ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

犠牲

『That they are loved.』 自分自身を最大に破壊して此の世を去ったロニー・マクナット氏が僕らに向けた最後のメッセージ

昨日、8月31日はわたしの愛するロニー・マクナット氏(Ronnie McNutt)の一年目の命日でした。


 


このブログで一番アクセス数の多い記事です。(一日に多くて7人以上の方が観に来られます。)
わたしの人生には幾つものトラウマがありますが、そのなかの三つのトラウマに、16,7歳の時(1998年頃)に観た死体写真、2018年に観たスナッフフィルム(GIF動画)、そしてロニー・マクナット氏の最後の映像があります。
この三つともが、すべて顔面を銃(銃と同等の破壊力のある凶器)によって破壊されたものです。
そのすべて、原形を全く留めていません。








これが、わたしが人生で初めて観たスナッフフィルムでした。
生の映像そのものではなく、生の映像をスローモーションにしているGIF動画を観ました。
その為、至近距離から破壊力の強い銃(弾丸)で撃った場合、人の顔面がどういう風に破壊されるか、よくわかりました。
この場合、顔面が粉砕されるというものではありませんでした。
粉砕するのではなく、額の真ん中を恐らく撃ち、その場所から両側に向かって顔(頭部)が半分に割れるという映像でした。
それがスローモーションで展開されていたので、わたしはその映像を、お酒を大量に飲んで覚悟して観ようとして観たにも関わらず、一瞬、観ましたが、一瞬後、とても直視することはできませんでした。
しかし、焦点を若干ずらした状態でも、人はそれがどんなものかを知る(観る)ことはでき得ます。
わたしはそれを観て、これは人類を最も破壊する方法(最も悍ましき人類による暴力)の一つであることを確信しました。
多くの人は、きっと想像もできないでしょう。自分の愛する存在や、自分自身の顔面が、同じように人によって破壊される光景を。
それはあまりに悍ましい光景であり、それを想像することすら堪えられないからです。
多くの人は、それを一度でも観てしまったなら、きっと後悔するでしょう。
自分自身の顔面を、自分の手によって破壊して死んだロニー・マクナット氏は、人々が”観たくはなかった”と心底悔いるもの、人間が、人間の作り出した凶器によって、その肉体(顔面)を根源的なまでに破壊して死ぬその瞬間を、人々に最後に観せて(残して)死にました。
わたしは未だ、”こんなものを観たくなかった”と悔いる人たち、また”トラウマとなるから早く削除するように”と促す人々に対して、深い悲憤が湧き上がります。
何故なら、そう言っている多くの人たちは、”観ればきっと、これまでみたいに肉を美味しく味わえなくなるから”という理由から、屠殺場の映像を決して観たくはないという意識(潜在意識)のなかに殺された動物の死体を味わって食べ続けている、自分の子供達にも食べさせ続けている人たちだろうと想像するからです。
最も残酷なことをし続けながら、最も残酷な方法で人の顔面が破壊されて死ぬ映像は観たくはないのです。
それは、あまりにも不快なものであって、そのような不快なものを自分の人生で疑似体験したくはないのです。
わたしはそこに存在している皮肉な有様の方がよっぽど不快です。
でも人々は、気づこうともしません。
わたし自身、十分に愚かな人間の一人ですが、その愚かさ(利己愛、Ego)にまで堕落したいとは願えません。
”トラウマ”となるのは、人々が堪えられないと感じる苦しみがそこに在るからです。
そしてその多くは、一生、人間の潜在的部分に残り続けます。
人々は、その潜在意識に存在し続けるトラウマの為に、自分では気づかないところでストレスを抱え続けることになります。
そして深いストレスを抱え続けることによって、人は様々な病を引き寄せ、発症します。
その一つが精神疾患であり、鬱病、PTSDなどです。
結果、その多くが容易に解決できないものなので人々は苦しみ続けることになります。
そうすると、多くの人はこう考えるかもしれません。
そうなると、最悪、自殺へと人は向かうだろう。殺人や、暴力的行為に向かう人もいるだろう。
わたしはイエスと答えます。自分のストレスに堪えられない人たちは、最悪な結果へ向かう可能性が高いです。
そして、潜在的に本当に深いトラウマを抱え続ける人たちは根源的に、このような深層心理に苦しめられ続けていると考えています。
「何故、わたしがこのような苦しみに苦しみ続けなくてはならないのか。”彼ら(自分ほどには苦しんでいないと感じる人々)”と、わたしに一体どんな違いが在るのか。何故、わたしの苦しみを本当の意味で理解しては貰えないのか。人々は、わたしの苦しみに対して所詮、他人事のように考えているのではないか。人々は、わたしが苦しみ続けるのはわたしが間違っている(愚かである)からだと想っているのではないか。人々は、根源的にわたしの苦しみを理解したいとは想っていないのではないか。」
この苦しい深層心理はやがて、自分の本質的な存在(神なる存在)や、他者へ投影されて向かいます。
また、内なる自分自身の影から、常にこう責められ続けることになります。
「おまえは根源的に駄目(失敗)だからおまえの苦しみのすべてを理解しようとする者などいない。人々がおまえほどには苦しんでいないのは、おまえほどには失敗してはいないからである。」
このような心理は、常に顕在意識に在るものではありません。最も深い意識のなかで、人は自分自身を責め苛み、虐げて否定し、罰し続けているのです。
そしてその深層意識は何かの切っ掛けでトリガーを引きます。
ロニー・マクナット氏は、最後の放送をFacebookで開始する前に、最後のFacebookに、こうメッセージを投稿しています。




