ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

救済

カルト映画『アングスト/不安』 我々人類が決して抗えない”暴力と殺害”の記憶











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19日に鑑賞して大変に感動した『Angsut(邦題:アングスト/不安)』という1983年に公開された映画です。
原題の『Angst』は、ドイツ語で「〔漠然とした〕不安、懸念、心配、苦悩、恐れ」の意味があります。

15歳(1997年)から20歳まで酒鬼薔薇聖斗に恋をし続け、「今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボク」と自分を表現した彼と自分を同一の存在に感じ続けて生きて来て、2012年に屠殺映像を観てから人間と家畜の違いが全くわからなくなってしまった(人間が家畜に見えて家畜が人間に見えるようになった)わたしはこの映画を多くの人々とは全然違う目線で観ることができたと感じています。
人間がなぜ人間に殺されるのか。その問いの答えを、わたしは最早知ってしまった。
それはなんとなくではなく、確信に満ちるものなのです。
わたしは自分自身にもこの世界にも絶望することはありませんが、多くの人々たちに対して、或る意味に於いて絶望している。
それは死ぬまでに、気付けるのか、気付けずに死ぬのか。
その後者にある一種の絶望をしているのです。
人間は、だれもが一刻も早く、これに気付くべきだと日々わたしは独りでもがき苦しんでいる。
わたしがもし”彼”なら、わたしはこの苦痛から、解放されるだろうか。
わたしは、人々を根源的に、真に救う為に、人々を地獄に突き落とさねばならない。
わたしが、今まさに落ち続けている、この地獄へ。
この底無しの無限に続く不安の奈落(無間地獄)へ。

人は”人”を殺してはならないという。
でも動物たちが、人の舌を満足させ悦ばせる為だけに自分の血を抜かれ、そして心臓がまだ動いている状態で(放血処理のあとに)解体されて殺され、その死体を食べられることを人は知らないか(関心を持たないか)、もしくはそれを知ったあとも自分に対してその行為を許し続ける。
何故だろうか?

わたしは以前、こんな作品を書いた。

『快楽殺人者の言い分』



それから、もっと前にはこんな記事も書いた。



また、以下の記事も書いた。














もし良ければ、これからボクと一緒に、
最高に不安で恐怖と堪え難き苦悩から逃れられない旅に出掛けないか。


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「アングスト」のAmazonレビュー
「アングスト」のAmazonレビュー2

『一般的に、惨酷な異常心理や恐怖を扱ったホラー映画は、低俗で悪趣味な娯楽と見做されがちですが、その反面、人間の食文化は美化される傾向にあります。
スーパーの肉が、どのような過程を経て、パック詰めされて、人々の胃袋を満足させているのか、ということを深く考えた場合、ホラー映画と日常の食事風景は大差ないように思えますが、牛や豚の屠殺やオスのヒヨコがシュレッダーで粉砕されるシーンが日常からカットされている為、誰もが自身の偽善的な態度に対して、特に違和感を抱けないのではないでしょうか。

しかし、ホラー映画に登場する殺人鬼が、意味もなく人間を屠ることによって、人間(観客)が家畜の域に貶められます。
それは、一般的に不快な描写ですが、この不条理な殺戮を、人間の偽善的な態度に対する懲罰とした場合、劇中の殺人鬼は「神」と同一視され、ある種のカタルシスが生じます。
多くの人々が日常で肉を戴いていますが、その口先で、「惨酷なシーンは不快だ」と表明することも、劇中の殺人鬼と同様の異常心理に思えてきます。

しかも、この矛盾した態度が、人間社会全般に備わった一般的な食文化の本質であることに、驚かされます。
屠畜を含めた食肉加工業者の営みを、内心では毛嫌いしつつ、その業者が切り取った肉片を喜んで食べていることに対し、それを薄々異常な心理だと気づきながらも、正常者(多数派)として振舞うことが人間社会(食文化)のマナーであるなら、屠畜を含めた惨酷なシーンは検閲でカットする必要に迫られますが、芸術性の高いホラーほど、この人間の回避不可能に思える「矛盾」を浮き彫りにしてくれるのではないでしょうか。』






