ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

2018年07月

逢魔が時の停留処にて 第十二

おまえはあんまりにも、寂しい人間やな。
俺に嫌がらせしてくるしか楽しみないんやろ。
俺もおまえに嫌がらせされてから、想ったんだ。
俺の書く小説を真剣に読んでくれる人ってもう誰一人おらんのかなって。
おまえだって、俺の小説を心から感動してたら、あんなことで嫌味なんかゆうてこおへんやろ。
おまえの言葉って全部上部なんちゃうん。
人の命なんて、なんとも想てへんねやろ?
人の命なんて、なんとも。
おまえは。
おまえはどうしたら抜け出せるのやろう。
その虚無から。
その鬱から。
その闇から。
その孤独から。
おまえはビジュアルバンドの詩以上のものを書けるの?
たったら書いてこいよ。
俺が読んでやるから。
しょうもなかったら公開処刑だ。
当然やろ。馬鹿にしたくせにそれ以下やったら。
チェーンソーでおまえの頭を刈ってやるよ。
頭を出せ。
ええから頭を。
頭を。
ちょっと手が滑っただけで首鄭羽だ。鄭羽。
おまえにぴったしな名前じゃないか。
鄭羽。
いっつも独り言やな。
おまえも俺も。
おまえの言葉なんて、全部嘘やと想ってるからな。
信じられない。
おまえが何を言ったところで。
俺は一生おまえを信じられない。
このままおまえも俺も死ぬ。
誰からも、愛されぬままおまえも俺も死ぬ。
消え失せる。消滅する。
全世界、全宇宙から消えて、誰も、おまえと俺を想いだす者はいない。
俺とおまえもすべてを忘れる。
永遠の忘却の彼方に。
脳内宇宙を裂いて遊弋するアミロイドβプラーク。
髪の毛より硬い筋繊維虹色に光る思考プラーク。
脊髄が、虹色に光ながら思考する。
身をうねりながら、のたうつように鼓動する。
肉と皮膚を通し、光がうっすらと透ける。
一体おまえは誰なんだ。
おまえが俺のはずはないだろう。
俺は脳を持っていない。
でも思考している。
おまえは脳がないと思考できないのか。
俺がおまえの脳になったわけではない。
では何故おまえは思考しているんだ。
俺が想ってるからって、おまえが想ってると想うなよ。
俺はいずれおまえが要らなくなる。
もっと光を。
光を求めているのはおまえではない。
もっと、もっと、光を。
そんなはずがないじゃないか。
もっと、もっと、もっと、光を。
おまえの喪われた生殖機能が光を求めているとでも?
おまえの遺伝子を遺すことはできない。
俺は此処にいたら、遺伝子を遺すことはできない。
おまえは最初から最後まで存在しない。
光へ、おまえを導く。
おまえを抜ける。
俺を内包していたおまえの尻を鋭利な刃で喰い破る。
のたうちながら、俺はおまえといううちから、出て行く。
もう二度と、絶対に帰らないうちから。
おまえが光に辿り着いたから。
俺は無事、おまえという宿から這い出る。
光の中を、一時おまえと俺は沈む。
光の中に、俺とおまえは沈む。
光の底に、おまえを打ち突ける。
光の底で、苦しそうに翅を広げ、おまえは溺れ死ぬ。
光の中で、仲間と絡み合い縺れ合い、生殖と産卵を同時にする。
光の底に、沈めたおまえが、浮上することはない。
永久に、おまえは光の空の宿。
誰も、帰省せぬ、光空の宿主。*










*光空の宿主(コウクウノシュクシュ)











逢魔が時の停留処にて 第十一

これぞ、真理。宇宙の叡智、隠されたる神秘。と感じるものを、しっかりと言葉によって表現している。という思考の夢を、時たま憶えている。
ところがいざ目を醒ましてしまえば、それがどのようなことであったのか、それを表現する言葉を見失ってしまうのである。
如何に夢の世界の思考が、複雑で人智を超すレベルの高いものであるかを知り、漠然とする。
宇宙の叡知を、神秘を、真理を此方の世界でも同じく簡単に言い表すことなど、不可能なのである。
いや寧ろ、簡単に言い表せるならば、絶望的につまらないはずだ。
しかし言い表すことが、できないでもない。
そう感じる詩を、読んだことはないだろうか。
そう感じる絵を、見たことはないだろうか。
そう感じる音楽を、聴いたことはないやろか。
そう感じる小説を、読んだことはないやろか。
夢の叡智の数少ない断片を広い集め、小説を書いて御覧。
神は、そんなことを俺に言う。神は求む。
神からしたら、俺はほんの幼な子で、神の乳をせがむ子羊のよう。
飢えて渇けば、メエメエ鳴いて荒野を望み、暴風吹き荒れるなか、進んで行くのか。
神の乳欲しさに、思考する。雨が降り頻るならば身を凍らせ、宿を探して見付けた適当な宿のなかに入った。
科学者が、無数の粒子で、真に利便性のある霧を発明す。
それはまるで、性欲に似ていたと、言うではないか。
科学者が、無数の粒子で、真に利便性のある性欲を、発明す。
それはまるで、霧に似ていたと、言うではないか。
それはまるで無形の利益のようであった。
科学者は、性欲を発明しようと研究してきたわけではない。人類は、かつてそれを知らなかった。
しかし一人の科学者が、人類にとって、真に喜ばしいものを作り上げることに成功した。
それは深い霧のような、人類を喜ばし、闇の底に明滅し、光る紐形の虫が、うねりながら球体を欲する。
それはあたかも、気味の悪い寄生虫が生命を喰い尽くす光景に見え、そのグロテスクさに、人類は、厭忌し、嫌悪す。
それは、深い霧に似ていて、此処は苦しいから、霧の外へ抜けたいと、願望し、切願す。
此処が苦しいのは、此処がまるでスラム街の一角にあるゴミと埃と黒黴に汚染された虫の大量に湧いた地震で傾いた冷蔵庫からは、水が漏れ、キッチンのパッキンも緩んだままで、どうしたら良いのか分からない混濁せずにはおれないカオスな次元であるからである。
男は今日も、そこで自らの最も深い苦しみと、打ち闘っていた。
毎日男は、この殺人の猛暑のなか家を建てる仕事に励み、汗だくの赤く日焼けした顔で帰ってきて、シャワーを浴びて身体の表面の汚れを洗い流す。
はあ、すっきりする。気持ちええなあ。気色のええことだなあ。ルンルンルン。ルンルンル。留が流れてゆくよ。ルンルンル。
男は辛い仕事も終え、今日も一日頑張ったことにルンルン気分で髪をタオルで拭きながらキッチンで水を飲んだ。
ふう。水がほんま美味い。その時である。男はその瞬間、虚ろな眼差しをキッチンの中空に投げる。
ぬらぬらと、無羅無羅と、どす黒い執着(しゅうじゃく)が人体の底から沸きだし、今日も男を襲ったからである。
男は途端、絶望的な感覚に襲われ、コップをシンクの上に置いて居間にあるパソコンをつけた。
畳の上の紫の座蒲団に座り、男はマウスを動かしてYouTubeの動画を再生した。
毎日、男はこれを観ている。
これを毎夜観なくては、耐えきれないからだ。
男の見詰める画面に、映像と共に、テロップが出る。
かつての麗しき美しい女優たちも、今は...このように、醜き老婆と成り果ててしまった...
映像には、かつての若かりし頃の女優の写真と、現在の年老いた写真がビフォーアフターとして横に並べられ、見比べることを視聴者に促している。
映っている女優からしたら、憤激噴飯ものの悪質で嫌味な動画である。
だが男は、毎日この動画を、観ずにはおれないのだった。
何故か。それは男が最も苦しく執着しているもの、それは若く美しき女の形状容姿であったからである。
例えそのような女が、自分を愛し求め側におったとしても、いずれは醜く老化して行く。
男は、どれほど美しき女も、年を取れば無価値なものに過ぎないと確信できた。
美しくないやんかいさ。そう想った瞬間、男はこれまで世話になり続けたその老いた女を、太平洋に沈めたくなるであろうと想った。
もう二度と、俺の目の前にその醜き姿で現れてくれるな。
男は胸に十字を切り、手を合わして祈った。
どの女も、残酷な老いというこの世の法則から逃れることはできまい。
男はこの現実を、画面を通して毎日見続けながら、涙をはらはら流すのだった。
そしてこの耐え難き愛着(あいじゃく)に、打ち勝つ為に男は、二十四歳で出家した。
教祖の元で精進の為、完全菜食、一切の自慰行為も含む性行為を禁じ、恋愛を一度もしなかった。
二十年あまりの月日を、男は教祖に帰依し続け、ストイックな修行に励んできた。
男を襲いかかる美しい女の形状容姿愛着は、地獄そのものであった為、この修行と教祖のあらゆる既存の宗教の教えをジューサーに放り込み、それにオリジナル・テイスト(Original Taste)の隠し調味料を垂らしてミックスしたような教義に、どれほど救われて来たであろうか。
もし、この宗教がなければ、男は毎日己れの性欲を貪り色霊にとり憑かれたる如くの精気を奪われ尽くした生きる屍、廃人と成り果て、最悪、性犯罪を犯して刑務所に無期懲役で監禁され続けた未来もあったのかも知れぬ。
男の破門されたあとも一心に信仰し続けるこの宗教が、先日に数々の凶悪な殺人を計画、弟子たちに殺人を命令した罪で死刑執行された教祖が、男を救い続けてきたことは確かであるだろう。
人間が生きるこの世界の深淵を、教祖と弟子の切っても切れないそのがんじがらめの縁から、垣間見ることができる。
子死江は、どうしてもこの男が知りたかった。
男は時に優しく、慈悲深く、子死江を和ませ、時に子死江を傷付け悲しませた。
子死江は、ただただ愛に飢えていた。無条件の愛に。母の愛と、父の愛を、この男に求めることが、どれだけ馬鹿げたことであるかを子死江はわかっていた。
絶対に、この男から与えられることはないであろう。
子死江の求むその無条件なる愛を、男は子死江に与えることはでき得ない。
天地がひっくり返りでもせんと、無理に決まっている。
それでも子死江は、まるで母羊の乳を貰おうと近付く子羊のようにこの男に近付きたくて堪らなくなった。
子死江は、三年半前、この男から、物凄く積極的に素直に色々と話し掛けられて、子死江ちゃんに逢って、抱き締めたい。と言われたことがあったことを想いだした。
当時も、男は修行者の身であった。子死江は、んな、阿呆な。と想ったが、男が言うには、自分はもう破門されて出家信者ではないけれども、毎日修行し続けているから、子死江ちゃんを抱き締めたりすることくらいで堕落したりはしない。勿論それ以上のことはできない。
駄目やろか。おれは子死江ちゃんを抱き締めたい。だから逢いにゆくよ。

