ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

映画レビュー

カルト映画『アングスト/不安』 我々人類が決して抗えない”暴力と殺害”の記憶











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19日に鑑賞して大変に感動した『Angsut(邦題:アングスト/不安)』という1983年に公開された映画です。
原題の『Angst』は、ドイツ語で「〔漠然とした〕不安、懸念、心配、苦悩、恐れ」の意味があります。

15歳(1997年)から20歳まで酒鬼薔薇聖斗に恋をし続け、「今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボク」と自分を表現した彼と自分を同一の存在に感じ続けて生きて来て、2012年に屠殺映像を観てから人間と家畜の違いが全くわからなくなってしまった(人間が家畜に見えて家畜が人間に見えるようになった)わたしはこの映画を多くの人々とは全然違う目線で観ることができたと感じています。
人間がなぜ人間に殺されるのか。その問いの答えを、わたしは最早知ってしまった。
それはなんとなくではなく、確信に満ちるものなのです。
わたしは自分自身にもこの世界にも絶望することはありませんが、多くの人々たちに対して、或る意味に於いて絶望している。
それは死ぬまでに、気付けるのか、気付けずに死ぬのか。
その後者にある一種の絶望をしているのです。
人間は、だれもが一刻も早く、これに気付くべきだと日々わたしは独りでもがき苦しんでいる。
わたしがもし”彼”なら、わたしはこの苦痛から、解放されるだろうか。
わたしは、人々を根源的に、真に救う為に、人々を地獄に突き落とさねばならない。
わたしが、今まさに落ち続けている、この地獄へ。
この底無しの無限に続く不安の奈落(無間地獄)へ。

人は”人”を殺してはならないという。
でも動物たちが、人の舌を満足させ悦ばせる為だけに自分の血を抜かれ、そして心臓がまだ動いている状態で(放血処理のあとに)解体されて殺され、その死体を食べられることを人は知らないか(関心を持たないか)、もしくはそれを知ったあとも自分に対してその行為を許し続ける。
何故だろうか?

わたしは以前、こんな作品を書いた。

『快楽殺人者の言い分』



それから、もっと前にはこんな記事も書いた。



また、以下の記事も書いた。














もし良ければ、これからボクと一緒に、
最高に不安で恐怖と堪え難き苦悩から逃れられない旅に出掛けないか。


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「アングスト」のAmazonレビュー
「アングスト」のAmazonレビュー2

『一般的に、惨酷な異常心理や恐怖を扱ったホラー映画は、低俗で悪趣味な娯楽と見做されがちですが、その反面、人間の食文化は美化される傾向にあります。
スーパーの肉が、どのような過程を経て、パック詰めされて、人々の胃袋を満足させているのか、ということを深く考えた場合、ホラー映画と日常の食事風景は大差ないように思えますが、牛や豚の屠殺やオスのヒヨコがシュレッダーで粉砕されるシーンが日常からカットされている為、誰もが自身の偽善的な態度に対して、特に違和感を抱けないのではないでしょうか。

しかし、ホラー映画に登場する殺人鬼が、意味もなく人間を屠ることによって、人間(観客)が家畜の域に貶められます。
それは、一般的に不快な描写ですが、この不条理な殺戮を、人間の偽善的な態度に対する懲罰とした場合、劇中の殺人鬼は「神」と同一視され、ある種のカタルシスが生じます。
多くの人々が日常で肉を戴いていますが、その口先で、「惨酷なシーンは不快だ」と表明することも、劇中の殺人鬼と同様の異常心理に思えてきます。

しかも、この矛盾した態度が、人間社会全般に備わった一般的な食文化の本質であることに、驚かされます。
屠畜を含めた食肉加工業者の営みを、内心では毛嫌いしつつ、その業者が切り取った肉片を喜んで食べていることに対し、それを薄々異常な心理だと気づきながらも、正常者(多数派)として振舞うことが人間社会(食文化)のマナーであるなら、屠畜を含めた惨酷なシーンは検閲でカットする必要に迫られますが、芸術性の高いホラーほど、この人間の回避不可能に思える「矛盾」を浮き彫りにしてくれるのではないでしょうか。』






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showtime様、本当に素晴らしいレビューで感動致しました。
わたしが主張したいことをまさに的確に、また感情を廃した冷静な視点で述べてくださっています。
ホラー系の映画などはわたしはほぼ観ることはありませんが、フィクション・ノンフィクションに関わらず、人間がこのように畜生の如くに無残に殺されてしまうことの原因を根源的に考察してゆくならば多数の人間が未だに行い続けている残虐極まりない(普遍的)行為に目を向けないでいることはできません。

