ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

2020年12月

僕らは死のなかで生きる


モダンフリークスPresents【進捗night出張版】






進捗ナイト終わりなのか…。
なんか自分の所為なんじゃないかと悲しいけれど、多分違うのだろう…。

最近、つくづく、人間味の深い人ほど、死に近いんだと感じる。
感性の鋭い人、愛の深い人、繊細で壊れやすい人、毎日、どうしようもない苦しみと悲しみのなかに生きている人。
そんな人達が、表現をしていることは、この世界で本当の救いだ。
でもそんな人達が最早、表現を続けて行けないことが絶望的であり、終る人がたくさんいる。
僕の表現を真剣に読む(読みたい)人はこの世界で多分、一人か、二人くらいしかいないだろう。
0人である年もきっとあるだろう。
それでも僕は表現を終わらせたくないし、死ぬまで僕にしかできない表現を遣り続けて死ぬ。
進捗ナイトが終わってほしくなかったけれど、きっと新しいもっと素晴らしいものがこれから起こることを僕は信じる。

僕は釣崎清隆氏を本当に心の底から死ぬまで特別な存在として愛し続ける。
そして福田光睦氏もケロッピー前田氏もピスケン(曽根賢)氏も僕は大好きです。
人間として、僕は信用している。

僕は本当にイかれてるし非常識な人間なのだろう。
でも僕のような人間にもこの世界でちいさなちいさな居場所が在って、僕が生きてゆけることをこの映像に映っていた人たちが陰からそっと応援してくれているような気持ちになる。

ピスケン氏は100年後には此処にいるみんな死んでいるのだから、僕らはみんな「亡霊が生きている」んだと言った。
僕らは生きている亡霊であって、そんな存在たちがずっとずっと生きていることと死んでいることの一体なにが違うというのか?と、死を見つめつづけて切実に問いつづけて生きている。
死を見つめつづける人たちの眼差しは真剣であり、ギロギロしており、光を喪って死んでいて、黒々と輝いていて、焦点を失くし、優しくて、悲しく、美しい。

僕らは死のなかでしか生きられないのに。
僕らは生きているときにしか、死を見つめることは、できないのに。



















映画『マイ・プライベート・アイダホ』 ママを大声で呼び求めつづける彼の寂しげな声が、この世界に救いをもたらす。

マイ・プライベート・アイダホ(字幕版)
マイ・プライベート・アイダホ(字幕版)