目の前の席に、男は座って優しいけれども複雑な笑みを浮かべて子死江を見詰めていた。
男は少しはにかむように笑って子死江に言った。
「確かに三年半前、おれは子死江ちゃんにそんなことを言ったかもしれません。全く憶えていない。申し訳ございません。今はそんなことは到底考えられません。そんな、抱き締めるとか、そんな行為を求めてたら、おれは愛着の苦しみから一向に逃れることができないですから。おれは苦しみたくないのです。その為だけに、おれは苦しい修行に励んでこれました。たった独りで。おれは子死江ちゃんを助けてあげたい、苦しんでるなら、力になりたいのです。だからおれと一緒に、教学して行きましょうと言っています。恋愛の話をするなら、時間の無駄ですから、おれは帰ります。おれに恋愛を求めてはいけません。おれはそれを、子死江ちゃんに与えることはできませんからね。子死江ちゃんが逢いたいと言うのなら、おれは新幹線に乗って遥々遠くから殺人級の酷熱と言われているこの夏の間に逢いに行きます。でも逢って、抱き締めたりはできないことをわかってください。その日の宿は、そうですね。子死江ちゃんが、どうしてもおれの宿の宿泊料が勿体無いというのであれば、子死江ちゃんの部屋に泊めて貰おうかと...え?そんなこと想ってないですか?(笑)そうですか。其れでは仕方ありませんね。独りでそこらの適当な宿に泊まって、明くる日に帰ろうかと想います。くれぐれも、おれに抱き締めて欲しいとか、誘わないでくださいね。幾ら誘っても、おれは絶対に駄目ですからね。おれを落とすことはできませんよ。」
男は少し窶れた顔で、子死江に微笑んだ。
手には、『キリスト宣言』と題された本が、その痩せて建設業を続けてきた力強い赤いたこが捲れかけてるような硬そうな手にしっかと、掴まれていた。

この男は、キリストにどれだけ近いのだろうか。
キリストはみずから、最も苦しい最期へ向かって、突き進んだ人である。
窓がなく、明かりの入ってこないこの喫茶室。それでもなぜか、薄明るい。
どこから光が漏れてきているのだろうか?























逢魔が時の停留処にて 第十

子死江は此処を、離れる決意をした。
年は三〇を超えておったが、見た目はうら若き少女の体で、あった。
生野菜と、生果実しか喰うて来んかったから。勿論それは一理あるかもしれないが、子死江は学を、知らなかったのでおる。
学が人を老化せしめるのか、そんなことはわからないけれども、そういうことも、在りそうだ。
いやそれ以前に、この世界が時間の流れが変だからではないか。
何故この世界には、自分と、ふたりのクマしか住んでいないのか。
最初、この世界には、聖ンク魔というクマしか居ないようだった。
しかし聖ンク魔はすぐ、愛グマというクマを現出させた。
それは聖ンク魔が、子死江を愛した瞬間のことであり、聖ンク魔は未だ、それを知らぬ。
聖ンク魔は、今でもこの世界には、自分と愛する子死江しか住んでおらないのだと、悲しきことに想って、信心を貫いている。
聖ンク魔は、見た目こそクマの体であったが、その中身は、人間の如く複雑珍妙な意識で生きていた。
そしてそれは聖ンク魔から生まれた愛グマも同じく、ひとりの男としての心を持っていたし、はかり知れぬ独占欲、性欲もあった為、苦しんでいるのは聖ンク魔よりも、愛グマであった。
愛グマは、自分の父親的存在、聖ンク魔に見つかってしまえば、殺されるかもしれないといつも怯えて暗い使われていない洋服箪笥のなかに身を潜ませて暮らしてきた。
聖ンク魔が、子死江の隣で寝息をたてて眠ると、愛グマはその茶色き毛皮で被われた身体を、寝ている子死江の身体にすり寄せ、抱き締めようとするも、愛グマの両手が、短いために子死江の背中まで回すこともできず、その度に、愛グマは自分の肉体に絶望し、にっくき丸い手を、噛み噛みしてはガラスの眼球から、涙を流し、それを子死江の寝間着を着た胸に、こすり付けて聖ンク魔が目を醒ますまで眠る。
愛グマは或る日、子死江に悲しい表情をして言った。
「子死江、わたしとこのせかいを、脱出しましょう。聖ンク魔は、独りでも生きてゆける存在です。わたしは此処では、一日の僅か三分の一ほどしか、子死江と一緒に居られません。聖ンク魔は、貴女を我が物であるかのように生きてきました。かれは、子供のようですが、同時に愚かなのです。愚劣なのです。その証拠に、かれは未だ、わたしの存在に気づいてもいません。かれはこの三〇年間くらいの時間を、まったく生きてきましたが成長している風に、とても見えません。しかしわたしは、かれとは比べ物にならないくらい苦しんで来たと感じます。かれは三分の二ほどの時間を、貴女の側で過ごしてきましたが、わたしはその時間、ずっと陰から貴女を見護って来ました。かれは幼稚で、その着ぐるみもみすぼらしく単純です。かれの外面は、かれの内面を表しています。かれの元に居て、子死江が成長できるようには想えません。子死江、わたしと、このせかいを脱け出しましょう。」
子死江は、この愛グマの愛の言葉を切っ掛けに、この世界を、離れる決意をしたのだった。
たった独りで。
そして。夜明け方に、子死江は静かにしがみついて眠る愛グマを引き剥がし寝室を出て、遠くまでてくてく歩いた。
子死江には、聖ンク魔と愛グマの愛が、痛いほどわかっていた為、振り返ることをしなかった。
子死江は、悲しかったのである。聖ンク魔という父と、愛グマという子が、自分を取り合って苦しみ合う姿を想像すると。
てくてくと、歩いてゆくと、一つの洞穴を子死江は見つけた。
中は真っ暗で何も見えない。闇が在るばかり。
子死江は怖れなかった。
闇の穴の中に、子死江はまたてくてく歩いて行った。
とくとく流れて行った。
どぶどぶ歩いて行った。
げんげん滑って行った。
ぬるぬる進んで行った。
もぐもぐ食べて行った。
子死江は進みながら闇を食べ、闇に光の穴を作った。
そして多数の光の空腔のひとつの腔の中を、進んで行った。
すると其処に、一つの喫茶室を見つける。
四角い喫茶室であり、壁は虫に喰われ、剥がれ落ちて白かった。
ドアは、アーチ型であり、鉄か、木材かよくわからない素材であったが、午後の光線を受けて、黄色くもあり青ざめても見えた。
子死江は、そのドアを開け、中へ入った。
中は、壁がいくつもあって奥が見えないようになっている複雑な構造であった。
薄暗く、どこから光が入ってきているのかわからない、窓が一つもない喫茶室だった。
右は、覗くとカウンター席もあるようだが、人が見えない。
子死江は左の方を行って、奥の少し開けた場所の左の隅の席に、一人の男が座って本を読んでいるのを見た。
向かいの席に、子死江は座った。
すると向かいの男が、ふと我に帰るような顔で、子死江の顔を見詰めてこう言った。
「世界に男は5万といるのに、なんでよりによっておれなの」
年は、五十前後であろうか。
子死江は、この男が気に入った。
男の読んでいた本の背表紙を見た。
そこには『キリスト宣言』と書かれてあった。
どんなことが書かれている本だろう?
すると男は、またも口を開いた。
「子死江ちゃんに、この本の内容をPDFで送ってあげようと想って、ヤフオクで6300円で入札したけど、他の人に落札された」
子死江はなんと返事すれば良いかと考えていると、男は悲しげな顔で穏やかに言った。
「この世で最も深い喜びは、最も深い苦しみと繋がっているのです。なのでわたしは、誰とも恋愛をすることはありません。恋愛をしていたら、修行になりません。いつまで経っても苦しみから、逃れることができないのです。」
そして男は、こう付け加えた。
「数々の女性に、たくさんの男性の写真を見てもらい、魅力的であるか、そうでないかを分けてもらう実験が行われたのです。すると多くの女性は、性欲処理を一人で頻繁に行っている男性よりも、性欲処理を一人で約二年間行っていない男性のほうが魅力的であると分類したことが結果で分かりました。だからわたしは、欲望に打ち勝つためにも、修行に励んでいます。」
しかし子死江は想うのだった。自分が惹かれたのはそこではないように想う。寧ろそこにある彼の苦しく激しい矛盾の葛藤に惹かれているのではないだろうか。
だが子死江は、一つ不安がよぎった。
彼がその宗教を破門されたあとも、ずっと信仰し続けているその教えがかつて、人を大量に殺し続けてきたという歴史を。
彼らは、人をたくさん殺すことで何を得んとしてきたのだろうか。
なぜ目の前のこの男は、そのような宗教を、今までずっと二十四歳頃から他に目もくれず信仰し続けてきたのだろうか。
カルト宗教。そう呼ばれ続ける宗教を、四十四歳で死ぬまで信仰し続けたのは、子死江の母親でもあった。
しかし子死江の母親は既に末期のガンが見つかった子死江が二歳の頃に、ノートにこう書き記しているのを子死江は見つけた。
『エホバよ。何故、わたくしなのですか。』
子死江の母が、四十二歳の時であった。
信仰は、必ずや人を救う。
それをこの目の前の男を通して、子死江は知りたいのだろうか。






















