ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

2020年11月

漫画家ねこぢる 本物の価値が、残酷に消費され続ける世界で。





11月21日追記:
わたしは自分の記憶が違っていたことを想いだした。
わたしが一番最初に月刊漫画ガロをリアルタイムで書店で手にとって買ったのは1998年4月号 NO.396だった。
そしてその次に手にとったのが、ねこぢるの猫の絵が表紙の1998年5月号 NO.397だった。表紙を良く憶えている。


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彼女が亡くなったのが1998年5月10日なので、多分このガロは彼女の死後に出版されたものだと想う。
わたしは彼女の死を知ったすぐあとに、多分このガロを買って読んだ。
そこに収録されていたねこぢるの作品は、


月刊漫画ガロ


「ぢるぢる昔話」の多分「がぐや姫の巻」だったんじゃないか。なんとなく憶えている箇所があった。
「ねこぢるまんじゅう」に収録されていた。
読んでみたが、全く面白さを感じられなかったし、不快さも感じる。どう無理をしても、笑えなかった。ただ残酷なばかりで、登場する猫たちの顔も性格も、無機質で可愛げもない。読み終えるのが苦痛なほどに退屈だ。
当時、わたしはきっとこの漫画がねこぢるの漫画なのだと想って読んだ。
そして良いものが何も感じ取れなかったので、彼女の死が何故かずっとずっと自分のなかに特別な苦しみとして存在していたのに、漫画を買ってじっくりと読もうという気持ちにはどうしてもなれなかった。
この作品は確かに彼女自身も関わって描かれた作品なのかもしれない。
でも夫である山野一氏が、おおかた作って描かれたのではないか?とわたしは想った。
そうであってほしいという気持ちになる。
何故なら、この作品や、後期のほとんどの作品には、初期の作品の多くに存在していた温かみが、皆無に感じられるから。
残酷なのにあたたかくて、悲しいはずなのに面白くて何故か幸せな気持ちにもさせられて、何処か懐かしい気持ちにさせる、ついその続きの世界を自分のなかで創りたくなってしまう、終わらせたくはないと感じさせるほどの空間が、その魅力が、後期の作品の多くには欠如してしまっている。
でもほとんどの読者は、出版会社は、編集者は、其処に気づかなかったのだろうか?
次から次へと作者に眠る時間さえ奪うオーバーワークを続けさせてまで新作を催促し、要求し続け、無理矢理に苦しんで出した感の否めない作品たちを、賞賛し続けたのだろうか?
例えば同じ「ねこぢるまんじゅう」に収録されている「おつかいの巻」なんて、込み上げてくる笑いを堪えるのが難しいほど面白い。
そして猫たちが本当に愛らしくて純真で憎めない。だからこそ、残酷さとのコントラストが激しく、素晴らしくて感動して感服する。
これが、本当の才能というものなのである。描こうと想って、描けるものじゃない。
本人でさえ、よし描くぞと想っても、とても描けない。そんな都合良くぽんぽんと出てこない。
その本物の価値を、人々は死に追いやったのか?
それが上手いこと量産できるものだと、要求すれば出てくるものだと、何故想ったのだろうか…?
そんなことできるはずないだろうに…。本物の芸術の作品が量産できるものだと、何故考えたのだろう?
本物の価値をだれも見分けることができなかったからなのか?
ただただ可愛げな顔をした猫たちが残酷なことを繰り広げていたらそれでOKだと多くの人は評価していたのか?
一体、なんの価値があるのだろう?作者に無理やり全くつまらない作品を描かせ続け、作者を死へ追い込むことが。
この世界は、人間も、動物も、生きて行くことこそが、一番大切なことなんだよ…。
何故それが、僕たちはわからないんだ…。
豚の死体を喜んで食べながら屠殺される豚が可哀想だと人々は平気で言う世界で、動物の死体を食べない彼女は家畜の生涯の残酷さを何度と描いて表現した。そして豚を見ることが不快なのだと素直に言った。
彼女は、本当に不快だったのだろうと想う。この世界が。
ほとんどのことが、いや、ほぼすべてのことが、彼女にとって苦しくて堪らないことだったのだろうと想う。
彼女はインタビューで、「ゲームの世界に生まれたかった。」と言っていた。
現実世界が苦しくて堪え難いから、生きられる世界に、逃避せねばとても生きられなかったのだと想う。
彼女の描く漫画は、残酷じゃない。この現実よりずっと。
現実のほうがよっぽど無慈悲で、無機質で、無感覚で、無関心で、虚無なんだ。
彼女はそれを多分わかってた。
ほとんどの人は、無残に殺される家畜の姿を描こうなんて想うこともない。その残酷さを表現しようなんて想わない。不快だし、それ以前に、家畜たちに対して関心もないから。
一時はねこぢるの作品はものすごい評価されて売れまくって、人々は新作を求め続けた。
でも彼女が此の世を去って、22年が経ち、Amazonのレビュー欄を観てみると、彼女の作品を心から賛美している人の数の少なさに、堪らない虚しさを感じるのはわたしだけなのだろうか?
本当は生きたいのだと願っている動物を殺し、その死体を味わって食べたあとは排泄して、食べた肉のことなんて忘れて、どうでもよくなる。それが肉食という行為の一番の虚しさだとわたしは想う。
でも動物だけじゃない。人々は、人間さえも、そうして消費して、すぐに忘れてしまうのだろうか?
そこに存在する本当の価値を、理解していない人々が。

























