膀胱に、尿が溜まっているときに、著しく汚れた穢いトイレに自分が入り、穢すぎて用を足すことが叶わない。という夢を時折見るのであるが、尿が膀胱に、ものすごく溜まっていても、見ない日も多い。というかそれはただ憶えていないだけかもしれないが。
今日の夢のなかのトイレも、それはそれは酷く、溜まらない汚さであり、その上信じがたいほどにグロテスク極まりない惨状であった。
どういうトイレであったかというと汚物と、大量に湧いた虫、巨大な虫のオンパレードである。
しかも古い和式の便所風のトイレであり、水が流れる上のタンクの位置が、右上にあってそこの手洗いカランの水受け口には約二センチほどの蛆虫のようなものが敷き詰められて蠢いており、腐った生ゴミを入れた小さな袋、段ボールなどが複数そのタンク上やトイレの中にあって邪魔で用を足せない。
なので俺はそれらをすべて便器の中に突っ込み、流してしまおうと考えた。
現実であるなら、そんなことを考える人はいないだろう。
そんなことして、流れるわけはないからだ。シュレッダー機能も付いたトイレなどはない。
でも夢のなかの俺はそれがわからず、もしくはその時点で発狂してしまい、穢い汚物を便器の中にぶちまけ、段ボールをぎゅうぎゅう詰めにして水を流す。
当然、まったく流れていかず途方に暮れる。
段ボールにも、虫が仰山付いていて、中には十センチほどのプラスチックでできてるみたいな黒っぽい鮒虫のような虫がいて非常に気持ち悪いこと甚だしかった。
流れてくれないとわかれば、これを義母と義父が帰る前に、なんとかせんければな、ならん。
どうやら俺は結婚しているか恋人の実家に住んでいて、このトイレは俺とパートナーとその父親と母親も使う共用トイレであるようだ。
俺はそのゴミを、取り敢えずゴミ袋に入れようと考え、その想像するもおぞましき蛇蝎の如くの暗澹とした美野家も与奪仕事を想うと、逃げたくなり、トイレを出た。
出たところの左の窓際に、小さなプラスチック容器が幾つか置かれてあった。
それを見て、俺は想いだした。逃がそうと想っていた青い幼虫のことを。
中を見ると、弱ってぶよぶよとして死にかけているような、幼虫とバッタのチメラ(chimera)化したような虫がそこにいた。
俺は後悔と共に想った。俺がこいつを忘れてたから、こいつは蛹になることが叶わず、こうして蛹となるまえに羽化をしようと頑張って、半身だけ羽化して残る半身は羽化できず、半身は幼虫のままの状態で苦しんでいるのか。
これも現実で考えたら奇怪な奇中の奇話である。
幼虫が飛蝗に羽化するという話は聴いたことがない。
しかし夢のなかの俺は別段それを気にすることもなくて、飛蝗に無事羽化させてやれなかったことに心底憂い嘆いていた。
夢のなかで夢と気付けば、おかしいことに気付くかというとそうでもなく、夢を夢と気付いても、現実を忘れてしまっていて、現実を想いだすなら、途端に夢から醒めてしまうのである。
ただ何かが根源的に違う、絶対におかしいと戦慄し、恐怖する夢はあった。
ただ何かが根源的に違う、絶対におかしいと戦慄し、恐怖する夢はあった。
だからなにがどうおかしいのかと夢の世界で、夢と現実の違いを明確に感じることができない。
夢の世界に今いる自分にとって、この世界は夢だとわかっても、それでも今のままの自分がこの世界以外の世界で生きて行くことは叶わないことを何故か感覚的にわかっており、そのため現実であることに違いないのである。
現実とは、うつしみと書く。現れて実るもの、それを現実と呼ぶが、では夢はどうだろう。
俺がこの世界で鏡を見ることが怖いのは、この世界も夢であることをわかってしまったからである。
大阪北部地震から、まだガスが復旧しておらず、食べるものがなくなってきたので俺は家から徒歩二分のスーパーへ赴いた。
胡瓜、トマト、長芋、青紫蘇、葱、豆腐、ブロッコリースプラウト、ズッキーニ、パプリカ、マッシュルーム、ペットボトルの茶、野菜ジュース、それらを次々に籠に入れ、レジカウンター前の棚の赤ワインを選ぶ。
見たところ、俺の籠の中は鮮やかな色とりどりで健康的にも見えるセレブな感じの籠である。
俺のこころはにわか、わくわくしだす。
早く、早く、この新鮮な野菜と豆腐を、喰いたい。喰いたい。喰いたい。
だが辛抱しなければいけない。某人生Simulationゲームのごとくにスーパーで買ってすぐさま往来でニンニクや玉葱を生でかじる、などするのは、何処か現実的ではない。
現実的に、喰いたいという願望が、どうやら俺のなかにあるようだ。
でもそれは、どうしてなのか。
例え人と車の行き交う往来で、俺が空腹に耐えきれずにパプリカなんかを一心不乱にかじるなどするとどうなるかと考えても、人は厭な顔をするか、恐れるか、好奇の目で薄笑いを浮かべて観察、静観するか、あからさまに声を出して笑うか、まあそんなことが起きるだけだろう。
見た人はTwitterでその旨を投稿し、寝て朝起きたらもう忘れてる。
十日後に、返信が来たなら、そういやそんなことがあった。と遥か昔のことのように追想する。
往来でパプリカを丸ごとかじっても、何か問題が起こるわけではない。
なのに何故、これをする人は、どこにも、いないのか?