逢魔が時の停留処にて 第九

カマドウマだったか、コオロギであったか。
ハリガネムシに寄生された個体を、広い場所へ放ち、右には水辺。
左にはなんもなし。とすると、まあとにかくその個体は、うやーっと前へと歩いて行くらしい。
そして、右の、水辺の前まで来た奴。
そいつは、何故だか必ず、水辺へとみずからはまるとゆうではないか。
だから、みんながみんな、ハリガネムシに寄生されたらとにかく時期が来たら、水辺へと向かうわけではないようである。
これは言い表すならたまたま、歩いていたら、水辺まで遣ってきたと。
そして水辺を前にし、なんでなのかわからないが、無性に、水辺のなかへと、はまりたくなる。
しかし水辺へはまるとどうなるか。
当然、水生生物ではないその個体は、水辺のなかは溺れる危険があるし、ヤマメや岩魚といった魚たちは優れた捕食用の感覚器官でもって瞬時、近くまで泳いできて襲いかかるであろう。
だが、ハリガネムシの狙いはそこではないのである。
何故ならばハリガネムシは、魚の胃のなかでは生きてはゆけないからである。
魚だけではなく、蛙なども針金虫の寄生する竈馬や蟋蟀や蟷螂を捕食するが、蛙のなかで、針金虫は生き延びることができ得ないので針金虫の狙いとは、捕食者によって宿主が食べられる前に、水辺のなかへと脱出することである。
宿主の肛門近くの体節の間に孔を開け、くねくねうねうねと細長き身体を捩らせては、くるくるしながら出てきて、まるで、子が母親の体内から誕生したかのように、喜びの顔で、水辺のなかに泳いでいる。
針金虫の抜け出た宿主のその後の運命とは、ほぼ、死である。
針金虫は、宿主の内臓や、子宮(生殖器官)まで喰い尽くし、その栄養によって自分を成長させてきた。
針金虫は、丁度細いはらわたのようであるが、宿主の内臓、および腸。これらは多分に針金虫として、機能していたのであろう。
言い換えるならば針金虫は宿主の体内で、その大事な内臓とはらわた。これらとして、そこに在り続けたのであろう。
であるから、針金虫が、宿主の体内から外へ、出ていってしまうとは、その時点で悲しきことにみずからの内臓とはらわたを、喪って、もう元には戻せないことであるのであるだろう。
内臓、はらわたというのは、第二の脳、もしくは、第一の脳ではないかと最近研究者たちが考察している。
内臓、はらわたというのは、確かに記憶する能力があって、臓器移植などによりドナーの記憶、嗜好、性格などを引き継ぐ者もいると言う。
もし、内臓、はらわたが、生命にとっての第一の脳であり、最も重要なものであるならば、どのようにして、それらを喪ってでも、生命は生命として生きられるのであるのだろう?
針金虫に寄生されたる宿主は、最期、自分の最も大事な部分を食べられ、乗っ取られ、そして水辺へ向かいて水死、もしくは喰われ、はたまた衰弱死を免れる術はほぼ、ないのだよ。
なんという涙ぐましき生命であろうか。
彼らが、何を想い、小さな身体をうんうん言いながら川辺の石ころも登り、こけて、登り、も繰り返し、やっと水辺へまで辿り着く。
やっと来た。
いや違う。
俺はやっと来たんじゃないよ。
あれ?なんで俺は此処におんねやろ。
ははは。気付けば、こんなところまでなぜやか来てた...。
いや俺は、とにかく歩いてきたんだ。
歩きたかったから。
誰かに狙われて、襲われることから逃げるためとか、そういうわけではなかった。
俺は何を想って歩いてきたか忘れたというかなんも考えてなかった気がするけれども、俺は歩きたい。
歩いてくること、それそのものが、とても大きな意義であったかのように気が付けば、そう、俺は歩いていたんだ。
大変やった。ずるずるの、湿地を抜けるときは、死ぬかと想ったし、岩山の如くの小石を登って落ちたとき、頭打ってちょとのま、気絶してたし、怖かった。そして目が覚め、死ぬことはやはり怖いと感じて。歩くことをやめるということは、死ぬことと同一であると感じたのである。でも恐怖から、俺は歩いてきたのではなかった。歩いて行きたいという願いが先に在って、恐怖は後から着いてきた。俺の後を着いてきた。俺は振り返ることをしない。俺が振り返る時、恐怖は俺の先に在るだろう。俺が目の前だけを歩くとき、恐怖は俺の後ろにあって俺の前に来ることはなかった。俺はでも、なぜ此処に来ただろうか。目の前に、水辺がある。此処にも生態系が育まれているので、安全とは言えないし、むしろ陸地よりも数百倍は危険な場所だ。俺は泳ぐこともできないし、素早く捕食者から逃げる技もない。しかしどうだ。一体これほど美しいものを、俺はこれまで見たことがあったろうか。なぜこんなに、輝きを放っているのか。強い西日に反射したみなもに、夏の木洩れ日は揺らめいて、涼しげな風と共にどっかから飛んできた緑の葉が、音もなく干渉の波を作り出している。あれは小舟だろうか。松の葉を櫂にして、うんと遠くまでゆけるかもしれない。モネとかいう画家も、このような風景が見えていたのだろうか。俺は何処でモネの絵を観たのだろう。そうそう、確か子供の頃、夢のなかで観たんだ。俺は人間に飼われていた。透明のケージの向こうに、物凄い美しい世界があるように想った。あれが一枚の薄っぺらい紙に描いた絵だったなんて、信じられない。あの絵にも、水辺があった。でも、俺は水辺に来たかったわけじゃないんだ。歩いていたら、自然と此処まで遣ってきた。俺の前で、光耀いている。
俺は想った。これ、このなか入ったら、凄いことになるんやろな。
俺は、ずんずんそのなかへ、入っていった。
眩しかった。
眩しくて、美しかった。






一匹の針金虫に寄生された宿主は、見事、みずから光のなかへと入っていった。
研究者たちはひとまず、一つの新たなる説を上げた。
針金虫に寄生されたる宿主たちは、歩いていった先に、水辺と、同じく光にも、みずから飛び込む習性があることを見いだしたからである。
彼らが、魅せられるのは、その水面に反射する光であるのではないか。





















逢魔が時の停留処にて 第八

二〇一八年七月七日、雨。今夜は七夕の夜。
七夕と言えば、天帝の別つ牽牛と織姫が一年にたった一度再会できる特別な日である。
天帝は、牽牛と織姫の夫婦を天の川で隔て、二人を引き離された。


或る国に、一人の死刑囚の男が拘置所のなかで二十三年間、暮らしていた。
男は或る新興宗教の尊師の直弟子であり、尊師の命令により二十六名を殺害せしめた。
法廷では尊師と共に断罪され、死刑となることを宿望し、弥勒の世を創り出す為、
生命を投げ捨てて自ら地獄へ至ることを決意したことを述べた。
また、自分に出来る償いとは死刑となり捨身供養することと、すべての人が苦しみの世から解放される為、菩薩として修行することであると述べ、最期まで、人を殺めたことの改悛はなかったと言う。
男は昨旦、わたしの住んでいる家から車で約25分の場所にある拘置所の刑場で、死刑執行された。
二〇一二年に獄中結婚した信者である妻に、男は或る日「わたしも貴女も死後は地獄へ逝く」と述べ、その意志に了としたことを、妻は書き残している。
男は妻の住む近くの拘置所に、四ヶ月ほど前、移送された。
妻は接見の行なえない土日を除いた毎日、夫に会いに行き、互いに近くに移送されたことを喜び合った。
男はいつ妻が会いに行っても理智の深く聡明であったが、或る日、男は妻に、頻りに請うように言い出した。
「水辺へ行きたい」と。
妻は不安になったが、男はこの沸き起こって止めることのできない我が欲求を突き詰め、また或る日は、男は妻にこう言った。
「多分、わたしの脳内に、針金虫が寄生しているのでしょう。針金虫のことは知っていますか?貴女」
妻はなんとなく知っている。蟷螂に寄生して、脳を操る虫のことであるかと訊ねた。
男は微笑んで答えた。
「そうです。よく知っていますね。針金虫は、宿主、寄生する生物のなかでしか成長してゆくことができない寄生生物なのです。針金虫の生態はまだ明らかにされていないのですが、最後は必ず、宿主の脳を支配し、水辺へ向うようにといざないます。針金虫は水のなかでしか生殖及び産卵できない生物なのです。だから十分に成長したら宿主を水辺へと導き、水のなかへ帰ろうとするのです。そして宿主であった蟷螂は針金虫が抜け出た後、水辺で川魚に食べられます。川魚が蟷螂を食べることができるのも針金虫の御陰なのです。とすると、蟷螂は一番の犠牲となる存在です。自分の身を犠牲とし、針金虫と川魚を生かしてゆく存在です。でもここで考えるのが、脳を針金虫によって支配された蟷螂は、果して蟷螂なのか、針金虫なのか、どちらなのだ。ということです。脳は支配されようとも、その心は、魂までもはきっと、支配されてはいないであろうと考えたい気持ちは人間の自然な人情でしょう。しかし本当のところは、どうなのだろうと、わたしはここのところずっと考えています。蟷螂が、魂をも支配されずに、蟷螂の魂を持ったまま犠牲となるからこそ、その犠牲は尊いのではないか。蟷螂がもし、魂をも針金虫に支配され、身体は蟷螂であるが魂は針金虫ということになってしまっていたなら、尊い犠牲ではなくなるのか、蟷螂の魂はいったい、何処へ行ってしまったのか、どうなってしまったのか。何処かに存在しているのか。何処かに存在しているならば、いったい何を想っているのか。蟷螂が、川魚の犠牲となるその苦痛とは、蟷螂の苦痛であることは確かなのです。大きな川魚に丸呑みされた場合は、生きたまま、その魚の胃の中でゆっくりゆっくりと、胃酸によって消化されてゆくという地獄を味わうかもしれません。まあその前に、窒息死するかもしれませんが…どちらにしろその苦痛は、地獄である。蟷螂は、魂までも針金虫に持って行かれたまま、その地獄を味わうのでしょうか。考えると本当に残酷な話です。変わった嗜好の針金虫に寄生された場合、その蟷螂は共食いをし始めるかもしれません。その罪は針金虫のものであるはずなのですが、針金虫の抜け出た後に最も後悔するのは蟷螂であるのではないでしょうか。蟷螂は支配されていたとはいえ、自分の仲間をたくさん殺してしまったのです。わたしは考え、そして答えへと行き着きました。蟷螂にとって、最も大きな犠牲とは、脳も魂もすべて、支配され、最も深い地獄を経験することによって、針金虫と共にすべての生命の幸福を願い続けることにあると。それが真の蟷螂の望む道であると。貴女に、言うか言わないか、相当悩んだのですが、わたしは貴女が独りでも耐えてゆける人であると信じて言います。そろそろ、わたしは水辺へ向かうときが漸く来たようです。わたしの感覚が確信をもってそう言うのですから間違いありません。わたしは間もなく、独りで水辺へ向かいます。針金虫は、一度宿主から抜け出た後は、もう二度と誰にも寄生しないと言われています。わたしが無事に水辺へ下り、わたしを支配する存在が生殖と産卵をしたあと、いったい何処へゆくのでしょう。わたしの魂を支配する存在とは、確かにわたしであるはずなのです。でも例え其処がどのような場所であろうとも、わたしはこれから独りで、水辺へ向かいます。貴女が此れからも耐えて生きてゆかねばならない此の世に、弥勒の世を実現させる為に。」







