ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

動画レビュー

僕らは死のなかで生きる


モダンフリークスPresents【進捗night出張版】






進捗ナイト終わりなのか…。
なんか自分の所為なんじゃないかと悲しいけれど、多分違うのだろう…。

最近、つくづく、人間味の深い人ほど、死に近いんだと感じる。
感性の鋭い人、愛の深い人、繊細で壊れやすい人、毎日、どうしようもない苦しみと悲しみのなかに生きている人。
そんな人達が、表現をしていることは、この世界で本当の救いだ。
でもそんな人達が最早、表現を続けて行けないことが絶望的であり、終る人がたくさんいる。
僕の表現を真剣に読む(読みたい)人はこの世界で多分、一人か、二人くらいしかいないだろう。
0人である年もきっとあるだろう。
それでも僕は表現を終わらせたくないし、死ぬまで僕にしかできない表現を遣り続けて死ぬ。
進捗ナイトが終わってほしくなかったけれど、きっと新しいもっと素晴らしいものがこれから起こることを僕は信じる。

僕は釣崎清隆氏を本当に心の底から死ぬまで特別な存在として愛し続ける。
そして福田光睦氏もケロッピー前田氏もピスケン(曽根賢)氏も僕は大好きです。
人間として、僕は信用している。

僕は本当にイかれてるし非常識な人間なのだろう。
でも僕のような人間にもこの世界でちいさなちいさな居場所が在って、僕が生きてゆけることをこの映像に映っていた人たちが陰からそっと応援してくれているような気持ちになる。

ピスケン氏は100年後には此処にいるみんな死んでいるのだから、僕らはみんな「亡霊が生きている」んだと言った。
僕らは生きている亡霊であって、そんな存在たちがずっとずっと生きていることと死んでいることの一体なにが違うというのか?と、死を見つめつづけて切実に問いつづけて生きている。
死を見つめつづける人たちの眼差しは真剣であり、ギロギロしており、光を喪って死んでいて、黒々と輝いていて、焦点を失くし、優しくて、悲しく、美しい。

僕らは死のなかでしか生きられないのに。
僕らは生きているときにしか、死を見つめることは、できないのに。



















グロテスクなものから目を背け続けてグロテスクなものに果てる世界。


【無料版】『バースト・ジェネレーション』 presentsNEO鬼畜道場 ver. 第四回 報道メディアにおけるグロテスク表現の変遷







確か聖書外典の記述だったと想うのですが、イエス・キリストが弟子たちと何日も荒野を歩き続けて弟子たちの疲労が限界に近づいていたとき、弟子がある一頭の馬か駱駝の腐乱した死骸を見つけ、あまりの悪臭と、その見た目のグロテスクさに、弟子たちは皆、顔を顰めて、何の罪もないその死骸に対して呪詛を吐きつけます。
自分たちはもう飲まず喰わずで死にかけているのに、その上こんなおぞましいものに出くわすなんて、なんという悪運だろうと。
しかし、イエスはそれを観て、すたすたとその死骸に近づいて行って、こう言ったそうです。
「なんと美しい白い歯だろう!」
イエスはその死体の醜さや死臭の何をも気にせず、その代わりに腐敗した肉の為に剥き出しになった白い歯に心底感動したようです。
弟子たちはそんなイエスに吃驚しました。
わたしはこれを読んだとき、本当に感動しました。
同時に、弟子たちの感性とは浅ましいものだなと感じました。

釣崎清隆氏は、『「イノセンス(innocence)」は害悪である。』と以前に仰られていたようですが、それは「無知」や「馬鹿」の意味があるからだと。
わたしは、上記の聖句を読んだとき、弟子たちはまったく無知で馬鹿で阿呆だと感じました。
これを有り難るのであれば、本当に無知で馬鹿です。

釣崎清隆氏は、またインタビューでこうも仰っておられました。

『死体っていうのは、それ以上でもそれ以下でもなくて、要するにブラックボックスだから、見る側の、自分を写す鏡だと思うわけ。
そこに自分を見ているんだと思うんだよ。
だから死体を見ていかがわしいと思う奴は、自分の心が卑しいんだと思う。』

『死体だけを穴が開くまで見ても、何も見えてこないんですよ。
死体っていうのはある意味で、”生きてる人を映す鏡”だと思うんで、人が見て、「気持ち悪い」って思う奴は、「本人が気持ち悪いんだ」っていうね。
なんかそういう風な見方も成り立つんじゃないかなって、最近は思うようになったんですよね。
その時に、その人の人間性が見えてくるっていうか。
死体に対応してやってる人間のそれぞれの対応の仕方っていうのは、非常に何かね、感動的なんですよね。』



人間は「イノセンス(無罪)」が必要なのではなく寧ろ、積み重なり、その重さで底の底まで行くような「罪」が必要なんだと感じました。
イエスという人は多分そういう経験を本当に多く経験してきた人なのだと想います。

そして「罪」が深まれば深まるほど、人間は本質へ近づいて行けるのかもしれません。
それはとんでもなく苦しい道のりであって、深い孤独である必要があると想うのです。

自分はグロテスク表現をずっと遣り続けて、誰からも反応すら貰えなくて、苦しくて孤独でなりませんが、これが「キャー」とか「ワー」とか人々から喜ばれる日には、自分はもう何を遣って行きてゆけばいいのかわからなくなるのかもしれません。

取り留めの無い話になってしまいましたが、人が死や死体を不快に感じることや、グロテスクなものから目を背けようとすることは大変に深いテーマであり、何故、この時代にグロテスク表現がこれほどまでに人々に受け入れられないのかを、もっと深く掘り下げて考察して行けると良いなと感じます。

























プロフィール 1981生 ゆざえ

ユザエ

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