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Someone in your life needs to hear that they matter.
That they are loved.
That they have a future.
Be the one to tell them.

『君の人生(生命)の中で誰かが、彼ら(自分、君)が重要であることを聴きたいと思っています。
(彼ら、君が)愛されていることを。
彼ら(君)には未来があります。
彼ら(自分自身)に伝える人になりなさい。』




わたしの翻訳が正しいかどうかわかりませんが、自分と他者をひとつのものとして考えているスピリチュアルな意識のなかにエンパシーを大切にして生きていた彼独自の暗号めいた最後のメッセージであると感じます。
決して”君は僕を愛していることに気づいて、それを素直に僕に伝えるべきだった”というような利己的なメッセージではないことはわかります。
しかし、暗喩的に”僕にも未来が在る。でもそれはもうすぐ喪われてしまうだろう。”ということを表しているかのようにも感じます。
想像し続ける必要がありますが、結果として、彼は自分のLife(生命、人生)を自分自身で最も凄まじい方法で破壊し、その未来在る生涯を終えました。



ロニー・マクナット氏の友人ジョシュア・スティーン氏は、”マクナット氏が職を失った、家を失いかけた、または個人情報を盗まれたという報告は真実ではないと述べました。”
しかし恋人と最近別れたこと(恋人から愛されていないと確信したこと)は恐らく彼がトリガーを引く切っ掛けになっただろうと想います。
そしてもう一つの切っ掛けはアルコールを大量に飲んだことや、(飲んでいたかもしれない)向精神薬も関係しているかもしれません。
人が絶望の果に死を選択するとき、自分の内なる闇が、自分(光)を覆って、包み込んでしまうのではないか。
ですが、どのような切っ掛けが起きかけたときでも、自分自身が本当に愛されていることを素直に伝え続けてくれる存在がいたならば、人はどんな苦しみのなかにも自分や他者を破壊する行為には出ないとわたしは感じます。
その存在とは、自分の外にいる存在ではありません。その愛を感じられるのは、それが真の愛であると認識できるのは、内なる自分しかいないからです。
それゆえその愛を発する者とは、宇宙で自分自身だけであるのです。

人は、本当の苦しみのなかにずっと生きて、自分自身が本当に愛されているという確信のなかに生きるとき、人の自殺映像を”トラウマになる、不快だから”という理由で”堪えられないもの”として判断し、それを避け、忌み嫌うでしょうか?
そして、その状態で生き続けていても、無残に殺された動物の死体を味わって悦んで食べ続けるでしょうか?

