11月21日追記:
わたしは自分の記憶が違っていたことを想いだした。
わたしが一番最初に月刊漫画ガロをリアルタイムで書店で手にとって買ったのは1998年4月号 NO.396だった。
そしてその次に手にとったのが、ねこぢるの猫の絵が表紙の1998年5月号 NO.397だった。表紙を良く憶えている。
彼女が亡くなったのが1998年5月10日なので、多分このガロは彼女の死後に出版されたものだと想う。
わたしは彼女の死を知ったすぐあとに、多分このガロを買って読んだ。
そこに収録されていたねこぢるの作品は、
「ぢるぢる昔話」の多分「がぐや姫の巻」だったんじゃないか。なんとなく憶えている箇所があった。
「ねこぢるまんじゅう」に収録されていた。
読んでみたが、全く面白さを感じられなかったし、不快さも感じる。どう無理をしても、笑えなかった。ただ残酷なばかりで、登場する猫たちの顔も性格も、無機質で可愛げもない。読み終えるのが苦痛なほどに退屈だ。
当時、わたしはきっとこの漫画がねこぢるの漫画なのだと想って読んだ。
そして良いものが何も感じ取れなかったので、彼女の死が何故かずっとずっと自分のなかに特別な苦しみとして存在していたのに、漫画を買ってじっくりと読もうという気持ちにはどうしてもなれなかった。
この作品は確かに彼女自身も関わって描かれた作品なのかもしれない。
でも夫である山野一氏が、おおかた作って描かれたのではないか?とわたしは想った。
そうであってほしいという気持ちになる。
何故なら、この作品や、後期のほとんどの作品には、初期の作品の多くに存在していた温かみが、皆無に感じられるから。
残酷なのにあたたかくて、悲しいはずなのに面白くて何故か幸せな気持ちにもさせられて、何処か懐かしい気持ちにさせる、ついその続きの世界を自分のなかで創りたくなってしまう、終わらせたくはないと感じさせるほどの空間が、その魅力が、後期の作品の多くには欠如してしまっている。
でもほとんどの読者は、出版会社は、編集者は、其処に気づかなかったのだろうか?
次から次へと作者に眠る時間さえ奪うオーバーワークを続けさせてまで新作を催促し、要求し続け、無理矢理に苦しんで出した感の否めない作品たちを、賞賛し続けたのだろうか?
例えば同じ「ねこぢるまんじゅう」に収録されている「おつかいの巻」なんて、込み上げてくる笑いを堪えるのが難しいほど面白い。
そして猫たちが本当に愛らしくて純真で憎めない。だからこそ、残酷さとのコントラストが激しく、素晴らしくて感動して感服する。
これが、本当の才能というものなのである。描こうと想って、描けるものじゃない。
本人でさえ、よし描くぞと想っても、とても描けない。そんな都合良くぽんぽんと出てこない。
その本物の価値を、人々は死に追いやったのか?
それが上手いこと量産できるものだと、要求すれば出てくるものだと、何故想ったのだろうか…?
そんなことできるはずないだろうに…。本物の芸術の作品が量産できるものだと、何故考えたのだろう?
本物の価値をだれも見分けることができなかったからなのか?
ただただ可愛げな顔をした猫たちが残酷なことを繰り広げていたらそれでOKだと多くの人は評価していたのか?
一体、なんの価値があるのだろう?作者に無理やり全くつまらない作品を描かせ続け、作者を死へ追い込むことが。
この世界は、人間も、動物も、生きて行くことこそが、一番大切なことなんだよ…。
何故それが、僕たちはわからないんだ…。
豚の死体を喜んで食べながら屠殺される豚が可哀想だと人々は平気で言う世界で、動物の死体を食べない彼女は家畜の生涯の残酷さを何度と描いて表現した。そして豚を見ることが不快なのだと素直に言った。
彼女は、本当に不快だったのだろうと想う。この世界が。
ほとんどのことが、いや、ほぼすべてのことが、彼女にとって苦しくて堪らないことだったのだろうと想う。
彼女はインタビューで、「ゲームの世界に生まれたかった。」と言っていた。
現実世界が苦しくて堪え難いから、生きられる世界に、逃避せねばとても生きられなかったのだと想う。
彼女の描く漫画は、残酷じゃない。この現実よりずっと。
現実のほうがよっぽど無慈悲で、無機質で、無感覚で、無関心で、虚無なんだ。
彼女はそれを多分わかってた。
ほとんどの人は、無残に殺される家畜の姿を描こうなんて想うこともない。その残酷さを表現しようなんて想わない。不快だし、それ以前に、家畜たちに対して関心もないから。
一時はねこぢるの作品はものすごい評価されて売れまくって、人々は新作を求め続けた。
でも彼女が此の世を去って、22年が経ち、Amazonのレビュー欄を観てみると、彼女の作品を心から賛美している人の数の少なさに、堪らない虚しさを感じるのはわたしだけなのだろうか?
