であるということに、俺は、これが現実か、現実とは真に、耐え難きものであると想ったけれども、まあしょうがないかな。

俺が表現して行きたいのは、人間の底のない悲しみであり、俺と言う人間をブログにて見つめ続ける人も同じく、耐え難い悲しみに暮れ、頼むから、やめてくれ、止めてくれ、と叫んでいた人も、結構多いのやもしれまいしな。

表現というものは、罪なのか、と。
それも本当に救いがたいほどの深い罪となってゆくのか、と。
そう感じるほど、俺は表現をやめたくはないし、誰一人読まなくとも、俺は物語を紡いで、全公開で無料で発表し続けて死ぬであろう。

果して、新しい、ニュー気持ちで、ユザエは生きてゆくことができるだろうか。


プロフィール 1981生 ゆざえ

ユザエ

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