残留農薬の問題で、皆本当は遣りたくて仕方無いのに、いつも健康を気にして我慢して、糞っ垂れ、無農薬野菜であったなら、堂々と往来の真ん中でパプリカを齧りついてこましたってけつかるのに。と心内で長嘆しているのかもしれない。
というかそれ以前に、往来でなんか喰うてる人おるぅ?
あんまり見掛けた記憶がない。何故なら往来は、人と車が行き交う忙しなく忙しい場所であり、そんなとこでなんかモシャモシャ喰うてたら、われなにあほなことしてけつかる。と言って、運悪ければ、どんと肩を押されて道路に尻餅着いて恥辱にまみれ、自分の行為を死ぬまで、呪い続けることになるであろう。
つまり、往来と言っても広い歩道で、その片隅や街路樹の緑陰で喰うのと、狭い往来の道のど真ん中で喰うのとではまったく迷惑さが違ってきてしまうのである。
でも此処で疑問に想うのは、俺は広い道の端でも何かものを喰うてる成人以上の人間を見た記憶があまりないのである。
子供は猿と変わらないからどこでも何か喰うてるというのは知っている。
別に人の迷惑にならぬのなら、人が往来で空腹に耐えかねてパプリカをかじって食い尽くしても良いはずである。
なのに誰一人、これを遣っているところを俺は見た記憶がないのだ。
嘆かわしい。俺の記憶力が駄目なのか、俺が往来の人をよく観ていないからなのか、とにかく俺がそれを見た記憶がないということが何故だか嘆かわしく腹立たしい。
俺だって、それを観たいし、それを観て、どういう気持ちになるのかを、経験したい。
人が、猿のごとく、往来で食事をする。
そして、満腹した顔で、その立ち止まった場所から、また歩きだすところを。
往来で立ち食い。一見、野蛮に想えるこの行為が、なにゆえここまで痛快で清々しさを放つのか。
それは人間という生き物が、如何につまらない面白くない定型化された社会常識、価値観、鋳型枠というものに填められ縛られて生きている、社会で共存、並存しているからではないか。
特に人に迷惑もかけちゃおらないのに、人を嘲笑ったり、ラベルを貼って差別し、嫌がらせしたりする人たちが多い。
そういえば俺は、小学生の頃から、人と同じことばかりするのが酷くつまらなく、何かにかけて反抗しようとして、その都度人に馬鹿にされ、笑われていた。
大多数の人間の考える正義に当てはまらないとして、嫌がらせ行為をしてくる人間にとって、俺みたいな生意気で自ら外れた放埓で奔放で破滅型の無頼者異端反逆異分子偏窟気質の社会不適脳変り種非常識人間は恰好の餌食であるのだろう。しかしここまで言うとそんな稀有な存在価値に在る自分を自慢している事と同じで恥ずかしいことであるということを俺はわかっているというとまたそれも自慢になり、どこまで行っても俺が破滅して自滅して行くということを俺はわかって遣っているが。
ははは、しかしそうやって俺を苦しめて笑っていた人間は悉く、悲運に恵まれどん底にどん落ちし、いつ晴れるやもわからぬ暗雲のなかで悲劇だけから愛され、誰が観ても不幸な人間になった。
それ以前に、人に嫌がらせを執拗にし続けないではいられない人間そのものが、見た限りは神仏に見放されているかのような不幸な現象である。
そう、俺の目の前に拡がり、展開し続ける不幸な現象を、俺はずっと観ているようだ。
どう見ても、幸せには見えてこないからである。
俺にとって、すべてが不幸であり、それを見詰め続ける俺一人だけが実は幸福である。
というのはあながち、穴ががちがち、まちがいでないかもしれない。
穴ががちがちだから、いつその確信も、穴のなかに吸いとられてゆくかは知れないが。
俺は自分の表現を、日記というカテゴリーで、その札をつけて公開したから、あのような反感を買い、悪質な嫌がらせをされたのだと想っている。
俺が自分の表現を、全て小説、もしくは随筆として発表していたなら、多分あのように真剣に人をムカつかせたり、恥辱を浴びせかけたりはしなかっただろう。