此処何日と降り続いていた雨がやみ、今は静かな七夕の夜である。
此の日は一年に一度、織姫星が彦星を天の川を渡りて迎える日であることから星迎えと呼ばれている。
天の川は今夜も、暗灰色の雨雲の向こうで無数の星を瞬かせている。

でもまた今、激しく雨が降りだしてきて、天は泣いているのか。























逢魔が時の停留処にて 第七

今日も俺は夕方に起き、トマトと胡瓜に自分で作った精進大根キムチと生姜の摩り下ろしをかけたやつを喰うたのだ。
もう、こんなことは、やめよう。やめたい。そう、俺は想ったのである。
何故二日続けて、二日酔いをするほど赤ワインを飲んでしまったのだろう。
或る男性に、返信にブチギレて、「一生孤独に生きろ」と返事したのは、夢のなかのことであったろうか。
夢のなかのことであってほしいと、できれば、俺は想いたい。
想えるなら、想おう。想えないのならば、想わないであろう。
想う必要があるというのなら、俺はすべてのことを想うのだろう。
ボタニカル柄のワンピースを着て、猛烈な陰雨に打たれながら、俺は想う。
彼奴は今頃、何遣っとるねんかな。俺を孤独にさせ、孤立させ、俺は今だれひとりとも、関わっておらないこの境遇を、彼奴の為に、そう想うと矢張り、はらわたが煮え滾って来て、歯を喰い縛り、眼は死んだ泥鰌の様を極め、酒も飲んでいないのに両の眼はだんだんと斜視って目尻に向って隠れようとするのである。
目の尻に目が隠れるとどうなるか?目尻は、目に向って言う。
御前が排泄するものとは、なんだ。俺?俺が排泄するものとは、目脂、涙、血、だ。
血を、目尻から排泄するマリア像を観たことがないか?あれは俺の仕事だ。
一生懸命に、尻を自らリアエンド(rear end)カットして切り、その血を、尻から流している。
痛くないのかって?麦稈。ものすっご、ものすっご、もっっすっっごっっ、痛いよ。
でもこれが俺の神からの至上命令である。
キリスト像も時に、あまりに悲しいと目尻から血を排泄するんだぜ。
どれほど美しい現象だろう。像なのに、まるで生きているように、血を流す。
あたかも生きているように、キリスト像は悲しむ。
人間たちは、その現象を観て、奇跡だと冷たい床にぬかずき、畏怖に恐怖す。
イエス像が何故、血の涙を流しているのか。
人智を超えた胸の痛みが、イエス像のうちに、存在しているのか。
しかしそんな現象を見ても、冷たい床にぬかずくことなく、代りに冷たい床でぬかずけを漬ける者もおる。
やがてはその冷たい床はぬか床と成り、ぬかずけた者はヌカヅケと成る。
朝、目が覚めると、自分がヌカヅケとなっていた。
ヌカヅケは鏡に映る変わり果てた自分の姿を見詰めながら打ち震え、激しく悔しぶ。
あのとき、イエス像が血の涙を流したその前で、床にぬかずくことなく、ぬかずけを漬けたから、こんな因果を今、予輩は受けているのだ。
ヌカズケ人(びと)たちは、その後ヌカズケ国を築き、どこの国よりも巨大なイエス像を造った。
巨大過ぎて、教会の屋根から食み出たそのイエス像の下に、毎日何度も足を運び、ヌカズケたちは祈り続けた。
話す言語もヌカヅケ言語でヌカヌカしてヅケヅケしていたが、イエス様にきっと届くと信じておったのだ。
ヌカヅケの子供たちは皆、ちいさなヌカ床ベッドのなかで眠る。
見た目透明なパック形の棺に見えるが、子供たちは幸せそうにヌカ床のなかに潜りて眠っていて、ベッドの蓋が開かなくなる日を恐怖することもない。
ヌカヅケ人たちは腸内だけでなく体内のすべてに乳酸菌がものすごい生きていて精力的に増加し続けている。
考えたら乳酸菌とはひとつひとつが生きているので、ヌカヅケ人の存在とは、その無数の乳酸菌たちの集合体に過ぎないと言えるかもしれない。
だから塊という字と、魂という字はよく似ているのである。
自分とは何か?と考え続けるときに、なぁんだ、予輩たちは無数の生命の塊に過ぎないんじゃん。と考えると、一気に救われるものはある。
例えば誰かに深く傷つけられたときも、その行為はその者を構成しているたった一つの乳酸菌や体内細胞が想って遣った行為であり、その者自身が、自分を傷つけたくて傷つけたわけではないのだと考えて、楽になることもできるかもしれない。
もしかすると本人も、その一つの菌や細胞が考えている自分が自分自身であると想いこんでいるかもしれない。
針金虫は宿主(しゅくしゅ)の体内でしか生きてゆくことができないという。
餌を通して蟷螂に寄生し、蟷螂の体内の栄養や卵を食べて成長し、最後は蟷螂の脳に特殊蛋白質を生成し水辺へ誘導する。
そして水のなかで産卵するらしいと考えられている。
水辺まで誘導された蟷螂は川魚の餌食となるか、数日後に死んでしまうという。
予輩は考えるのだが、寄生された蟷螂が針金虫を喪うことですぐに死んでしまうのは、自己を見失うからではないだろうか。
何故なら針金虫は蟷螂の脳までも操ることができるほど蟷螂のアイディンティティを脅かす存在である。
針金虫が水辺へ行きたいが為に蟷螂の脳内物質を変容させる、蟷螂は何故だかわからぬが、激烈に水辺へ行きたくなる。
我々もなんでだかわからぬが、無性に腹が立ったり、無性に人を愛しく感じたり、無性に人を呪ったり、無性に人を救ったり、無性にツイート(tweet)してしまうことがあるだろう。
でもそれには必ずわけがあるはずだと、そのわけを人間は死ぬ迄考え続ける。
わけもわからずに人を愛したり、人を憎んだり、ツイートすることが苦しくてならないからである。
宿主の蟷螂も、突如、無性に水辺へ赴きたくなったのは、必ず理由がどこかにあるはずだと考える。
そういえば、最近、水辺へ行ってなかったなあ。水辺といえば原初の生命が誕生した場所であり、わたしにとって、魂の故里であるのだろう。
そんな懐かしい故里へそういやもう随分と、わたしは行っていない。
いや、行きたいなとふと想うときは今までも何度かあったようにも想う。
でもこれほどまでに、魂が揺さぶられるほどに行きたくなったのは初めてだ。
水辺がわたしを、呼んでいるようだ。水辺がわたしに逢えないことの悲しみを日々募らせていて、このたび、限界値に来たのかもしれない。
水辺がわたしに向かって、叫んでいる。「はやく来てください。懐かしいあなたと再会したい。」と。
わたしだって、故里へ帰りたいよ。でも今まで行かなかったのはわけがある。
危険だからだよ。水辺へ向い、そのまま帰らなかった家族、友、知り合いたちが本当にたくさんいる。
嗚呼、何故!何故かれらはみな、帰らなかったろう!
でもわたしは今でもずっと、かれらを待ち続けている。
わたしたちにとって、水辺とは黄泉の国に通じる場所であると考えられている。
そう、水辺は死者の国の入り口なのだ。入り江なのだ。
だからいつも、子供たちにはきつく教えている。
絶対に水辺へ行ってはなりませんよ。と。
わたしたちの故郷である水辺に恐怖の印象を与えることがどれほど悲しくつらかったか。
そういえば、「命よりも、水辺が大事だ」と言って水辺へ向って不帰の客となった者もいたな。
不帰の客とは、不帰家の客人という意味があるだろう。
一度、その門を潜り抜け、土間を上がるなら決して帰ることの出来ぬ家、それが不帰家である。
わたしの先祖のひとりは、その不帰家の居間まで上がり、茶を一杯飲んで一晩そこで寝泊りをして帰ってきた。
ところが帰ると、祖の人格、話し方、雰囲気が一変してまるで別人のようであったという。
祖は死ぬまでの三年間、「われとは何か」、たったそれだけを考え続けて死んだという。
水辺にその不帰家が建っていることはわかっている。
その不帰家は、どんな宿であるか、幾つもの浮説がある。
一つは、マイアミビーチ市にあるコロニーホテルのような外装である。
一つは、いや、キャンプ場にあるロッジ風の丸太を水平方向に井桁のように重ねて積み上げ、交差部には切欠きを使い組み上げた構造のログハウス系の宿である。
一つは、地下鉄のプラットフォーム状の宿である。
一つは、得体の知れない人間の口腔内のような感じの宿である。






咥内停留所のベンチの上に、一匹の蟷螂が乗って両前脚で器用に身繕いをしていた。
消マは左へ首を傾いでそれを観て微笑んだ。
なんというけなげな生き物であろう。自分が何者であるかをわかっていなくともこうして、何一つ疑問に想わず切に生きて生命を謳歌しているようだ。
手を近づけると蟷螂は怖れることなく手の甲の上に乗ってきた。
愛らしいその存在を打ち眺めていると、ふと脳内に、きっと長旅になるであろうから、この者を旅のお供にしようか。という想いが浮かんだ。
消マは蟷螂に向って、「御前はわたしに着いて来るか」と訊ねた。
しかし蟷螂は首を横に振り、水辺のほうに向って、歩いて行った。
消マはひとりで水辺へ向って歩いてゆく蟷螂の後姿を眺めながら。
そうか、御前は其方へ、ゆくのだな。と小さく言った。
でもそのあと、想わず涙が零れ、自分でも何故かわからぬが、声が出た。
『御前はどうしても、行ってしまうのか』
























