この「TWO WEEKS」という昨年の作品が、三浦春馬、春馬、君にとって、君の主演のドラマ作品としての最後の作品、遺作となったのは、深い理由があるはずだ。
何故...何故、君は死んでしまったのだろうと、始終胸を苦しませながらこのドラマ作品を僕は一昨日から最後まで間に三時間ほどの仮眠を入れて一気に観た。
そして悲しみに疲れて眠り、目が覚めて毛布にくるまれながら横になって今これを携帯で打っている。
春馬、僕は2006年、25歳の僕が「14歳の母」を観ていたとき、君に仄かな恋心を持って観ていたことを想いだしたよ。
君は僕の9歳年下だ。
僕は確かにあの頃、君に仄かに恋をしていた。その理由が、今、僕はわかった気がするよ。
君は僕と、良く似ているんだ。
魂の根源、本質的なものが。
君が十年前に寺脇康文と話していた対談を一昨日に観たときに、僕は気づいた。
僕らは...とても、とても、とても、その深層部分が、その心髄のような場所が、深く、深く、深く、闇(空虚)なんだ。
だからどんなに信頼する人と話をしていても、家族と話をしていても、いつでも、意識は自分のその場所をもう一人の自分が、眺め、観つづけていて、どんなに笑っても、泣いても、感謝をしても、心の底では、虚しくて、悲しくて、寂しくて堪らないんだ。
自分でそれを良くわかっている。
だからずっとずっと、僕らは独りだったし、苦しかった。
ユーモアセンスがないということにも、真面目過ぎるということにも苦しんできたね。
人と話すのが、だからとてもつらくて、苦手なんだ。いつでも、自分の意識していない部分でもすごく無理をしなくては人と話せない。人の目を見れない。笑うことが、できない。
いつだって人の話に、自分の話に、集中できない。
いつも、自分のなかに存在し続ける真っ暗な闇が、その空っぽの真っ白な穴が、自分を見つめつづけているから。
苦しいよ...僕もずっと。生きているだけで苦しくてしょうがない。
でも僕は、君と大きな決定的な違いがある。
僕は、親の愛を、信じている。
でも君は、違った。
君は、君のなかには、僕のなかに在りつづける親からの愛と親への愛という本当の光、本物の希望が、なかった。
君は、今まで良く、堪えて、強く生きてこれたな...
自分が、何処にもいなかったのに。それをずっと、繊細な君はわかってたのに。
でも、君の苦しみに比べたら僕の苦しみなんて...って、僕はちっとも想わないけどね。
僕はそれでも毎日身を引き裂かれるような感覚のなかに今も苦しみつづけているから。
でも僕がそれでも光を見喪わずに生きて行けるのは、僕のなかには確かな親の愛が生きつづけているからなんだ。
春馬、僕は君を必ず救いに行く。
いや、今、命を懸けて約束しているんだ、君に。
僕は必ず、死のなかから、すべての存在を救う。
そこに、いま君の魂はいるが、君は、僕だ。
それを僕は知っているから。
君が死につづけるということは、僕が死につづけるということだ。
君が、死のなかに、いつづけるということは、僕が、この死のなかに、いつづけるということだ。
僕は必ず、絶対に、この命を懸けて、すべての死のなかにいる存在を救うよ。
その為ならば、あらゆる幸福を犠牲にしてやろう。喜んで、今以上の孤独と苦しみと悲しみを求める。
僕らは死に支配されていると、春馬、君は想うか?
違うよ。僕が、死を支配しているんだ。
そして君も、本当はね、死を支配しているんだよ。
でもその力を発揮する能力を、僕らが使いこなせるようになる為には、一体どれほどの絶望と、みずからの闇と向き合いつづけなくてはならない苦しくて堪え難い時間が、必要だと想う?