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showtime様、本当に素晴らしいレビューで感動致しました。
わたしが主張したいことをまさに的確に、また感情を廃した冷静な視点で述べてくださっています。
ホラー系の映画などはわたしはほぼ観ることはありませんが、フィクション・ノンフィクションに関わらず、人間がこのように畜生の如くに無残に殺されてしまうことの原因を根源的に考察してゆくならば多数の人間が未だに行い続けている残虐極まりない(普遍的)行為に目を向けないでいることはできません。

「カタルシス」と表現してくださいましたが、わたしが表現しようとしていることも実にそれなのです。
人々が本当にカタルシスを感じられるものとは、実は限られていて、残酷極まりない現実を目の当たりにした瞬間、湧き上がる深い悲しみや苦痛の感覚が浄化され、恍惚とした光(赦されるなにか)に包まれるそのものであることを確信しています。
多くの表現者、芸術家が最終的に表現しようとしているもの。
それは、滅多にこの宇宙で起こることはない。

感性の鋭い人はこの主人公が欲望・快楽ゆえに人間を屠っているわけではないということを感じるでしょう。
人間が家畜だった場合、人間を屠る屠殺人は利己的な理由によって殺すのだと映るかもしれませんが、しかし実はもっと深い理由(因縁)があるだろうと感じています。
”人類による肉食文化(動物を大量に殺戮せしめて生産し、その虐殺死体を自分の血肉とし続ける行為)”を、”必要悪”であるのだと表現した大変に愛の深い存在がいます。
人は悪(生命に対する堪えられない地獄の苦痛を強要する行為)を行った場合、その悪は自分の元へと必ず帰って来るのです。
殺した者が殺される(報われる)には、殺した者を殺す者が必要となって来ます。
肉(死体)にして食べた者は肉(死体)にされる為に肉(死体)にする者が必要になります。

そうです。この世界は実は巨大な豚小屋、屠殺場であり、わたしたち人間もまた家畜として屠られる為に、その”必要悪”を延々と繰り返し行い続け、この地上(地の獄)に縛られ(閉じ籠められ)続け、永久にその潜在意識に拭い去ることは到底出来得ない深く暗い闇の底に在る不安と恐れをみずから生産し続けて生きているのです。

それを何処かで感じ取っている人は、この映画を真に賞賛するでしょう。






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Come with me.























