ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

2020年09月

『JUNK FILMS ジャンクフィルム 釣崎清隆残酷短編集』 僕たち、日本人は、本物のJUNK。最も、死体から遠い国に住んでいる。








なかなか、観るのが怖くて、観れなかったが、やっと観れた。
観終わって、悲しくて涙が流れた。
何より、心が苦しかったのは、最後のデヴィッドのところだった。
何なのだろうか…。日本という国の虚しさを、わたしは見せつけられた。
日本が先進国でありながら、自殺大国であることの理由が、この冷ややかな虚しさのなかにあるのではないか。
それに比べて、他の国は、何故あたたかみがあるのか?
動物的な慈悲のようなものが、他の国にはあるように感じられた。
日本は無機質的で、無感情的で、作り物のよう(人工的)である。
だが、ただ釣崎清隆が無言で撮った最後の青木ヶ原樹海の髑髏は、冷たさや虚しさを感じることはなかった。
髑髏には青々とした苔が生えており、大自然の慈愛に包まれながら、完成されたひとつの現象として、感動的なものであった。短いシーンだけでとても残念である。

最も痛々しさを感じたのが、顔がぐちゃぐちゃの血と肉の塊となった死体の映像よりも遥かに日本の若者たちによる友人デヴィッドの納骨のシーンであった。
釣崎清隆の、あたたかい眼差しのフィルターを通しても、それを覆うことはできないほどに、どうしようもない空虚さに満ちており、胸が今でも苦しい。
これは『デスファイル完全版』を軽く超えるほどの死者に対する尊厳の欠如である。
損壊の最も激しいどの死体よりも遥かに、”残酷”なものである。
わたしはそう感じた。
でも唯一の救いは、この映像を釣崎清隆が撮ったことである。
それ以外に、何処にも救いはない。
そこにある闇は、底がない。
日本という国は、この世界で最も救いが必要な国なのではないか。
何故、ここまで寒々しいのか。
ただ丁寧に、慎重に扱うなら、それが死者に対する尊厳であるのだと、想い違いをしているのではないか?
日本というこの国に存在しているこの恐ろしい虚構が、一体、何処から来ているのか。

わたしはこの世界から拷問的苦痛のすべてを無くする訴えを、みずからのなかで強めたくて、死体をじっくりと、見つめることを決意し、釣崎清隆の存在を最近知った。
今、そのわたしを襲っているのは、”日本”という国が、どれほど”救いがたい”凍りついた国であるかということを知らされた吐き気を催すほどの悲しみである。
でも、あの髑髏が、この「ジャンクフィルム」のジャケットの青木ヶ原樹海で釣崎清隆が撮った此の世の何よりも幸せそうに、優しい寝顔で眠る髑髏が、わたしに言うのである。
「僕も日本人だった。」
そうだね…。君はわたしと同じ日本人だったんだ。
でも今は、今は、そんな縛りに縛られてはいない。
世界で一番冷めたこの国から、君は解放されたんだ。多分…。
きっと、そうだ。それとも、骨と魂は、全く、もはや別々の存在だからなのか。
嗚呼…僕は本当にこれまでずっと、髑髏恐怖症だったんだ、それなのに。
この映像の、綺麗な色んな個性を持つ髑髏たちに、なんて胸がときめいたことだろう!
これは釣崎清隆の真剣に死を見つめる愛の深さが、僕に反映したのだと、信じている。
彼の穢れなき愛と悲しみが、全く届かないほどに、この国の闇は、深いのである。
























僕の裸を撮ってくれへんか。

















『聖なるズー』に寄せた削除された我が告白




Amazonレビューに載せたものが、いつの間にか削除されておったので、自分のブログに載せることにする。
自分にとって初めての告白でもあり、大切な表現なので、通報した人間に悲憤を投げつけながら、保存しておいた文をコピー・アンド・ペーストすることに致す。
ちなみに★は5つ満点を付けていた。
(僕が最後に観た時点では2人の方が『役に立った』ボタンを押してくださっていた。)







「20歳前後の時、虹色鍬形がわたしの人差し指に掴まってペニスを突き刺してきた時、わたしは恍惚となり欲情した。
 わたしは本気で彼とセックスがしたかった。」







(2020年)7月15日にこの本が自宅に届いて、18日の午後16時半前、この本を読み終えた。
一昨日辺りから、吐き気の入り交じるほどの不快さと苦しみの感覚と、人間の底知れぬ悲しみを新たに知ったことの喜びがわたしのなかに並存しているが、これを素直に表現するならば、わたしは居た堪れないほどの深い悲しみに打ち拉がれている。

