みちたが10月11日に旅立ち、もう一月半が経つ。
僕は聖書を学び始める。
母が信じて死んでいった同じエホバの下で、僕が聖書を読む。
一つ、僕は学ぶ。愛想笑いをしないでも良い人間になりたい。
愛想笑いとは、互いの無関心の下にある。
関心があるのであれば、本当の笑顔で笑えないのか。
それとも苦しいからか。苦しいと関心があっても引き攣った笑顔でしか笑えないのか。
どうなんだ俺は。俺は俺が、わからないなと想った。
何故、わからないのですか。僕はそう神に問うた。
神は答える。
そんなこと、なんだって良いだろう。もっと大切なことがたくさんある。それについて、悩みなさい。
僕は歯軋りし、胸を掻き毟った。
そして僕は言った。
偽りの神よ。去りなさい。
だが神は、去ろうとしなかった。偽りの神ではなかったのか。
頑なに、僕を見つめて、沈黙している。
僕はどれほど苦しくても、偽りの笑顔で誰かに笑い掛けたくなどない。
そんなアンチ・キリストなことをするくらいなら、僕は不機嫌な顔で、そこに突っ立っていたい。
そして集会場で言う。
「あのお、もう帰っていいですかね?つまらないので…僕は聖書を学びに来たのであって、こんな下らなくて神が喜びそうもない会話に作り笑顔を引き攣った顔でし続けることを學ぶ為に来たのではありません。帰らせて戴きたい。帰って赤ワインを飲んで、今すぐに、この、今あったこと、この虚無な時間を、忘却したい。滅ぼしたい。宇宙から、殲滅させたい。もう、耐え切れないですわ。ほんまっすよ。僕は今、涙を必死に堪えています。今できるなら、号泣して神に問いたい。何故、僕は、偽りの笑顔で、偽りの人たちに対して笑い掛けねばならないのですか。この虚構に、何故気づかないのか。ただ関心のある振りをして、笑い合って、謙遜し合っていたなら、神に喜ばれるのですか。神は喜ばない。決して、神はそれを、喜ばない。僕にはわかる。僕はもう、それだから無理に笑いたくはない。関心のある振りもしたくはない。それは愛してもいないのに、愛してると言っているのと同じことだ。それは、神に背いている。僕は、神に嘘を付きたくない。神に嘘をついて、何の為に聖書を学んでいるのかわからない。僕は神に忠実に生きたいのです。僕は、あまりに愚かなので、神に本当に愛されたいのです。神は本当の笑顔でだけ、人に笑い掛けることを、求めておられます。僕は最早、笑いたくないとき、笑えないとき、ムカつくとき、まったく面白くないとき、嫌な気持ちのとき、退屈なとき、悲しいとき、苦しいとき、寂しいとき、もう笑いたくない。もしくは、嘲笑うかのように、鼻で笑うかもしれない。人々は、僕をこう想うだろう。なんと不謙遜な人間であるだろう。神は謙遜な者を愛するのである。僕は問う。神は一度たりとも、作り笑顔でわたしたちに微笑みかけたことはあったか?人々は、首を横に振る。そんなこと、あるはずがないだろう。僕は問う。では何故わたしたちは、作り笑顔で人に微笑みかけるのですか。愛のない、その冷えた作られた笑顔で。僕は言う。それは神に対しても、全く同じ冷えた微笑みで微笑みかけていることと同じなのです。何故それにあなたがたは耐えられるのか。僕は神に対して、正直でいたい。だから嬉しくないとき、もう誰にも、笑い掛けたくない。悲しいとき、悲しい顔のままでいたい。つまらないとき、つまらなさそうな顔をしていたい。尿意を我慢しているとき、尿意を我慢しているような顔をしていたい。心で馬鹿にしているとき、冷ややかに顔を歪めて嘲笑っている顔をしていたい。どんな場所であっても。それが、神に正直でいる、神に忠実であるということであると、僕は想う。僕は人間にどう想われたって構わない。僕が愛されたいのは人間ではなく、神だからです。もし、僕がこれから先も、作り笑顔で人に笑い掛けるとき、そのとき僕は、死んでいるだろう。死者が、笑い掛けているのです。不気味な笑顔で。そして鏡を見てゾッとする。なんと恐ろしい顔だろう?そこに映っているのは、サタンである。神ではなく、偽りの支配者、サタン神である。神は言う。見よ。あなたの、その死の笑顔を。何も生えない灰の地の上で、その笑顔は這いずりながら、わたしではなく、屍を見つめ続けるのです。」
