ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

本・漫画・雑誌レビュー

『夜と霧』 人間を真に救済するのは、人間を最高足らしめる最も苦しい受難








ここで述べられている最も重要なものとは、どのようなおぞましい悪夢よりも悪(苦しみ)の存在するなか(現実)に置かれたとき、人を真に救済するのは何であったかという人間がいつしか必ず直面するであろう何より深刻な問題である。
この世界には、いつから始まったのだろうか、その存在が堪えられないと感じるほどの悪(苦しみ)が。
人が悪を行うも善を行うも、その善と悪を享受するも拒むも、その決断する自由が、本当に平等にあるのならば。
そして、自由であるからこそ、そこに揺るがない"罪"として存在し得るのか。
人間が、本当に自由であると信じるとき、それは自分の身に降り掛かるすべての苦痛でさえ、みずからの自由の決断によって起こるべくして起こっていることを信ずるということである。
わたしはこのフランクルが何度と溢れる悲しみを抑えながら綴り続けたであろう『夜と霧』を読みながら感動で幾度も涙が流れたが、一つの深い不満を感じているのは、人間の"罪"の意識について、それが重要なものとして言及されていなかったと感じたからである。
罪の意識とは、顕在意識と潜在意識両方に存在できるが、その罪なる行為から目を背けている以上、例え人間が苦しみの底にあり続けようとも自分が赦される日が来ることを信じる(求める)ことはできないだろう。
わたしはこの本を人類が客観的視点、また過去に起きた悲劇として読んではならないと感じるのはまさに人類は未だ"本当"の強制収容所のなかに生きて死んでゆかねばならない存在(当事者)であることをわたしが知るからである。
もっとも、この強制収容所が現実に今もほとんどの国の場所に存在し続ける"断末魔の鳴り止まない地獄"の、その排泄物と血に汚れた場所とほとんどそっくりの在り方をしていることに気づいた読者は少なくないであろう。
"彼ら"もまた、自分にいつ"死"が訪れるかは知らない。
そして何故、自分たちがこのような"地獄"のなかで生きなくてはならないか、そして何故支配する者たちによって殺されねばならないか、その理由を知り得ない。
"彼ら"もまた、"人"として叫び続けているかも知れない。
「わたしたちは全くこれほどの酷い扱いを受けなくてはならないほどに悪いことをしたであろうか?」
"彼ら"は、助けてくれと、その悲痛なる"声"によって支配者に対して懇願する。
最期の最後まで、切実に"彼ら"は願う。
「わたしは殺されたくない。わたしは生きたいのだ。わたしは生きている。わたしにもあなたと同じ赤い血が流れている。あなたと何が違うのだろうか。」
ある日、囚人の為に、悦ばしいものが"食べ物"として与えられた。
囚人たちは夢中になって、その歓喜を挙げるほどに美味いものを口に運んだ。
そしてのちに、それが自分と同じ"仲間"だった者の"肉"であったことを知った。
それに気づいていながらも、それを味わって食べることをやめるすべを持たなかった。
わたしは想うのだが、これこそが、人間にとって、最も残酷な悲劇として、人間によって人間が人間で在り続けることを奪われる最も忌まわしく皮肉で悍ましい我々が経験し得る最悪な"罪"の意識として在ると言えるのではないか。
しかし実際には、どれほどの人がその罪の意識に最も苦しみ続けて生きて死んでゆけたであろうか。
わたしはこの本を読んで、最も気になったのは、本当に精神の倫理的、道徳的高みに達した極少数の人が、自分の身に起こる、時に堪えられないほどの苦痛と、みずからの"罪"の深層にある何より重く苦しい意識とを全く関係のないものとして切り離し続けて過ごしたのか、ということである。
つまり自分を"被害を受ける者"から、"加害を与えた者"としてみずからを省みて苦しむ瞬間が、どれほどあったのか。
これは原罪を信じる敬虔なクリスチャンやみずからの内にある善悪と常に向き合って来た仏教徒などばかりがここぞとばかりに与えられる特権的心理ではないはずである。
フランクルが、疲弊しきった心身を起こし、仲間たちに人間の救いを論ずる最後に、"犠牲"の価値(意味)について語り、それを聴き終えた者たちが涙して彼にぼろぼろの身体でよろめきながら歩み寄って感謝するシーンに、わたしは涙が流れた。
わたしもまた、人間にとって最も救いとなる意識は、みずから"犠牲"となることを望む精神にこそ在ると信じているからである。
しかしわたしの言う"犠牲"は、愛する者たちを最も救う為の犠牲ではなく、その意識には、自分が無関心を装い続けてきたすべての存在、そして何よりも自分がこれまで、愛することができなかったが為に、苦しめ、また殺して来た無数の存在たちに対する"罪"の意識がどうしても密接に関わっている必要があるのである。