事実、昨日は悲しみのあまり瞼が痺れるほどの涙を流した。
そして自身に対する自罰の想いが、一層深まっているように感じられる。

わたしは自分とズーフィリア(動物性愛者)の彼らを分けて考えることは到底でき得ない人間である。
雄馬と女性が性交している写真に下着が濡れるほどに興奮して欲情しても、わたしは動物と実際に性行為をしたいとは少しも想わないし、舌を絡ませ合うことすら衛生的に考えてしたくはない。

だが人間(自分)とは違う”種”をしか、わたしは真の意味で愛せない人間である。
わたしの性愛とはナルシシズム(自己に対する性愛)であり、またネクロフィリア(死体性愛、死に対する性愛)であり、近親相姦愛でもある。

人間(自分)とは違う種とは、自分を超越した存在である。
だがそれは本来の自分であり、真の自分である。同時に、わたしの父と母であり、わたしの子である。
その存在だけが、わたしだけを無償で永遠に愛し続けてくれる存在であり、その愛は深まる一方であり、決して、衰退はしない。

だが、その愛が一体どこに存在しているのかというと、わたしの外側には存在してはいない。
それはわたしの内側にだけ存在でき得るものであり、わたしだけが、それを生み出せることを確信している。
このわたしの性愛について、これは正常な愛であり、この愛によってわたしは幸福になれるから良いのだと言った時、人々はどう感じるだろうか。

わたしは、この自分の性愛を異常性愛であり、病的だと感じている。
この愛こそわたしが真の愛として切実に求め続ける限り、だれひとり、人間も動物も他のどの存在も、わたしは愛することはできないだろう。

愛そうとしても、不満が募るばかりの愛であり、それによってわたしが幸福になることは不可能である。
わたしはこのような自分自身とズーフィリアの人たちが同じ病に冒されていると感じる。

特に、雌の馬に本当に恋をしているマリクという男性が現れた時、わたしは自分と同じ悲しみを彼のなかに感じ、彼が「馬ほど美しく、完璧で、素晴らしい生物はいない。」と言ったとき、わたしは感動して魂が震えた。
なんと美しいのだろうかと。
彼は人間よりも、馬が美しいと感じて馬に本気で恋をしている。
わたしは生きている人間よりも、死んでいる存在のほうが美しいと感じて生よりも死に恋をしている。
此処に存在している二つの病的さに、然程の差はないであろう。

わたしもマリクも、”人間としての自分”を受け容れることができず、人間としての自分を殺したい(殺している)人間なのである。
「馬ほど美しく、完璧で、素晴らしい生物はいない。」と、マリクはうっとりとした顔で言ったことだろう。
わたしはそれが間違っているとは想わない。人間より遥かに、馬は美しく、純真であり、愛が深い生物である。
人間の醜さと愚かさは、人間が肉食(同胞の共喰い)をする行為によって如実に表されている。

だがマリクに、わたしは言うだろう。
「確かにその通りだ。馬は生物の中で一番に美しいだろう。でも誘われたからといって雌馬とセックスするきみは病的だ。きみは野蛮で醜い人間という生物なのに、何故、穢れなき美しい馬を自分の汚れたペニスで穢すことを許せるんだ?ぼくならばそんなことはできない。彼らはどのようにも穢されてはならない存在なんだ。自分の娘を何よりも美しいと感じている父親が娘に誘われたと言って娘とセックスする。その父親ときみはよく似ているじゃないか。きみはその行為によって、これまで以上にもっと深く傷つかなくてはならない。」