僕は聖書を学び始める。
母が信じて死んでいった同じエホバの下で、僕が聖書を読む。
一つ、僕は学ぶ。愛想笑いをしないでも良い人間になりたい。
愛想笑いとは、互いの無関心の下にある。
関心があるのであれば、本当の笑顔で笑えないのか。
それとも苦しいからか。苦しいと関心があっても引き攣った笑顔でしか笑えないのか。
どうなんだ俺は。俺は俺が、わからないなと想った。
何故、わからないのですか。僕はそう神に問うた。
神は答える。
そんなこと、なんだって良いだろう。もっと大切なことがたくさんある。それについて、悩みなさい。
僕は歯軋りし、胸を掻き毟った。
そして僕は言った。
偽りの神よ。去りなさい。
だが神は、去ろうとしなかった。偽りの神ではなかったのか。
頑なに、僕を見つめて、沈黙している。
僕はどれほど苦しくても、偽りの笑顔で誰かに笑い掛けたくなどない。
そんなアンチ・キリストなことをするくらいなら、僕は不機嫌な顔で、そこに突っ立っていたい。
そして集会場で言う。
「あのお、もう帰っていいですかね?つまらないので…僕は聖書を学びに来たのであって、こんな下らなくて神が喜びそうもない会話に作り笑顔を引き攣った顔でし続けることを學ぶ為に来たのではありません。帰らせて戴きたい。帰って赤ワインを飲んで、今すぐに、この、今あったこと、この虚無な時間を、忘却したい。滅ぼしたい。宇宙から、殲滅させたい。もう、耐え切れないですわ。ほんまっすよ。僕は今、涙を必死に堪えています。今できるなら、号泣して神に問いたい。何故、僕は、偽りの笑顔で、偽りの人たちに対して笑い掛けねばならないのですか。この虚構に、何故気づかないのか。ただ関心のある振りをして、笑い合って、謙遜し合っていたなら、神に喜ばれるのですか。神は喜ばない。決して、神はそれを、喜ばない。僕にはわかる。僕はもう、それだから無理に笑いたくはない。関心のある振りもしたくはない。それは愛してもいないのに、愛してると言っているのと同じことだ。それは、神に背いている。僕は、神に嘘を付きたくない。神に嘘をついて、何の為に聖書を学んでいるのかわからない。僕は神に忠実に生きたいのです。僕は、あまりに愚かなので、神に本当に愛されたいのです。神は本当の笑顔でだけ、人に笑い掛けることを、求めておられます。僕は最早、笑いたくないとき、笑えないとき、ムカつくとき、まったく面白くないとき、嫌な気持ちのとき、退屈なとき、悲しいとき、苦しいとき、寂しいとき、もう笑いたくない。もしくは、嘲笑うかのように、鼻で笑うかもしれない。人々は、僕をこう想うだろう。なんと不謙遜な人間であるだろう。神は謙遜な者を愛するのである。僕は問う。神は一度たりとも、作り笑顔でわたしたちに微笑みかけたことはあったか?人々は、首を横に振る。そんなこと、あるはずがないだろう。僕は問う。では何故わたしたちは、作り笑顔で人に微笑みかけるのですか。愛のない、その冷えた作られた笑顔で。僕は言う。それは神に対しても、全く同じ冷えた微笑みで微笑みかけていることと同じなのです。何故それにあなたがたは耐えられるのか。僕は神に対して、正直でいたい。だから嬉しくないとき、もう誰にも、笑い掛けたくない。悲しいとき、悲しい顔のままでいたい。つまらないとき、つまらなさそうな顔をしていたい。尿意を我慢しているとき、尿意を我慢しているような顔をしていたい。心で馬鹿にしているとき、冷ややかに顔を歪めて嘲笑っている顔をしていたい。どんな場所であっても。それが、神に正直でいる、神に忠実であるということであると、僕は想う。僕は人間にどう想われたって構わない。僕が愛されたいのは人間ではなく、神だからです。もし、僕がこれから先も、作り笑顔で人に笑い掛けるとき、そのとき僕は、死んでいるだろう。死者が、笑い掛けているのです。不気味な笑顔で。そして鏡を見てゾッとする。なんと恐ろしい顔だろう?そこに映っているのは、サタンである。神ではなく、偽りの支配者、サタン神である。神は言う。見よ。あなたの、その死の笑顔を。何も生えない灰の地の上で、その笑顔は這いずりながら、わたしではなく、屍を見つめ続けるのです。」