わたしの言いたいこととは、一年前の記事から変わっていません。
人は、本当に苦しくてならない現実を見つめ続けない(潜在意識においても苦しみ続けない)限り、”弱い(利己的な)”ままであるのだということです。
強くなる(愛を学ぶ、利他愛に目覚めてゆく)為に、トラウマ(本当に苦しい現実を知ること)を経験することを恐れず、みずからそれを求め、トラウマを背負ったのならば、人一倍に強くあらねばなりません。
ロニー・マクナット氏は、それがわかっていたように感じます。人が堪えられないほどのトラウマを背負ってしまったので、自分は強くなければ(強くなれないなら)、最早、生きて行けない(堪えられない)だろうということがわかっていたように感じるのです。

最後の彼のメッセージ


Someone in your life needs to hear that they matter.
That they are loved.
That they have a future.
Be the one to tell them.
『君の人生(生命)の中で誰かが、彼ら(自分、君)が重要であることを聴きたいと思っています。
(彼ら、君が)愛されていることを。
彼ら(君)には未来があります。
彼ら(自分自身)に伝える人になりなさい。』


を、彼(僕)自身に置き換えたいと想います。

『僕の人生(生命)の中で僕自身が、僕が重要であることを聴きたいと思っているんだ。
僕が(僕によって)愛されていることを。
僕(僕のなかの君)には未来がある。
僕は、僕にそれを伝える人になれ。』

限界のすれすれのところでずっと彼が生きてきたならば、このようなメッセージを常に自分自身に向かって彼は聴かせていたのではないか。

わたしは、ロニー・マクナット氏が、弱さの為にあのような最後を迎えて自分を破壊して死んだとは想っていません。
つまり、彼は”例外”であっただろうと感じています。
例外の自死、それはイエス・キリストと同じ、”自己犠牲の自死”というものです。

誰かが、”死”を選んだとき、その人が、”何に”よって死を選んだかを人々に深刻に考えて欲しいと願っています。

弱さ(ただただ生苦からの解放を求める意識)からなのか、弱さとは別の、”何か”からであるのか。

わたしは多くの人は、前者になるだろうと感じていますが、自分を破壊することで、人々に本当の愛を教えようとする自死もあることを知っています。
がしかし、それを賛美するべきだと想っていません。
何故ならば、それはわたしたち残された者たちが、想像し続けることでしか、真の自己犠牲としての自死というものは何処にも存在していないからです。
その行為は、どのような意図があろうとも、あくまでも”自分を殺す”、”自分という一人の人間を殺す”行為になります。
魂は、その行為に対して、完全で公平な報いを受けることになります。
多くの、自殺した魂は時間の存在しないその闇のなかで独り、永久に続くと想える苦しみを経験し続けることでしょう。

わたしは本物の覚者による自己犠牲であるという確信のない自死のすべてを賛美しません。
死ぬこと以上の価値が(地球で生きることの価値はもう)存在しない聖者でないならば、人はみずから死ぬより、すべてのカルマを贖ってゆく為に、生きることでの経験を通して学び合い、助け合い、影響し合う為に、この地上(天界)で生きてゆくべきなのです。