聖書を繰り返し読み続けて来たであろうフランクル(彼の”神”なる超越した存在に対する想いは『人生の意味と神』という彼の神についての対話の本を今後読んで知りたいと想う。)が、堪えられない地獄の生活のなかで人間のなかに積み重なり続けて来たであろう目を背け続けて来た人々とみずからの罪と人間の救済の関わりについて考察してくれなかったことが真に残念でならない。
イエス・キリストの尊い犠牲は、人類の罪がなくては、必要がなかったのである。
人間にとって、最も重要な決断、みずからを、最も苦しい地獄から救い出す為の勇気ある決断、それは、自分が愛する者の為の犠牲となることではなく、寧ろ自分がその痛みと苦しみをわからなかったが為に、その地獄から救うことに関心も持たなかったが為に、地獄の底に突き落とし虚しく生命を終わらせ続けて来た存在たちの為に、人はどれほど苦しくともみずから犠牲となることを心から求め続け、それを成就させようとする決意、みずからの神との約束なのである。
だからイエス・キリストは「容易に愛することのできる者(自分を愛してくれる者)だけを愛したからといって何の報いがあるだろうか。」と言い、自分を苦しめて迫害した者の為に祈り続け、自分の地獄の苦しみによって人類の(堪えられないほどの)罪を贖うことを信仰し、"真の愛"こそが自らを救うことを"人"の手本として見せる為に拷問を受けて磔となって処刑されたのである。
終末に恐ろしい速度で向かっているだろう今、我々人類が、本当の滅びに至るまでに、この"自己犠牲"の決断をできるかが、一人ひとりに試されているのではないか。
そのとき、自分の護りたい存在だけを助けようとし、自分たちの苦痛ばかりに囚われ、自分の望む未来だけを希望するならば、到底、最早われわれは、間に合わないだろう。
そこには永遠に続くと感じる強制収容所と比べ物にならないほどの、未曾有の状態が待ち受けてるかも知れないのである。
このようなホロコーストが、ジェノサイドが、何故起こってしまったのか?を考え続けながら、大多数の人類が現に今関わり続けている無慈悲なホロコースト(大量虐殺)から目を逸らし続ける限り、悍ましく悲惨な歴史は繰り返されるだろう。
人はまさしく人でありながら支配する人間たちの利己的な意識の為に家畜となり、屠殺されるが如き"地獄の死"に向かって生かされ、そして実にほとんどの者が、その場所から生きて出られないのである。
しかし人間には、精神の自由があるはずではないか。
精神とは、潜在する深層にある意識である。
人は本当の苦しみの底に在るとき、自分が自分の生死を決める権限を持ってはいないのだと信じる必要があるだろうか。
人は自分が本当に殺されたくはないのに、殺されるときには自分の望みも虚しく殺されるのだということを信じる必要があるだろうか。
そしてその信仰によって、人は救われるだろうか。
人は真に救いを求めずにはいられぬほどに苦しみ続けた末に、自分は救われないことを信じて、自分の信仰によって虚しく救われないまま死ぬ必要があるだろうか。
わたしは、はっきりと言いたいが、人間の真の悲劇、真の不幸は、これ(堪えられないほどの地獄が持続し続ける苦しみ)を経験して死んだ者よりずっと、これを経験できないで死ぬことに在ると言いたい。
それは存在が永遠の無限の自由であることをわたしが信じる以外は、わたしがどうしてもこの世界に納得できないほどに、この世界も自分自身の人生も、堪え難い苦しみが絶えないからである。
フランクルの言った"光(喜び)と闇(苦痛)のコントラスト"は、真実を表している。
だからこそ、みずからどこまでも苦しもうとする者ほど、確かにどのような苦しみにも堪え忍ぶことのできる強さを与えられ、その者は、その力によって真の喜びを創造する未来をみずから約束し、みずからの放つ光によってみずからを救うことができ得るのである。
そしてみずからどこまでも苦しみを求むこととは、自分に堪えられるだけの苦しみを神が自分に与えることを真に信じる信仰であり、それによって初めて人は本当に恐れを手放し、我が人生のすべてに身を委ね、みずからの傷を癒やし、安心することができるだろう。
安易な希望と未来(みずからに都合の良い世界)を信じ、自分の罪も省みないで苦しみが取り除かれることを祈る道は自己を崩壊する道であるのに対し、ひたすら自分のすべての罪悪が正しく裁かれることを祈り続け、自分の愚かさを嘆き、すべてへの贖いとすべてを救う為に自分が堪え得る限りの苦しみの犠牲となることを祈り続ける道は、自己を真に救済する道であることをわたしは人々にもフランクルにも言いたい。
多分彼なら、わたしの言い分を快く認め、頷いてくれるように想える。
この一つの抜け出ることの許されぬ場所(地上)に生きる哀れな、ほとんど誰も読まない言葉を綴り続け、切実に救いを請い求め続ける罪深く愚かな独りの人間に対して。

