ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

2019年01月

四分の一の支配

死ねば良い。
神による、自動筆記で書いた俺の詩に、腐った体液と、糞を投げ付けたあいつは。
今すぐに、死ねば良い。
死んでくれ。頼むから、今すぐに死んでくれ。
俺はそして到頭、あいつを呪い殺しせしめた。
そこに転がっているそいつ。
肉饅みたいやった。
肉饅やんけ。
俺はそいつを見下ろし言った。
そこへ鍋で沸かした湯を降り注ぎ、デッキブラシで擦った。
すると床一面に、そいつは拡がった。
あらゆる星々が、その床で呻いていた。
ピンセットで一匹一匹拾い、俺は瓶に入れて、『細長くて、蠢く生きた白い毬藻』というタイトルでメルカリで2,500円で無数に出品した。
「これは本当に毬藻なんですか?」というふざけたコメントをした人間に対し、「俺が毬藻だと想ったから毬藻なんですだよ。」と返信し、あとのすべてのコメントを一切無視した。
だがそれでも、月に14万円近く、売れているんだよね。
俺はその金で生活をしている。
そいつは床で、今も呻いているが俺は、それを生きたものとしては見てはいない。
例えるならそこに川が流れている。
それと同じようなものとして俺は見ているんだ。
大体の日に於いて、そいつは床に拡がっているのだが、たまに固まって、窓の外を眺めている日もある。
俺はそいつに話し掛ける。
「何を見ているのだね?」
するとそいつは振り返り、はにかんで笑ったあといつもこう返す。
「あれは何かなと、観ていたんです。」
「どれだ?」
俺はカーテンを開き、血みどろの世界を眺め渡す。
「何も見えない。どれのことを言っている?」
「流し素麺みたいなものか。」
俺は溜め息を吐き、カーテンを閉めて糞をしにゆくのだが、出る気配がしないのでまた戻ってくる。
トイレにあった読み掛けのカミュの『幸福な死』の表紙を観て、俺は存在の、幸福な死とはどんなものだろうと考えを廻らせる。
幸福な生の最後には、不幸な死が笑顔で迎えていることだろう。
不幸な生には、不幸な死が慄然と待ち構えていることだろう。
この世界に、幸福な死は存在しない。
誰がどう生きようとも、幸福な死は遣って来ない。
それは、遣って来ることができないからだ。
それを待ち構えている者には遣って来ないし、それを恐れている者にも遣って来ないし、何にも想っていない者にもそれは遣って来ない。
誰のところにも、それは遣って来ない。
それはでも宇宙に存在していて、何かを想ったり、悲しんだり、喜んだりしている。
それは自分以外の、すべての逢うことの叶わない存在たちに対して無想し続ける。
そしてこの宇宙の、中に在るものと外に在るものについて弄ったり、丸めたり、捏ねたり、切ったり、細長くしてうどん状にしたり、顔を描いたりする。
ある日には自分の手足をそれにつけ、ある日にはそれを引きちぎる。
芋虫のように床を這ったり、樹に登ったりする。
鼻糞を海に投げて、それを五日間かけて泳いで掬いに行ったりする。
若布に足を取られ、そのまま五千年間眠り続けたりもする。
でも目を覚ませばそこには時間は存在しない。
揺らぎながら、闇の中に微睡んで、涙の粒を落とす夜もある。
全てが下らないと想う日もあれば、全てが素晴らしいと想う日もある。
四分の一は素晴らしく、四分の三は下らないと想う日もある。
その四分の三は、四分の一から離れ、別の個体となり、その四分の三のなかに、また四分の一の素晴らしいものと四分の三の下らないものとに分かれ、それを延々と、繰り返し続ける。
要はそれが面白いかつまらないか、美しいか美しくないのか、ということなのだが、最初に素晴らしいと想った四分の一を見ると、それは最早、まったくとるに足らないものとなっている。
なのでその四分の一を、リサイクルできないかと考える。
別のものに変えて、存在させる必要があると考える。
だがその最初の四分の一は、自分のことを素晴らしいと想い込んでいる為、リサイクルを嫌がる。
まずこの四分の一は、"別のもの"が、どう別なのかを理解する能力がない。
その為、漠然とこれを嫌がる。
自惚れた四分の一を、地上に投げ堕とし、やがてみずから地下に骨を休める。
自惚れをやめなかった為である。
大体の日に於いて、四分の一は地下で紅茶を飲んだり、パンを食べたりしてひっそりと暮らしている。 
退屈な日には、地上の人を捕らえ、生きたまま解体ショーを行うのだが、これをする時、決まって全員が気持ち悪さに嘔吐する。
解体ショーを終えた人間の死体は地下のレンダリングプラント工場でミンチ状にし、肥料にする。
その肥料で育つ巨大な赤い花が地上の海面から顔を出すとき、地上に終末が訪れる。
まずすべての屠殺場の柵が自壊し、家畜は逃げ惑う人間を捕らえて喰い殺し始める。
その様子を地上に上がってきた四分の一は、打ち眺めながら言う。
「これが、人間か。」
それに続いて、すべての地の獸が人を殺し始める。
人を殺した瞬間に天から降り注ぐ剣が獸の脳天に突き刺さり、地に串刺しとなって獸は絶死する。
すべての人間は飢え渇き、すべての人間を疫病が襲う。
人間が人間の脳を食べた罰として人間の脳に寄生した無数の虫が人間の脳を喰い荒らし始める。
地は人と獸の死体で覆われ、四分の一はそのすべてを地上のレンダリングプラント工場でミンチ状にし、丸めて肉団子を作り剥いだ皮でそれを包む。
そして蒸し器でこれを蒸し、まだ生きている飢え渇く者たちに食べさせる。
それを食べた人間と獸は飢えを満たされた瞬間、天から降り注ぐ剣によって地に串刺しとなる。
この繰り返しがイエスの誕生から2020年間、四分の一によって行われ続けたあと、エリヤが再臨すると預言されている。
四分の一の支配は、もうすぐ終りを迎えるのである。