ぼくはこの映画に出会えて本当に嬉しい。
彼(マイク)に会いたくて、この映画を観ないで眠る日は寂しくてもう何度も繰り返して観てる。
ぼくはリヴァー・フェニックスという俳優の存在をずっと知りたいと想ってたのだけれど、今まで彼の出演作は「スタンド・バイ・ミー」しか観たことがなかった。
ぼくは今39歳で、40歳を手前にしてこの映画を観て、心から感動している。
心から、ぼくはこの映画を愛している。
全体的には、この映画はパーフェクトではないと想う。
ぼくにとっては余計なシーンが長くあり、その時間をすべてマイクの重要なシーンの為に使ってほしかった。
でもそうであってもこの映画は天才だけが創り出せる傑作だ。
人はこの映画を何度と観ることで始まりのシーンが終わりのシーンに繋がっていることの素晴らしさ、或る意味絶望的なテーマがあるのに「なんとかなる(Don't worry)」と言ってるような心が安心して浮き立つようなEddy ArnoldのCattle Callという音楽でこの映画が始まるところで鳥肌が立ち、涙ぐみ、マイクのあまりのけなげで一途なママへの求める愛の深さに胸が震えて感動がやまないだろう。
だが映画を見終わってなんとなしにEddy ArnoldのCattle Callの歌詞を読んで、ガス・ヴァン・サント監督が意図しているテーマがどれほど深いかと考えて唸るかも知れない。
この歌詞でカウボーイは秋に自分が駆り集めて売られゆく牛の寂しげな鳴き声を歌う。
”Cattle Call(牛のコール)”の”Call”はだれかを大声で呼んだり、指令する、いざなう、呼び寄せる、などの意味がある。
元々、カウボーイ(cowboy)という言葉は畜産業に従事する牧場労働者という意味以前、”牛泥棒”の意味があったと言われる。
マイクの母親がカウボーイに恋をしてしまう話や、その現場で流れていたのはジョン・ウエイン演ずる「リオ・ブラボー」というカウボーイの西部劇であることからも、何か重要な意味が隠されているようだ。
マイクはみずからの身を売ってでしか生活できない。そして夢もなくて将来に遣りたいことも何もない。
でもそんなマイクがひとつだけ物凄く、魂の底から叫ぶように求める存在がいる。
マイクはずっと母親のことを必死に呼んでいた。
男たちや女たちは、自分の肉欲を満たすためにそんなマイクを買う。
でも性的な快楽のなかでマイクのなかに想い浮かぶのは優しい母親が眠るマイクを胸に抱いて頭を撫でながら「Don't worry(心配しないで)」「Everything gonna be alright(すべて上手く行く)」と囁いているシーンや鮭たちが産卵の為に光り輝く激流の川を遡上しているシーンや、絶頂に達して射精する瞬間には自分と家族が住んでいた家(の象徴?)が空から落ちてきて崩壊するシーンが浮かぶ。
鮭たちが出産する場所は自分たちが最期は身をボロボロにして犠牲となって死ぬ為の場所でもある。
話を戻すとマイクは始まりのシーンで野生のうさぎに向かって遠吠えするコヨーテの真似をしたあと「逃げたって無駄だよ!ぼくと同じさ。」と叫ぶ(呼び掛ける)。
うさぎは何を言われているかわかっていないと想うがマイクは自分が”いつか駆られる(狩られる,刈られる)身”なんだという観念があったのかもしれない。
マイクはたった10ドル貰う為に、「なんでもするから」とおっさんにねだる。
そしてその10ドルでマイクは何を買うのか?アルコールかドラッグか食料か宿か。
それともママに会いに行く旅をする為に貯金しているのか。
なんであっても、それは、彼にとって絶対に必要なものである。
彼はいつもストレスが限界値にギリギリのところに在って、ナルコレプシー(発作的睡眠)を何度も起こしてどこでも眠りに落ちてしまう。
リッチな60代くらいの女性に買われ、彼女が自分を誘惑するとき、彼のなかに母親の姿が浮かぶ。
彼も激しく彼女に欲情するが、その瞬間、彼は気絶して床に崩れ落ちる。
例えば人は最も自分の求めるものが最も自分を苦しめる罪悪感と繋がっていて、得たいのにどうしても得られない(得てはならない)という観念のもとのジレンマとコンプレックスによる苦しみに自身が堪えられなくなったとき、気絶するか健忘症になるか、この世の真理を覚るか、自我を喪失するか、発狂するか、などのみずからの逃避的作用が起きないならばとても生きて行けないだろう。
マイクの脳は賢明にもそれを自動で行ってくれているかのようだ。
母親を一心に彼は請い求めているけれど、彼のところに母親が戻ってきたとしても、”母親を喪失した悲しみ”というものに、変化は多分ないんじゃないかとぼくは想う。
マイクの場合、母とは死別ではなく生き別れであり、何故、母親が幼い自分を棄てて出て行ったのか。という悲しみはそう簡単に消え去りはしないだろう。
マイクはずっと潜在意識で「自分が駄目だから母親は出て行ったんだ。」と自分自身を責め続けて、自分を最も憎しみ続けて来たに違いない。
その自責の想いが、一体どうすれば消えてなくなるのか。彼自身もきっとわからない。
彼は母親とまた一緒に暮らせたとしても、母親のちょっとした行動ひとつで、何かにつけて、とても些細なことで、いちいち「ぼくが駄目だからなんだ…。」と自分を憎んで、どうすることもできない悲しみに打ちのめされることだろう。
だからこそ、マイクは自分の理想とするヴィジョンの世界で常に、母親から「すべてうまくゆくから心配しないで。」と優しく言って欲しいのだろう。
そう言って貰わなくては、もう歩いてゆくこともできないほどのつらい道を彼はずっと独りで歩いている。
ぼくも何度も、亡き最愛の父がぼくの名を呼ぶ声が聴こえる。
毎日がぼくもつらくて堪らないけれども、どんなに苦しくとも、最後まで堪えて生き抜けば、きっとまた亡き父や母に会える。という気持ちになる。
ぼくは4歳で母を亡くして母の記憶がないから、マイクの寂しさやママを請い求む切実さがきっと近いと想う。
ぼくはマイクのことをもっと知りたいし、彼を演じたリヴァー・フェニックスのこともすごく知りたい。
生きてることがずっとずっと苦しかっただろうリヴァーだからこそ、マイクの役を完全に演じきることができただろう。
ぼくはマイクが安易に救われて楽に生きて行ける人生を歩むことを望まない。
彼の人生にはきっとこれからさらなる苦しみと悲しみがじっと静かに待ち受けているだろう。
でもマイクは、自分にしか歩めない宇宙にひとつしか存在していない殴られた酷い顔に見える道をしっかりと独りで歩んで行けることを望んでいる。
だから同じ道に何度も彼は戻って来る。
そしてママを求める愛を喪うことだけは決してなくて、マイクは他になんにも必要とはしていない。
「逃げても無駄」なのは、この寂しくてつらくて悲しくてたまらない道を歩いてゆくことを決めたのはほかのだれでもない彼自身だからなのだろう。
そんなこの映画は間違いなくこの闇の世界に消えることのないあたたかい光をもたらしつづけるのだと想って、ぼくの胸はつらくともあたたまるのだった。






