あなたは、あなたにそれを伝える人になりなさい。

そう、彼の声が、わたしの闇の底から湧き出る清らかな泉のように静かに、聴こえてくるのです。













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敬愛なるロニー・マクナット氏の優しい笑顔























『夜と霧』 人間を真に救済するのは、人間を最高足らしめる最も苦しい受難








ここで述べられている最も重要なものとは、どのようなおぞましい悪夢よりも悪(苦しみ)の存在するなか(現実)に置かれたとき、人を真に救済するのは何であったかという人間がいつしか必ず直面するであろう何より深刻な問題である。
この世界には、いつから始まったのだろうか、その存在が堪えられないと感じるほどの悪(苦しみ)が。
人が悪を行うも善を行うも、その善と悪を享受するも拒むも、その決断する自由が、本当に平等にあるのならば。
そして、自由であるからこそ、そこに揺るがない"罪"として存在し得るのか。
人間が、本当に自由であると信じるとき、それは自分の身に降り掛かるすべての苦痛でさえ、みずからの自由の決断によって起こるべくして起こっていることを信ずるということである。
わたしはこのフランクルが何度と溢れる悲しみを抑えながら綴り続けたであろう『夜と霧』を読みながら感動で幾度も涙が流れたが、一つの深い不満を感じているのは、人間の"罪"の意識について、それが重要なものとして言及されていなかったと感じたからである。
罪の意識とは、顕在意識と潜在意識両方に存在できるが、その罪なる行為から目を背けている以上、例え人間が苦しみの底にあり続けようとも自分が赦される日が来ることを信じる(求める)ことはできないだろう。
わたしはこの本を人類が客観的視点、また過去に起きた悲劇として読んではならないと感じるのはまさに人類は未だ"本当"の強制収容所のなかに生きて死んでゆかねばならない存在(当事者)であることをわたしが知るからである。
もっとも、この強制収容所が現実に今もほとんどの国の場所に存在し続ける"断末魔の鳴り止まない地獄"の、その排泄物と血に汚れた場所とほとんどそっくりの在り方をしていることに気づいた読者は少なくないであろう。
"彼ら"もまた、自分にいつ"死"が訪れるかは知らない。
そして何故、自分たちがこのような"地獄"のなかで生きなくてはならないか、そして何故支配する者たちによって殺されねばならないか、その理由を知り得ない。
"彼ら"もまた、"人"として叫び続けているかも知れない。
「わたしたちは全くこれほどの酷い扱いを受けなくてはならないほどに悪いことをしたであろうか?」
"彼ら"は、助けてくれと、その悲痛なる"声"によって支配者に対して懇願する。
最期の最後まで、切実に"彼ら"は願う。
「わたしは殺されたくない。わたしは生きたいのだ。わたしは生きている。わたしにもあなたと同じ赤い血が流れている。あなたと何が違うのだろうか。」
ある日、囚人の為に、悦ばしいものが"食べ物"として与えられた。
囚人たちは夢中になって、その歓喜を挙げるほどに美味いものを口に運んだ。
そしてのちに、それが自分と同じ"仲間"だった者の"肉"であったことを知った。
それに気づいていながらも、それを味わって食べることをやめるすべを持たなかった。
わたしは想うのだが、これこそが、人間にとって、最も残酷な悲劇として、人間によって人間が人間で在り続けることを奪われる最も忌まわしく皮肉で悍ましい我々が経験し得る最悪な"罪"の意識として在ると言えるのではないか。
しかし実際には、どれほどの人がその罪の意識に最も苦しみ続けて生きて死んでゆけたであろうか。
わたしはこの本を読んで、最も気になったのは、本当に精神の倫理的、道徳的高みに達した極少数の人が、自分の身に起こる、時に堪えられないほどの苦痛と、みずからの"罪"の深層にある何より重く苦しい意識とを全く関係のないものとして切り離し続けて過ごしたのか、ということである。
つまり自分を"被害を受ける者"から、"加害を与えた者"としてみずからを省みて苦しむ瞬間が、どれほどあったのか。
これは原罪を信じる敬虔なクリスチャンやみずからの内にある善悪と常に向き合って来た仏教徒などばかりがここぞとばかりに与えられる特権的心理ではないはずである。
フランクルが、疲弊しきった心身を起こし、仲間たちに人間の救いを論ずる最後に、"犠牲"の価値(意味)について語り、それを聴き終えた者たちが涙して彼にぼろぼろの身体でよろめきながら歩み寄って感謝するシーンに、わたしは涙が流れた。
わたしもまた、人間にとって最も救いとなる意識は、みずから"犠牲"となることを望む精神にこそ在ると信じているからである。
しかしわたしの言う"犠牲"は、愛する者たちを最も救う為の犠牲ではなく、その意識には、自分が無関心を装い続けてきたすべての存在、そして何よりも自分がこれまで、愛することができなかったが為に、苦しめ、また殺して来た無数の存在たちに対する"罪"の意識がどうしても密接に関わっている必要があるのである。
