ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

瞑想

五つの玉の精

わたしは牛頭天王を祀る神社へ赴いたあと、帰路に着き家のすぐ近くの岩板に座りてPokémon GOでシビシラスと真剣に闘っていた。
そしてシビシラスを捕まえて独りで喜んでいた。
その時である。俄かにわたしは声を掛けられた。
「図書館へはどちらの道を行けば良いですか?」
顔を上げると、そこには籠のついた古い自転車を引いた若い男が立っておった。
わたしは方角を指で差し示し、図書館までの道のりを男に教えた。
男は分かっているのか分かっていないのか分からない顔で礼を言った。
わたしはPokémon GOを再開する為にまた目を落とした。
すると男は自転車を止め、わたしの座る岩板の左に座った。
わたしが訝っていると男は「少し休憩をしようと想いまして。」と笑って言った。
わたしは男がわたしに何か求めていることを感じ取り、それが何であるかを知りたいと激しく想った。
男はわたしに何をしているのかと訊ねた。
わたしは自分が捕まえて育ててきた化け物を使いて血の戦いの末、このシビシラスというシラスのような化け物を捕まえたところだと答えた。
男は自分の道具の器が足りなかったから自分はそれをできなかったと応えた。
わたしは笑った。
わたしはこの男が気に入った。
わたしは男に本が好きなのかと訊ねると男は自分の借りていた本をわたしに見せた。
歴史の本とパレスチナ語(ウルドゥー語)を学ぶ本があり、わたしはパレスチナ語を学ぶ本を手に取って中を見ながら、わたしは今、日本とユダヤの関係についてずっと調べているのだと言った。
男は感心を示している様子でそれは面白そうだと言った。
わたしは牛を『バカラ(بقرة)』というのかと関心を示した。
わたしは最近、牛頭天王のことを調べていると男に言った。
これは『バアル』の名前と関係がありそうだ。とわたしが言うと男はバアル神のことかと言った。
わたしはバアル神を知っているこの男に深く関心を抱いた。
わたしは自分が如何に孤独で、毎日が苦しいことを簡潔に男に伝えた。
介護補助の仕事をしている男はわたしの背中を老婆の丸い背を撫でるように優しくさすり、わたしに深く哀れむさまを表した。
わたしはこの優しい男に自分はこの荷物を家に置いて来るから、一緒に図書館へ参らぬかと言った。
男は喜び、是非ともそうしようと言った。
男のかけている黒縁眼鏡の左のガラスにはとてつもなく濃い睫毛が三本付いておった。
わたしは男は眼鏡を最低一年は洗わない主義なのかと想った。
男は良ければお友達になって欲しいと言ってわたしに握手を求めた。
わたしは差し出した男の手を握り、頷いた。
男はわたしの手を冷たいと言い、あたためるように握った。
わたしが荷物を置きに家に上がっているとき、まるで拾ったばかりの仔犬を繋いでひとりぽっちにさせているような不安と哀しみを覚えた。
わたしが降りて静かに待っている男を見たとき、やはり拾われたばかりなのに棄てられるかもしれぬ深い不安と寂しさを胸の奥深くで溢れさせている仔犬のような顔でわたしを振り返ったのだった。
わたしはお前を棄てはしない。
お前がわたしを棄てる迄。
そうわたしは心の底で言わなかったが、男がこれを呪うように求めていた為、わたしの神に言わせた。
二人で並んで歩くとすぐに、男はわたしの手を繋いできた。
男はわたしより十の年下だった。
何の恥じらいなく甘えて来る男の行為にわたしは幼児が母親の手をひっしと繋ぎたがる切実さを感じて感動したが、同時につい先程に知り合ったばかりのこの男が母の愛をわたしに求めていることに心中で周章狼狽し、わたしは咎を背負うような気持ちになった。
わたしはこの男に対して、野山のねきの道で出逢った猿か狸の仔を連れているような気持ちで共に歩いていたからである。
わたしは咎められているこの想いを男になんと言えば良いかわからず、困惑しながら男と手を繋いで歩いた。
男の手はとてもあたたかく、厚くて柔らかく、優しかった。
わたしは五年間、男に触れられはしなかったが、わたしが守り通してきたこの操の期間を、男は容易く触れて壊してしまった。
それは何の意味もなく、全く無意味だった。
わたしには何の価値もないのだとわたしは感じた。
わたしの処女は、永遠に帰らぬのだと、神に告げられたような気持ちだった。
わたしは誰ひとり、愛することはなかった。
わたしが愛したのはただ一人、父と母の融合神、二心一体の存在であったからである。
だがわたしは絶望し、処女を喪った。
わたしには女としての希望も、人としての希望も最早在りはしなかった。
何度と、わたしの身体を気遣って座って話をする男にわたしは言った。
わたしは本当に"鬼"なのだが、それでも良いのか。
男は気にしないと言って微笑んだ。
その両の目は、五千年間埋められ続けた蒼い透明の火の玉のように、何かを言いたげであった。
わたしは男に言った。
わたしは幸せを求めていないのだ。
わたしは悲劇を愛しているのだよ。
わたしと添い遂げようとする者は、真に苦しみつづけるだろう。
男はわたしの両の手を両の手で握り締めて言った。