僕は本当に寂しくて堪らない。
もうこの世界には、僕を愛している存在は存在していないことを僕は知っているからね。
僕は4歳で母を、22歳で最愛の父を喪った。
来月で39歳になる。僕はこの世界に対しては、本当に絶望している。
何故なら、僕は愛されてはいないんだ。誰にもね。
この地球上には、だれひとり、僕を本当の愛で愛することのできる存在はいない。
僕は散々、母の記憶がない僕にとって、父が、僕のすべてであったのだと人々に話してきたが、本当の意味で、それを真に理解し、共鳴する人はほぼいない。
僕のこの絶望を、本当のところでみんなわからないんだ。
僕は最も愛するぼくのすべてであるお父さんが死んだときに、僕も共に死んだ。
だから君と同じ、僕は同じ、死のなかに生きているんだ。
ずっといま君がいるそこでね、僕は生きてきたし、これからも、生きてゆく。
僕の命も、この人生も、長くないのかな。
春馬は知ってた?信じられないほど、今、この星は最悪な時代、最悪な”その時”に向かって、猛スピードで、爆走している時代なんだぜ。
早くて、数十年以内、もうこの地球上は、もうどの生命も、絶滅するかもしれない。
1万5000人以上の科学者たちが、人類は今すぐにでも「植物中心の食事(つまりヴィーガンかベジタリアン)」へと移行せねば、この地球は第六の大量絶滅を免れないともう何年も前から人類に向けて警告し続けているのにも関わらず、ほとんどの人たちは、それに無関心さ。(検索ワード「地球への脅威はるかに悪化、科学者1万5000人による「人類への警告」)
人類があまりに、愚かに、身勝手に、愛の喪われた虚無のなかに、生きてきた結果、この地球という星はまた一に、戻るかもしれないんだ。
本当に、間に合わないのならば、また最初から遣り直しさ、またこの星に人類が誕生するまでには、何十億年と、かかるかもしれない。
後悔しても、もう遅いんだよ...。
春馬...それは、君という大切で、絶対に、死んではならないという存在が、死んでしまったという事実、現象、この一つの悲劇である現実として、変えることはできないということだよ。
どれほど、いま君がその死の闇のなかで、ひとりで苦しみつづけているか、僕はわからない。
でも僕は確かに君に約束をした。
すべての、僕の幸福を喪ってでも、僕は必ず君を救う。
僕の絶望は終わらない。
春馬、君はさ、愛する”君の娘”である彼女のもとに、戻るつもりはないんだろう?
君は"彼"とのカルマを、すぐに清算することはできない。
何十回と輪廻転生を繰り返しても、多分、足らないだろう。
"それ"は恐ろしいほどに、深いものなんだ...
それを清算するまえに最愛の彼女のもとに戻るならば、つまり、彼女との幸福を手に入れようとするならば、彼女を、あらゆる危機にさらすだろう。
君はそれを決して許さない。
だから君にとってのこの作品は、君が今いるその世界、"天国"から、寂しそうに、彼女(のいるこちらの世界)を振り返るシーンで終る。
今、僕は泣いている。
君は、気の遠くなるほどの時間、永遠に感じるほどの時間、きっと彼女のもとへは戻らないだろう。
彼と、本当の決着(結着)を着けるまではね。
君の今のその苦しみには、勿論、終りがある。
だが生命は、みずから、更なる深さを、追い求めつづける。
それが生命である僕らという、すべての光の存在なんだ。
僕らはすべて、永遠に、生きつづける。
時間の存在しない世界で。
その愛と光による、孤独と、苦痛と、その悲しみに、終り(果て)はない。
春馬、君は、今も、生きているんだ。
眼には見えない世界で。
8月8日追記:
今日、春馬が僕の夢に出てきました。
彼は僕に向かって何気ない顔でこんなことを言いました。
「きみが何処で何をしてて、どんな服が今欲しいと想っているか、ぼくにはすべて観えているんだよ。」
僕は夢のなかでは、マジ?って顔で吃驚していたけれども、夢から覚めて、色々考えている。
もしかしたら君は、”だれか”を助けるために、そっちに行ったのか?