聖書を繰り返し読み続けて来たであろうフランクル(彼の”神”なる超越した存在に対する想いは『人生の意味と神』という彼の神についての対話の本を今後読んで知りたいと想う。)が、堪えられない地獄の生活のなかで人間のなかに積み重なり続けて来たであろう目を背け続けて来た人々とみずからの罪と人間の救済の関わりについて考察してくれなかったことが真に残念でならない。
イエス・キリストの尊い犠牲は、人類の罪がなくては、必要がなかったのである。
人間にとって、最も重要な決断、みずからを、最も苦しい地獄から救い出す為の勇気ある決断、それは、自分が愛する者の為の犠牲となることではなく、寧ろ自分がその痛みと苦しみをわからなかったが為に、その地獄から救うことに関心も持たなかったが為に、地獄の底に突き落とし虚しく生命を終わらせ続けて来た存在たちの為に、人はどれほど苦しくともみずから犠牲となることを心から求め続け、それを成就させようとする決意、みずからの神との約束なのである。
だからイエス・キリストは「容易に愛することのできる者(自分を愛してくれる者)だけを愛したからといって何の報いがあるだろうか。」と言い、自分を苦しめて迫害した者の為に祈り続け、自分の地獄の苦しみによって人類の(堪えられないほどの)罪を贖うことを信仰し、"真の愛"こそが自らを救うことを"人"の手本として見せる為に拷問を受けて磔となって処刑されたのである。
終末に恐ろしい速度で向かっているだろう今、我々人類が、本当の滅びに至るまでに、この"自己犠牲"の決断をできるかが、一人ひとりに試されているのではないか。
そのとき、自分の護りたい存在だけを助けようとし、自分たちの苦痛ばかりに囚われ、自分の望む未来だけを希望するならば、到底、最早われわれは、間に合わないだろう。
そこには永遠に続くと感じる強制収容所と比べ物にならないほどの、未曾有の状態が待ち受けてるかも知れないのである。
このようなホロコーストが、ジェノサイドが、何故起こってしまったのか?を考え続けながら、大多数の人類が現に今関わり続けている無慈悲なホロコースト(大量虐殺)から目を逸らし続ける限り、悍ましく悲惨な歴史は繰り返されるだろう。
人はまさしく人でありながら支配する人間たちの利己的な意識の為に家畜となり、屠殺されるが如き"地獄の死"に向かって生かされ、そして実にほとんどの者が、その場所から生きて出られないのである。
しかし人間には、精神の自由があるはずではないか。
精神とは、潜在する深層にある意識である。
人は本当の苦しみの底に在るとき、自分が自分の生死を決める権限を持ってはいないのだと信じる必要があるだろうか。
人は自分が本当に殺されたくはないのに、殺されるときには自分の望みも虚しく殺されるのだということを信じる必要があるだろうか。
そしてその信仰によって、人は救われるだろうか。
人は真に救いを求めずにはいられぬほどに苦しみ続けた末に、自分は救われないことを信じて、自分の信仰によって虚しく救われないまま死ぬ必要があるだろうか。
わたしは、はっきりと言いたいが、人間の真の悲劇、真の不幸は、これ(堪えられないほどの地獄が持続し続ける苦しみ)を経験して死んだ者よりずっと、これを経験できないで死ぬことに在ると言いたい。
それは存在が永遠の無限の自由であることをわたしが信じる以外は、わたしがどうしてもこの世界に納得できないほどに、この世界も自分自身の人生も、堪え難い苦しみが絶えないからである。
フランクルの言った"光(喜び)と闇(苦痛)のコントラスト"は、真実を表している。
だからこそ、みずからどこまでも苦しもうとする者ほど、確かにどのような苦しみにも堪え忍ぶことのできる強さを与えられ、その者は、その力によって真の喜びを創造する未来をみずから約束し、みずからの放つ光によってみずからを救うことができ得るのである。
そしてみずからどこまでも苦しみを求むこととは、自分に堪えられるだけの苦しみを神が自分に与えることを真に信じる信仰であり、それによって初めて人は本当に恐れを手放し、我が人生のすべてに身を委ね、みずからの傷を癒やし、安心することができるだろう。
安易な希望と未来(みずからに都合の良い世界)を信じ、自分の罪も省みないで苦しみが取り除かれることを祈る道は自己を崩壊する道であるのに対し、ひたすら自分のすべての罪悪が正しく裁かれることを祈り続け、自分の愚かさを嘆き、すべてへの贖いとすべてを救う為に自分が堪え得る限りの苦しみの犠牲となることを祈り続ける道は、自己を真に救済する道であることをわたしは人々にもフランクルにも言いたい。
多分彼なら、わたしの言い分を快く認め、頷いてくれるように想える。
この一つの抜け出ることの許されぬ場所(地上)に生きる哀れな、ほとんど誰も読まない言葉を綴り続け、切実に救いを請い求め続ける罪深く愚かな独りの人間に対して。