「カタルシス」と表現してくださいましたが、わたしが表現しようとしていることも実にそれなのです。
人々が本当にカタルシスを感じられるものとは、実は限られていて、残酷極まりない現実を目の当たりにした瞬間、湧き上がる深い悲しみや苦痛の感覚が浄化され、恍惚とした光(赦されるなにか)に包まれるそのものであることを確信しています。
多くの表現者、芸術家が最終的に表現しようとしているもの。
それは、滅多にこの宇宙で起こることはない。

感性の鋭い人はこの主人公が欲望・快楽ゆえに人間を屠っているわけではないということを感じるでしょう。
人間が家畜だった場合、人間を屠る屠殺人は利己的な理由によって殺すのだと映るかもしれませんが、しかし実はもっと深い理由(因縁)があるだろうと感じています。
”人類による肉食文化(動物を大量に殺戮せしめて生産し、その虐殺死体を自分の血肉とし続ける行為)”を、”必要悪”であるのだと表現した大変に愛の深い存在がいます。
人は悪(生命に対する堪えられない地獄の苦痛を強要する行為)を行った場合、その悪は自分の元へと必ず帰って来るのです。
殺した者が殺される(報われる)には、殺した者を殺す者が必要となって来ます。
肉(死体)にして食べた者は肉(死体)にされる為に肉(死体)にする者が必要になります。

そうです。この世界は実は巨大な豚小屋、屠殺場であり、わたしたち人間もまた家畜として屠られる為に、その”必要悪”を延々と繰り返し行い続け、この地上(地の獄)に縛られ(閉じ籠められ)続け、永久にその潜在意識に拭い去ることは到底出来得ない深く暗い闇の底に在る不安と恐れをみずから生産し続けて生きているのです。

それを何処かで感じ取っている人は、この映画を真に賞賛するでしょう。






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Come with me.