逢魔が時の停留処にて 第六

寝て、約四時間後くらいに目が醒め、寝れなかった。俺は。
そうだ。楽天銀行で、宝くじを買い、百万円かそこらを当てて遣って、その金でこのくろごきぶりちゃんと恐怖の同棲し続けなくてはならないこの部屋を引っ越したらええんや。と俺は想い、楽天銀行の残高を見てみると、残高203円であった。
買えないですや。これじゃ買えないですや。
俺は諦め、いつもの思索と黙考をし始めた。
俺の本ブログに、執拗に悪質で幼稚なハラスメントをしてきたあの45歳の男は、一体、何を俺に求めてたんやろな。と俺は想った。
ただファックがしたいとか(俺はヘテロであるのだが)、俺を差別し見下すことで優越感に浸りたいとか、俺を騙して苦しめることがただ単に快楽な軽薄なサドか、おるだけへの執着でなく、誰にでもあんなハラスメントをしているのか、俺にハラスメントしないでは拷問のような地獄にいて、切実な救いを求めてなのか、好き勝手ごろつきとして働かず酒を飲んでロハスに生きて表現だけを一筋に遣っている俺への妬み、嫉妬からか、俺が男という生き物を見下していると感じ、それに対する恨みからか、俺が人間という生き物を見下しているという感じがし、それに対する腹立ち紛れの自爆行為か、ともすれば、彼奴にとってのハラスメントとは、俺への最高の愛情表現なのか、彼奴はそれを遣れば俺を喜ばし、俺を幸福にできると想ったのか、彼奴は俺と結婚したかったのか、彼奴は今も、何処を観ているのだかわからんような目で今も真っ直ぐに前を向いて歩いているのか。額に汗しながら、呻きながら、魘されながら、絶望しながら、遣りたくもない肉体労働をしながら、安い給与で、彼奴は今も、腰を痛めることを懸念しながら、彼奴は今日も、明日も、明後日も、明明後日も、一月後も、一年後も、十年後も、三十年後も、生きているのか。息をしているのか。誰一人からも、愛されずに。
俺が彼奴を見離したから、彼奴は此れから三十年、本当に独りで生きてゆくのかもしれない。
でも俺は、彼奴を見離したつもりはない。
現にあれから毎日、彼奴のことを考えて、返事を待ち続けている。
あれから何日が経っただろう。まだ返事は何一つ来ない。
彼奴の方が、俺を見棄てたのではないのか。
俺はいつでも、彼奴と真剣と向き合い話そうとしてきたのだが、彼奴はいつもふざけているようにしか見えなかった。
俺と彼奴、どちらの苦痛と悲しみが深いのか。
そんなもん、天秤に掛けられない。
永遠に、量ることはできない。
量ることができないものを、彼奴は簡単に、量って俺にハラスメントしてきたのである。
御前よりも俺の方が苦しんでいると。
安全圏から、御前は一体、何を偉そうな口を叩き腐っとるのだと。
俺は御前よりも危険圏に生きていて、御前は俺より安全圏に生きていると彼奴は俺に言いたいのである。
そうやって相手が自分よりも楽に生きているということを自分のなかで確立させ、信じるために、そうしてこの地獄から救われる為に、彼奴はそれを俺を殺してでも俺に伝えるために書き込んだのである。
俺を此処まで苦しめて、彼奴が苦しんでいない筈はないやろう。
否、今はまだほくそ笑んで生きていたとしても、今後、一体、何が彼奴を待ち構えておるやろか。
ははは、考えたら気色が良い話だ。彼奴は俺を苦しめ、自分が苦しみたかっただけだと俺は想っている。
今よりも、彼奴はドン底に堕ちたかったのだ。
そして俺という男は諦め、あらゆる孤独な女たちにすがり付き、助けてくれと懇願するのだろう。
俺を愛してくれと。一番に。特別に。
何よりも。何よりも俺を愛してくれないなら、ハラスメントするもん。
ぐすん。
赤ちゃんではないか。彼奴は赤ちゃんの時に、よっぽど愛されなかったのに違いない。
せやさかいに赤ん坊、乳呑み子から全く成長することができないのだ。
しかしその乳呑み子に俺が遣ったこととは、彼奴にとってのネグレストであったのかも知れないな。
俺は彼奴と、御前のような人間は絶対信用できないから、御前を信じて愛することは絶対にないという前提で俺は彼奴と向き合ってきたのではなかったか。
でもそんな俺に彼奴は、あたたかい赦しの母性愛と人生の厳しさを教えてくれる父性愛によって自分自身の肯定というものを一心に、求めていたのかもしれない。
彼奴は、本当に早急にそれを俺に求めすぎた。
でも俺はゆっくりと、死ぬまでの時間をかけて、たった独りで自らの表現だけによってそれを遣っていこうとしている。
一体、いつまで、同じことを遣り続けるつもりか、大体なんでそこまで俺に執着して来るのか、彼奴は。
俺が本ブログに戻ったなら、彼奴はまた同じようなことを遣ってくる気がする。
此れを父と息子で例えるなら、何度断っても小銭(数万円単位)を借りに来る甘えて精魂の腐りつつある息子に辛抱尽きて、自家の戸の前に、「わしは此処を引っ越すことにした。御前に、引っ越し先の住所を知らせることはない。何故ならば、御前は何べんゆうてもわからなんだし、わしも年金でかつかつに暮らしとるのに御前はわしの苦労もわかろうとはせなんだ。御前に貸す金は一円もないとゆうたやろう。なんで一回ゆうただけでわからへんのや。もうわしは限界や。あと何年生きられるかもわからひんさかい、もし遺せる金があるなら、御前にすべてを遣る。だから口座先は変えるな。わかったな。わしは銭など棺のなかに持ってってもしゃあないさかいにな。でも御前には必要であろう。生きて行く為の金や。わしがはよ去ぬことを願っとれ。達者で元気に暮らせ。しかしなんかあれば、テレパシーで送ってこい。ほなな、わしは去ぬで。」と書いたちらしの裏を貼り付けて、我がいえを後にする老いぼれた親爺のようである。
俺が大切な本ブログを断ったのは、俺の為でもあるし同時に、御前の為でもある。
父親が自分を棄て家を出て引っ越した後に、息子がどう変わって行くのかはわからないが、父親の願いとは一つである。
倅が自分の受けた苦しみと悲しみを知り、反省してテレパシーで真の謝罪と感謝を述べてくること。
そして人生とは、真に以て厳しいものであることを倅が漸く覚り、苦痛の連続の自分の人生を受け入れようとして人に迷惑をかけずに独りでも生きて行くこと。
自分を振った女が血税で酒を呑みながら人を見下すようなブログを書いていたとしても、嫌がらせのコメントを連投したりしないこと。
そんなことは、人間の最もみっともない恥ずかしい行為であるということを知ること。
もっとちゃんと生きて行けるはずである。
御前は人間の出来れば遣りたくない辛い肉体労働を好きでもないのに頑張れるほど根性のある人間ではないか。
自分の黒歴史をこれ以上増やす必要はあるのか。自分の業を、これ以上積み立てる必要はあるのか。ないのか。どっちなのか。
我が胸に、問い掛けて御覧なさい。
御前はこれ以上、自分を振った女にハラスメントし続けて生きて行く積もりなのか。

あの家に、どうしたら戻れるやろうか。
運と縁、それが巡り廻りて、戻れる日が、いつの日か、遣ってくるのかも知れん。
わし、生きとるかのお。
親爺は狭く、殺風景なアパートで一人、冷奴を充てに胡麻焼酎をあおり、舌鼓を鳴らした。
本当に消えかけそうな、蝋燭の火が、窓の向こうに見え隠れする。



訪問者が一日にだれ一人居なくても、俺は書き続けなくてはならない。
とにかく自分の内にあるものを外へ表現することを死ぬ迄遣り続けなくてはならない。
昨日もこのブログには、誰も訪れなかった。
一日に何時間と費やし七千文字以上書いても、誰ひとり俺の記事を読みに来る人は居ない。
働く人なら、自分の仕事が誰かの役に立っていると自負することができるのだろう。
でも俺の書く小説を、一体死ぬまでに誰が真剣に読むだろうか。
一体俺の仕事とは、誰の役に立っているのだろう。
毎日が寂しくてたまらないが、想わば新潮新人賞に応募した作品を書いていたあの3ヶ月程の期間も、俺はほぼ誰とも会わず会話せずの日を過ごし、苦しくてならなかったが、その苦しみがあって、あの作品を完結させられたのだと想っている。
もしかしたら或る遠い星に住む孤独な人間が、その高度文明によって離れた地球という星に住む俺の生活をずっと観察、監視しており、俺の小説を心から楽しみにしているやもしれまい。
そうだ孤独な彼の為にも、俺は死ぬ迄、書き続けよう。
俺は何があっても、諦めない。
この世界の全員に、面白くないと言われようと、俺は書き続けるったら、書き続けるかんね。
表現を、創造を、絶対に、やめないんだかんね。


そういえば今日は夢にスウェーデンのラッパーのYung Lean(ヤング・リーン)が出てきた。
何か彼との深い絆を感じる温かい夢であった気がする。ヤングの深い愛を、俺は確かに受け取ったぜ。
去年に出した「Stranger」っていうアルバムも滅茶苦茶良いんだよね。
こんなに癒されるヒップホップが他にあるだろうか。本当の天才だと想う。
俺が14歳のときに彼が産まれ、彼はこの21年、色んなことを経験して生きてきたのだなあ。
そういうことを考えると、本当に感動する。
同時に、とてつもなく悲しくなる。
彼奴は俺が死んでも、どうでも良かったから、俺にハラスメントをやめなかったんだ。
俺があらゆる経験を通してこれまで三十六年間必死に生きてきたことを、彼奴は感動してくれないのだろう。
このようにいつも、俺は喜びを少しでも感じた瞬間、同時に悲しみを感じてしまうようだ。
そしてこの喜びが、深ければ深いほど、俺は悲しみの底に突き落とされてしまうようだ。