漫画「ねこぢるうどん」  実際に壊れてしまうことの悲しみを、壊れないほどの感性が、どれほど理解できるのか?






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ねこぢるの漫画は、多分、彼女がこの世を去ったすぐあとくらいに知った。
ねこぢるの漫画の良さをわかりたいと感じている自分がこれまでずっといた。
でもこれまで、ちゃんと読んだことはなかった。
それは切り貼りされた雑誌やネット上の漫画のシーンだけでは到底わかり得ることはできないそこに存在する物語の深さを、自分が感じ取ることはできなかったからなのかもしれない。
どうしても、切り取られただけのねこぢるの漫画に自分は不快感を感じていた気がする。
それをちゃんとじっくりと読みたいという気持ちにこれまでさせられなかった。
でも22年程が経ち、39歳となったわたしは吉永嘉明の「自殺されちゃった僕」を読んだきっかけで、初めてねこぢるの漫画「ねこぢるうどん」をメルカリで3冊購入し、静かに読んだ。
嗚呼、なんてわたしは勘違いしていたのだろうと想わずにいられなかった。
そういえば、今日布団のなかで泣いた気がする。
ねこぢるのことだけではなくて、色んなことが重なって、わたしは悲しくて泣いた。
言葉では表現するのが難しい世界が、この世界にはたくさん存在しているのだと感じる。
ねこぢる(彼女)の表現してきた世界も、そういう世界だ。
ひとつだけ、その世界に対して表現できそうな言葉がある。
”果てのない悲しみ”の世界だ。
どこまでも深くて、底は見えない、辿り着ける場所もない。
そんな世界だ。
人間の感情が創り出せる世界であり、”虚無”もまた、人間特有の感情なのだろう。
わたしは、本当に大きな勘違いをしていた。
彼女は、わたしと、とても似ているのだと感じた。
生きている世界が、離れてはいなくて、近いと感じた。
わたしが小学3年生のとき、同じクラスの女の子を傘立てに載って遊びながら思い切り突き飛ばして大怪我をさせてもわたしはニヤニヤ嗤っていた。
小学6年のときは、かつて仲が良かった女の子の家が火事になって、彼女が今、瀕死状態で、先生が助かるようにみんなで祈りましょうと言ったとき、わたしは彼女が死ぬことを祈り続けた。そして彼女が死んだことを知った瞬間に、心のなかで大声で歓喜をあげたのだった。
彼女の葬儀のための日に、無理に悲しんで泣こうとしたが全く泣けなかった。
自分は、人と大きく違うと感じるのは子供の頃だけではなく、今でも同じだ。
ほとんどの子供は、そんな経験をしない。
そんな経験をして、何十年経ってもずっとそのことで自分を殺したいほどに自分自身を責め続けて生きていない。
「子供は残酷だ」と、人はまるでそれが当然のように言ったりする。
でも何故、それが”壊れている”状態だとは考えないのだろうか?
イスラエルの大学による研究によれば、「 生後6ヵ月などの小さな赤ちゃんも、他者の苦痛に慈悲と共感を持っている」ことがわかったらしい。

「最初の実験では生後 5〜 9ヶ月の乳児たちが明らかにいじめの被害者たちに共感を示していることがあらわされ、乳児たちは中立のパーソナリティを選ぶのではなく、身体的に傷つけられ苦しんでいるほうのパーソナリティに共感を示した」
「 2番目の実験では、苦しんでいる他者に対する幼児の共感は不変ではないことを示した。同じように苦痛を現している対象であっても、苦しむ理由が明確ではない場合(苦しんでいるふりをしている場合)、その対象には共感を示さなかった」