映画『SHAME -シェイム-』 兄と妹が求め合う完全なる愛




『エイリアン:コヴェナント』であまりに美しいアンドロイドを演じたマイケル・ファスベンダーが観たくて、セックス依存症の兄と恋愛依存症とリストカット依存のある妹の話ということだけ知って、良さそうな映画だと感じたのでこの映画を観た。
観るまでは、わたしはまるで当事者ではないような気持ちでこの映画を観始めた。
しかし観ていくなかで、わたしは自分と兄の関係を観ていることがわかった。
この映画はあからさまな兄と妹の共依存(相互依存)の関係が描かれているが、わたしと兄の場合、互いにそれをずっと隠し合い続けてきた。
兄とわたしは、ブランドンとシシーのように言いたいことをぶつけ合えるような瞬間がこれまでなかったように感じる。
わたしは兄に甘えられるときはなかった。
兄はいつも本当に些細なことでわたしを罵り、心から軽蔑し、酷いときは顔に痣ができたり柱に頭を思い切りぶつける、思い切り蹴るなどの暴力を奮った。
わたしは兄を殺人犯にしてしまうことを恐れ、父が死んで兄と二人で暮らしてきた家を出た。
兄は、わたしの知る限りはセックス依存症ではない。
しかしこの映画の主人公のブライドンのように、”人(女性)を好きになれない”人間であり、例え交際した女性と関係を持っても、一緒に暮らしたい、結婚したいなどの気持ちが芽生えることがないと話していたことを姉から聴いた。
一方、わたしは22歳のときに最愛の父を亡くしてから初めて男性と交際し始め関係を持ち、セックス依存症ではないが性に対してあまりに奔放に(サイトで出会った男性とその場限りの関係をし続けて)生きてきたし、39歳の今でも好きになった人に激しく依存する境界性パーソナリティ障害の症状が抜けることがない。
ブライドンもシシーも、確実に幼い時分の親からの愛情の飢えが関係しているだろう。
わたしは兄が6歳のときに生まれてわたしが2歳のときに母が乳がんを発覚し、その2年後に母は他界した。
兄はまだ母からの愛情を一途に欲していた時期にわたしに母を横取りされ、潜在意識でわたしに対する嫉妬が常にあったことだろう。
わたしはわたしでまだ乳離さえできていたかわからない頃に母が入院して母と引き離され、それは寂しい想いをしたことだろう。
母に対する愛情飢餓を、兄とわたしは今度は父に対して全力で満たすために求めて生きてきたはずだ。
しかし、父はどうしても息子であり上の子でも在るわたしの兄に対しては厳しく、また時には過保護であり、わたしは末の娘なので兄に比べて甘やかされて育てられてきたのだと想う。
兄もわたしも、父に対して言いたいことを言えるような関係ではなかった。
それほど父は威厳があり、また不器用な人で、容易に刃向かえない(父を苦しめることができない)ほどにわたしも兄も父を深く愛していた。
でも父が本当に心配していたのはわたしだった。
それは、わたしのほうが遥かに激しく父に依存して、父もまたわたしに依存していたからだと想う。
だがその共依存の関係が父とだけではなく、兄ともあるのを知ったのは父が他界した翌年の頃だった。
兄は鬱で働く気力のないわたしにいつも暴力を奮った。それに堪えられずに一度目に家を出たとき、帰ってきたら兄は長年安定して務めることができていた正社員の仕事を辞めていた。
姉が「おまえが出て行ったから○○(兄の名)は仕事辞めたんやで。」と責めるように言った。
ほとんどの兄と妹がそうではないのだろうが、わたしが10歳の頃、16歳の兄はわたしに性的関心があり、兄がわたしに性的欲求を求めて来ることが恐ろしくてトイレに父が帰ってくる時間まで閉じ籠もっていた時期があった。
しかしわたしに対する兄の性的欲求は奥深くへと閉じ籠められたかのように、わたしが成長するにつれて表には出ないようになった。
わたし自身、父にも兄にも顕在意識で性的欲求を覚えたことはない。
だがその想いは複雑であり、父や兄と性的な関係を持つ夢は幾度と見るし、愛する理想の男性を想い浮かべて性的な感情に満たされているときに、よく父と兄の存在は夢想する男性と入れ替わるように出てきてはその都度わたしを苦しめる。
もしかしたら兄もそんな複雑な苦しみを抱えてきたのだろうかと想う。
わたしは、セックスで満たされたと感じた経験がない。
自分の書く小説は自然と近親相姦的な話ばかりになってきた。
現実で、愛する男性によって満たされることを諦めているというよりも、わたしはそれを求めていないと感じる。
わたしが求めているのは、常に母と父と兄との愛であり、それは決して性的(肉体的)な次元のものではない。
その愛を、性的な次元で満たすことは不可能なのである。
そのことを、わたしも兄もわかっているし、この映画の兄と妹であるブライドンとシシーもわかっているからこそ、苦しみ続けている。
言うなれば、本当に愛する存在から愛され続けるという欲求を満たすとは、”肉体的”なものなのである。
愛する者を独占したいというこの欲望こそ、”肉欲”なのである。
それをどうしても得られないとき、人は相手に対する愛憎の念を潜在的に抱えずにはいられない。
本当に愛する存在(父と母と兄・妹)に対する潜在意識の愛憎の本質とは、”自分がダメだから愛されないんだと感じる自己憎悪・自責”の意識である。
だから愛されないダメな自分に対する自罰行為として、最も手っ取り早く、自分を最も苦しめて傷つけ、破壊せしめることのできる行為、自傷行為(セックスやリストカットやアルコール)に依存してしまうのである。
この依存症を克服するのは、あまりに困難である。
しかし克服するために、必要なものがある。
それは自分の”外”には、決して何も求めないということである。
わたしはずっとずっと、”完全なる愛”をわたしの外に求め続けて生きてきた。
何故、わたしは愛されないのか。何故、最も求める愛を、得られないのか。
そう叫び続けてきた。
しかし何故、それが在ると信じてきたのだろう。
わたしのなかにないならば、わたしの外にもない。
みずからの”内”に存在している愛に目覚めるまで、何故そのすべては虚構であるとわからなかったのか。
わたしの母(父・兄)なのだからわたしは完全なる愛によって愛されるべきだという根底にある観念が、わたしをずっと苦しみの底に突き落としてきた。
昨日か一昨日だったか、こんな夢を見た。
わたしと兄の今までの悲劇のすべては、並行世界(パラレルワールド)では起きていなくて、わたしは今でも兄と仲良く暮らしているのだと兄に教えるという、とても悲しい夢だった。
わたしが兄との仲を、取り戻すことは死ぬまでできないとわかっている。
家を出てからは、わたしは兄に何も求めることはなくなった。
その代わり、兄のすべてを赦してきた。
そして自分を赦してほしいと祈り続けて生きてきた。
その想いをずっと持ち続けるならば、いつの日か、きっと死後だと想うが、わたしと兄は、本当に心から赦し合える日が来るかもしれない。