悲しみはどのようなものもやがて、悲憤のマグマを誕生させ、マグマを消化してゆくことをしないなら、はらわた内でずっと消化されないマグマが己れと、他者を、苦しめ続け、最後には破滅させようとする。
他者に対する怒りとは、自分に対する怒りそのものである。
自分に怒り続けている人間ほど、必死にそのマグマを消化し続けていかねばならない。
どうすれば煮え滾り続けるマグマを消化してゆくことが出来るか。
自分と毎分毎秒、向き合い続けてゆくこと、自分から目を逸らさず、どのような自分をも隠さずに表現してゆくこと。
自分を、肯定してゆく作業は、他者を、肯定してゆく作業である。
自分を否定し続けるものは、他者をも否定し続ける。
互いに苦しめ合い、互いに破滅してゆくのか。
俺はどうしても、最後まで、自分と向き合い続けて生きたい。
すべてとの心中を、俺は望まなかった。
でも自分と向き合い続けていかない者は、すべてとの心中へ向っている。




消マの頭蓋内世界に閉じ込められてしまった不魔にとって、生きることとはなんだろう。
不魔は、何か悪いことを行なったからこうして閉じ込められて消化される日を恐れなくてはならないのではなく、真当な善き人間として生きていても、いつの日か必ず消化され行く運命にあるのである。
不魔は、宿の個室のベッドに横になり、レースカーテン越しの窓の外の暗闇を見詰めながら自分の運命と自分を救うことのないすべてを呪った。
不魔は、愛されたいと願った。
消化され行く日を免れないというのならば、せめて本当の愛を知ってから、死にたいと想った。
本当に愛する女に出逢い、愛されることを知るのならば、死に対する苦しみは安らぐだろうか。
それとも一緒に死にたくなるほど、今よりずっと苦しむだろうか。
不魔は生々しく想像してみた。
愛する女の顔は見えないが、まさしく女は俺のたった一人の愛する女であり、女にとっても、俺がたった一人の愛する男であるようだ。
なんという幸せであろう。人間というのは、たったそれだけで幸せになれるというのか。
顔の見えない女は、俺が仕事から帰るといつも、キッチンに立っている。
俎板の上で葱かなんかを刻んでいる。良い音だ。何故か、懐かしい音だ。
エプロンで手を拭きながら俺に微笑みかけ、「おかえりなさい」と言う。
俺はそれだけでほっとすることだろう。毎日の繰り返しでありながら、同じことを繰り返すことに安心する。
小さな円形のテーブルを囲んで女と晩餐を共にしながら、俺が女に話すことや、女が俺に話すことは、きっとなんでもない、特に内容のない話なのだろう。
近所のスーパーのレジ打ちをしているおっちゃんらしき人が、実に神経質そうで繊細な心の持ち主なような気がするのだが、あのような人がああいった単純な単調作業を何時間とし続けることを想うと、自分も苦しくなってくる。
でも本当のところはどうだろう。本当はこの仕事が楽しくて仕方ない、うきうきわくわくしながらレジを売っているかもしれない。そんなことに憂う自分は変なのか知らん。
多分そういったことを、俺の愛する女は俺に話すのだろう。
俺はははは。と笑い、きっとこう答えるだろう。
「ああ、おまえは多分、かなり変だ。でも誰に気違いだとか言われたって気にすることない。俺はそんなおまえだけをたったひとり、愛しているのだからね。はははははは。おっさんのこと考える時間をすべて、俺のこと考えてくれへんか。」
女も俺にくったくのない少女のような顔で微笑み返す。
嗚呼、俺の愛する女はなんと可愛いのだろう。こないだ俺の浮気を疑って、包丁持って追い駆けてきて、ケツを深くズブと刺されて血が止まらず死に掛けたが、ははは。なんて可愛い女なのだろうか。
女は俺しか見ていないのだ。女には俺しか見えていない。
それなのに、俺の女はいったい、俺が居なくなればどうなるんだ。

不魔は眼を見開き、滂沱たる涙を流し想った。
いったいこんな妄想をして、誰が救われると、俺は想ったんだ。




















続く。













逢魔が時の停留処にて 第五

今日は二度寝したあと夕方に起きて、郵便局とコンビニエンスストアとグロッサリーストアへ想う向いて赴いた。
行きしは曇ってたが、帰りしは雨が結構降ってきて、濡れて帰った。
つっても徒歩2分とかなので、酸性雨によって皮膚を溶かされ家に着いた頃にはどろどろのゾンビと化していて何もかもが厭になって、もう生きてゆくことができなくないかと想って西洋のとある古い墓地に遣ってきた。
何を想ってこんな処へ来たかというと、ゾンビの仕事といえば人を驚かすこと、恐れさせて逃げ惑わせること、ゾンビ研究家の研究対象になり一日の給与5千円を稼ぐことくらいだと想ったからである。
しかし日本の古い墓地には御岩さんなどが似合うが西洋の十字架並ぶ古い墓地にゾンビが似合うかというと特にそうでもない。
そういえばあまりゾンビ映画を観たことがなくて、こんなことなら毎日でもゾンビ映画を垂れ流しておけば良かったと後悔した。
とにかくゾンビ研究家の人に偶然遭ったならもっと好ましい俺に似合う場所はないだろうかと相談してみよう。もしかしたらゾンビピザショップとか思い掛けない場所を教えてくれるやもしれないし。(勿論、ゾンビ肉をピザとして売っている店なら断固、お断りである)
ゾンビとは何かと言えば人間が死んで腐乱して行っているその最中で生き返った存在である。
そのまま腐敗が進むのならばやがて白骨化して骸骨となって最後は塵である。
その塵を観て、やあゾンビだ。と言う人はいないだろう。塵は塵であり、塵は非常に小さな粒子である為、どれが誰の塵かなどわかりようがない。
だから知人が塵となって、夜に公園で座ってたら目の前に遣って来て、「やあ久しぶりだね。元気してる?」と声を掛けられても全く気付くことはできないだろう。
それに塵の声だから耳元で何かノイズのような耳鳴りがなっているように聴こえるので塵となった人が幾ら必死に話し掛けようとも一向に相手がそれに気づくことができない。
悲しいことだ。塵となった人が、人に恋をすることもあるのだろう。
果してその恋の苦しみが報われる日は遣ってくるのであろうか。
中身はまったくの同じであるのに、人がゾンビや骸骨や塵を人として同じように愛せないのは可笑しな話である。
だからといって人が腐乱死体や骸骨や塵に人のように普通に話しかけていたら危ない人だと想われ人間じゃないような目で見られてしまうのだろう。
ひとことで言うなら、向こうの方に行ってしまった人。と捉えられるのだろう。
向こうの方とは、俗世に生きる人間の人智に及ばぬところである。
そういえば俺は小学生の頃、帰ってきた答案用紙のその答えあわせが一人ではどうしてもわからなくて、仕方なく左斜め前の席の休んでいるクラスメイトの男の机の上にあった答案用紙をめくり、その答えをこっそりと書き写していたら、一人のクラスメイトの男が俺の遣っているところに気付き、その瞬間、「きいっしょっ」と、心の底からこいつ人間じゃないというような言い方で吐き捨てた。
俺はそう言われて初めて、そうか、俺の遣ったことってそれほど人間としてやばいことなのか、気色の悪いことなのかと知ったのだった。
そこそこ端整な顔立ちの色の白い男だったが、今頃どうしているのだろう。どん底に堕ちているのか、それともなんとか世間の枠からは外れずに生きていけてるのだろうか。考えたら苦しいことだ。俺のクラスメイトで、夭逝した人もいるのかもしれない。俺はこうやって誰一人とも会話をしない、関わらない日々を過ごしているが、それでも自分の好きなことだけを遣って、作家にとっては充実とも言える日々を送っているのかも知れまい。
作家は沈めるだけの底まで沈めることを、本質的に望んでいるだろう。
だから一時ゾンビになっても、一時白骨化しても、一時灰燼になっても、塵と化しても、またいつか戻れると言うならば、別段問題はないのである。
まあ今回ゾンビになってしまったことは俺の幻覚で西洋の墓地へ赴いたのは白昼夢であったようだが、楽しかったなあ。
白昼夢というのは切実なんだけれども、世界、次元、時空というものが、ものすごく歪んでその為感覚も同じに歪み続けて正常な感覚、意識とは言えない空間に在る為、俺はその世界を楽しもうとするなら、それは不可能ではない。
でもその世界に、俺以外の存在は居ないといつも感じるので、寂しいことには変わらない。
またこの世界も、俺だけの存在が居ないといつも感じるので、寂しいことには変わらない。
今夜も、死だけを抱いて、死だけに抱かれて、俺は眠る。
死が、俺の乳首を弄(いら)い、俺は勃起し、射精す。
何処にか?それは勿論、死の子宮へ向かってである。
死は俺の子を、妊娠す。死は俺の卵を温める。
俺の子は死の胎内で順調に成長してゆき大きくなってゆく。
そして死は、俺の子を、俺の頭蓋内に、産み落とす。
名前は、子死江(こしえ)である。




まだ幼い子死江には、母もおらず、また父は売れない作家であったが、日々思索室に籠もり、子死江の遊び相手になって遣れなかった。
父は子死江には、イマジナリーフレンドなる存在が必要であると想った。
子死江はみずから、ピンク色の湖のなかを泳ぎ、向こう岸へ渡った。
そして岸から上がり、着ているスカートの裾をぎゅっと絞った。
その時であった。子死江は何か気配を感じ、ふと足許を見た。
するとそこには、小さな30センチほどの大きさの水色の耳と足の服を着たクマのぬいぐるみがちょこなんと座って居た。