『夜と霧』 人間を真に救済するのは、人間を最高足らしめる最も苦しい受難








ここで述べられている最も重要なものとは、どのようなおぞましい悪夢よりも悪(苦しみ)の存在するなか(現実)に置かれたとき、人を真に救済するのは何であったかという人間がいつしか必ず直面するであろう何より深刻な問題である。
この世界には、いつから始まったのだろうか、その存在が堪えられないと感じるほどの悪(苦しみ)が。
人が悪を行うも善を行うも、その善と悪を享受するも拒むも、その決断する自由が、本当に平等にあるのならば。
そして、自由であるからこそ、そこに揺るがない"罪"として存在し得るのか。
人間が、本当に自由であると信じるとき、それは自分の身に降り掛かるすべての苦痛でさえ、みずからの自由の決断によって起こるべくして起こっていることを信ずるということである。
わたしはこのフランクルが何度と溢れる悲しみを抑えながら綴り続けたであろう『夜と霧』を読みながら感動で幾度も涙が流れたが、一つの深い不満を感じているのは、人間の"罪"の意識について、それが重要なものとして言及されていなかったと感じたからである。
罪の意識とは、顕在意識と潜在意識両方に存在できるが、その罪なる行為から目を背けている以上、例え人間が苦しみの底にあり続けようとも自分が赦される日が来ることを信じる(求める)ことはできないだろう。
わたしはこの本を人類が客観的視点、また過去に起きた悲劇として読んではならないと感じるのはまさに人類は未だ"本当"の強制収容所のなかに生きて死んでゆかねばならない存在(当事者)であることをわたしが知るからである。
もっとも、この強制収容所が現実に今もほとんどの国の場所に存在し続ける"断末魔の鳴り止まない地獄"の、その排泄物と血に汚れた場所とほとんどそっくりの在り方をしていることに気づいた読者は少なくないであろう。
"彼ら"もまた、自分にいつ"死"が訪れるかは知らない。
そして何故、自分たちがこのような"地獄"のなかで生きなくてはならないか、そして何故支配する者たちによって殺されねばならないか、その理由を知り得ない。
"彼ら"もまた、"人"として叫び続けているかも知れない。
「わたしたちは全くこれほどの酷い扱いを受けなくてはならないほどに悪いことをしたであろうか?」
"彼ら"は、助けてくれと、その悲痛なる"声"によって支配者に対して懇願する。
最期の最後まで、切実に"彼ら"は願う。
「わたしは殺されたくない。わたしは生きたいのだ。わたしは生きている。わたしにもあなたと同じ赤い血が流れている。あなたと何が違うのだろうか。」
ある日、囚人の為に、悦ばしいものが"食べ物"として与えられた。
囚人たちは夢中になって、その歓喜を挙げるほどに美味いものを口に運んだ。
そしてのちに、それが自分と同じ"仲間"だった者の"肉"であったことを知った。
それに気づいていながらも、それを味わって食べることをやめるすべを持たなかった。
わたしは想うのだが、これこそが、人間にとって、最も残酷な悲劇として、人間によって人間が人間で在り続けることを奪われる最も忌まわしく皮肉で悍ましい我々が経験し得る最悪な"罪"の意識として在ると言えるのではないか。
しかし実際には、どれほどの人がその罪の意識に最も苦しみ続けて生きて死んでゆけたであろうか。
わたしはこの本を読んで、最も気になったのは、本当に精神の倫理的、道徳的高みに達した極少数の人が、自分の身に起こる、時に堪えられないほどの苦痛と、みずからの"罪"の深層にある何より重く苦しい意識とを全く関係のないものとして切り離し続けて過ごしたのか、ということである。
つまり自分を"被害を受ける者"から、"加害を与えた者"としてみずからを省みて苦しむ瞬間が、どれほどあったのか。
これは原罪を信じる敬虔なクリスチャンやみずからの内にある善悪と常に向き合って来た仏教徒などばかりがここぞとばかりに与えられる特権的心理ではないはずである。
フランクルが、疲弊しきった心身を起こし、仲間たちに人間の救いを論ずる最後に、"犠牲"の価値(意味)について語り、それを聴き終えた者たちが涙して彼にぼろぼろの身体でよろめきながら歩み寄って感謝するシーンに、わたしは涙が流れた。
わたしもまた、人間にとって最も救いとなる意識は、みずから"犠牲"となることを望む精神にこそ在ると信じているからである。
しかしわたしの言う"犠牲"は、愛する者たちを最も救う為の犠牲ではなく、その意識には、自分が無関心を装い続けてきたすべての存在、そして何よりも自分がこれまで、愛することができなかったが為に、苦しめ、また殺して来た無数の存在たちに対する"罪"の意識がどうしても密接に関わっている必要があるのである。
聖書を繰り返し読み続けて来たであろうフランクル(彼の”神”なる超越した存在に対する想いは『人生の意味と神』という彼の神についての対話の本を今後読んで知りたいと想う。)が、堪えられない地獄の生活のなかで人間のなかに積み重なり続けて来たであろう目を背け続けて来た人々とみずからの罪と人間の救済の関わりについて考察してくれなかったことが真に残念でならない。