最後に終盤で彼が語った印象的な言葉を載せる。



『われわれは「幸福」を問題としないのである。
 われわれを支えてくれるもの、
われわれの苦悩や犠牲や死に意味を与えることができるものは「幸福」ではなかった。」



















漫画家ねこぢる 本物の価値が、残酷に消費され続ける世界で。





11月21日追記:
わたしは自分の記憶が違っていたことを想いだした。
わたしが一番最初に月刊漫画ガロをリアルタイムで書店で手にとって買ったのは1998年4月号 NO.396だった。
そしてその次に手にとったのが、ねこぢるの猫の絵が表紙の1998年5月号 NO.397だった。表紙を良く憶えている。


l15972



彼女が亡くなったのが1998年5月10日なので、多分このガロは彼女の死後に出版されたものだと想う。
わたしは彼女の死を知ったすぐあとに、多分このガロを買って読んだ。
そこに収録されていたねこぢるの作品は、


月刊漫画ガロ


「ぢるぢる昔話」の多分「がぐや姫の巻」だったんじゃないか。なんとなく憶えている箇所があった。
「ねこぢるまんじゅう」に収録されていた。
読んでみたが、全く面白さを感じられなかったし、不快さも感じる。どう無理をしても、笑えなかった。ただ残酷なばかりで、登場する猫たちの顔も性格も、無機質で可愛げもない。読み終えるのが苦痛なほどに退屈だ。
当時、わたしはきっとこの漫画がねこぢるの漫画なのだと想って読んだ。
そして良いものが何も感じ取れなかったので、彼女の死が何故かずっとずっと自分のなかに特別な苦しみとして存在していたのに、漫画を買ってじっくりと読もうという気持ちにはどうしてもなれなかった。
この作品は確かに彼女自身も関わって描かれた作品なのかもしれない。
でも夫である山野一氏が、おおかた作って描かれたのではないか?とわたしは想った。
そうであってほしいという気持ちになる。
何故なら、この作品や、後期のほとんどの作品には、初期の作品の多くに存在していた温かみが、皆無に感じられるから。
残酷なのにあたたかくて、悲しいはずなのに面白くて何故か幸せな気持ちにもさせられて、何処か懐かしい気持ちにさせる、ついその続きの世界を自分のなかで創りたくなってしまう、終わらせたくはないと感じさせるほどの空間が、その魅力が、後期の作品の多くには欠如してしまっている。
でもほとんどの読者は、出版会社は、編集者は、其処に気づかなかったのだろうか?
次から次へと作者に眠る時間さえ奪うオーバーワークを続けさせてまで新作を催促し、要求し続け、無理矢理に苦しんで出した感の否めない作品たちを、賞賛し続けたのだろうか?
例えば同じ「ねこぢるまんじゅう」に収録されている「おつかいの巻」なんて、込み上げてくる笑いを堪えるのが難しいほど面白い。
そして猫たちが本当に愛らしくて純真で憎めない。だからこそ、残酷さとのコントラストが激しく、素晴らしくて感動して感服する。
これが、本当の才能というものなのである。描こうと想って、描けるものじゃない。
本人でさえ、よし描くぞと想っても、とても描けない。そんな都合良くぽんぽんと出てこない。
その本物の価値を、人々は死に追いやったのか?
それが上手いこと量産できるものだと、要求すれば出てくるものだと、何故想ったのだろうか…?
そんなことできるはずないだろうに…。本物の芸術の作品が量産できるものだと、何故考えたのだろう?
本物の価値をだれも見分けることができなかったからなのか?
ただただ可愛げな顔をした猫たちが残酷なことを繰り広げていたらそれでOKだと多くの人は評価していたのか?
一体、なんの価値があるのだろう?作者に無理やり全くつまらない作品を描かせ続け、作者を死へ追い込むことが。
この世界は、人間も、動物も、生きて行くことこそが、一番大切なことなんだよ…。
何故それが、僕たちはわからないんだ…。
豚の死体を喜んで食べながら屠殺される豚が可哀想だと人々は平気で言う世界で、動物の死体を食べない彼女は家畜の生涯の残酷さを何度と描いて表現した。そして豚を見ることが不快なのだと素直に言った。
彼女は、本当に不快だったのだろうと想う。この世界が。
ほとんどのことが、いや、ほぼすべてのことが、彼女にとって苦しくて堪らないことだったのだろうと想う。