追記:わたしと父、わたしと兄は、過去生では互いに深いカルマを負い合うほどに苦しめ合った恋人の関係にあったのだろうと感じている。
母の愛情の飢餓や、性質の遺伝などでここまで依存し合わなくてはならないのだとは想えない。
父は母の死後、あらゆるものを犠牲にしてわたしと兄を育ててくれた。
わたしも兄も父のその愛をわかっていた。
しかしそれでも、わたしと兄は父の愛に激しく不満を抱いて苦しんでいた。
この映画では親が毒親であって、それが原因であるかのように想わせる台詞があるが、近親相姦愛やセックス依存性や恋愛依存症はそれほど単純な原因によるものではないだろう。



劇中に出てくる兄ブランドンのPCのHD内にあったファイル用語”Creampi”とはなんだろうと検索してみると”膣内射精”の隠語だった。
この映画の兄妹は私と同じキリスト教徒の親のもとに生まれ、聖書の教えのもとに育てられたのかもしれない。
聖書は絶対的に避妊や、姦淫(配偶者以外との性行為、配偶者以外の人間を性的な目で見ること、即ちポルノビデオの鑑賞などすべて)を禁じている。
それは神に背く行為である為、セックス依存や性の奔放さは最も罪深い自罰(自傷)行為の一つとなるのである。
膣内射精は夫婦の契りと神から子を授かる為の重要な行為である。
その神聖なる行為を夫婦以外が行ったポルノビデオを鑑賞するという行為がどれほど罪深くて神(自分自身)を悲しませる背徳行為であるかをブランドンはわかっており、その行為によってどこまでも自分を破壊してゆけることを願っていたのだろう。




追記:16日
この映画を見終わったあと、晴れやかになる気持ちはなく寧ろ苦しいのだが、毎日この映画を観たくなるのは確かなカタルシスを生んでいる作品だからだろう。
自分が無意識に避け続けてきた兄との問題について深く考えさせてくれる。
わたしは父には甘えられる時があったが、兄には甘えられなかった。
でもそれは兄の愛を感じられなかったからではなく、兄がそれを拒んでいるように感じていたからだと想う。
普段は、兄はいつもわたしにアホなことを言ってお腹が苦しくなるほど笑わせてくれたりするような人だった。
でもほんのちょっとしたことで兄はわたしにキレて、恐ろしい形相でわたしという人間に対する蔑みと憎しみをぶつけてきた。
父も怒ると怖かったが、兄は父の何倍も恐ろしかった。
父が死んでから、わたしは遊び目的ではなく、真剣に支え合える人を求めて出会い系サイトで知り合った男性とよく会うようになった。
ある時、当時働いていなかったわたしが家に帰ってきて、何処へ行ってたのかと兄に訊ねられ、わたしが素直にネットで知り合った男性にハンバーガーを奢ってもらったことを伝えると、兄はあからさまにわたしを見下す顔で笑いながら「その見返りにヤラせたんか。」とわたしに言った。
わたしはそう言われたとき、あまりにショックで確か返事ができなかった気がする。
”妹に対する愛憎や嫉妬”という言葉ではとても言い表すことのできない複雑な感情が兄のなかにはあったのだと想う。
兄は自分の顔が、妹であるわたしの顔とよく似ていると言っていた。
それは外面よりも、内面がよく似ていることをわたしも兄もわかり合っているのだと感じる。
互いに、苦しくてならない人生だが、兄はそれでも生きており、わたしも生き抜くことを願っていることが、今の唯一の救いであると感じる。




追記18日:
ブランドンとマリアンがレストランでボーイからラムの焼き加減に”ピンク色”を勧められるシーンについて、ずっと考えていた。
黒人であるマリアンの肌の色は焼かれたラム(仔羊)のその表面の色を表しており、黒人の肌の色によって目立つピンク色の女性器の色は仔羊の肉の生焼けの色を表していると想えてならない。
これは卑猥な意味合いではなく、聖書的な意味(人間としての罪の意味)合いがあるように感じる。
かつてわたしは「悲しみの男カイン」という小説でカインという男が性欲のうちに貪る女と食欲のうちに貪る肉を同じものとして考えることを表現した。
そしてその罪が同等のものであることをこの主人公はわかっていた。
仔羊が望んでいるのは、焼かれて食べられ、虚しく生命を終えることではない。
同様に、この映画のマリアンも、虚しい関係をブランドンと持ち、自分が仔羊のように貪られて終わることを望んではいない。
スティーヴ・マックイーン監督がそれを意図していたかはわからないが、表現とは自分の意図していない部分をも示すものであり、それ故に色んなことを深く考えさせられる。




















