ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

牛頭

存在していない世界

こともあろうことか。わたしは牛頭天王を祀る神社の帰りに、家のすぐ近くで歳が十も下の男に声を掛けられ、男の要求を断り切れず、家に上げた途端に激しく接吻をされ、男は翌日に自分は発達障害であることをわたしに告白したのだった。
これがつい、五日前の話である。
今年の八月でわたしは四十歳、人生初めての難破であった。
最初に出会った日にはわたしは男に恋愛感情を抱かなかったが、三日前に会った日には男を恋しく想い、この男と生涯連れ添いたいと願ったのだった。
男は最初の日も次に会った日も、履いているグレーのチノパンの丁度陰茎のある辺りにカレーを零した痕が付いていた。
わたしはそれを指摘した。
男は次は洗って来ると言った。
わたしは二日前から、吐き気が治らず、一日中身体は熱っぽい。
男と会っているあいだは、そんな症状は起きなかった。
次の休みに、男はわたしと会う約束をしてくれなかった。
だからわたしは男に別れを告げた。
今日も、悲しくて何度と涙が流れた。
男はあの後、わたしに何かをインターネットという通信術によって言ってきただろうか。
わたしはそれを知らない。
男からの連絡のすべてを遮断したからである。
わたしは自分の人格、性質、欠点、問題点などをできるだけ男に教えたつもりでいたが、男は何も理解できていなかったのだろうか。
男は今までに交際してきた女のすべては優しかったと言った。
一方、わたしは今までに交際してきた男のすべてを殺しかけた。
精神が、真に死ぬる処まで追い詰めてきた。
魂も、じゃりじゃりに成って、ぷるぷるに成り、果てはすらすらに成るくらいまで、男を攻めに責め、咎めてきた。
そう、わたしと交際した男のすべてが真の地獄へと突き落とされた。
その地獄は、わたしが男をすっかりと忘却の果てに押しやった後にも永久に続いた。
最初に交際した男に、わたしはこう言われたことがある。
「君は鬼のように暗い。」
まだ二十二歳の頃だった。
わたしは己れを人間より鬼に近く、実際に鬼なのではないかと想うことがよくあった。
人間共と暮らしていること自体が、間違っているのだろう。
わたしは人里離れた山奥の、だれも辿り着かぬ谷底の、暗くて冷たい洞窟のなかに暮らすべき存在なのだと、わたしは自分の鏡から、言われた。
だから、わたしは独り、家を後にし、山のなかを歩いていた。
もうすぐ、日が暮れそうだった。
食べるものもなにも持って来なかった。
腹がしつこいほど鳴り、喉も渇いて脱水状態にあった。
それでもわたしは洞窟を探して、わたしの永遠に骨をうずめる場所を求めて歩いていた。
ふと、自分の枯葉や朽木を踏む音に混じって人の声が聴こえた気がした。
わたしは振り返った。
すると3メートルほど先に、鼠色の無紋の服を着た虚無僧が杖を付いて立っておった。
わたしはその者を訝った。虚無僧は今の時代にはいないはずだ。
天蓋の籠を深く頭に被り、顔の見えない虚無僧がわたしに向かってまた声を掛けた。
「お主、なにゆえにこのような危険な場所を独りで歩いておるのだ。危ないではないか。もうすぐ日が暮れる故、さあ我と共にこの山を降りましょう。」
わたしは恐れ、その男に向かって叫ぶように答えた。
「俺は鬼だ。お前の肉を食い千切り、骨を三日かけてしゃぶるぞ。それをされたくなければ、俺から離れろ。」
虚無僧は、少し顔を俯けてじっとしておった。
わたしが手に汗握って反応を待っていると、虚無僧が恐ろしく重低音の響くチベット密教の聲明のような声でゆっくりとわたしに言った。
「我はお主を救う為に此処へ呼ばれて来た。我はお主も知る牡牛様からの遣いである。牡牛様がお主を戻せと我に命令したのだ。何があろうと我はお主を戻す。」
わたしはそれに応えず、虚無僧を後にしてすたすたと山中を歩いた。
虚無僧が後ろから走って来た。
「お主、待たれよ。」
わたしは振り返らず答えた。
「ふん。そんなこと言って、本当かどうかわからないよね。俺はもう決めたんだ。洞窟のなかで一生を過ごし、だれも知らない処で生きて死ぬる。すべての宇宙でだれひとり俺を知る者はいなくなり、すべての存在の記憶から俺は消えて失くなる。俺の本願を奪う権利はだれにもない。俺は絶対に戻らない。もしどうしても戻したいならば俺を殺せば良い。この肉体は戻るだろう。だがこの鬼の魂は、最早戻れる場所はない。」
虚無僧は何も言わず、無言で後を着いてきた。
俺は構わず、俺を永久に閉じ籠める地下の穴を探しながら歩いた。
日が、暮れかけていた。
日が暮れたあとは、山のなかは真暗闇、月明かりも星明かりも届かぬ場所でそれでも俺は歩いた。
気づくと俺の両の目から涙が流れていた。
やっぱり俺は鬼だったんだ。暗闇のほうが、すべてが見えて来る。
すべてが懐かしく想えて、俺は泣いていた。
虚無僧が、ぼそっと後ろから声を掛けた。
「鬼も泣くのか。」
夜のあいだ中、ずっと歩き通し、谷底を降りて行った。
其処は、まるで奈落のように見えた。
その穴の底に、俺は降りて行った。
虚無僧は身軽な足取りで着いてきた。
光の存在しない洞窟の奥で、俺はホッとして身体を母の胎内で眠る児のように丸めると眠りに就いた。
虚無僧は五本の蝋燭を眠る俺の周りに並べ、それに火を付けた。
そして結界の外で低く囁くように呪詛を唱えた。