彼女はインタビューで、「ゲームの世界に生まれたかった。」と言っていた。
現実世界が苦しくて堪え難いから、生きられる世界に、逃避せねばとても生きられなかったのだと想う。
彼女の描く漫画は、残酷じゃない。この現実よりずっと。
現実のほうがよっぽど無慈悲で、無機質で、無感覚で、無関心で、虚無なんだ。
彼女はそれを多分わかってた。
ほとんどの人は、無残に殺される家畜の姿を描こうなんて想うこともない。その残酷さを表現しようなんて想わない。不快だし、それ以前に、家畜たちに対して関心もないから。
一時はねこぢるの作品はものすごい評価されて売れまくって、人々は新作を求め続けた。
でも彼女が此の世を去って、22年が経ち、Amazonのレビュー欄を観てみると、彼女の作品を心から賛美している人の数の少なさに、堪らない虚しさを感じるのはわたしだけなのだろうか?
本当は生きたいのだと願っている動物を殺し、その死体を味わって食べたあとは排泄して、食べた肉のことなんて忘れて、どうでもよくなる。それが肉食という行為の一番の虚しさだとわたしは想う。
でも動物だけじゃない。人々は、人間さえも、そうして消費して、すぐに忘れてしまうのだろうか?
そこに存在する本当の価値を、理解していない人々が。

























漫画「ねこぢるうどん」  実際に壊れてしまうことの悲しみを、壊れないほどの感性が、どれほど理解できるのか?






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ねこぢるの漫画は、多分、彼女がこの世を去ったすぐあとくらいに知った。
ねこぢるの漫画の良さをわかりたいと感じている自分がこれまでずっといた。
でもこれまで、ちゃんと読んだことはなかった。
それは切り貼りされた雑誌やネット上の漫画のシーンだけでは到底わかり得ることはできないそこに存在する物語の深さを、自分が感じ取ることはできなかったからなのかもしれない。
どうしても、切り取られただけのねこぢるの漫画に自分は不快感を感じていた気がする。
それをちゃんとじっくりと読みたいという気持ちにこれまでさせられなかった。
でも22年程が経ち、39歳となったわたしは吉永嘉明の「自殺されちゃった僕」を読んだきっかけで、初めてねこぢるの漫画「ねこぢるうどん」をメルカリで3冊購入し、静かに読んだ。
嗚呼、なんてわたしは勘違いしていたのだろうと想わずにいられなかった。
そういえば、今日布団のなかで泣いた気がする。
ねこぢるのことだけではなくて、色んなことが重なって、わたしは悲しくて泣いた。
言葉では表現するのが難しい世界が、この世界にはたくさん存在しているのだと感じる。
ねこぢる(彼女)の表現してきた世界も、そういう世界だ。
ひとつだけ、その世界に対して表現できそうな言葉がある。
”果てのない悲しみ”の世界だ。
どこまでも深くて、底は見えない、辿り着ける場所もない。
そんな世界だ。
人間の感情が創り出せる世界であり、”虚無”もまた、人間特有の感情なのだろう。
わたしは、本当に大きな勘違いをしていた。
彼女は、わたしと、とても似ているのだと感じた。
生きている世界が、離れてはいなくて、近いと感じた。
わたしが小学3年生のとき、同じクラスの女の子を傘立てに載って遊びながら思い切り突き飛ばして大怪我をさせてもわたしはニヤニヤ嗤っていた。
小学6年のときは、かつて仲が良かった女の子の家が火事になって、彼女が今、瀕死状態で、先生が助かるようにみんなで祈りましょうと言ったとき、わたしは彼女が死ぬことを祈り続けた。そして彼女が死んだことを知った瞬間に、心のなかで大声で歓喜をあげたのだった。
彼女の葬儀のための日に、無理に悲しんで泣こうとしたが全く泣けなかった。
自分は、人と大きく違うと感じるのは子供の頃だけではなく、今でも同じだ。
ほとんどの子供は、そんな経験をしない。
そんな経験をして、何十年経ってもずっとそのことで自分を殺したいほどに自分自身を責め続けて生きていない。
「子供は残酷だ」と、人はまるでそれが当然のように言ったりする。
でも何故、それが”壊れている”状態だとは考えないのだろうか?
イスラエルの大学による研究によれば、「 生後6ヵ月などの小さな赤ちゃんも、他者の苦痛に慈悲と共感を持っている」ことがわかったらしい。