映画「スタンド・バイ・ミー」 死体を探す旅を、君と何も求めずにしよう。





この『スタンド・バイ・ミー』という名作を、僕は多分18年~20年振りくらいに観た。(しかも字幕で観たのは多分初めてだ。)
当時、ゴールデン洋画劇場で何度とこの映画は放映され、その都度、僕は亡き父と一緒に観た。
父もこの映画が好きだったのだろう。
でも父は2003年末にこの世を去り、初めて独りで僕はこの映画を観た。
そしてみんなのレビューを読みながら色んなことを想った。
僕は今39歳、友人や恋人や家族(夫や子供)もいない。
そしてこの映画のなかのノスタルジックに浸ることのできる友情も、僕は想いだすことができなかった。
僕が想いだせる関係のほとんどが、僕が依存する関係であって、長続きさせることはできない関係ばかりだ。
いつも、相手に多くを求めすぎて、相手を悲しませ、自分か相手、どちらかがそれに堪えられず去ってゆく関係だった。
そんな自分も、この映画に郷愁を感じて胸の奥を震わせるほど感動しているのだった。
「これは僕の求めているものだ。」
僕は依存を悪く想うどころか愛しく感じているのだが、その一方で、僕はこういう関係も望んでいるのだと、この映画は教えてくれた。
自分の本当の悲しみを打ち明けることができるけれど、でも相手に、何も求めてはいない関係。
何も求めてはいないのに、互いの悲しみを共感し、共に悲しみ、泣くことのできる関係。
僕の上の兄は随分変わった人で、独りでずっと中学生と高校生の息子を育て上げて、こんなことを言った。
息子が死にたい(自殺したい。)と言った日には、自分は止めないのだと。
そして自分の息子だからといって、特別に大切だという感覚はないと。
そんな彼は思春期の息子たちと真剣に向き合って、怒るときは本気で殴り自分の手を骨折させたりしている。
兄は息子たちに何も求めていない。
だから息子が死にたいと言ったなら、自分は「死にたいなら死ね。」と言う。息子の自殺を止めない。
共感することは難しいが、僕はそんな兄と息子たちの関係を良い関係だと感じた。
親は多くを子に求めてしまう。子もまた、理想の愛で愛されないことに苦しみつづける。
「そんなに死にたいなら、死ねばいい。」
この映画の主人公ゴーディーが、なんだかちょっと言いそうな台詞でもある。
でもそのとき、彼はきっと真剣な目で言うだろう。
いろんな形の友情があり、愛がある。
そんなゴーディーが、もう二度と、あの頃の友情を持つことはないと言う。
だからこの映画は、深く感動するのだろう。
僕は本当に多くを、喪ってきた。依存し、相手に求める愛の為に。
勿論、喪ってはいない大切なものもある。
だが…大切な多くを、僕は確かに、喪い、これからも喪いつづけるだろう。
何も求めない友情と、すべて求める愛が、どれほど大切であるかを天秤にかけることなく感じつづけながら。


