僕は貴女と幸せになりたい。
男は何遍も何遍も、しつこいこと極まりなく、同じ言葉を繰り返した。
僕が貴女を護りますから。
だから、大丈夫ですよ。
わたしはその都度、笑った。
男はマスクを外してわたしの右手の甲に幾度もキスをした。
男はそして謝った。
変わり者でごめんなさい。
そして枯れた蓮の花の浮かぶ湖を眺めながら言った。
今日から、僕は貴女の恋人です。
男は何度も用を足しに公衆の厠へ行った。
わたしが男の後ろ姿を見つめておると、男は携帯の画面を見下ろしていた。
わたしはそのことについて、訝り、男に訊ねた。
男は答えた。
Twitterを見ていたのです。
わたしは酷く不満な心地で口をマスクの下でひょっとこのように尖らせ不機嫌に言い捨てた。
ふーん。そんなに気になるアカウントがあるのか。
男は帰り道を変に急いだ。
男の要求にわたしが折れて、わたしの家に上げてやると言った後である。
男は言った。
家に着いたら、口に優しいキスをしてあげますからね。
わたしは男に言った。
なんで家に上げても良いと言った途端、そんな早足で歩き出すのか。
男は立ち止まって振り返ると、はにかんで笑って言った。
ごめんなさい。
わたしは不安になり、男に言った。
わたしは拷問にかけられて殺されたくはないから、やはり家には上げられない。
男は拷問とは何かと訊いた。
わたしは答えた。
拷問とは、堪えられない地獄の苦痛を生命に与えることである。
男は可笑しそうに笑って言った。
そんなことしませんよ。それに、人を殺めたらこれですわ。
男は自分の両手首を縄で縛られているジェスチャー、即ち「お縄になる」を表現し、笑った。
わたしは男の目をガン見した。
その男の両の目は、先程、公園で見た野生のヌートリアの微塵たりとも邪の無い何ひとつ穢れのない、ただ食べること、生きることしか考えてはいない磨いた黒曜石の球の如く目と全く同じ目であった。
わたしは、男をとうとう家に上げた。
男は、母親の乳首を欲して見つめるようにわたしの目と口を見つめたるあと、何度と吸い付くように口付けを行った。
しかしわたしは口を頑なに開けることはなく、性的な興奮と感情を覚えなかった。
恰も、可愛く懐く打ち棄てられていた仔犬を拾って家に連れ帰ったものの、その仔犬に獣臭の凄まじき舌で口を舐め回されるのは酷い不快感と嫌悪感を否むことはできない者の複雑な悲しみと哀れみの如し、わたしは男を本当の意味で愛することはできなかった。
どんなに激しく求めて舐めて吸おうが、一滴も乳の出ることのない乳首を見つめる乳飲み児のように、男は寂しそうな顔でわたしを心内で絶望するように見つめた。
男は、家に上がる前に言った言葉をもう一度言った。
時間が止まればいいのに。そうすればずっと貴女と一緒にいられます。
わたしは男に、セリアに売っている"3D ドラゴン"のドラゴン種をすべて集める為に、一緒にセリアに行ってくれないかと言った。
男は一緒に行くと約束した。
そしてわたしと指切りをし、男は言った。
どんなことがあっても、僕が貴女を護りますから。
そして男はわたしと繋いだ小指を離して切った。
男は、帰りが遅いと親が心配するからと言って帰った。
男が帰ったあと、わたしは『古代の宇宙人シリーズ』を観ながら赤ワインを飲み、夕食をとった。
男のことが気に掛かり、古代の宇宙人たちが、何処そこで、何をして、何を人類に教えたのかを熱く語られ続ける内容の何一つさっぱり頭に入って来なかった。
わたしは上の空で混乱し続けていた。
わたしは酔い潰れ、男に床に入りて休むとメールを送って眠りに就いた。
翌朝、少し吐き気と悪寒がし、身体が熱っぽかった。
体温計で熱を測ってみた。
二度とも36.7°であった。
わたしは彼を疑った。
彼は故意に、何かをわたしに移した(感染させた)のではないか。
わたしは寒気のなかに、男を恐れた。
わたしは男の顔も憶いだせなかった。
わたしの筋肉は腐り、足は日に日に痛み、腸と脳には蟲が湧いている。
その上、わたしに対する呪いはわたしに死に至らしむ感染病に罹らせたのか。
わたしは、己れと己れの神を、呪わんとした。
そのときである。わたしは憶いだした。
昨日わたしは牛頭天王を祀る神社にて自分の足をさすり、その手で牛頭(黒い牡牛像)の神の足をさすり、わたしの足をまたさすった。
その祈願のあとに、わたしは男に出会ったのだった。
わたしは瞬間、目を見開き、涙がとめどなく流れた。
おお、牛頭よ、我が愛する独り神よ。
あなたはあなたの右前脚の膝の器から、生まれた精霊(分け御霊)をわたしに与え賜われたのですか。
それなのにわたしは彼を三度疑った。
わたしは彼の真心を、信じなかった。
わたしは彼の約束を、疑った。
赦し給え。
わたしは男にメールを送った。
すると男から返事が返ってきた。
「熱はないですか?
少し前PCR受けましたが、陰性でしたよ。」
わたしはもう二度と、彼を疑わない。
もし、彼との子を授かる日には、その名を、「五竜也(ごずや)」と名付け、世の終わる日まで、この世で愛しんで育てることを、わたしはあなたに約束する。