エリヤの火

また師匠が夢に出てきた。
最初はスーパーマーケットで師匠と出逢う。
そして知るんだ。
師匠は大型トラックは殺人機であると想っていることを。
だからこの店の前の道に大型トラックがたくさん列を成す日は絶対に店には来ない。
ぼくはその殺人機の群れの横の狭い左の歩道を歩いて師匠の家に行く。
師匠の家は壁が一面なくて、ぼくは壁のない面に背を向けてまるで店の展示物のように並べられている本を右から見てゆく。
何冊か並べられ、そこにぼくの書いた本を探す。
やっぱりない、とがっかりしていたら、一番左にぼくの本名が書かれたぼくの本が並んでいる。
そしてその横に師匠が立っている。
ぼくは歓喜の想いで師匠に言う。
わたしの本を一番にしてくれたんですね。
師匠はいつもの複雑な表情でぼくに何か答える。

その言葉は、こちらの世界では理解できない言葉だったから、きっと忘れてしまった。

ぼくと師匠は、たぶん『すべてを本当に救いたい』気持ちで繋がっている。
ぼくは師匠に救われ続けてきた。
でも同時に、ぼくは師匠を救えないのかと想うと絶望して悲しみに暮れてきた。

でも今想うのは、ぼくは師匠を救ってきたのかも知れない。

『救済』という行為、現象は、一方的に起こるのは不可能なんだ。
必ず互いに救われないでは救われない。
それは救いではないんだ。

でも此処に、愚かな人間がいる。
本当に愚かな人間だ。

ぼくは本当にすべてを救いたいのに、だれひとり救えず、独りで真っ暗な闇の底で死んでゆくことを願い続け、神に請う。

こんな愚かな人間が他にいるだろうか?

これほど愚かな矛盾があるだろうか。

ぼくは知っているんだ。
最も愚かな人間は、最も神に愛される者だということを。

最も愚かな人間は、最も神の救いを求め続け、そしてだれひとり救えずに死ぬことを、祈っているんだ。

まだ観ていないなら、アンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』を観てほしい。
ぼくがどれほどこの映画に感動したか。

この映画は最も愚かな矛盾、そこにある最も悲しい美しいものを描いている。

右の手にはイエス、左の手には洗礼者ヨハネが立つ。
どちらが本物の救世主、エリヤだと想う?
天はかしら。
爪先は温泉に浸かっている。
腹には死が宿っている。
彼女が産むのは誰なのか。
産みの聖母よ、貴女は誰の子を産むつもりか。
子宮のような洞窟で、男が詩を読んでいる。
医者から持ってあと半年だと言われ、この地に遣ってきた。
男は誰かに話し掛けるように話し出す。
子が、親の年までも生きないで死ぬのは、どれ程の罪か、考えたことはあるかい?
死者を救う方法は一つしかない。
我が魂を灰と見なし、これに火をつけて燃え上がらせる。
これを心から信じ続ける者だけが死者を救える。
その魂だけが、燃え尽きることはない。
その魂は燃え続け、そして太陽となった。
彼がいなかったなら、この世は永遠に闇のなかだった。
だれのことも、人は愛せなかっただろう。
彼はこの世を救ったと想うかい?
彼がいなければ、すべての生命は凍え続けて生きなければならなかった。
生まれてから死ぬまで、ずっと拷問の日々さ。
彼は、真にこの世を救った。
今もずっとずっと燃え続け、燃え尽きる日まで、彼はぼくたちを照らしてくれる。
そして彼が燃え尽きたあとには灰の雪が降り続け、生命は彼の灰を食べて生きていかなくてはならないだろう。
何故ならそれしか、ぼくたちが生きてゆく方法は最早ないからだ。
彼はエリヤだった。
再び、この地を救うため、彼は一本の小さなろうそくを手に、此処へ降り立つ。
洞窟のなかはあまりに寒く、男は読んでいた詩集を一枚一枚破ってそれを燃やす。
何、なにも問題はない。
男はすべての詩を、憶えている。
何度も何度も、同じことを繰り返し、その都度くるしみ嘆いて来たからだ。
イエスは母の水のなかで、豆粒のように小さかったときから受難の日について想い煩う。
このときから、イエスはずっと父に祈り続ける。
どうか堪えられるものだけをわたしにお与えください。
堪えられないのならば、どうかこの杯をわたしのまえから去らせてください。
イエスは洗礼を受ける日、洗礼者ヨハネに尋ねた。
あなたはエリヤではありませんか?
ヨハネはイエスに答えた。
いいえ、わたしはエリヤではありません。
男は火から、ちょうどよく離れた場所でその暖かさに微睡んでいる。
ほんのすこし近づけば燃えるように熱く、ほんのすこし離れれば凍えるように寒い。
イエスはすこし呆れた顔をしてヨハネに言った。
あなたはエリヤです。
あなたこそが、エリヤなのです。














プロフィール 1981生 ゆざえ

ユザエ

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