この『スタンド・バイ・ミー』という名作を、僕は多分18年~20年振りくらいに観た。(しかも字幕で観たのは多分初めてだ。)
当時、ゴールデン洋画劇場で何度とこの映画は放映され、その都度、僕は亡き父と一緒に観た。
父もこの映画が好きだったのだろう。
でも父は2003年末にこの世を去り、初めて独りで僕はこの映画を観た。
そしてみんなのレビューを読みながら色んなことを想った。
僕は今39歳、友人や恋人や家族(夫や子供)もいない。
そしてこの映画のなかのノスタルジックに浸ることのできる友情も、僕は想いだすことができなかった。
僕が想いだせる関係のほとんどが、僕が依存する関係であって、長続きさせることはできない関係ばかりだ。
いつも、相手に多くを求めすぎて、相手を悲しませ、自分か相手、どちらかがそれに堪えられず去ってゆく関係だった。
そんな自分も、この映画に郷愁を感じて胸の奥を震わせるほど感動しているのだった。
「これは僕の求めているものだ。」
僕は依存を悪く想うどころか愛しく感じているのだが、その一方で、僕はこういう関係も望んでいるのだと、この映画は教えてくれた。
自分の本当の悲しみを打ち明けることができるけれど、でも相手に、何も求めてはいない関係。
何も求めてはいないのに、互いの悲しみを共感し、共に悲しみ、泣くことのできる関係。
僕の上の兄は随分変わった人で、独りでずっと中学生と高校生の息子を育て上げて、こんなことを言った。
息子が死にたい(自殺したい。)と言った日には、自分は止めないのだと。
そして自分の息子だからといって、特別に大切だという感覚はないと。
そんな彼は思春期の息子たちと真剣に向き合って、怒るときは本気で殴り自分の手を骨折させたりしている。
兄は息子たちに何も求めていない。
だから息子が死にたいと言ったなら、自分は「死にたいなら死ね。」と言う。息子の自殺を止めない。
共感することは難しいが、僕はそんな兄と息子たちの関係を良い関係だと感じた。
親は多くを子に求めてしまう。子もまた、理想の愛で愛されないことに苦しみつづける。
「そんなに死にたいなら、死ねばいい。」
この映画の主人公ゴーディーが、なんだかちょっと言いそうな台詞でもある。
でもそのとき、彼はきっと真剣な目で言うだろう。
いろんな形の友情があり、愛がある。
そんなゴーディーが、もう二度と、あの頃の友情を持つことはないと言う。
だからこの映画は、深く感動するのだろう。
僕は本当に多くを、喪ってきた。依存し、相手に求める愛の為に。
勿論、喪ってはいない大切なものもある。
だが…大切な多くを、僕は確かに、喪い、これからも喪いつづけるだろう。
何も求めない友情と、すべて求める愛が、どれほど大切であるかを天秤にかけることなく感じつづけながら。