母禍死

ペキンパーVol.6の、元AV監督であった現在、死体写真家である釣崎清隆のインタビューのなかの、
「性器とは何なのか?性器というからにはそこで遊んじゃったらダメなの。」
という、性器表現の規制についての言葉を読み、色々と考えている。
性器で、遊んでは駄目なのだ。という人間の本能的感覚が、一体どこから来ているのか。
わたしはその感覚が、人間の本質であり、美しく、悲しいものだと感じる。
性器は、おもちゃではない。
性器を遊ばれたら、人間は深く傷つき、悲しむ。何故なのか?
わたしは「性器というからにはそこで遊んじゃったらダメなの。」という言葉を読んで、
自分の過去を想いだした。
性器で遊んでしまった、自分の過去を…。
あれは確か2009年のクリスマス前の日だった。
今から十一年前、わたしは28歳だった。
今住んでいるこの大阪の姉の家の近くのマンションに引っ越してきて、生活保護を受け始め、
少し経った頃だった。
某yahoo婚活出会い系サイトで、知り合った2歳年上の男性と、運命的な出会いをした。
彼は、今まで色んな事を遣ってきた人だった。
芸人とかも遣ってきたが、何一つ評価されず、
いつでも、野望を抱いて、自分は今のこんな仕事を続けているべきじゃないのにという切迫した緊急感を常に感じながら自分の才能と可能性を疑わない人だった。
彼の言葉はいつでも、重く、誠実だった。
ふと彼が、素直な願望をわたしに話した。
海外に、また行きたいと想っていると。
それは、勿論、独りでである。
結婚したい想いがあって、婚活サイトに登録していたんじゃないのか?
嗚呼、彼にとって、わたしの存在とは、何なのだろう。とわたしは絶望した。
まだ、会ってもいない頃に、わたしは早くも彼に本気で恋をして依存し、苦しんだ末に、大量の某トリップ&安眠系市販薬を、致死量の半分くらい、オーヴァードーズ(OD)した。
そのとき、わたしは初めて幻覚というものをはっきりと観た。
今でも貴重な経験だったと想うが、二度と、繰り返したいとは想えない。
寝ゲロしたものが、乾かぬ間に、彼はとうとうわたしを心配してわたしのマンションに突然遣ってきた。
写真の何倍と美しい、悲しい顔をした猿顔の男前であった。
彼は、差し入れを持ってきただけなんだと震える声と身体で言って、すぐにドアの前から去って帰ろうとした。
わたしは彼の手を掴み、引き留め、彼を部屋に入れて、自然と彼に全身を激しく震わせながら、背の高い彼に背伸びして抱き着いたのだった。
彼はわたしを優しく抱き締めながら心配し、「大丈夫…?」と言った。
その後、彼は、わたしを愛らしいと想ったようで、付き合うことになった。
だが、わたしの彼に対する悲しみが、変わらなかった。
「また海外に行きたいんだ。」と言ったその言葉が、ずっとずっと潜在意識に絶望として存在していた。
わたしは、最初に会った日に、彼に自分の寝ゲロを指差して言った。
「これ、生きてる何かにずっと見えててん。幻覚で…。ほんまの話。」
彼は、小さく表情を震わせ、同時に、わたしを憐れんだ。