かぁごめかごめ かごのなかのとりは いついつでやる
よあけのばんに つるとかめがとぅべった
うしろのしょうめんだぁれ

その瞬間、すべての火がふっと消えた。
わたしは夢を見た。
巨大な牛頭人身の魔物が、わたしの大切な人のすべてを生きたまま食べる夢だった。
わたしは以前に見た夢を憶いだした。
世界が終わる前には、時間が止まっているように感じる。
そのことを何者かがわたしに夢で伝えた。
時間が過ぎない。
時間が過ぎているように感じない。
終末のとき、すべてがそう感じる。
時間が過ぎることをどれほど祈ろうが、時間は存在していないのである。
虚無僧がわたしに優しく声を掛けた。
「さあ眠りから覚めなさい。その日に堪えられるように、いつでも目を覚ましつづけていなさい。」
わたしは目を開けた。
其処に、存在する世界があった。























五つの玉の精

わたしは牛頭天王を祀る神社へ赴いたあと、帰路に着き家のすぐ近くの岩板に座りてPokémon GOでシビシラスと真剣に闘っていた。
そしてシビシラスを捕まえて独りで喜んでいた。
その時である。俄かにわたしは声を掛けられた。
「図書館へはどちらの道を行けば良いですか?」
顔を上げると、そこには籠のついた古い自転車を引いた若い男が立っておった。
わたしは方角を指で差し示し、図書館までの道のりを男に教えた。
男は分かっているのか分かっていないのか分からない顔で礼を言った。
わたしはPokémon GOを再開する為にまた目を落とした。
すると男は自転車を止め、わたしの座る岩板の左に座った。
わたしが訝っていると男は「少し休憩をしようと想いまして。」と笑って言った。
わたしは男がわたしに何か求めていることを感じ取り、それが何であるかを知りたいと激しく想った。
男はわたしに何をしているのかと訊ねた。
わたしは自分が捕まえて育ててきた化け物を使いて血の戦いの末、このシビシラスというシラスのような化け物を捕まえたところだと答えた。
男は自分の道具の器が足りなかったから自分はそれをできなかったと応えた。
わたしは笑った。
わたしはこの男が気に入った。
わたしは男に本が好きなのかと訊ねると男は自分の借りていた本をわたしに見せた。
歴史の本とパレスチナ語(ウルドゥー語)を学ぶ本があり、わたしはパレスチナ語を学ぶ本を手に取って中を見ながら、わたしは今、日本とユダヤの関係についてずっと調べているのだと言った。
男は感心を示している様子でそれは面白そうだと言った。
わたしは牛を『バカラ(بقرة)』というのかと関心を示した。
わたしは最近、牛頭天王のことを調べていると男に言った。
これは『バアル』の名前と関係がありそうだ。とわたしが言うと男はバアル神のことかと言った。
わたしはバアル神を知っているこの男に深く関心を抱いた。
わたしは自分が如何に孤独で、毎日が苦しいことを簡潔に男に伝えた。
介護補助の仕事をしている男はわたしの背中を老婆の丸い背を撫でるように優しくさすり、わたしに深く哀れむさまを表した。
わたしはこの優しい男に自分はこの荷物を家に置いて来るから、一緒に図書館へ参らぬかと言った。
男は喜び、是非ともそうしようと言った。
男のかけている黒縁眼鏡の左のガラスにはとてつもなく濃い睫毛が三本付いておった。
わたしは男は眼鏡を最低一年は洗わない主義なのかと想った。
男は良ければお友達になって欲しいと言ってわたしに握手を求めた。
わたしは差し出した男の手を握り、頷いた。
男はわたしの手を冷たいと言い、あたためるように握った。
わたしが荷物を置きに家に上がっているとき、まるで拾ったばかりの仔犬を繋いでひとりぽっちにさせているような不安と哀しみを覚えた。