「最初の実験では生後 5〜 9ヶ月の乳児たちが明らかにいじめの被害者たちに共感を示していることがあらわされ、乳児たちは中立のパーソナリティを選ぶのではなく、身体的に傷つけられ苦しんでいるほうのパーソナリティに共感を示した」
「 2番目の実験では、苦しんでいる他者に対する幼児の共感は不変ではないことを示した。同じように苦痛を現している対象であっても、苦しむ理由が明確ではない場合(苦しんでいるふりをしている場合)、その対象には共感を示さなかった」

わたしの子供時代のサイコパス度が、子供として普遍的なものだとは自分でも想えなかった。
だから、わたしはとても苦しかった。
自分だけが、違う世界に生きているような気がいつもしていた。
この世界のほとんどのことがくだらなくてつまらなくて、不快で嫌い。
ほとんどの人が怖い。
ほどんどの人が、動く自動人形のように想えて怖い。
空想の世界にしか、自分の居場所(生きられる場所、生きているという感覚を感じられる場所)は存在しないと感じる。
殺された動物の死体を食べない。
人々が、驚く、バカにするようなことで日々深く傷つき続けて生きている。
他者のなかに存在する悲しみや孤独、苦痛の感覚に対する共感能力が特に深い。
他者(外界)と自分(内界)の境界がほとんど存在していない。
動物(弱い存在)を本当に愛しているのに、彼らが自分の想い通りにならないとき、自分が壊れてしまう。
愛が深いほど、人は苦しみ、限界値を超え、壊れてしまう、壊れてしまうから、殺してしまう、というこの世界の残酷さに、気づいてしまっている。
人々はそんな人達を、鬼畜や気違いや気狂いと呼んで排除しようとしている。
「ねこぢるうどん3」の「西友の巻」でにゃーことにゃっ太と一緒に遊んでいた”ぶたお”が最後、無残な死体と化し、食肉用の豚の死体を積んでいるリヤカーの上に載せられる。


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これを読んで、人は何を感じるだろうか?
この話を書いたねこぢる(彼女)自身は、肉(動物の死体)を食べない人だった。
彼女はにゃーこにぶたおを「みてるとにゃんかいやなきぶんににゃる」と言わせる。
豚の死体を何とも思わず食べている多くの人々が、豚のキャラクターを観て、可愛い可愛いと言っているこの世界で。
彼女は豚の死体(豚肉)を決して食べないが、豚を見ると不快な気持ちになることをにゃーこに言わせる。
わたしも豚を見ると、どうしても不快な気持ちになる。
可愛いと、喜べる瞬間もない。
彼らは毎日大量に殺され(惨殺され)続けていて、明日も、明後日も、ずっと、ずっと、死体となる瞬間が、わたしのなかでいつも再生され続けている。
それに豚は家畜のなかで人間に最も似ている。
この世界のおぞましい虚構に、そこに存在する堪えられない悲しみに、彼女が限界に達して死んでしまったのではないと、だれか言えるだろうか…?
ねこぢるの漫画は当時ものすごい人気を博し、どの会社も作者の心労など何も考えずに新作を求め続け、そのオーバーワークのなかで彼女はみずから命を絶った。
ねこぢるの作品の読者のなかに、彼女の本当の苦しみや悲しみを理解していた人がどれくらいいただろうか…?
わたしはまるでスーパーの鮮肉コーナーに惨殺された動物の死体が消費されてゆく商品として綺麗に並べられ続けるように、そこに存在している掛け替えのない価値が貪り喰い潰され続けゆくこの世界に、堪え難い苦しみと悲しみを感じないでいることはできない。