初めて会った数日後である。
彼が、「一緒に住もうか。」と言ってきても、わたしはずっとずっと不安さが消えなかった。
そして約二週間後、わたしは彼に対する不満と悲しみが限界に来た。
その夜、わたしの部屋で彼と一緒に寝た。
キス以上の何もしていない関係であった。
夜明け前である。
わたしは、未だに何一つ性的な行為を誘ってこない彼に不満を抱き、そんなわたしの苦しみをなんとも気付いていない彼に猛烈に腹が立った。
わたしは眠っている彼の男性器を直に触って弄った。
弄っていると、彼が目を醒まし、何事か?と、わたしを見つめて吃驚した。
わたしは無邪気に微笑み、彼に厭味を言った。
「これはおもちゃ(玩具)だよ。(笑)」
すると彼はものすごい傷ついた悲しい真剣な顔をして諭すように言った。
「それは、良くない考え方だね…。」
わたしは彼の深い悲しみが伝わってきて、心が打ち震えたが、わたしはわたしで傷つき果てた心情の結果の行為であり、意地でも彼の陰茎を握り締めることをやめなかった。
彼は諭しても、行為をやめないわたしに怒(いか)り、わたしの下着を脱がそうとした。
わたしはそれを拒んだ。
すると彼がブチ切れ、真夜中だというのに声を張り上げて言った。
「自分から誘っておきながらパンツ脱がしたら嫌がるのはおかしいよね?それが嫌ならなんで僕のを触って勃たせたりするの?パンツ脱がされたくないなら触らへんかったええやないかっ。」
わたしは恥ずかしくて、笑って「壁が薄いから大声立てんといて。」と言った。
彼はわたしの反応にまたも、怒(いか)った。
わたしの下着を無理に脱がすと自分も脱いで挿入しようとした。
だが、なかなか彼は挿れられなかった。
何故なら、わたしの性器が、濡れていなかったからである。
わたしは彼に、全く興奮していない様子で「濡れてる…?」と訊いた。
彼は返事をしないで、寂しげな顔をしてすぐさま、諦めて挿入をやめた。
その日の午後、わたしと彼は初めて近くの公園にデートに行った。
そして日が暮れて帰ってきて、彼は今日は帰ると言った。
明日も彼は休日だった。
でも彼は、家事などを色々としなくちゃならないから帰ると言った。
わたしは女がいるのかと訊ねた。
彼は呆れた、また寂しい顔で否定した。
わたしは泣いて、布団に突っ伏した。
彼は長い時間、ずっとわたしの側に放心しておった。
しかし立ち上がって、帰る用意をしだした。
わたしは帰ろうとする彼の足を、ひっしと強く掴んだ。
彼は隙をとられ、倒れた。
わたしは立ち上がろうとする彼の腕を思い切り引っ張り、
涙を流しながら彼に言った。
「なんで…なんで…。わたしが間違ってるん…?」
彼は、本当に苦しそうな半泣きのわたしの知る彼の最も美しい顔でわたしを見つめた。
その後、泣き疲れ、わたしはまた布団に横たわり、
彼は無言のまま帰った。
それ以来、彼とはもう、会えなかった。
これほど後悔した恋はなかった。
彼の性器をおもちゃにした罰は、何ヶ月とわたしを苦しめ続け、
セックスをしなかった唯一の恋人である彼への未練は、今も深く残り続けている。