イエス・キリストの尊い犠牲は、人類の罪がなくては、必要がなかったのである。
人間にとって、最も重要な決断、みずからを、最も苦しい地獄から救い出す為の勇気ある決断、それは、自分が愛する者の為の犠牲となることではなく、寧ろ自分がその痛みと苦しみをわからなかったが為に、その地獄から救うことに関心も持たなかったが為に、地獄の底に突き落とし虚しく生命を終わらせ続けて来た存在たちの為に、人はどれほど苦しくともみずから犠牲となることを心から求め続け、それを成就させようとする決意、みずからの神との約束なのである。
だからイエス・キリストは「容易に愛することのできる者(自分を愛してくれる者)だけを愛したからといって何の報いがあるだろうか。」と言い、自分を苦しめて迫害した者の為に祈り続け、自分の地獄の苦しみによって人類の(堪えられないほどの)罪を贖うことを信仰し、"真の愛"こそが自らを救うことを"人"の手本として見せる為に拷問を受けて磔となって処刑されたのである。
終末に恐ろしい速度で向かっているだろう今、我々人類が、本当の滅びに至るまでに、この"自己犠牲"の決断をできるかが、一人ひとりに試されているのではないか。
そのとき、自分の護りたい存在だけを助けようとし、自分たちの苦痛ばかりに囚われ、自分の望む未来だけを希望するならば、到底、最早われわれは、間に合わないだろう。
そこには永遠に続くと感じる強制収容所と比べ物にならないほどの、未曾有の状態が待ち受けてるかも知れないのである。
このようなホロコーストが、ジェノサイドが、何故起こってしまったのか?を考え続けながら、大多数の人類が現に今関わり続けている無慈悲なホロコースト(大量虐殺)から目を逸らし続ける限り、悍ましく悲惨な歴史は繰り返されるだろう。
人はまさしく人でありながら支配する人間たちの利己的な意識の為に家畜となり、屠殺されるが如き"地獄の死"に向かって生かされ、そして実にほとんどの者が、その場所から生きて出られないのである。
しかし人間には、精神の自由があるはずではないか。
精神とは、潜在する深層にある意識である。
人は本当の苦しみの底に在るとき、自分が自分の生死を決める権限を持ってはいないのだと信じる必要があるだろうか。
人は自分が本当に殺されたくはないのに、殺されるときには自分の望みも虚しく殺されるのだということを信じる必要があるだろうか。
そしてその信仰によって、人は救われるだろうか。
人は真に救いを求めずにはいられぬほどに苦しみ続けた末に、自分は救われないことを信じて、自分の信仰によって虚しく救われないまま死ぬ必要があるだろうか。
わたしは、はっきりと言いたいが、人間の真の悲劇、真の不幸は、これ(堪えられないほどの地獄が持続し続ける苦しみ)を経験して死んだ者よりずっと、これを経験できないで死ぬことに在ると言いたい。
それは存在が永遠の無限の自由であることをわたしが信じる以外は、わたしがどうしてもこの世界に納得できないほどに、この世界も自分自身の人生も、堪え難い苦しみが絶えないからである。
フランクルの言った"光(喜び)と闇(苦痛)のコントラスト"は、真実を表している。
だからこそ、みずからどこまでも苦しもうとする者ほど、確かにどのような苦しみにも堪え忍ぶことのできる強さを与えられ、その者は、その力によって真の喜びを創造する未来をみずから約束し、みずからの放つ光によってみずからを救うことができ得るのである。
そしてみずからどこまでも苦しみを求むこととは、自分に堪えられるだけの苦しみを神が自分に与えることを真に信じる信仰であり、それによって初めて人は本当に恐れを手放し、我が人生のすべてに身を委ね、みずからの傷を癒やし、安心することができるだろう。
安易な希望と未来(みずからに都合の良い世界)を信じ、自分の罪も省みないで苦しみが取り除かれることを祈る道は自己を崩壊する道であるのに対し、ひたすら自分のすべての罪悪が正しく裁かれることを祈り続け、自分の愚かさを嘆き、すべてへの贖いとすべてを救う為に自分が堪え得る限りの苦しみの犠牲となることを祈り続ける道は、自己を真に救済する道であることをわたしは人々にもフランクルにも言いたい。
多分彼なら、わたしの言い分を快く認め、頷いてくれるように想える。
この一つの抜け出ることの許されぬ場所(地上)に生きる哀れな、ほとんど誰も読まない言葉を綴り続け、切実に救いを請い求め続ける罪深く愚かな独りの人間に対して。

最後に終盤で彼が語った印象的な言葉を載せる。



『われわれは「幸福」を問題としないのである。
 われわれを支えてくれるもの、
われわれの苦悩や犠牲や死に意味を与えることができるものは「幸福」ではなかった。」



















プロフィール 1981生 ゆざえ

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