最後に終盤で彼が語った印象的な言葉を載せる。



『われわれは「幸福」を問題としないのである。
 われわれを支えてくれるもの、
われわれの苦悩や犠牲や死に意味を与えることができるものは「幸福」ではなかった。」



















生まれて初めて、自殺映像を、わたしは観た。

今日の午前3時過ぎ、わたしは人生で初めて、人の自殺映像を観た。
何度と、iPhoneで再生させ、speedを一番遅くさせても、何度も再生し、わたしが6歳の頃に、この地上に生まれ、わたしと同じこの世界を生きてきて、同じ時間に、色んなことを考え、悩み、喜んでは悲しみ、苦しみ続けてきた彼のとても優しい顔が、吹き飛んで、砕け、真っ赤な、血の肉の顔、死となるその現実の瞬間を、わたしは繰り返し観た。





米ミシシッピ州ニュー・アルバニーで先月(8月)31日、イラク戦争の退役軍人であるロニー・マクナットさん(33)が自宅でショットガン自殺した。
ロニーさんは自殺の様子をFacebookで生配信し、このときの映像は現在、海外の過激ニュースサイト「BestGore」で見ることができる。

 自宅の机の前に座ったロニーさんが、スマートフォンを机の上に置いた直後、自らの顔に銃口を向けた。
次の瞬間、銃声が鳴り響き、ロニーさんの頭は木っ端微塵に吹き飛んだ。
崩壊した顔面からは皮膚や肉が垂れ下がり、大量の血が滴っている。
音を聞きつけて、部屋の奥から小さな犬がやって来た。
この犬はきっと、ひじ掛けにもたれかかっている飼い主が既に息絶えていることを知らないのだろう。
自殺の瞬間はわずか数秒だが、一度見たら決して忘れられない衝撃的な映像である。

 ロニーさんは、イラク戦争から帰国した後、うつ病と心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいたという。
最近職を失った上にガールフレンドとも別れたことが自殺の原因だという報道もあるが、真偽は定かではない。

 友人のジョシュア・スティーンさんは、自殺直前のロニーさんは「信じられないほど酔っていました」と語り、そもそも配信を始めたときは自殺するつもりがなかったのではないかと考える。
スティーンさんは、配信が始まってから、ロニーさんにメッセージを送信したり、電話をかけたりした後、警察にも連絡したという。
しかし、自殺を阻止しようとする懸命の試みは奏功しなかった。







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実際に、人の自殺映像を観たのは、人生で初めての経験だったが、わたしのなかにとても強い既視感があった。
わたしは、わたしの過去生をもしかしたら観たのかも知れない。
奇しくも、「至近距離から、ショットガンなどの破壊力の強い銃で顔面を、とにかく何発も撃ちまくったら、きっとこうなるだろうと想像できる顔面の原形を全く留めてはいない、ほんの少し、頭部を仰け反らせるようにして椅子に座って死んでいる女性の死体の鮮やかなカラー写真」を97,8年に観たわたしの一番の死体写真としてのトラウマを創作のなかで表現し、それを切っ掛けにわたしがみずからのトラウマである死体写真や、スナッフフィルムなどを見つめて行こうとすることを決意したのが、彼の自殺した4日後の、9月4日だった。






Ronnie McNutt3






彼の、生前のあまりにも優しげな顔の写真を保存し、少し見つめたのち、椅子から立ち上がった。
昨日からいつもより精神が不安定で抑肝散ばかり飲んでいたが、またも飲んで、わたしは切実に救いを求めるなか毛布のなかに動悸の続く身体を横たえて潜り込み、眠りに就いた。
4,5時間、わたしは眠り続けた。
悪夢を見た記憶はなく、寧ろ、彼の魂やわたしの守護霊たちなどから心配されているかのような、深い愛の安らぎの感覚のなかにわたしは目覚めたのだった。