やけに性器とおもちゃの話の前置きが長すぎたのだが、今から、本題である。
性器をおもちゃにしてきた世の男共たちを、殺す勢いで、文章を書こうではないか。
いきなり、核心を突こう。
アートであると評価でき得るもの以外の、すべての性の表現は、性器をおもちゃにして来た。
優れた芸術作品として、人を感動させるものと、娯楽として、人を楽しませるものの違いとは、
それは、神が宿っているものと、神が宿っていないものの違いである。
芸術とは、神が、まさに産み通したものであり、それを確信できる作品に於いて何をも規制など必要ではない。
それがだれひとり、不快にさせないと言っているのではない。
不快でトラウマになるほどのものであるのに、同時に、人に、”真の光”というものを感じさせるもの。
それが、芸術というものである。
例えば、現代美術家であるマシュー・バーニーの黙示録(終末)をテーマにした映画の予告を観たことがある。
最も印象的なシーンとして、女性器がはっきりと映されており、女性器から真っ黒な泥がどくどくと流れてくる、地の母が、死を産み落とすことを暗喩しているのであろうとても印象的なシーンがあった。
あのシーンに、ケシもボカシもモザイクも、まったく必要ではないのは、芸術作品として、真に優れており、神がかっているものであることを人々が認知しているからであり、絶対に、隠してはならない部分であり、重要不可欠なシーンであることを理解しているからである。
でもこれが、浅はかなテーマで撮られている作品のなかのシーンとして、女性器から泥が流れてくるシーンだった場合、ボカシを入れられ、人々は、肝心なところを観せてもらえない為、イライラが積り、悶々となって、もんじゃ焼きみたいな、なんとも捉えようのない顔をして、こう言うのだ。
まったく、遣ってらんねえぜ。これだれがたれが撮ったんや、責任者、やなくて監督の名前はなんだよ。何?ツリサキぃ?ツリサキと言えばあの、美を追求して35年、美意識が誰よりも高い死体写真家、美に殉ずる為に、生まれてきたAVが大好きな、あの、(美しかった…)男か。
死体撮らないで、何を撮っとるのだ、一体。
おまんこ消されてんじゃねえよ。自分の母親のおまんこ撮れや。糞が。
死体を見つめてきた男が、ポルノもAVも撮るな。
本物の芸術以外の、何一つ、昇華できていないくだらない作品を撮るのはやめてくれ。
死体に対する、最悪の冒涜罪であり、
吐きそうなほど、絶望的なものを感じるから。





















「死だけが希望」

今日も夜の七時頃に起きて、山芋と、生玉葱に


をかけて、ふんでアマニオイルかけて、ベジマヨと生醤油と辣油かけて、青紫蘇を散らす。
そしてそれを、喰うてこましたった。
やはり俺と、俺の胃は、生野菜や生果実が一番悦ぶようだ。