映画「パラノイドパーク」 彼はもう、イノセンスを必要とはしない









最近、ガス・ヴァン・サント監督の作品が好きで続けて観ている。
何年か前に最初に観た作品は「エレファント」だった。
良い作品だと感じた記憶はあるのだが、何故かそれ以外の記憶がない。
「ラストデイズ」も自分の求めているものとは少し違った。
この「パラノイドパーク」に、僕は特に何も求めておらず、世間の評価もあらすじも予告も何も見ないで観た。
それがきっと良かったのだろう。
優れたドキュメンタリーを観た後に、それを良いや悪いで判断することもできなければ、判断する意味もないと感じるような感覚のなかで、僕の胸は今とてつもなく苦しんでいる。
観た昨夜は、そんな苦しみも感じなかったが、今朝、毛布に包まれながらみんなのレビューを読んでから、僕の胸はどんどん押し潰されてゆくように悲鳴を上げ出した。
現実にも起こり得る話を、僕らは映画を通して観ている。
現実はこれ以上に残酷でグロテスクであるだろう。
現代の先進国の16歳と言えば、観たいときに、ネットであらゆるグロ動画も観れる。
そして映像を通して、それを体験する。
何かを満たす為に。何かを補う為に。何かを、紛らわす為に。みずからの、罪の意識の為に。
観ることに罪悪感を感じながらも、その罪について真剣に考えたりはしない。
そんな16歳の少年の一人が、ある瞬間、一人の大人としての責任を負う。
それは彼が自分の罪の重さを初めて認識する瞬間だろう。
人はそれを知った瞬間、最早こどもではいられない。
彼が喪ったものは、どれほど大きいのか。
親に愛されない悲しみのなかで生きてきた少年が人を誤って殺してしまう。
彼は、神を信仰していない為、神に向かって何故なのかと問うこと、救いを求めることもできない。
ただ漠然とした世界で、みずからの罪を独りで抱え込んで生きてゆかなくてはならない。
苦しみを言葉にすることで吐き出すと良い。とガールフレンドは彼に薦めた。
彼は彼女への手紙に書いた。
でもそれを読ませることに彼は堪えられなかった。
それは罪をシェア(共有)することであって、罪を追体験させることになる。
そしてその告白は、懺悔であり、罪の赦しを請う行為でもある。
彼は、まだ16歳だったけれど、それをするのは早過ぎるときっとわかっただろう。
それにそんなことをしても、罪自体は、軽くなったりしない。
たった16歳の少年が、自分の死ぬまで続く堪え難い罪のなかに生きることを、書いた告白を燃やしながら決意するシーンで、この映画は静かに終る。
いや、監督はそんな姿をわたしたちに観せたりしない。
観ているわたしたちは、想像するのだった。
彼はあのあと、どんな風に生きてゆくのだろう…?
生きてゆけるのだろうか…。
強く生きてゆければ…。

監督は、こう言っているように聴こえる。
「あなた自身だ。あなたは、どう生きてゆくのか。」
僕は、ハッとする。
そうだ、この世界で、一体だれが、イノセンス(無罪)だというのか…。
罪に気づくのが遅いか早いかの違いがあるだけで、
僕らは全員、同じ罪にあるじゃないか…。


















映画『マイ・プライベート・アイダホ』 ママを大声で呼び求めつづける彼の寂しげな声が、この世界に救いをもたらす。

マイ・プライベート・アイダホ(字幕版)
マイ・プライベート・アイダホ(字幕版)