11月21日、追記を載せました。

















BURST GENERATION ―絶滅へ向かうこの世界を救う唯一の、絶滅しゆくものとは、絶望の死と悲しみである。








自分は1981年生まれで80年代と90年代に、最も重要な経験をして来たと言える人間である。

97年に酒鬼薔薇事件が起きて深く影響され(5年間、彼と自分を重ね合わせ、恋をし続け)、97,8年に兄の持っていたBURSTで釣崎清隆の撮った死体写真を観て衝撃を受け、深くトラウマとなり続けながらも、丸尾末広の「笑う吸血鬼」や糞尿まみれの童貞厠之助や「少女椿」の徳利児鞭棄などに本物のエロスを感じ、月刊ガロを読み耽り、猟奇的なものに官能的なものを覚え、フィッシュマンズの佐藤伸治の死に泣きながら暮らしていた90年代(十代)を生きて来て、最も愛する漫画家は華倫変で、生涯の師匠は町田康であるわたしが、サブカルチャーにあまり詳しくなくて、”カウンターカルチャー”という言葉すらつい最近知った。

Tattoo、ドラッグ、人体改造、エロ、ハードコア類…どれも興味がないのである。
はっきり言って、何一つそこに惹かれるものはない。
寧ろ、不快さを感じるし、面白くない。
そんなわたしが一番愛する映画とはアレックス・コックス監督、ゲイリー・オールドマン主演の「シド・アンド・ナンシー」である。

わたしが、約24年振りに、昔の「BURST」を買い占め、この「BURST GENERATION」を買ったのは主にたった一つの理由、死体と、釣崎清隆という人間を見つめるためである。

読んでいて、ほとんどはつまらぬ記事だと感じたのだが、非常に切ない気持ちにさせられるものも幾つかあった。
だが全体的に切なく、嗚呼、この雑誌きっと続かないんじゃないのか。という儚さを感じさせられる感覚であり、直観的にこの雑誌は、今この世界に求められているように感じなかったのである。
今求められているものとは、本当に反吐の出るくだらないものばかりであって、本物(本物の死体や、本物の人間の悲しみ)を切実に知りたいと願っている人間など、絶滅危惧種なのである。

例えば『父のロリータ』という記事は自分の境遇と凄く重なるものがあり、不快な苦しみと同時に人間の底知れぬ悲しみを感じて、とても良い記事だと感動したのだが、こういった記事を毎回読みたいのだと願う読者はどれくらいいるだろうか。
現代の大きな社会問題として”孤独死”の問題があって、孤独に暮らす人間にとって、明日は我が身の問題でもある。
浴室のドア下のコンクリートの床に頭を打ち付け、べっとりと黒い血痕と頭髪がそのまま付着しているその写真を掲載し、読者に、彼女の父親の最期を、想像させてくれる記事が、この時代にどれほど有り難いことか、どれほど貴重であることか、ほとんどの人は、知ることもない。
死体写真と同じく、人間の最期を嘘偽りなく観せてくれることを安心できる、決して消費されはしない、一生残り続けるであろう記事を載せてくれるこの雑誌自体もまた絶滅危惧種であり、そんな雑誌を、ほとんどの人は一度も手には取らず、死んでゆくことだろう。

p.s.釣崎清隆が撮ったからなのか、わからないが、青木ヶ原樹海の髑髏が、またも、どの死体より、どの生きた人間よりも優しい幸せそうな顔で安らかに眠っているのだった。
わたしは本当にこれまでずっと髑髏恐怖症だったのに、彼の撮った髑髏があんまりに愛おしくて、最近、髑髏を連れて帰りたくてしょうがない。

最後に、この雑誌にわたしからの御願いがある。
本当の地獄の苦しみの末に亡くなったであろう自殺者の死体(仏様)の次のページに、エロが来るのだけは、やめて戴きたいと願う。


























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