何にしても孤独で苦しんでいる人間が、孤独で苦しんでいる人間にハラスメントしてより苦しめるということは、本当に腹素面徒だな。
腹が素面の徒たち。彼らは今、何処でどうしている。
俺はまるで、目も見えぬ耳も聴こえぬ盲聾者のように、外を歩き、俺の目に見える唯一のこの家に、帰ってくるようだ。
いや此処は仮の家で宿であるから、払う宿泊料がなくなれば、出ていくしかあるまい。
このSweet Roomの窓からは、ヤシの木の生えたビーチが広がりつつある。
来たときは、ドールハウスのガーデン程の大きさのビーチであったが、今はもうホモサピエンスハウスのガーデン程の大きさのビーチとなって、徐々に広がりつつあるのだなと想う。
静かに穏やかな波の音が聴こえてきて、ずっと聴いていると、俺も太古の昔、ボウフラのような存在であったことを想起させる。
嬉しいどころか、悲しくてならなくなる。
何十億年とかけて、成長してきて、何故、人類は核爆弾原材料を強化したり、人や動物を殺したり、差別したり、人を奴隷のように働かせて自分は儲けたり、匿名で嫌がらせしたりしているのだろう。
今まで、ありとあらゆる無量無数の失敗、禍難、後悔、椿事、ダヴル・パンチ、藪蛇、地獄、女難、慚愧を繰り返してきたはずなのに、またもそれを、繰り返そうとするのは何故なのか。
俺が、眩しき午後の光線を反射させる美しい海と砂浜をうち眺めながら波音を聴き、何一つ、幸福に浸れなかったことは、確かである。
俺のたった一人の師匠が、言ったみ言葉、「この世が、弥勒の世でないことが悲しい」という言葉を聴いたとき、どれほど感動に震え、魂が崩れ落ちて俺の卑小な絶望は破壊されたか。
師匠とは作家、町田康である。
師匠は、例えばsupermarket(師匠の日記では通称SM)に赴いて籠を持ってレジを待つとき、自分のレジの列より他のレジの列の方が少しでも進むのが早かった場合、瞬間、毎度自沈してこの世の悲しみに暮れて絶望するという趣意を確か小説の中で書いておられた。
そんな繊細で多感で感性の本当に鋭く深い聡明で克己心の強い師匠が、この世の本当に深刻な核爆弾や殺人、殺獣、などの問題を想うとき、どれほどの悲しみにうち落とされるのかと想像すると、わたしは俺は、胸の奥がじんじんとまるで遠赤外線とカプサイシンとインドの朝鮮人参とか言われているあれ、アシュワガンダとかの詰まったサプリメントを一気に飲んだように暖まって、わたしの深い悲しみは癒されるのである。
俺はビーチの広がりつつある窓の外の景色を眺めながら、カーテンを引いて薄暗い部屋の中でソファに座り、モーニングに持ってきてくれていた冷めきった紅茶を啜った。
先程まで、晴れておったのに、俄に雷鳴が響いて来だし、窓の外は厚い雲で覆われ真白、窓枠がギシギシ唸るほどの暴風も吹き荒れてきた。
天の気持ちと書いて天気とはよく言ったものだ。
天の気分はまるで、人格障害者のように急激に、ころころと変わりやすいものである。
消化不良マグマの不魔は、こんなときに、コンビニエンスストアやグロッサリーストアへ出掛けたりせなんで、ほんとうに良かったと宿の共有スペースの窓際の席から窓の外を眺め想った。
不魔は、この宿も、宿の外も、消化マグマ、消マの頭蓋内部にあることを、うっすら、なんとなし、わかっていた。
今、外でカランと鉄パイプ菅のようなものが転がる音がしたが、あの音も、消マの消化されているマグマの断末魔である可能性もあると不魔は、目を血走らせ奥歯を食い縛ってある種の諦念に似た寂寥を感じないではおれなかった。
不魔は、本来は元々怒り狂うことにより全存在を火の溶融物によって焼き尽くし溶かし尽し、ゲヘナへと向かわんとするこの世の全能力者であるマグマという存在であった。