わたしの子供時代のサイコパス度が、子供として普遍的なものだとは自分でも想えなかった。
だから、わたしはとても苦しかった。
自分だけが、違う世界に生きているような気がいつもしていた。
この世界のほとんどのことがくだらなくてつまらなくて、不快で嫌い。
ほとんどの人が怖い。
ほどんどの人が、動く自動人形のように想えて怖い。
空想の世界にしか、自分の居場所(生きられる場所、生きているという感覚を感じられる場所)は存在しないと感じる。
殺された動物の死体を食べない。
人々が、驚く、バカにするようなことで日々深く傷つき続けて生きている。
他者のなかに存在する悲しみや孤独、苦痛の感覚に対する共感能力が特に深い。
他者(外界)と自分(内界)の境界がほとんど存在していない。
動物(弱い存在)を本当に愛しているのに、彼らが自分の想い通りにならないとき、自分が壊れてしまう。
愛が深いほど、人は苦しみ、限界値を超え、壊れてしまう、壊れてしまうから、殺してしまう、というこの世界の残酷さに、気づいてしまっている。
人々はそんな人達を、鬼畜や気違いや気狂いと呼んで排除しようとしている。
「ねこぢるうどん3」の「西友の巻」でにゃーことにゃっ太と一緒に遊んでいた”ぶたお”が最後、無残な死体と化し、食肉用の豚の死体を積んでいるリヤカーの上に載せられる。


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これを読んで、人は何を感じるだろうか?
この話を書いたねこぢる(彼女)自身は、肉(動物の死体)を食べない人だった。
彼女はにゃーこにぶたおを「みてるとにゃんかいやなきぶんににゃる」と言わせる。
豚の死体を何とも思わず食べている多くの人々が、豚のキャラクターを観て、可愛い可愛いと言っているこの世界で。
彼女は豚の死体(豚肉)を決して食べないが、豚を見ると不快な気持ちになることをにゃーこに言わせる。
わたしも豚を見ると、どうしても不快な気持ちになる。
可愛いと、喜べる瞬間もない。
彼らは毎日大量に殺され(惨殺され)続けていて、明日も、明後日も、ずっと、ずっと、死体となる瞬間が、わたしのなかでいつも再生され続けている。
それに豚は家畜のなかで人間に最も似ている。
この世界のおぞましい虚構に、そこに存在する堪えられない悲しみに、彼女が限界に達して死んでしまったのではないと、だれか言えるだろうか…?
ねこぢるの漫画は当時ものすごい人気を博し、どの会社も作者の心労など何も考えずに新作を求め続け、そのオーバーワークのなかで彼女はみずから命を絶った。
ねこぢるの作品の読者のなかに、彼女の本当の苦しみや悲しみを理解していた人がどれくらいいただろうか…?
わたしはまるでスーパーの鮮肉コーナーに惨殺された動物の死体が消費されてゆく商品として綺麗に並べられ続けるように、そこに存在している掛け替えのない価値が貪り喰い潰され続けゆくこの世界に、堪え難い苦しみと悲しみを感じないでいることはできない。









11月21日、追記を載せました。

















Last summer

海沿いの道を走りながら、彼が運転席から助手席で眠っているわたしを見て微笑む。
まだ暗い時間から出てきたから、わたしを起こさないでおこうと彼は想う。
窓を開けると、少し肌寒い風が入り込んでくる。
夏はもうすぐ終るのだろうか。
彼は感じる。
空が明るくなって来ている。
でもまだ、夜は明けていない。
この長い夜のなかを、ずっと運転してきたけれど、
まだ夜は明けていない。
でも彼は感じる。
もうすぐ、夜明けは近いのかもしれない。
彼らは…元気でいるだろうか…?
此処からでは、何もわからない。
何も…此処からは見えない。
わたしは、眠りながら涙を流している。
彼は心配になって、起こそうかとわたしの頬に手を伸ばす。
わたしの涙が彼の右手の指に滴る。
とても悲しい夢を見ているのかもしれない。
でも彼は、わたしの頬を優しく撫でたあと、手を離す。
彼は想う。
もう少し、眠っていたほうがいいかもしれない。
まだ、夜は明けないから。
あたたかい風が、ふいに窓から入ってきて、彼の綺麗な栗毛の髪と髭が優しくゆらめく。
陽が、海に反射しながら差してくる。
彼の左の横顔に、陽が反射して美しく煌めき、暗い影を右の横顔に作る。
わたしは夢のなかで想いだす。
彼が、こう言って、わたしをドライヴに誘ったんだ。
「夜明けに向かって、僕と一緒に永遠のDriveに行かないかい?」
まだ、夜は明けていない。
彼の運転する車のなかで、わたしは独り、眠っている。

















愛するロニー・マクナット(Ronnie McNutt)氏へ捧ぐ

































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