ぼくはこの映画に出会えて本当に嬉しい。
彼(マイク)に会いたくて、この映画を観ないで眠る日は寂しくてもう何度も繰り返して観てる。
ぼくはリヴァー・フェニックスという俳優の存在をずっと知りたいと想ってたのだけれど、今まで彼の出演作は「スタンド・バイ・ミー」しか観たことがなかった。
ぼくは今39歳で、40歳を手前にしてこの映画を観て、心から感動している。
心から、ぼくはこの映画を愛している。
全体的には、この映画はパーフェクトではないと想う。
ぼくにとっては余計なシーンが長くあり、その時間をすべてマイクの重要なシーンの為に使ってほしかった。
でもそうであってもこの映画は天才だけが創り出せる傑作だ。
人はこの映画を何度と観ることで始まりのシーンが終わりのシーンに繋がっていることの素晴らしさ、或る意味絶望的なテーマがあるのに「なんとかなる(Don't worry)」と言ってるような心が安心して浮き立つようなEddy ArnoldのCattle Callという音楽でこの映画が始まるところで鳥肌が立ち、涙ぐみ、マイクのあまりのけなげで一途なママへの求める愛の深さに胸が震えて感動がやまないだろう。
だが映画を見終わってなんとなしにEddy ArnoldのCattle Callの歌詞を読んで、ガス・ヴァン・サント監督が意図しているテーマがどれほど深いかと考えて唸るかも知れない。
この歌詞でカウボーイは秋に自分が駆り集めて売られゆく牛の寂しげな鳴き声を歌う。
”Cattle Call(牛のコール)”の”Call”はだれかを大声で呼んだり、指令する、いざなう、呼び寄せる、などの意味がある。
元々、カウボーイ(cowboy)という言葉は畜産業に従事する牧場労働者という意味以前、”牛泥棒”の意味があったと言われる。
マイクの母親がカウボーイに恋をしてしまう話や、その現場で流れていたのはジョン・ウエイン演ずる「リオ・ブラボー」というカウボーイの西部劇であることからも、何か重要な意味が隠されているようだ。
マイクはみずからの身を売ってでしか生活できない。そして夢もなくて将来に遣りたいことも何もない。
でもそんなマイクがひとつだけ物凄く、魂の底から叫ぶように求める存在がいる。
マイクはずっと母親のことを必死に呼んでいた。
男たちや女たちは、自分の肉欲を満たすためにそんなマイクを買う。
でも性的な快楽のなかでマイクのなかに想い浮かぶのは優しい母親が眠るマイクを胸に抱いて頭を撫でながら「Don't worry(心配しないで)」「Everything gonna be alright(すべて上手く行く)」と囁いているシーンや鮭たちが産卵の為に光り輝く激流の川を遡上しているシーンや、絶頂に達して射精する瞬間には自分と家族が住んでいた家(の象徴?)が空から落ちてきて崩壊するシーンが浮かぶ。
鮭たちが出産する場所は自分たちが最期は身をボロボロにして犠牲となって死ぬ為の場所でもある。
話を戻すとマイクは始まりのシーンで野生のうさぎに向かって遠吠えするコヨーテの真似をしたあと「逃げたって無駄だよ!ぼくと同じさ。」と叫ぶ(呼び掛ける)。
うさぎは何を言われているかわかっていないと想うがマイクは自分が”いつか駆られる(狩られる,刈られる)身”なんだという観念があったのかもしれない。
マイクはたった10ドル貰う為に、「なんでもするから」とおっさんにねだる。
そしてその10ドルでマイクは何を買うのか?アルコールかドラッグか食料か宿か。
それともママに会いに行く旅をする為に貯金しているのか。
なんであっても、それは、彼にとって絶対に必要なものである。
彼はいつもストレスが限界値にギリギリのところに在って、ナルコレプシー(発作的睡眠)を何度も起こしてどこでも眠りに落ちてしまう。
リッチな60代くらいの女性に買われ、彼女が自分を誘惑するとき、彼のなかに母親の姿が浮かぶ。
彼も激しく彼女に欲情するが、その瞬間、彼は気絶して床に崩れ落ちる。
例えば人は最も自分の求めるものが最も自分を苦しめる罪悪感と繋がっていて、得たいのにどうしても得られない(得てはならない)という観念のもとのジレンマとコンプレックスによる苦しみに自身が堪えられなくなったとき、気絶するか健忘症になるか、この世の真理を覚るか、自我を喪失するか、発狂するか、などのみずからの逃避的作用が起きないならばとても生きて行けないだろう。
マイクの脳は賢明にもそれを自動で行ってくれているかのようだ。
母親を一心に彼は請い求めているけれど、彼のところに母親が戻ってきたとしても、”母親を喪失した悲しみ”というものに、変化は多分ないんじゃないかとぼくは想う。
マイクの場合、母とは死別ではなく生き別れであり、何故、母親が幼い自分を棄てて出て行ったのか。という悲しみはそう簡単に消え去りはしないだろう。
マイクはずっと潜在意識で「自分が駄目だから母親は出て行ったんだ。」と自分自身を責め続けて、自分を最も憎しみ続けて来たに違いない。
その自責の想いが、一体どうすれば消えてなくなるのか。彼自身もきっとわからない。
彼は母親とまた一緒に暮らせたとしても、母親のちょっとした行動ひとつで、何かにつけて、とても些細なことで、いちいち「ぼくが駄目だからなんだ…。」と自分を憎んで、どうすることもできない悲しみに打ちのめされることだろう。
だからこそ、マイクは自分の理想とするヴィジョンの世界で常に、母親から「すべてうまくゆくから心配しないで。」と優しく言って欲しいのだろう。
そう言って貰わなくては、もう歩いてゆくこともできないほどのつらい道を彼はずっと独りで歩いている。
ぼくも何度も、亡き最愛の父がぼくの名を呼ぶ声が聴こえる。
毎日がぼくもつらくて堪らないけれども、どんなに苦しくとも、最後まで堪えて生き抜けば、きっとまた亡き父や母に会える。という気持ちになる。
ぼくは4歳で母を亡くして母の記憶がないから、マイクの寂しさやママを請い求む切実さがきっと近いと想う。
ぼくはマイクのことをもっと知りたいし、彼を演じたリヴァー・フェニックスのこともすごく知りたい。
生きてることがずっとずっと苦しかっただろうリヴァーだからこそ、マイクの役を完全に演じきることができただろう。
ぼくはマイクが安易に救われて楽に生きて行ける人生を歩むことを望まない。
彼の人生にはきっとこれからさらなる苦しみと悲しみがじっと静かに待ち受けているだろう。
でもマイクは、自分にしか歩めない宇宙にひとつしか存在していない殴られた酷い顔に見える道をしっかりと独りで歩んで行けることを望んでいる。
だから同じ道に何度も彼は戻って来る。
そしてママを求める愛を喪うことだけは決してなくて、マイクは他になんにも必要とはしていない。
「逃げても無駄」なのは、この寂しくてつらくて悲しくてたまらない道を歩いてゆくことを決めたのはほかのだれでもない彼自身だからなのだろう。
そんなこの映画は間違いなくこの闇の世界に消えることのないあたたかい光をもたらしつづけるのだと想って、ぼくの胸はつらくともあたたまるのだった。






