マリクはきっと暗い影を落して顔を伏せるだろう。

だが、「マリク、ぼくはぼく自身に向かって言っているんだよ。ぼくらは、同類なんだ。ぼくらはこのままでいてはいけないんだ。これを真の愛だと、肯定して受け容れて死んで行ってはならないんだ。きみならば、きっと理解してくれるだろう。ぼくは本当にだれも愛せない。ぼく(ぼくを超えた本当のぼく)以外に。ぼくはぼくとしか、セックスができない人間なんだ。ぼくはぼくと性行為するときにしか、恍惚な感覚を覚えることができない。どうやってこのぼく自身に、希望を持って生きて行けばいいんだ。馬をしか愛せないきみはどうやってこの先、人間として生きて死んでゆくつもりなんだ。ぼくの目を視ろ、マリク。何故、ぼくらは、普通に生きていけないんだ。何故、多くの人と同じように人間の異性を人間として愛することができないんだ。何故、自分のすべてを受け容れてくれるだろう存在、自分のすべてを愛してくれている存在をしか、ぼくらは愛せないんだ。きみは恋する雌馬から誘われて彼女と交わった。きみは最早、人間であると言えるのか。ぼくは恋する死から誘われて死と交わった。ぼくは生きていると言えるのか。何故、多くの人は、自分が人間であることと、自分が生きているということに疑問を持たないんだ。何故、多くの人は、動物を”愛している”と言いながら、動物にも”パーソン”が在ると言いながら、動物を生きたまま解体して拷問にかけて殺したその死体を食べていることに平気なんだ。何故、多くの人は、暴力と性暴力を憎みながら、家畜たちが日々奮われている最悪な暴力(虐殺)と性暴力(人工授精というレイプ行為)に対して、あまりに無関心なんだ。人間と動物が対等であるべきならば、何故、殺して食べるんだ。何故、人間は自分の愛することのでき得る動物をしか、愛そうとはしないんだ。何故、マリク、ぼくらは、自分の愛することのでき得る存在をしか、愛することができないんだ。牝馬がきみの遺伝子を継いだハイブリッドの馬人間の奇形児を出産したとき、我が醜い子を観てきみは何を想うんだ。何を感じるんだ?”それ”はやがてすぐに死ぬだろう。神に背いている為、生かされはしないんだ。ぼくは死だけを愛し、死のうちに、死ぬだろう。ぼくはみずからのこの性愛を、決して肯定しない。ぼくはぼくの愛を、否定する。ぼくは間違っているんだ。マリク、ぼくらは間違っている。神(生と性)に背き、悪魔(死と悪)を崇拝している。ぼくはぼくのこの苦しみと悲しみを、人々に受け容れられたいとも理解してもらいたいとも想わない。ぼくはきみと共有したいとも想わない。既に、それは同じものである。ぼくは雄馬のペニスを自分のヴァギナに挿入させたいなんて想わない。実際の”行為”に何の意味がある?そのセックスの行為によって、動物の霊が愛を進化させることはないだろう。愛は行為ではなく、”意識”である。行為がなければ愛し合えない関係にどんな意味がある?何故、人間は動物を愛していないということにそれほど苦しめないんだ?何故、食用の動物たちの断末魔は”人間の愛”から、いつまでもスルーされ続けているんだ。動物とセックスすることが愛ならば殺して食べることも愛だとでも言うのか。ぼくのこの吐きそうなほどの苦しみと悲しみは可笑しいのか。何故、動物とのセックスを認めて欲しいと叫ぶ前にどのような理由からも動物を殺さないで欲しいと叫ばないんだ。動物を愛していると叫ぶ人たちの食卓に牛や豚や鶏の死体が盛られているのは何故なんだ?暴力に反対する人たちのテーブルの上に何故、今夜も動物たちの惨殺死体が皿の上に載せられているのだろう?ぼくはぼくの病的さを理解しようと日々目を向けている。永久に、これが”聖なる愛”であるなどと言わない。これは”虚構の愛”である。この本のなかにも在る同じ”虚構の愛”について、ぼくは終わらない吐き気と人間の根源に在る悲しみとその真っ暗な闇を、感じないでいることはできなかった。」
























まだ生きていない

皿の上に、美味そうな肉が在る。
思わず、唾液が溜まってくる。

前者は、その肉を、味わって食べる。
後者は、手を出さない。それは死体だから。

夜の空き地に、一人の少女の全裸死体が転がっている。
性器からは、血が滴っている。
どうやら殺されたばかりらしい。
思わず、欲情し、下半身が疼いてくる。

前者は、その肉を、貪り喰らうように、交わる。
後者は、手を出さない。それは死体だから。

僕は死体を愛している。だが前者となり、死体と一体となる必要はない。
僕が愛しているのは僕自身であり、僕は既に死体であることを知っている。
死体は死体を欲しない。
僕は既に、死体と一体である。

死んでいる者が欲する者、それは生きている者である。
僕はほとんどの人を欲しない。
ほとんどの人は、生きていない。
そして、まだ生きていないので、死んでもいない。
ほとんどの人は生きても死んでもいないので虚しく、自動人形のように、生きている振りをする。

僕は死体だと言っても、だれも信じない。
人々は、自分は生きているから、死体を食べるんだと思っている。
でも僕はいま死体だからわかるんだ。
死体を食べ続けて来た僕は、生きてもいなかったし、死んでもいなかった。
僕はいま生きている者が欲しい。
この世界の、何処かにいるはずだ。
























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