マイ・プライベート・アイダホ(字幕版)
ぼくはこの映画に出会えて本当に嬉しい。
彼(マイク)に会いたくて、この映画を観ないで眠る日は寂しくてもう何度も繰り返して観てる。
ぼくはリヴァー・フェニックスという俳優の存在をずっと知りたいと想ってたのだけれど、今まで彼の出演作は「スタンド・バイ・ミー」しか観たことがなかった。
ぼくは今39歳で、40歳を手前にしてこの映画を観て、心から感動している。
心から、ぼくはこの映画を愛している。
全体的には、この映画はパーフェクトではないと想う。
ぼくにとっては余計なシーンが長くあり、その時間をすべてマイクの重要なシーンの為に使ってほしかった。
でもそうであってもこの映画は天才だけが創り出せる傑作だ。
人はこの映画を何度と観ることで始まりのシーンが終わりのシーンに繋がっていることの素晴らしさ、或る意味絶望的なテーマがあるのに「なんとかなる(Don't worry)」と言ってるような心が安心して浮き立つようなEddy ArnoldのCattle Callという音楽でこの映画が始まるところで鳥肌が立ち、涙ぐみ、マイクのあまりのけなげで一途なママへの求める愛の深さに胸が震えて感動がやまないだろう。
だが映画を見終わってなんとなしにEddy ArnoldのCattle Callの歌詞を読んで、ガス・ヴァン・サント監督が意図しているテーマがどれほど深いかと考えて唸るかも知れない。
この歌詞でカウボーイは秋に自分が駆り集めて売られゆく牛の寂しげな鳴き声を歌う。
”Cattle Call(牛のコール)”の”Call”はだれかを大声で呼んだり、指令する、いざなう、呼び寄せる、などの意味がある。
元々、カウボーイ(cowboy)という言葉は畜産業に従事する牧場労働者という意味以前、”牛泥棒”の意味があったと言われる。
マイクの母親がカウボーイに恋をしてしまう話や、その現場で流れていたのはジョン・ウエイン演ずる「リオ・ブラボー」というカウボーイの西部劇であることからも、何か重要な意味が隠されているようだ。
マイクはみずからの身を売ってでしか生活できない。そして夢もなくて将来に遣りたいことも何もない。
でもそんなマイクがひとつだけ物凄く、魂の底から叫ぶように求める存在がいる。
マイクはずっと母親のことを必死に呼んでいた。
男たちや女たちは、自分の肉欲を満たすためにそんなマイクを買う。
でも性的な快楽のなかでマイクのなかに想い浮かぶのは優しい母親が眠るマイクを胸に抱いて頭を撫でながら「Don't worry(心配しないで)」「Everything gonna be alright(すべて上手く行く)」と囁いているシーンや鮭たちが産卵の為に光り輝く激流の川を遡上しているシーンや、絶頂に達して射精する瞬間には自分と家族が住んでいた家(の象徴?)が空から落ちてきて崩壊するシーンが浮かぶ。
鮭たちが出産する場所は自分たちが最期は身をボロボロにして犠牲となって死ぬ為の場所でもある。
話を戻すとマイクは始まりのシーンで野生のうさぎに向かって遠吠えするコヨーテの真似をしたあと「逃げたって無駄だよ!ぼくと同じさ。」と叫ぶ(呼び掛ける)。
うさぎは何を言われているかわかっていないと想うがマイクは自分が”いつか駆られる(狩られる,刈られる)身”なんだという観念があったのかもしれない。
マイクはたった10ドル貰う為に、「なんでもするから」とおっさんにねだる。
そしてその10ドルでマイクは何を買うのか?アルコールかドラッグか食料か宿か。
それともママに会いに行く旅をする為に貯金しているのか。
なんであっても、それは、彼にとって絶対に必要なものである。
彼はいつもストレスが限界値にギリギリのところに在って、ナルコレプシー(発作的睡眠)を何度も起こしてどこでも眠りに落ちてしまう。
リッチな60代くらいの女性に買われ、彼女が自分を誘惑するとき、彼のなかに母親の姿が浮かぶ。
彼も激しく彼女に欲情するが、その瞬間、彼は気絶して床に崩れ落ちる。
例えば人は最も自分の求めるものが最も自分を苦しめる罪悪感と繋がっていて、得たいのにどうしても得られない(得てはならない)という観念のもとのジレンマとコンプレックスによる苦しみに自身が堪えられなくなったとき、気絶するか健忘症になるか、この世の真理を覚るか、自我を喪失するか、発狂するか、などのみずからの逃避的作用が起きないならばとても生きて行けないだろう。
マイクの脳は賢明にもそれを自動で行ってくれているかのようだ。
母親を一心に彼は請い求めているけれど、彼のところに母親が戻ってきたとしても、”母親を喪失した悲しみ”というものに、変化は多分ないんじゃないかとぼくは想う。
マイクの場合、母とは死別ではなく生き別れであり、何故、母親が幼い自分を棄てて出て行ったのか。という悲しみはそう簡単に消え去りはしないだろう。
マイクはずっと潜在意識で「自分が駄目だから母親は出て行ったんだ。」と自分自身を責め続けて、自分を最も憎しみ続けて来たに違いない。
その自責の想いが、一体どうすれば消えてなくなるのか。彼自身もきっとわからない。
彼は母親とまた一緒に暮らせたとしても、母親のちょっとした行動ひとつで、何かにつけて、とても些細なことで、いちいち「ぼくが駄目だからなんだ…。」と自分を憎んで、どうすることもできない悲しみに打ちのめされることだろう。
だからこそ、マイクは自分の理想とするヴィジョンの世界で常に、母親から「すべてうまくゆくから心配しないで。」と優しく言って欲しいのだろう。
そう言って貰わなくては、もう歩いてゆくこともできないほどのつらい道を彼はずっと独りで歩いている。
ぼくも何度も、亡き最愛の父がぼくの名を呼ぶ声が聴こえる。
毎日がぼくもつらくて堪らないけれども、どんなに苦しくとも、最後まで堪えて生き抜けば、きっとまた亡き父や母に会える。という気持ちになる。
ぼくは4歳で母を亡くして母の記憶がないから、マイクの寂しさやママを請い求む切実さがきっと近いと想う。
ぼくはマイクのことをもっと知りたいし、彼を演じたリヴァー・フェニックスのこともすごく知りたい。
生きてることがずっとずっと苦しかっただろうリヴァーだからこそ、マイクの役を完全に演じきることができただろう。
ぼくはマイクが安易に救われて楽に生きて行ける人生を歩むことを望まない。
彼の人生にはきっとこれからさらなる苦しみと悲しみがじっと静かに待ち受けているだろう。
でもマイクは、自分にしか歩めない宇宙にひとつしか存在していない殴られた酷い顔に見える道をしっかりと独りで歩んで行けることを望んでいる。
だから同じ道に何度も彼は戻って来る。
そしてママを求める愛を喪うことだけは決してなくて、マイクは他になんにも必要とはしていない。
「逃げても無駄」なのは、この寂しくてつらくて悲しくてたまらない道を歩いてゆくことを決めたのはほかのだれでもない彼自身だからなのだろう。
そんなこの映画は間違いなくこの闇の世界に消えることのないあたたかい光をもたらしつづけるのだと想って、ぼくの胸はつらくともあたたまるのだった。