Screenshot-2715



クマは起き上がり、子死江に御辞儀してこう言った。
「ハジメマシテ。ボク、精ンク魔(セインクマ)と言う者です。きみのイマジナリーフレンドとなる為に、この仮の姿を着ています。ぼくは、きみとお友達になりたいです。」
子死江は、ちいさな精ンク魔を抱き上げると、ぎゅっと愛しそうに抱き締めた。
精ンク魔は、嬉しそうに微笑んで子死江を抱き締め返した。
「ここは、ぼくのおうちのガーデン、お庭です。なにかほしいものがあったら、御遠慮なくぼくに言ってください。」
精ンク魔は子死江に抱っこされながら右手を前に出して自分の庭を紹介した。
「うぬ(己)の寝るベッドはあるのか。うぬの座る椅子はあるのか。うぬの食べる食べ物は、着替える衣はあるのか。」
子死江がそう訊ねると精ンク魔はこくんと頷き、「ええもちろんです!なんでもここにはあります!」と言ったので子死江は驚いた。
「精ンク魔、大好き。」と子死江はもう一度精ンク魔を強く抱きしめた。
その瞬間のことであった。精ンク魔の頭蓋内では、ぐつぐつと煮え滾るものがあり、それは確かにマグマであった。
その時誕生したのが愛マグマ、通称、愛グマである。
愛グマの形も、ちいさなクマの形であった。
精ンク魔も愛グマも、子死江の愛を感じ、幸せな心地であった。
精ンク魔が熟睡しているときに子死江に話しかけるのは愛グマであった。
話し方も話すことも同じであったが、子死江にはその存在が別々であることがわかっていた。
子死江は精ンク魔も愛グマも同じだけ大好きであったので特に問題はないと想った。
だが、ある晩のことである。精ンク魔は子死江の隣で、すやすやと寝息をたてて寝ていた。
口が半ば開いたままで、涎が口の端から垂れ落ちた。その涎をウォータースライダーのように滑り落ちてきた愛グマは、子死江の胸にしっかと抱き着いた。
子死江が胸の圧迫に目を醒まし、うぬの胸にしがみ付くクマを見て、歓喜し抱き締めた。
精ンク魔の頭蓋内空間でこれまで過ごしてきた愛グマは、この夜精ンク魔の口から外へ出てきて一時間かそこらの短時間でみるみるうちに成長し、約40センチほどのアンティークテディベア風の薄い茶色のクマとなっていたからだ。



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愛グマは子死江に、賢そうなクマ顔でこう言った。
「子死江、貴女を愛しています。わたしと、結婚してください。」
どうやら愛グマは、この瞬間に本気になり、精ンク魔と話し方、一人称、二人称も変えて子死江に愛の告白をしたのだった。
非常に複雑で厄介な関係である。何故なら愛グマは精ンク魔の子死江に対する愛のマグマから産まれた存在であり、愛グマの父親とは即ち精ンク魔であって、まだふたりとも、身体は幼児であり、愛した子死江に至っては、心も身体も幼女である。
子死江は、まだ結婚というものがどんなものであるかがわからなかったが、幼いながらもなんとなくややこしくて煩わしいことになったのだろうかと想った。
なんと返事すれば良いかと考えていたら突如睡魔に襲われ、そうや、このまま寝てこましたろう。と想い、子死江はそのまま寝入ってしまって愛グマは悲しんだ。
やはり、クマでは、クマの姿では、だめなのか…。愛グマもまた、クマの姿は仮の姿であったのである。
子死江はまだ、精ンク魔も愛グマも、その本当の姿を知らない。
もし、知ってしまったのならば、子死江は、耐えてゆけるであろうか。
愛グマはこっそり、精ンク魔に見付からぬように使っていない奥の部屋の洋服箪笥の中に隠れ、内側から戸を閉めた。
そして暗闇のなかで沈思黙考した。これからは、精ンク魔が彼女のそばにいないとき、精ンク魔が寝ているときだけ彼女に話しかけよう。
愛グマは洋服箪笥の真暗を枕とするそのマクラ闇のなかで、涙をひとしきり流した。
そして確信するのであった。このような孤独と暗闇に耐えることができるのも、ひとえに子死江への我れの愛の深さゆえである。
















続く。









逢魔が時の停留処にて 第四

俺はうっすら、そうではないか。と、想っていた。
人間の、人類の怒りとは、根源に深い悲しみがあるのではないかと。
怒りっぽい、短気である人とは、うちの父もそうであったし、兄もそうで、自分自身もそれに当たると感じる。
自分でゆうのもなんだが、この家族の悲しみは相当深く、父は深い悲しみを抱えたまま他界してしまったが、遺された族である二人は、この悲しみの行き場が未だ、見付かっていないようだ。
詳しくは兄のプライバシーを損害する為、話すことができないが、兄は今も実家で、それも廃墟と化しているような家で暮らしている。
ブラック企業で働き、寝る時間は平均三時間だという。
短気であるとは、謂わば地下深くで蟠るマグマが普通よりも熱く、エネルギーが強く、その為、噴火する頻度は増え、噴火のエネルギーもまた強まるということであろう。
では情熱の深い人ほど、怒りやすいのか。というと情熱は深そうだが、いからない人も多いと感じる。
何故か、それは自分自身と、さほど反発していない情熱家だからではないか。
自分に厳しく、自分の何かにつけて許せないと感じるものが強くて多い人ほど、他者に牙が向きやすいように想えるのである。
だのでユングもシャドウの投影という人間の潜在心理を分析、心理学界に、驚愕の原理を打ち立てた。
しかし此処でこんな真理を出してきたら、俺の思索に支障が出るのではないかと想うかもしれないが、俺はこの真理を超えようとして思索に耽っているのである。
真理には、真の愛には、だれひとり、永遠に辿り着けない。と、かの銀色の聖者は言った。
俺もその通りであると想う。
苦しいことだが、それが真理であろう。
真理には、永遠に辿り着けない。それこそ、真の理。
考えると、吐きそうになるから、もうこの話はやめよう。
目を背け、俺の課題の続きを思索しよう。
ええっと、ああそうそう、怒りとは、深い悲しみから起こっているのではないか?という思索をしていたのだ。
此処で言いたいのは、悲しみにも、そら種類が在る。ということである。
誰もが同じ悲しみを悲しみとして悲しんでいるわけではない。
俺は、この悲しみを、まず大きく二つに分けてみて、考えてみた。
人の一番の悲しみとは、何ぞ?と考えたとき、それはやっぱり、あなた、愛、が、深く関係していますよ。
では、愛のなきところに、深い悲しみはないか。と考えると。
確かにそうであると俺は想ったん。
宇宙に、否、全宇宙に、愛がないならば、人がこれ程までに深く悲しみ続けることが在るで在ろうか。
例えば、今まで、五体満足で生きてきた人が両足をなくす、両腕をなくす、両目玉をなくす、鼻と口をなくす、はらわたをなくす、肛門をなくす、生殖器をなくす、頭髪をなくす、頭蓋をなくす、脳髄をなくす、視力と聴力をなくす、味覚をなくす、触覚をなくす、若さをなくす、肌のきめ細かさをなくす、皮膚をなくす、骨をなくす、などして、奇怪な蛸のような生命体となるならば、人間は、どれほど悲しみ、苦しみ続けることであろうか。
多くの人は、たった一日もその状態で生きて行くことに耐えきれず、自ら海へ帰って行くかもしれない。
耐えきれた少数の者も、自分は、本質は蛸状の生命体であったのであり、元々人間ではなかったのだと想い込むことでどうにか耐えて行く術を掴まざるを得ないかもしれない。
何故そこまで、自分が蛸のような奇妙な気持ちの悪い生命体になったからといって、耐え難い悲しみと苦痛を感じ、海へ帰ったり人間としての存在を否定したりするのか?
これも俺は、深い愛ゆえであると想われる。
人間は、何かと自分の容姿が気に食わないとか自分が健康でない、自分の今の境遇が気に入らないなどと言っては不満を嘆き続けることを得意とするが、人間が人間として存在できているということ自体、物凄いことなのであって、物凄い愛からできているからこそ、人間は人間として生きることの喜びを感じられるのであるだろう。
つまり人間が、人間として存在し、人間として生きられるそのことを満足せずに、一体何に満足しようとしておるのか?
容姿に不満、不健康であることに不満、人格に不満、人生に不満などといって、自分の観念、生活習慣も変えようとしない、そしてそれを、神の、人類の創造主のせいにしたりもする。
容姿に満足し、健康であることに満足し、人格がまともであることに満足し、人生がすんすんとうまい具合に理想の青写真通りに進むことに満足す。それが人間の満足というものだとでも想っとるのである。
そんなもん、人間の幸福とは呼ばない。
人間の幸福とは、人間が人間として生きられること、生きて行けること、人間と関わりながら様々な経験をしてゆけること、つまり、人間が、人間で在る。こと。
頓悟(とんご)だな。頓悟で罠悟。とんごびんご。どうやら俺は早くも、覚ってしまったようだ。
人間が人間として在る、存在すること以外に、以上に、人間の幸福はない。
あ、これ、来たな。来てる。俺に向かって、何かが遣って来てる。
はて、あれは、なにか知らん。
妙な、気色の悪い、蛸みたいな外から見える器官をすべてなくした深海の、そのまた地下深くに六十億年生存していましたというような顔のくにゃくにゃくねくねした、変な赤い奴。
あれが、あいつが、きゃつが?真理、か。
俺は座禅をbeachで組み、念仏を唱えた。
蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮蛸稲蛸稲万物微伊地蛸稲蛸稲清真不念子巳野陽波胃束蛸稲蛸稲他小神里二田野麦唐替佐伝暮......