(参考サイト『ねえ、自殺したらボクどうなるの? (全文)』
それとも、僕の願いが、君の姿になって現れたのかな。
君は僕の内と外で、生きているんだね。
8月18日追記:
昨日から、「条件付きの愛 劣等感」、「条件付きの愛 完璧主義」等で検索して、色んなことを考えていました。
自分の、本質的なところに、空虚で、透明な感覚がいつまでも抜け落ちないのは、わたしが親から、条件付きの愛でしか、愛されてはいないのだと、わたし自身が感じて来たからなのではないかと。
わたしが4歳9ヶ月の時に他界した母は、敬虔なエホバの証人だった。
家族のなかで唯一人、忠実なクリスチャンであった母は、一体どれほどの厳しい躾のなかで、わたしを育てたかを、わたしは記憶にない。
父から聴いた話では母からも、剥き出し(裸)の尻を皮の鞭で何度と叩かれるという躾を行われていたという。
わたしは泣きながらそのなか、絶叫し続けていた。
その厳格な躾も、今のわたしの何をしても拭えない劣等感や完璧主義と関係しているだろうか。
そしてこの躾(教育)は、わたしの未だ続いている離人症的苦しみ(現実離れの感覚)や、底がないと感じるほどの空虚感に、関係しているのだろうか。
容姿端麗の両親の間に生まれたわたしは、母がわたしの新生児時代の醜さを嘆く日記を母の死後、数年後に読む前から、それを察していたことだろう。
「じぶんは、可愛くないからという理由で、実の母からも、愛されないのか。」つまり条件付きでしか、愛されないのだというこの感覚が、いまもわたしを苦しめ続けているのか。
僕は小学校5,6年時、学年で一番可愛いと言われていた。
そうにも関わらず、自分の鏡を観るたびに、自分の顔が、いつも気に入らなかった。
自分の容姿に、常に劣等感を持ち続けて生きてきた。
どれほど、他人から褒められようが、自分はそうは想えない。
この苦しい感覚を、僕以上に、春馬はずっとずっと感じて生きてきたんじゃないか。
どれほど、周りから才能があると言われても、自分のなかの空虚さが薄れることがない。
この”渇き”が、一滴たりとも、癒えることがない。
何故ならこの渇きを癒せるのは実の親であることを、わかっていたからではないか。
”真の親”とは、何がどうなろうと、変わらぬ愛で愛してくれる存在である。
わたしは、親の愛を信じていると同時に、”闇”のなかに生きているのは何故か。
そのひとつの原因を、「条件付きの愛でしか愛されていない」というみずからの感覚にあるのだと、わたしはわかっていたことに、改めて気付かされた。
きみに、足りないものは何なのかなんて、考えない。
きみに、足りないものなんてない。
ダムを想像して欲しい。
溢れる水が堰き止められねば、甚大な被害を被る。
でもこのダムを造ることができるのはだれなのか。
ダムを造ることの被害については、だれが被るのか。
僕が言いたいのは、人々の苦しみと悲しみには、”限界(limit )”が在るということ。
他者の限界値に気づけないのはみずからの限界値を、”決壊”させても平気でいられる”こころ”として、生きてしまっているからかもしれないということを。
8月19日:追記
”愛”とは、なんなのだろう?
ほんとうにたくさんの人たちが、三浦春馬という一人の男の子が自分の命を殺してしまったということに、ショックを受け、嘆き、悲しみ、深い無念さや虚しさを感じている。
でもその”愛”とは、”条件付きの愛”なのだろうか?
それとも、何の条件も付けない、”無条件の愛”、本当の、”無償の愛”なのだろうか。
僕は彼の魂が、こう今も悲しんでいるように感じている。
ぼくが、容姿がほんとうに醜くて、だれひとりにも好かれない人間で、性格も、気持ち悪くて、気味が悪くて、奇妙な、だれにも理解されない気色の悪い趣味を持っていて、ほんとうに、何の才能もなくて、いつもうじうじとしていて、だれにも優しくなくて、何の想い遣りもなくて、引きこもりで、国の税金でお酒を飲んで生きていて、なにひとつ、なにひとつ、良いところがない人間だったとしても、ぼくはだれかに、こんなふうに、惜しまれたのかな…。
きみは…どう想う…?