わたしが降りて静かに待っている男を見たとき、やはり拾われたばかりなのに棄てられるかもしれぬ深い不安と寂しさを胸の奥深くで溢れさせている仔犬のような顔でわたしを振り返ったのだった。
わたしはお前を棄てはしない。
お前がわたしを棄てる迄。
そうわたしは心の底で言わなかったが、男がこれを呪うように求めていた為、わたしの神に言わせた。
二人で並んで歩くとすぐに、男はわたしの手を繋いできた。
男はわたしより十の年下だった。
何の恥じらいなく甘えて来る男の行為にわたしは幼児が母親の手をひっしと繋ぎたがる切実さを感じて感動したが、同時につい先程に知り合ったばかりのこの男が母の愛をわたしに求めていることに心中で周章狼狽し、わたしは咎を背負うような気持ちになった。
わたしはこの男に対して、野山のねきの道で出逢った猿か狸の仔を連れているような気持ちで共に歩いていたからである。
わたしは咎められているこの想いを男になんと言えば良いかわからず、困惑しながら男と手を繋いで歩いた。
男の手はとてもあたたかく、厚くて柔らかく、優しかった。
わたしは五年間、男に触れられはしなかったが、わたしが守り通してきたこの操の期間を、男は容易く触れて壊してしまった。
それは何の意味もなく、全く無意味だった。
わたしには何の価値もないのだとわたしは感じた。
わたしの処女は、永遠に帰らぬのだと、神に告げられたような気持ちだった。
わたしは誰ひとり、愛することはなかった。
わたしが愛したのはただ一人、父と母の融合神、二心一体の存在であったからである。
だがわたしは絶望し、処女を喪った。
わたしには女としての希望も、人としての希望も最早在りはしなかった。
何度と、わたしの身体を気遣って座って話をする男にわたしは言った。
わたしは本当に"鬼"なのだが、それでも良いのか。
男は気にしないと言って微笑んだ。
その両の目は、五千年間埋められ続けた蒼い透明の火の玉のように、何かを言いたげであった。
わたしは男に言った。
わたしは幸せを求めていないのだ。
わたしは悲劇を愛しているのだよ。
わたしと添い遂げようとする者は、真に苦しみつづけるだろう。
男はわたしの両の手を両の手で握り締めて言った。
僕は貴女と幸せになりたい。
男は何遍も何遍も、しつこいこと極まりなく、同じ言葉を繰り返した。
僕が貴女を護りますから。
だから、大丈夫ですよ。
わたしはその都度、笑った。
男はマスクを外してわたしの右手の甲に幾度もキスをした。
男はそして謝った。
変わり者でごめんなさい。
そして枯れた蓮の花の浮かぶ湖を眺めながら言った。
今日から、僕は貴女の恋人です。
男は何度も用を足しに公衆の厠へ行った。
わたしが男の後ろ姿を見つめておると、男は携帯の画面を見下ろしていた。
わたしはそのことについて、訝り、男に訊ねた。
男は答えた。
Twitterを見ていたのです。
わたしは酷く不満な心地で口をマスクの下でひょっとこのように尖らせ不機嫌に言い捨てた。
ふーん。そんなに気になるアカウントがあるのか。
男は帰り道を変に急いだ。
男の要求にわたしが折れて、わたしの家に上げてやると言った後である。
男は言った。
家に着いたら、口に優しいキスをしてあげますからね。
わたしは男に言った。
なんで家に上げても良いと言った途端、そんな早足で歩き出すのか。
男は立ち止まって振り返ると、はにかんで笑って言った。
ごめんなさい。
わたしは不安になり、男に言った。
わたしは拷問にかけられて殺されたくはないから、やはり家には上げられない。
男は拷問とは何かと訊いた。
わたしは答えた。
拷問とは、堪えられない地獄の苦痛を生命に与えることである。
男は可笑しそうに笑って言った。