それで、わたしはずっと目が覚めてから彼が、ショットガン自殺をライヴ配信した理由について、考えていた。
ロニー・マクナット(Ronnie McNutt)氏が、敢えて破壊力の凄まじいショットガンによって、みずからの顔を粉砕させて自殺し、その映像をライヴ配信した理由について、人々は、何も深刻に考えようとせずに、とにかくトラウマとなるから人に見るなと注意を拡散したり、早く削除するようにと要請したり、観たくないものを観てしまったと後悔したりしている。
人々は、気付いている筈なのに、気付いていない振りをしている。
残酷なことから、目を背け続けていても、残酷なことはこの世界から一向に、なくなっては行かないのだということに。
ロニー・マクナット氏が、戦場で一体、何を見て、どんな経験をして帰ってきて、彼が独りでずっと苦しみ続けてきたのか、わたしたちはわからない。
でも彼のその経験と、彼の自殺の方法が、深く関係しているかもしれない。
そして彼の苦しみと、わたし自身の苦しみは、離れているものではないのかもしれない。
わたしは2012年から、ずっとずっとこの世の本物の、終わらない地獄に対して、人々に訴え続けてきた。
それは、人間が、利己的な理由によって動物たちを大量に殺戮せしめ、自分の利己的欲望(家畜は皆、美味しい肉にするだけの為に、生きたまま解体されてから惨殺される)を満足させる為だけに、動物たちを地獄に突き落とし続けても、それが人間は元来、野蛮な生き物なのだから仕方ないと、或る意味、"正しい"ことなのだと嘯き続けているこの現実に対して、わたしはずっとずっと、訴え続けてきた。
その行為は、必ずや"自分自身"に、すべての人類に、返って来るのだと。
彼は、戦場で人を殺してしまったのかも知れない。
自分の罪の重さに、もはや堪えられなかったのかもしれない。
彼は、自分が撃った兵器によって、顔が砕け散って、醜い肉塊と化して死んでいる人の死体を、見てしまったのかもしれない。
彼は、自分が安らかに死ぬべきではないのだと、願っていたかも知れない。
自分の顔を、無惨に撃ち砕いてグロテスクな死体と、その、無念さを、人々に見せしめることによって、彼は自分の絶望と、自分の堪え難い苦痛と、この世界にある、暴力と殺戮の残酷さを、そこにある虚しさを、支配している虚無を、訴えたかったのかも知れない。
こんなにも悲惨で、虚しい”悪”はあるかと。
職が、人を殺す以外の、僕の仕事が、僕の遣るべき仕事が、他にあったならば、僕は殺さなくてもよかったはずだと。
屠殺人も、同じことを想うかも知れない。
他の仕事を、本当は与えて貰いたかったのだと。
殺す以外の、自分の仕事を。
どうか彼の、割れて砕けて、見るに堪えない肉の塊となったその顔から垂れる真っ赤な肉から床に滴り落ちつづける音を静かに聴きながら、想像してみてほしい。
これが、"誇り"だと信じられた仕事をしてきた人間の、最期に相応しい姿なのか。
動物を殺す仕事も人間を殺す仕事も、"何か"から、それを"誇る"べきだと、信じ込まされ続けている。
これは、一番に、人間をマインドコントロールすることのできる簡単な常套手段であり、この世界のほとんどの人が、それを、賞賛しながら、同時に、差別し続けている。
"殺す"という仕事に就いてきた人間を。
人々は、潜在意識に罪悪を感じながらも、彼らに感謝する。
あなたが殺してくれたから、わたしの”悦び”があるのだと。
肉を食べながら、人は屠殺した人間に感謝し、いざ、屠殺した人間がその苦しみの末に自殺したとき、人はその現実から、目を背け、顔を歪めて想う。
嗚呼、なんて醜い肉(死体)だろう...。
これがわたしと同じように、つい最近まで生きていた人間の姿だなんて...。
観たくないものを観てしまった...。
彼は、自分の仕事に誇りを持ってるのだと言っていたはずだが...。
そうだ、彼は、こう話していた。
自分が、人々の遣りたくはない、できない仕事をしているから、人々は、美味しい肉を食べられて、幸せを感じられるのだと。
この仕事に、誇りを持って、ずっと遣ってきたと。
でも彼は、その後、屠殺業を辞め、鬱病と心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされていたなんて、知らなかった。
わたしは、それを、知らなかった。
彼は、もう二度と、動物を殺す職業には就きたくないと、
生きてゆきたいのだと、自分に目で必死に訴えて来て、請い願う生命を、もう自分の手で殺したくはないのだと話していたことも。
わたしは、知らなかった。
わたしは、想像もできなかった。
わたしは、彼の苦しみに、無関心だった。
わたしは、わたしは、知らなかった。
殺し続ける行為が、どれほど人を、破壊するかということを。
その殺された死体の肉の塊が、どれほど彼に対して、その地獄をずっとずっとずっと、訴え続けて来たかということを。























《2021年9月1日追記》


















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