8月20日追記:
『私がある人を条件付きではなく愛するとは、たとえその人がどのような人であろうとも、私はその人の存在を承認し、肯定し、祝福するということだ。たとえその人が私の望んだような人間ではなくても、たとえその人が私の枠組みを破壊するような存在であったとしても、たとえその人が私のいまの快適な生活や人生を根底から崩すような存在であったとしても、私はその人の存在を承認し、肯定し、祝福するということだ。いくら私がつらくなり、苦しみ、声を上げて叫びそうになったとしても、私はけっして目の前にいるその人から一方的に逃げたりしないし、どこかへ閉じこめたりしないし、存在を抹消したりしないということだ。「条件付きではない愛」とは、大切な人に対して、このような態度を貫くことである。』
『無痛文明論』森岡 正博著 P62より
僕たちはどれほど、人を”条件付きではない愛”によって、愛しているのだろうか?
そしてどれほどの人から、その愛によって、愛されているのだろうか?
僕は三浦春馬という一人の存在が、死のときも今も、自分と他者にそれを訴えているように感じる。
繊細で優しい者たちが次々とみずから命を絶ってゆくこの世界で、遺された僕らは、その愛によって人を愛し、愛されているのだろうか。
何かがおかしい…
人はどれほど苦しくとも、自分という一人の人間を殺してはならない。
でも人がいつまでも条件付きの愛でしか他者と、そして自分を、愛せてはいないことに気づかないままに生きて死ぬことで、一体、僕らは誰を犠牲にしてきたのかということを、深刻に考えることもなく、死んで良いことにはならない。
僕らは、春馬の尊き犠牲によって、”自分自身”を、どのように変化させてゆけるのだろうか?
どのように、自分と他者を愛して、死ねるのだろうか。
8月22日追記:
『(相手が)私に、なにかの「幻想」を貼り付けていた場合、私は愛を失うのを恐れるあまり、必死になって自分をその幻想に合わせようとするだろう。自分を相手の幻想に合わせることによって、相手のお気に入りとなり、相手が要求する条件をクリアーでき、愛を握りしめておくことができると考えるだろう。
しかしながら、実際にそれをつづけていったとしよう。そのうちに、相手の幻想を演じている自分と、自分にいちばんぴったりくる自分とのあいだのギャップが、どうしようもなく開いてくる。しかし、愛を失うことがいちばん恐いのだから、私は相手の幻想を演じる自分のほうにこの私を重ねていこうとする。そうやって、自分にいちばんぴったりとくる自分を殺していく。
するとどうなるか。私は自分が自分であるというリアリティを徐々に失っていくのだ。この私が自分の人生を生きているのだ。という充実感がしだいに失われていき、ロボットのようになる。私は私だが、私ではない。私は嘘の人生を生きることになる。』
『無痛文明論』森岡 正博著 P84より
芸能界はまるで、人々の『幻想』の掃き溜めのようだ。
芸能人はいつまで人々のつまらぬ幻想のなかで生きなければならないのか。
何故、芸能人は、自分の至らない部分や醜い部分を少しでも曝け出すと、たちまちに嫌われ、誹謗中傷を受け続け、まるで「言葉の殺人凶器」のような恐ろしい非難を受け続けねばならないのだろう?
一人の俳優の弱さや受け容れたくはない要素を、これでもかと言わんばかりに否定する人々たちのなかで、彼らは自分を殺しつづけ、人々の幻想のなかに生きてゆくしかないのか。
僕は正直に言うと、三浦春馬の演技力や容姿の美については、そこまで評価していない。
僕は彼のファンだったわけではない。
目くじら立てて、此処が駄目だとか、何かに付けてダメ出しの評価もしてこなかった。
僕は彼は、まだまだこれからなんだと想っていた。(彼は作品に恵まれていないと感じて、僕が心から観たいと想える作品に彼が出演していなかったことも理由である。)
それでも彼は怪優と言われる岸田森や、三國連太郎のような俳優にこれから成る素質があったかもしれない。
だが俳優のなかで、ほんの少数がそういった俳優になれる世界で、人々の評価が、どういうところで一人の俳優を絶望させてしまうのか。
僕らは一人の俳優を、弱い部分も醜い部分もあるだろう一人の人間として、みずからの「幻想」を捨て去って、静かに見つめる必要があるのではないだろうか?
そしてそれはすべての人間と、”自分自身”に対しての幻想を、どのように剥がして、”無条件の愛”に向けて愛してゆけるのかという課題に、だれもが真剣になる必要があるのだと、僕は改めて想う。
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