また師匠が夢に出てきた。
最初はスーパーマーケットで師匠と出逢う。
そして知るんだ。
師匠は大型トラックは殺人機であると想っていることを。
だからこの店の前の道に大型トラックがたくさん列を成す日は絶対に店には来ない。
ぼくはその殺人機の群れの横の狭い左の歩道を歩いて師匠の家に行く。
師匠の家は壁が一面なくて、ぼくは壁のない面に背を向けてまるで店の展示物のように並べられている本を右から見てゆく。
何冊か並べられ、そこにぼくの書いた本を探す。
やっぱりない、とがっかりしていたら、一番左にぼくの本名が書かれたぼくの本が並んでいる。
そしてその横に師匠が立っている。
ぼくは歓喜の想いで師匠に言う。
わたしの本を一番にしてくれたんですね。
師匠はいつもの複雑な表情でぼくに何か答える。
その言葉は、こちらの世界では理解できない言葉だったから、きっと忘れてしまった。
ぼくと師匠は、たぶん『すべてを本当に救いたい』気持ちで繋がっている。
ぼくは師匠に救われ続けてきた。
でも同時に、ぼくは師匠を救えないのかと想うと絶望して悲しみに暮れてきた。
でも今想うのは、ぼくは師匠を救ってきたのかも知れない。
『救済』という行為、現象は、一方的に起こるのは不可能なんだ。
必ず互いに救われないでは救われない。
それは救いではないんだ。
でも此処に、愚かな人間がいる。
本当に愚かな人間だ。
ぼくは本当にすべてを救いたいのに、だれひとり救えず、独りで真っ暗な闇の底で死んでゆくことを願い続け、神に請う。
こんな愚かな人間が他にいるだろうか?
これほど愚かな矛盾があるだろうか。
ぼくは知っているんだ。
最も愚かな人間は、最も神に愛される者だということを。
最も愚かな人間は、最も神の救いを求め続け、そしてだれひとり救えずに死ぬことを、祈っているんだ。
まだ観ていないなら、アンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』を観てほしい。
ぼくがどれほどこの映画に感動したか。
この映画は最も愚かな矛盾、そこにある最も悲しい美しいものを描いている。
右の手にはイエス、左の手には洗礼者ヨハネが立つ。
どちらが本物の救世主、エリヤだと想う?
天はかしら。
爪先は温泉に浸かっている。
腹には死が宿っている。
彼女が産むのは誰なのか。
産みの聖母よ、貴女は誰の子を産むつもりか。
子宮のような洞窟で、男が詩を読んでいる。
医者から持ってあと半年だと言われ、この地に遣ってきた。
男は誰かに話し掛けるように話し出す。
子が、親の年までも生きないで死ぬのは、どれ程の罪か、考えたことはあるかい?
死者を救う方法は一つしかない。
我が魂を灰と見なし、これに火をつけて燃え上がらせる。
これを心から信じ続ける者だけが死者を救える。
その魂だけが、燃え尽きることはない。
その魂は燃え続け、そして太陽となった。
彼がいなかったなら、この世は永遠に闇のなかだった。
だれのことも、人は愛せなかっただろう。
彼はこの世を救ったと想うかい?
彼がいなければ、すべての生命は凍え続けて生きなければならなかった。
生まれてから死ぬまで、ずっと拷問の日々さ。
彼は、真にこの世を救った。
今もずっとずっと燃え続け、燃え尽きる日まで、彼はぼくたちを照らしてくれる。
そして彼が燃え尽きたあとには灰の雪が降り続け、生命は彼の灰を食べて生きていかなくてはならないだろう。
何故ならそれしか、ぼくたちが生きてゆく方法は最早ないからだ。
彼はエリヤだった。
再び、この地を救うため、彼は一本の小さなろうそくを手に、此処へ降り立つ。
洞窟のなかはあまりに寒く、男は読んでいた詩集を一枚一枚破ってそれを燃やす。
何、なにも問題はない。
男はすべての詩を、憶えている。
何度も何度も、同じことを繰り返し、その都度くるしみ嘆いて来たからだ。
イエスは母の水のなかで、豆粒のように小さかったときから受難の日について想い煩う。
このときから、イエスはずっと父に祈り続ける。
どうか堪えられるものだけをわたしにお与えください。
堪えられないのならば、どうかこの杯をわたしのまえから去らせてください。
イエスは洗礼を受ける日、洗礼者ヨハネに尋ねた。
あなたはエリヤではありませんか?
ヨハネはイエスに答えた。
いいえ、わたしはエリヤではありません。
男は火から、ちょうどよく離れた場所でその暖かさに微睡んでいる。
ほんのすこし近づけば燃えるように熱く、ほんのすこし離れれば凍えるように寒い。
イエスはすこし呆れた顔をしてヨハネに言った。
あなたはエリヤです。
あなたこそが、エリヤなのです。






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