『JUNK FILMS ジャンクフィルム 釣崎清隆残酷短編集』 僕たち、日本人は、本物のJUNK。最も、死体から遠い国に住んでいる。








なかなか、観るのが怖くて、観れなかったが、やっと観れた。
観終わって、悲しくて涙が流れた。
何より、心が苦しかったのは、最後のデヴィッドのところだった。
何なのだろうか…。日本という国の虚しさを、わたしは見せつけられた。
日本が先進国でありながら、自殺大国であることの理由が、この冷ややかな虚しさのなかにあるのではないか。
それに比べて、他の国は、何故あたたかみがあるのか?
動物的な慈悲のようなものが、他の国にはあるように感じられた。
日本は無機質的で、無感情的で、作り物のよう(人工的)である。
だが、ただ釣崎清隆が無言で撮った最後の青木ヶ原樹海の髑髏は、冷たさや虚しさを感じることはなかった。
髑髏には青々とした苔が生えており、大自然の慈愛に包まれながら、完成されたひとつの現象として、感動的なものであった。短いシーンだけでとても残念である。

最も痛々しさを感じたのが、顔がぐちゃぐちゃの血と肉の塊となった死体の映像よりも遥かに日本の若者たちによる友人デヴィッドの納骨のシーンであった。
釣崎清隆の、あたたかい眼差しのフィルターを通しても、それを覆うことはできないほどに、どうしようもない空虚さに満ちており、胸が今でも苦しい。
これは『デスファイル完全版』を軽く超えるほどの死者に対する尊厳の欠如である。
損壊の最も激しいどの死体よりも遥かに、”残酷”なものである。
わたしはそう感じた。
でも唯一の救いは、この映像を釣崎清隆が撮ったことである。
それ以外に、何処にも救いはない。
そこにある闇は、底がない。
日本という国は、この世界で最も救いが必要な国なのではないか。
何故、ここまで寒々しいのか。
ただ丁寧に、慎重に扱うなら、それが死者に対する尊厳であるのだと、想い違いをしているのではないか?
日本というこの国に存在しているこの恐ろしい虚構が、一体、何処から来ているのか。

わたしはこの世界から拷問的苦痛のすべてを無くする訴えを、みずからのなかで強めたくて、死体をじっくりと、見つめることを決意し、釣崎清隆の存在を最近知った。
今、そのわたしを襲っているのは、”日本”という国が、どれほど”救いがたい”凍りついた国であるかということを知らされた吐き気を催すほどの悲しみである。
でも、あの髑髏が、この「ジャンクフィルム」のジャケットの青木ヶ原樹海で釣崎清隆が撮った此の世の何よりも幸せそうに、優しい寝顔で眠る髑髏が、わたしに言うのである。
「僕も日本人だった。」
そうだね…。君はわたしと同じ日本人だったんだ。
でも今は、今は、そんな縛りに縛られてはいない。
世界で一番冷めたこの国から、君は解放されたんだ。多分…。
きっと、そうだ。それとも、骨と魂は、全く、もはや別々の存在だからなのか。
嗚呼…僕は本当にこれまでずっと、髑髏恐怖症だったんだ、それなのに。
この映像の、綺麗な色んな個性を持つ髑髏たちに、なんて胸がときめいたことだろう!
これは釣崎清隆の真剣に死を見つめる愛の深さが、僕に反映したのだと、信じている。
彼の穢れなき愛と悲しみが、全く届かないほどに、この国の闇は、深いのである。
























プロフィール 1981生 ゆざえ

ユザエ

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