頭蓋とはらわた内で同時に噴火、頭蓋内マグマははらわたマグマと出逢う為、脳髄、口腔と直下し、食道の食堂で一先ず休んで納豆、白米が約六十パーセントの雑穀米、味噌汁、精進キムチ、海苔がセットになった粗膳定食を食べた。
想えば、口腔内に建てられた口腔高校へ、行かなかったこと。諦めたこと。それがこの先、どれほど社会的困難として響いてくるのかと考えた。
でも自分は、全能力者マグマという存在の一歩手前の存在であるのに、何ゆえ口腔高校を卒業しなくてはならぬのだろうと想い、本当に自分は天然だなあと微笑み、その自らの微笑みに対し、またも、噴火した。
瞬時、食道食堂はメラメラと燃え盛り、どくどくと波打ちながら流れるマグマの赤河(あこう)に、先程食べた消化していない納豆、赤米と黒米と緑米の入った白米、すなわち雑穀米、味噌汁、精進キムチ、海苔、そして茶碗、箸、盆、小皿、などが浮かんで見る観る内に、熔岩に熔けて消えていった。
頭蓋マグマ、通称頭魔(とうま)は、満腹したが、でももう一品、胡桃のなめ茸和えがあったなら、その最高の栄養バランスによって、もっと威力を上げることが出来たであろうと口惜しく想った。
残るは胃へ向かい、胃内胃酸温泉をマグマで埋め、マグマ風呂に浸かり瞑想を行いながら煩悩垢を殲滅させ、身心共にリフレッシュして、そしてついにはらわたトンネルのなかで俺を待つはらわたマグマ、通称はらまと、混融を果し、漸く我々は、一つとなり、全能力者マグマとして、この世に君臨す。
はらま、どうしとるかな。頭魔は、愛するはらまのことを想い、脳髄勃起した。
はらまのことを考えただけで頭魔は欲情し、目と鼻と耳と口と生殖器と肛門と、皮膚の表面に無数と存在する毛孔から、ピンクのマグマを垂れ流した。
これらは、通称ピンマである。ピンマのエネルギーを、決して侮ってはならない。何故ならピンマは、時にマグマ以上に、破壊エネルギーが止まらぬことがこれ迄在ったからである。
ピンマ自体には想念というものは具わっていないと考えてきた。だが頭魔は自分の生殖器からも噴上(ふんじょう)して止まらぬピンマに関して、一縷の不安を感じていた。
此れがもし、自分の精液マグマ、通称精魔(せいま)と融解し合い融合した場合、其処に想念は存在している可能性はそら高い。
想念が存在した場合、ピンマは一個の霊格を持ち、自分とはらまの融混する瞬間に生まれたる実の子と、今後張り合うようなことが起きてしまうやもしれない。
そうはなっても、まさか自分とはらまの愛と霊のひとり子である子を差し置いて、存在を超えるということは考えられない。
だから張り合うとしても創造主と堕天使という関係になるだろう。
ピンマは、どう足掻こうとも、神のみまえでは堕落した天のみ使いであるのである。
では、今後その件に関して、熟考する際にややこしくなる為、自分の精魔と、そして自分のはらまに対し欲情した際に、噴出してくるPINK色のマグマであるピンマとの融合しているかも知れない想念を持った存在を、精ンク魔(セインクマ)と名付けておこう。
頭魔は全身から熱いどろどろのピンマを垂れ流し、どうにもまた止まる気配がなかったので仕方無く、ピンマの海を泳いだ。
そして最愛のはらまと、一体となる時を、切なく夢想しては目の淵からピンマと涙マグマ、通称ナマを流した。
これが融合した存在は、ナマン魔である。
ナマン魔は既に、頭魔のしらぬまに、想念を持ち、一個の霊格を、沸々と、沸かしていた。
此れを後の人たちは、問う間の白沼に 魔ぞ降りたりて なまとなり という歌を詠んだ。
精ンク魔よりずっと先に、ナマン魔は生まれたのであった。
彼等はすべて、互いに互いをよく知らない存在である。
それでも頭魔は、はらまを愛し求めるようになり、はらまと一つとなる為だけに自分がこれ迄存在してきたことを、信じて疑わなかった。
続く。