グロテスクなものから目を背け続けてグロテスクなものに果てる世界。


【無料版】『バースト・ジェネレーション』 presentsNEO鬼畜道場 ver. 第四回 報道メディアにおけるグロテスク表現の変遷







確か聖書外典の記述だったと想うのですが、イエス・キリストが弟子たちと何日も荒野を歩き続けて弟子たちの疲労が限界に近づいていたとき、弟子がある一頭の馬か駱駝の腐乱した死骸を見つけ、あまりの悪臭と、その見た目のグロテスクさに、弟子たちは皆、顔を顰めて、何の罪もないその死骸に対して呪詛を吐きつけます。
自分たちはもう飲まず喰わずで死にかけているのに、その上こんなおぞましいものに出くわすなんて、なんという悪運だろうと。
しかし、イエスはそれを観て、すたすたとその死骸に近づいて行って、こう言ったそうです。
「なんと美しい白い歯だろう!」
イエスはその死体の醜さや死臭の何をも気にせず、その代わりに腐敗した肉の為に剥き出しになった白い歯に心底感動したようです。
弟子たちはそんなイエスに吃驚しました。
わたしはこれを読んだとき、本当に感動しました。
同時に、弟子たちの感性とは浅ましいものだなと感じました。

釣崎清隆氏は、『「イノセンス(innocence)」は害悪である。』と以前に仰られていたようですが、それは「無知」や「馬鹿」の意味があるからだと。
わたしは、上記の聖句を読んだとき、弟子たちはまったく無知で馬鹿で阿呆だと感じました。
これを有り難るのであれば、本当に無知で馬鹿です。

釣崎清隆氏は、またインタビューでこうも仰っておられました。

『死体っていうのは、それ以上でもそれ以下でもなくて、要するにブラックボックスだから、見る側の、自分を写す鏡だと思うわけ。
そこに自分を見ているんだと思うんだよ。
だから死体を見ていかがわしいと思う奴は、自分の心が卑しいんだと思う。』

『死体だけを穴が開くまで見ても、何も見えてこないんですよ。
死体っていうのはある意味で、”生きてる人を映す鏡”だと思うんで、人が見て、「気持ち悪い」って思う奴は、「本人が気持ち悪いんだ」っていうね。
なんかそういう風な見方も成り立つんじゃないかなって、最近は思うようになったんですよね。
その時に、その人の人間性が見えてくるっていうか。
死体に対応してやってる人間のそれぞれの対応の仕方っていうのは、非常に何かね、感動的なんですよね。』



人間は「イノセンス(無罪)」が必要なのではなく寧ろ、積み重なり、その重さで底の底まで行くような「罪」が必要なんだと感じました。
イエスという人は多分そういう経験を本当に多く経験してきた人なのだと想います。

そして「罪」が深まれば深まるほど、人間は本質へ近づいて行けるのかもしれません。
それはとんでもなく苦しい道のりであって、深い孤独である必要があると想うのです。

自分はグロテスク表現をずっと遣り続けて、誰からも反応すら貰えなくて、苦しくて孤独でなりませんが、これが「キャー」とか「ワー」とか人々から喜ばれる日には、自分はもう何を遣って行きてゆけばいいのかわからなくなるのかもしれません。

取り留めの無い話になってしまいましたが、人が死や死体を不快に感じることや、グロテスクなものから目を背けようとすることは大変に深いテーマであり、何故、この時代にグロテスク表現がこれほどまでに人々に受け入れられないのかを、もっと深く掘り下げて考察して行けると良いなと感じます。

























死への羽ばたき

ぼくはだれかを喜ばせたいなんて想っていない。
すべてを苦しめたいんだ。
喜んでいるすべての存在が、真に鬱陶しい。
ぼくはすべてが本当に救われることを心から祈りつづけている。
此の世はほとんどが吐き気のするほど軽薄だ。
どこかの知らない国の人が殺人罪で公開斬首刑に処されても、Facebookで自分の顔をショットガンで吹き飛ばす映像を苦しみつづけて生きてきただれかが生配信しても自分と自分の周りが無事でいることを祈り続けて生きてゆくんだ。
みんな気づいていない。
自分と他のすべてが、同じ一つの大きな存在であるということに。
ぼくを愛する存在は、本当にどこにも存在しないんだと気づいた。
死ぬことも、生きることも、ただただ虚しい。
生きるにも値しないし、死ぬにも値しない。
ぼくは永遠にだれをも愛することはできない。
この虚しさが、永遠につづいてゆく。
この虚しさが、終らない生命の孤独のなかで、存在を、無から解放しつづける。
永久に、死へと羽ばたく日は来ない。
我々すべて、死から羽ばたいて来たのだから。


























君は自分の手で自分自身を生きたまま解体して殺して食べることはできるかな。














































































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