そういえば去年の今日の俺は、町田康師匠の夢を見た。
のどかな風景の中に、町田康師匠がひとりぽつんと何故か椅子に座っていて、(後姿であったが彼であるとすぐにわかった)
わたしは感激にうち震えて、つい、ほわんほわんと宙を蹴るように走ってって、
そして町田康師匠を想いきし、抱き締める。
町田康師匠はすこしうろたえるも、わたしを優しく抱き締め返してくれる。
良い夢であった。
そして今年の今日の俺は、亡き最愛の父の夢を見た。
しかし内容は、あまり良い夢ではなく、何故かわたしと父の手の平に、カブトムシが張り付いて、
その甲虫が両腕の前脚を二本、同時にわたしとわたしの父の手の平に深くめりこませ、離れようとせんのだ。
父のほうは幸い、そこまで傷が深くなかったが、一方わたしの手の平は、何か透明で黄色い液が、
血の如くにその傷口からちいさい泉のように湧いてきて、つらかった。
現実的な痛みでなかったにしろ、その夢の世界では強烈な痛みであった。
父も、わたしの手を心配していた。
のどかな風景の中で、たぶんわたしと父、それ以外に人はいなかった。

あの甲虫は、何を意味していたのだろう。
もしかしたら俺の本ブログにブログハラスメント、略してブロハラをしてきたあいつを象徴しているのだろうか。
俺があいつを離そうにも、あいつは頑なに、それを拒んでいるように見えた。
そしてそこに穴を二つ開け、そこから尿のような聖水が湧いてくるのである。
清らかな黄色がかった透き通る水は、血の代りに湧き出て来た水である。
俺の手の平に開けられた二つの穴が、まるで開かれた目であって、そこから尿のような涙を溢れさしていた。
あいつの両の手のその爪先が、俺のその両の目に、喰い込んで、どうしても離れようとしなかった。
無理矢理離そうものなら、あいつの両手は千切れたろうし、俺の手の平の両目も裂かれただろう。
俺は諦め、為す術を持たなかった。
恐怖であり、苦痛であり、自分の因果が、悲しかった。

そんな痛く苦しく悲しい夢であったが、それでも優しいお父さんと例え夢のなかでも会えたことはわたしの心をすこし慰んだ。
幻であっても、嬉しかった。


そういえば今日、町田康師匠の「生の肯定」


生の肯定
町田 康
毎日新聞出版
2017-12-20



という本を読んでて、ものすごく印象的な感動する文章があったので、
それを載せようかなと想う。
と想ってその箇所を探したんだが、どうしても見つからない。
仕方ないので、見つかったら今度載せようと想う。
どうゆうものだったかとゆうと、確か
「存在は、生命とは初めて、死によって統合される、ひとつになることができるのである」みたいな感じのものだった。



だから我々は、ひとつとなることを最も願い、怖れているのではないか。



佐川一政さんは、インタビューに涙目で、「死だけが希望」であると答えた。
例え人肉を喰いたいがために、残虐な殺人を行なってしまった人であっても、
そこに人間の本当の美しさを俺が観たのは、確かである。



人というものは怖れすぎても、願いすぎても、幻覚を観、幻聴を聴くことがある。
今も現に、俺はクロゴキブリちゃんを怖れる余り、廊下のほうから時折り聞えるカサッ、カサカサッっという幻聴を聴いているようだ。
何故、幻聴と想うか。それはこの三日間、彼は姿を現さんかったし、何の音も聞えてくることがなかったのに、
今日、音だけは聴こえてきて、姿が一向に見えないからである。

逆に、或る一人の人間を愛する余りに、すべての人間が、その愛する人間であるという幻覚を見、
すべての人間が愛する人間に見えてしまうというのも、あるだろう。
それ以上、行くと、すべての動物、生物、植物までもが、愛する人間に見えてくる。
そこをも超えると、すべてのモノ、自然物、とにかく存在するありとあらゆるものを愛する人間として、
人はそこに幻を観るようになる。

愛する者を見たいという一心で、愛する者の側におりたいという切実な願い故に。
その人間は、愛する者に囲まれて暮らすことができるだろう。

いや自分自身すら、愛する者と、もうごっちゃになって、ある者は閉鎖病棟に閉じ込められてしまうだろうが、
ある者は覚者として、全員が、すべてが、「わたしの最も愛する者です」と言うであろう。

だから、死を追い求め続ける者、死を恐れ続ける者、彼が存在するすべてを”死”として感じるようになるのも自然なことである。

それがゆえ、生きることが、真に切実なものとなるであらう。



















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