本当は生きたいのだと願っている動物を殺し、その死体を味わって食べたあとは排泄して、食べた肉のことなんて忘れて、どうでもよくなる。それが肉食という行為の一番の虚しさだとわたしは想う。
でも動物だけじゃない。人々は、人間さえも、そうして消費して、すぐに忘れてしまうのだろうか?
そこに存在する本当の価値を、理解していない人々が。
「ねこぢるまんじゅう」に収録されていた。
読んでみたが、全く面白さを感じられなかったし、不快さも感じる。どう無理をしても、笑えなかった。ただ残酷なばかりで、登場する猫たちの顔も性格も、無機質で可愛げもない。読み終えるのが苦痛なほどに退屈だ。
当時、わたしはきっとこの漫画がねこぢるの漫画なのだと想って読んだ。
そして良いものが何も感じ取れなかったので、彼女の死が何故かずっとずっと自分のなかに特別な苦しみとして存在していたのに、漫画を買ってじっくりと読もうという気持ちにはどうしてもなれなかった。
この作品は確かに彼女自身も関わって描かれた作品なのかもしれない。
でも夫である山野一氏が、おおかた作って描かれたのではないか?とわたしは想った。
そうであってほしいという気持ちになる。
何故なら、この作品や、後期のほとんどの作品には、初期の作品の多くに存在していた温かみが、皆無に感じられるから。
残酷なのにあたたかくて、悲しいはずなのに面白くて何故か幸せな気持ちにもさせられて、何処か懐かしい気持ちにさせる、ついその続きの世界を自分のなかで創りたくなってしまう、終わらせたくはないと感じさせるほどの空間が、その魅力が、後期の作品の多くには欠如してしまっている。
でもほとんどの読者は、出版会社は、編集者は、其処に気づかなかったのだろうか?
次から次へと作者に眠る時間さえ奪うオーバーワークを続けさせてまで新作を催促し、要求し続け、無理矢理に苦しんで出した感の否めない作品たちを、賞賛し続けたのだろうか?
例えば同じ「ねこぢるまんじゅう」に収録されている「おつかいの巻」なんて、込み上げてくる笑いを堪えるのが難しいほど面白い。
そして猫たちが本当に愛らしくて純真で憎めない。だからこそ、残酷さとのコントラストが激しく、素晴らしくて感動して感服する。
これが、本当の才能というものなのである。描こうと想って、描けるものじゃない。
本人でさえ、よし描くぞと想っても、とても描けない。そんな都合良くぽんぽんと出てこない。
その本物の価値を、人々は死に追いやったのか?
それが上手いこと量産できるものだと、要求すれば出てくるものだと、何故想ったのだろうか…?
そんなことできるはずないだろうに…。本物の芸術の作品が量産できるものだと、何故考えたのだろう?
本物の価値をだれも見分けることができなかったからなのか?
ただただ可愛げな顔をした猫たちが残酷なことを繰り広げていたらそれでOKだと多くの人は評価していたのか?
一体、なんの価値があるのだろう?作者に無理やり全くつまらない作品を描かせ続け、作者を死へ追い込むことが。
この世界は、人間も、動物も、生きて行くことこそが、一番大切なことなんだよ…。
何故それが、僕たちはわからないんだ…。
豚の死体を喜んで食べながら屠殺される豚が可哀想だと人々は平気で言う世界で、動物の死体を食べない彼女は家畜の生涯の残酷さを何度と描いて表現した。そして豚を見ることが不快なのだと素直に言った。
彼女は、本当に不快だったのだろうと想う。この世界が。
ほとんどのことが、いや、ほぼすべてのことが、彼女にとって苦しくて堪らないことだったのだろうと想う。
彼女はインタビューで、「ゲームの世界に生まれたかった。」と言っていた。
現実世界が苦しくて堪え難いから、生きられる世界に、逃避せねばとても生きられなかったのだと想う。
彼女の描く漫画は、残酷じゃない。この現実よりずっと。
現実のほうがよっぽど無慈悲で、無機質で、無感覚で、無関心で、虚無なんだ。
彼女はそれを多分わかってた。
ほとんどの人は、無残に殺される家畜の姿を描こうなんて想うこともない。その残酷さを表現しようなんて想わない。不快だし、それ以前に、家畜たちに対して関心もないから。
一時はねこぢるの作品はものすごい評価されて売れまくって、人々は新作を求め続けた。
でも彼女が此の世を去って、22年が経ち、Amazonのレビュー欄を観てみると、彼女の作品を心から賛美している人の数の少なさに、堪らない虚しさを感じるのはわたしだけなのだろうか?
本当は生きたいのだと願っている動物を殺し、その死体を味わって食べたあとは排泄して、食べた肉のことなんて忘れて、どうでもよくなる。それが肉食という行為の一番の虚しさだとわたしは想う。
でも動物だけじゃない。人々は、人間さえも、そうして消費して、すぐに忘れてしまうのだろうか?
そこに存在する本当の価値を、理解していない人々が。