彼は初めて彼女を見て、想った。
こいつは悪霊に愛されちまってるんだな。いや、それは死霊、いや、“死神”と呼ぶに相応しいもんだが、それをこいつは自分を最も愛して、自分の最も愛する母親のように愛されていることを確信して自分もそれを愛してるんだな。
男は密売のウイスキーを買う為に並んでいる男たちに売るのを今夜は中断し、女のあとをこっそりと着けた。
夜が重なり合ったところにできる影は夜ほどには暗くなく、その境界線で隔てられた小さな天井の空間に草の先から滴る水が自分の居場所を我先につかまえようとして楽し気にその身体を滑り込ませようとしている森のなかを、月光の明りだけを頼りに男は心地良い酔いに宥められながら闇に溶け込む者として存在している女の後姿を追った。
女は、男が自分のあとを着けていることに気づいていたが決して振り返りはしなかった。
彼女は、自分の小屋について、そしてそこで男を気前良く迎え入れ、男の求める“何か”と引き換えに、葡萄酒を自分に売ってくれないかと、交渉しようと考えていたのだ。
女はウイスキーはあまり良い気分で酔えたことがなく、どうしても葡萄酒でなければならなかったからだった。
男はまさか、女がそんな内情を持って自分を切実に求めていることなど想像することもできなかった。
彼はただ、彼女を犯して“自分”こそが、そうなのだと示してやりたかったのだ。
そしてそれでもわからない愚かな女だったら殴りつけて言い聴かせつづけてやろうと考えた。
何故ならおまえは、俺から生まれたも同然なんだ。俺があの場所で酒を密売していておまえがそれを求めて買いに来た。おまえはまったく存在するどんな亡霊よりも亡霊として生きてきて、それを喜びとして生きていることを隠さないでいるその顔、その両の真ん円な黒い目で俺を見つめ、俺に請うて、そして女の最も哀れな部分を濡らしていることを俺に噎せ返るようなおまえから発せられる何かによって訴えて来たんだからな。
彼女は彼が自分に求めているものを必ず与えられることを信じていたので男を決して振り返らなかった。
それは早い段階で男を満足させられるに違いないと想った。
あたかもそれは同じ季節のなかでさえ決して同じ方法と同じ音で音を奏でることができない微妙で複雑な虫たちの音の違いを聴き分けているかのように、女は確信に満ちていたのだった。
男は女の肉体があたたかくもあり、なまぬるい赤みがかった白く緩い粘土と化す瞬間を想像して欲情し、歩きながら煙草に火を点けた。
“本当の処”で女が何物であるかを、俺は証明できるんだからな。
彼が四歳の時に、母親が死んで、それから何年後かに彼は森で捕まえた一匹の小さな動物を殺したあとにそれを火で焼いて葬った。
その強烈な臭いを嗅ぎながら彼は想った。
女(母)が夜を拒んでるみたいだな。
何故か彼にもわからなかったが、女(母)が夜を受け容れていたならば、こんな臭いが焼いた死体のその脂肪や肉から発せられるとは想えなかったのだ。
何かが残されていたならば彼はそこから何かを感じたのだろうが、彼の知る限りは、そこに何かが残されているものとして何かがあることを知ることができなかった。
そしてすべての女(母)が自分のなかで喪失しつづけていることの事実を、彼は受け容れることなんてできなかった。
彼のなかで、夜はときに陽だまりのような斑模様をつくりだしてそれがずっと揺れ動きつづけながら自分に向かって何かの言葉を発しようとしているように感じた。
今もそれを感じかけていたが、彼女に対する激しい焦燥感はそれを邪魔してその代わり熱く黒い血の流れが、淫らな波の形状となって彼の膝の裏に巻いていたとぐろを伸ばして太腿の裏を這って来ているのを感じている。
女は彼が早く自分のなかに来て、痛みと呼ぶことすら恥ずかしい永久につづく鈍痛を残したあとに排泄物が喜びのうちに爽やかに下流へと流れて見えなくなるように立ち去ることを待っていた。
そしてその人間が絶対的に拭い去れない罪の甘美な褒美として、美しく透明な赤い液体が彼女の喉を焦らしながら焦がしてゆく瞬間を、うっとりしながら想った。
それは穢らわしくも、自分の生殖器の破れた器から注がれた何の関心も持てないもの、まったく何に於いても完全に無価値なものと同等のものであることを知りながら。
彼女が、最も求めているものとは、自分に観える最低限の遅い速度で、自分自身が観えなくなってゆくことだったのである。
彼女もまた、彼と同じく母親の記憶の一切を持っていなかった。
男は女が自分を待っていて、女も男が自分を待っていることを本質として知っていた。
自分が受け容れることのできる限界をとうに超えてしまっているものをしか、求めてなどいないのだと、互いに知らしめる必要もないのだと互いに隠し持つ仄かな淡い光をだれにたいしても隠されつづけてきた場所でまるで生命が何も意識することなく動きつづける鼓動のように、それは光ったり、光るのをやめたりしているかのようだった。
男はぎらぎらと照り付けてくる闇のなかにじっと自分に殺されるのを待っているかのようにしてそこにいたちいさな動物がどんなものに対しても自分は無敵であると信じながらそのちいさな牙を自分自身に対してだけ剥いて震えているのを知っていて、それもまた、こんな眩しい夜の存在を到底信じてもいないのだと想った。
それはこれ以上はもう研げないと想えるほど研いだ鎌(Sword)で草を刈ったあとにできたその草の切断面の鋭利さこそが危険で恐ろしいものであると信じることと同じだった。
男も女も、ただそれを受け容れ、許容し、信じたいなどということにまったく関心を持ってはいなかった。
“すべてが実は自分だけのものなのだ”と完全に覚りのなかに確信できることほど、馬鹿げたことなどないのだ。
男はこのわずか数十分後に、確かに凌辱せしめた女を見下ろしながらたっぷりと注がれた憐みと涙ぐんだ非常に人間深い情熱の眼差しでこう言うことを知っている。
「あのとき…洗礼者ヨハネは、救世主イエスを洗礼の水のなかで溺れさせてしまう選択だってできたんだ。何もない処から何もないものを取り出して、何もないおれたちに与えることだってできたんだぜ。まあおれたちが此処にいるのはおれたちがそれを選択したからなのだがな。」
そして“男のなか”で、女は涙を流し、恍惚さと口惜しさの入り交じった表情で男を見上げ、こう応える。
「わたし、すべてがなにもないということを知っているからこそすべてはすばらしいものとして存在しているような気持になれると想うの。」
男は、女に向かって微笑む。
その微笑みの理由を、この女だけが知っているのだと、男は想う。
女は、低く震え、子宮から発していると感じるほどに男にとって心地良い響きの声で自分の血が付いた白いレースのスカートの端を見つめながら言う。
「それで、どうかわたしに葡萄酒を売ってほしいの。」























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