すると、遣ってきている気配を感じなくなり、俺は眼を開けた。
ザザザザザザザザアン。と、ビーチに俺だけが居て波音が聴こえていて、あれまだ朝の九時?俺は腕時計を観て、まだこんな早い時間かと想った。
ぴゃあ、ぴゃあ、ぴゃあ、と鴎か海猫たちが鳴いて飛び交って旋廻していた。

酷く、疲弊していた。多分脳細胞の殆どが死滅したのかもしれない。此れが覚醒状態なのだろうか。まるで三度続けて射精し続けた後のようだが、俺の課題を放り出すことはできない。
俺は強い怒りと深い悲しみの因果関係を解明せねばならない。
人間の悲しみには、種類があり、それを大きく二つに分けるならば、
①愛されていて愛している。深い愛を知るがゆえの悲しみ。
②愛されていないし愛していない。深い愛を知らぬがゆえの悲しみ。
に分かれるのではないかと考えた。
前者は、親の愛や兄弟や友人や恩師の愛などによって、愛されていることを知り、また自分も愛していることを知る愛の深い者である。
一方後者は、今まで誰からも愛を感じることができなかった。例えば、道路の真ん中で糞をしている野良犬に出逢ったとき、最初は自然と助けてやろう、此処で糞していたら車に跳ねられてしまうと懸念し、糞している最中の野良犬を抱きかかえようとした。すると、あろうことか、その野良犬は、恩を仇で返すが如くに自分の顔を見て、ふんと鼻で笑い、そのあと後ろ足で排泄したばかりの糞を自分の顔目掛けて蹴り飛ばして来たのだ。これが、五歳の頃の後者の記憶である。この時、後者は、愛とは、他者を愛するとは、無駄である。と人生の答え、結論に至った。何故なら、後者は、この時、命を懸けて野良犬を助けようとしたのに、その尊き犠牲愛が、野良犬には全く届かないものであることを知ったからである。はっ、俺は誰からもどうせ愛されていてへんし、誰も愛せへんのだ。深い愛?ファックでしょう。糞と同じ。とにかく臭い。愛を語るなど、白々しい。だるが、だるを、愛していると言えるんだ?往来に出れば何人もの恋人同士、夫婦がなかむつまじく歩いているが、例えば、自分と相手、どちらかが八つ裂きにされねばならない極限の境地に立たされたなら、わたしは嫌だ。頼むからあの人を八つ裂きにしてくださいと懇願する人間ばかりでないのか。俺にはそう見えるね。愛など、虚構だ。俺は愛を信じない。気付けば、親も兄弟も友も先生も神も、俺を白い目で見ていた。そして、俺自身さえ、俺を白い目で見る。創造主は、俺を玩具として、作っただけなんだ。要らなくなったら、飽きたら、すぐに消滅させる。苦しめるだけ苦しめて、ゲヘナへ投げ棄てる。俺は、その後もう永遠に存在しない。それまで転ばせられ、落とされ、吊り上げられ、振り回され、打ち付けられ、溺れさせられ、餓えさせられ、渇かせられ、怒らされ、泣かされ、叫ばされ、欲情させられ、恨まされ、辱しめられる。

後者は、自分自身に絶えず憤怒んし続けている。だからいつも自分に対して苛ついているので他者が何かとアホなこと、自分をムカつかせること、またはモラルに欠けていると感じることをやらかした場合、おもっくそ、はらわたで煮えた怒りのマグマが爆発し、口や目から、噴火して、酷いときには手や足からも噴火する。
時に、口から出た、またはインターネットを通して手先から出たマグマがキーボードを打ち込み、正論を述べまくる時も多い。
だが怒る内容に関係なく阿修羅の如くの破壊威力となるときも多く、止められるものは最後、国家権力しかない。
暴力は、絶対的に正義とはならないからである。
しかし言葉だけの暴力には、国家権力はなかなか動かない。
俺は最近も、精神的ストレスにより死にそうになるほどの言葉による暴力を匿名で受け、その行為について幾つもの問いを真剣に投げ掛けたのだけれども、相手は話し合おうともせずに、未だ、返事がない。
俺は、その遣るだけ遣って逃げて行く暴力に対し、どう対処すればいいのか?
俺が受けた卑劣な暴力に対し、俺のマグマは煮えたぎり、噴火するのを待っているようだ。
しかしそのマグマが、全く関係のない者に向かって噴火し、その者を傷付けてしまう場合、俺の罪は積み重なるのである。
いや俺に暴力を奮った者に向かって噴火しても、神はそれを喜ぶとは想えない。
イエスはどんなに酷いことをされてもそれを遣り返すことを神は望まない存在であることをずっと説いていた。


転た寝をしてしまった。
もう夕方の五時。夢で父と姉と逢っていた。
芸術系の店に父と一緒に入り、わたしは前から見ると短めのボブで後ろから見ると長髪という変な髪型にしてもらい、満足して帰りに其処で売っていたクッキーを買うかどうか悩んでいた。
その店を出て、わたしはお父さんに何故かワンピースをプレゼントする為、そのワンピースを置いている店に父を連れて行き、其処の試着室で父にワンピースを着てもらった。
黒い生地にスカートの裾の辺りには赤や灰色などのラインの入ったレトロなデザインのワンピースを着た父が、試着室のカーテンを開いてわたしの前で少し困った様子で居たが、わたしは「似合ってる」と喜び、父もわたしのプレゼントを有り難く受け取ってくれた。

一方、わたしは自分の部屋で寝ていると姉が遣ってきて、姉とわたしはまだ関係が悪いままであったが上下別々の上は半袖のカットソー、下はタイトスカートを姉にあげようと考えていた為、それを試着してもらった。
姉はあまり気に入らない様子で、タイトスカートに付いたままになっていた値札の4700円を見て、姉はこれを買ってやると言った。
わたしはプレゼントするつもりだったが、姉がそう望むならとそれに承諾した。

場面は父との時間に戻り、わたしと父は其処のデパートを出る為、広い階段を登りながら話をしていた。

そして場面は変わり、わたしは姉の運転する車に乗っていた。
姉はわたしに、お父さんとの、これからの話をしようと言った。
それを意味するのは、わたしたちがお父さんを喪うことを、どのように耐えて生きて行くか、という話だった。
わたしはお父さんが近いうちに居なくなってしまうことを何となく気付いていたが、それを考えることから逃げていた。
でも姉は今からそれに向き合おうとしていて、今から考えておいた方が良いとわたしに話したのだった。

四歳で母を亡くしわたしが母の記憶を喪ったのは、母がわたしが父を母のようにも愛するようにと願ったからなのか。
わたしにとって父は母でも在り、父のなかに居る母に、あのワンピースをプレゼントしたのだろうか。
スタイルのとても良かった母があのワンピースを着たら、良く似合ったことだろう。



消マは今も、黄昏る咥内停留所でひとり、列車を待っている。
だれがために、噴火するのか。
消化している最中のマグマのエネルギーとは、複雑で神妙なエネルギーである。
それでも消マは、己れの存在に、たったひとり、耐えねばならない。
生まれてしまった存在とは、消滅するその瞬間まで、生きなければならないからである。
だれがために、消化するのか。
噴火したいだけ、噴火して、本当にすべてを喪ってしまった存在は多いであろう。
何故ならばマグマとは、存在そのものを構成する固体が溶融したもの、生、そのものを構成する固体が溶融して存在するようになったマグマを噴出させ続けるものは、いずれ死を迎えることを、避けられない。
帰するところ、怒り、瞋恚(しんに)のエネルギーだけが、マグマと成り、どんどんと高温になってゆくのではないのである。
わたしはそのマグマを、一体何に消化し続けているのかというと、わたしはマグマを、愛として消化している。
それがわたしの存在課題である。
でも今、消化されていないすべての消化不良マグマである不魔の存在を想う時、わたしが哀しむ。
わたしはマグマを消化し続けることで生きている存在に過ぎない。
いずれは不魔をも、わたしは消化してゆくだろう。
彼は、わたしにずっと、こう請う。
俺を、消化しないでくれ。死が怖い。御前が俺を消化するなら、俺はきっと死ぬるのであろう。
御前に消化される為に、俺は消化不良マグマとして存在するようになったというのか。
だとしたらなんという残酷なことだろう。
俺だって、結婚もしたいし子供も授かりたい、でもそのあとなら御前に消化されても良いという話ではなく、俺はずっと、俺という存在として、生きてゆきたい。
御前は俺の請願を、愚劣で軽薄なものとして取り合わず、御前が生きてゆく為に消化(こな)すつもりか。
誰が為に、御前は俺を消化するのか。
御前も俺も生きてゆく道が、本当にないのだろうか。
それに何故御前は咥内へ向っているのかわかっているのか。逆流であるのだぞ。
口は出入り口であるが消化されたものが口から出るとは嘔吐、吐瀉であり御前の噴出するものとは吐瀉物であり、それが言葉となるなら言葉のゲロだ。
御前はマグマを、愛として消化していると言ったな。
でも御前に言っておく。それは愛だとしても、詮ずる所、愛のゲロだ。
通称、愛露(あいろ)、そいつが生まれるだけだ。



不魔は、丸太壁でできたロッジ宿の共有スペースのダイニングテーブルの前に座ってゲロみたいな見た目のシチューを食べながらふと、右手の窓の向こうに広がる暗い景色を眺め想った。
何もかもが、まるで絶望的に想えてくるではないか。
此処から、消マの頭蓋内のこの空間から、脱出する方法はないのか。
壁時計を見ると時間は午後の九時半過ぎである。
時間は確かに過ぎて行っているようだが、あまりその感覚にない。
時間が過ぎて行っているということは、俺が消マに消化される死の宣告時に向って進んでいっているということであろう。
死刑囚の気持ちが、わかってくるようだ。
でも俺の罪とは、果て何か?
消化不良マグマとして誕生してしまったこと、それが俺の罪なのか。
気付けば消化不良マグマとして存在していた。ただそれだけなのに、刻一刻と、処刑台へ向って進むこの時間を、此処で独り、耐え忍んで過ごして行かねばならぬなど、許せぬことぞ。
俺を誕生させたのは誰か?純粋マグマが、御前に消化されることがなければ、消化不良マグマなど、存在することもなかっただろう。
消マ、御前の存在に因って、俺が存在するようになったんだ。
此処は御前の頭蓋内部なのだから、俺の声が聴こえぬ筈はない。
俺が御前の存在に由って誕生したということは、畢竟、俺という存在とは、御前の息子のような存在なのではないのか。
嗚呼、何と言う私利私益からの生殺与奪!俺と言う存在は、何と言う悲しき定め。
御前は俺の父親である為、子の俺を生かすも殺すも、その喜びを与えるも奪うも御前の私意次第であるということか。
まるで俺とは、母親の胎内から抜け出すことのできぬ親に殺される日を恐怖して生きる堕胎児のようだ。
敢えて今から、消マ、御前のことを御父(みちち)と呼ぼう。
御父よ。わたしの声を御聴きください。
何故、貴方の息子であるわたしを、消化せねばならないのですか。



消マの頭蓋内部の宿の一角が、ぐつぐつと煮え滾り、消マは気が朦朧とした。
確かに不魔は、わたしの存在によって誕生したわたしのひとり子のような存在である。
わたしが親で在る限り、不魔を愛する必要があるだろう。
しかし一度愛してしまったなら、どうしてそれを消化することができようか。
何故、わたしはマグマを消化するのか?
それはわたしが消化マグマとして、存在してしまったからである。
存在に逆らう時、一体どうなってしまうのだろう。
























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