そんなことしませんよ。それに、人を殺めたらこれですわ。
男は自分の両手首を縄で縛られているジェスチャー、即ち「お縄になる」を表現し、笑った。
わたしは男の目をガン見した。
その男の両の目は、先程、公園で見た野生のヌートリアの微塵たりとも邪の無い何ひとつ穢れのない、ただ食べること、生きることしか考えてはいない磨いた黒曜石の球の如く目と全く同じ目であった。
わたしは、男をとうとう家に上げた。
男は、母親の乳首を欲して見つめるようにわたしの目と口を見つめたるあと、何度と吸い付くように口付けを行った。
しかしわたしは口を頑なに開けることはなく、性的な興奮と感情を覚えなかった。
恰も、可愛く懐く打ち棄てられていた仔犬を拾って家に連れ帰ったものの、その仔犬に獣臭の凄まじき舌で口を舐め回されるのは酷い不快感と嫌悪感を否むことはできない者の複雑な悲しみと哀れみの如し、わたしは男を本当の意味で愛することはできなかった。
どんなに激しく求めて舐めて吸おうが、一滴も乳の出ることのない乳首を見つめる乳飲み児のように、男は寂しそうな顔でわたしを心内で絶望するように見つめた。
男は、家に上がる前に言った言葉をもう一度言った。
時間が止まればいいのに。そうすればずっと貴女と一緒にいられます。
わたしは男に、セリアに売っている"3D ドラゴン"のドラゴン種をすべて集める為に、一緒にセリアに行ってくれないかと言った。
男は一緒に行くと約束した。
そしてわたしと指切りをし、男は言った。
どんなことがあっても、僕が貴女を護りますから。
そして男はわたしと繋いだ小指を離して切った。
男は、帰りが遅いと親が心配するからと言って帰った。
男が帰ったあと、わたしは『古代の宇宙人シリーズ』を観ながら赤ワインを飲み、夕食をとった。
男のことが気に掛かり、古代の宇宙人たちが、何処そこで、何をして、何を人類に教えたのかを熱く語られ続ける内容の何一つさっぱり頭に入って来なかった。
わたしは上の空で混乱し続けていた。
わたしは酔い潰れ、男に床に入りて休むとメールを送って眠りに就いた。
翌朝、少し吐き気と悪寒がし、身体が熱っぽかった。
体温計で熱を測ってみた。
二度とも36.7°であった。
わたしは彼を疑った。
彼は故意に、何かをわたしに移した(感染させた)のではないか。
わたしは寒気のなかに、男を恐れた。
わたしは男の顔も憶いだせなかった。
わたしの筋肉は腐り、足は日に日に痛み、腸と脳には蟲が湧いている。
その上、わたしに対する呪いはわたしに死に至らしむ感染病に罹らせたのか。
わたしは、己れと己れの神を、呪わんとした。
そのときである。わたしは憶いだした。
昨日わたしは牛頭天王を祀る神社にて自分の足をさすり、その手で牛頭(黒い牡牛像)の神の足をさすり、わたしの足をまたさすった。
その祈願のあとに、わたしは男に出会ったのだった。
わたしは瞬間、目を見開き、涙がとめどなく流れた。
おお、牛頭よ、我が愛する独り神よ。
あなたはあなたの右前脚の膝の器から、生まれた精霊(分け御霊)をわたしに与え賜われたのですか。
それなのにわたしは彼を三度疑った。
わたしは彼の真心を、信じなかった。
わたしは彼の約束を、疑った。
赦し給え。
わたしは男にメールを送った。
すると男から返事が返ってきた。
「熱はないですか?
少し前PCR受けましたが、陰性でしたよ。」
わたしはもう二度と、彼を疑わない。
もし、彼との子を授かる日には、その名を、「五竜也(ごずや)」と名付け、世の終わる日まで、この世で愛しんで育てることを、わたしはあなたに約束する。























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