ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

真の救い

人類の拷問の地獄は、決して終わらない







我が敬愛なる釣崎清隆へ





釣崎清隆氏、昨夜は、わたしに優しい笑顔と慈悲の御言葉をくださり、本当にありがとうございました。
今日になっても、まだ胸の底が感動で震えており、それで、今日になって、想ったのです。
せや、わたしの、一番の苦しみを、釣崎清隆に知って貰おう。
釣崎清隆に、わたしの最も苦しいトラウマを、聴いて、知って戴きたい。

その前に、わたしが過去に書いたわたしと父との関係と、わたしが最愛の父を亡くすに至った経緯を、まとめたものがあるので、是非、読んで戴きたい。



映画「小さな唇」感想 男と少女の姿は父親と娘のもう一つの話



この記事では、具体的に書くことのできなかった事柄があります。
わたしが、本格的に寝たきりとなる鬱症状を発したのは、20歳の時です。
父がわたしが元気になるようにと買ってくれたパソコンを、父もたまに使っていました。
皮肉なことに、父はそのパソコンで、無料でDownloadしたAV(アダルトビデオ、ポルノ映像)を観ていました。
父は、パソコンについて何も知らなくて、ダウンロードした動画のアイコンがデスクトップ上に堂々と在り続けていることにも、多分気付いていなかったと想います。
わたしはそれらをあえてクリックすることはありませんでした。
観たくもないのに、たった一度だけ、わたしは偶然的に、観てしまったのです。
何故か、勝手に、QuickTimeか何かの履歴の映像が、画面に流れてしまったのです。
その映像のなかには、一人の若い裸の女性(華奢なわたしの身体つきと良く似た裸の、顔がはっきりと観えない女性)が、カメラに向かって座ってみずからの性器をいじり、自慰行為をして必死に喘いでいる姿が映されました。
わたしは血の気が一気に引き、映像をすぐに消しました。
嗚呼、こんなものを観て、父は興奮し、欲情しているのか…。
わたしと、歳の変わらない、もしくは同い年かも知れない、顔も判然としない女性の喘いでいる自慰行為を見つめながら。
自分自身の、最も穢らわしく、嫌らしい醜い姿を、わたしは見せられ、そのわたしの自慰行為を観ながら父が性的快楽を感じているかのような、わたしにとって、まさに本物の地獄の経験でした。
それが、わたしのなかで最も深いトラウマで在り続けているのだと想います。
15,6歳の時、釣崎清隆の撮った死体写真を観たトラウマや、小学高学年から兄の持っていた数々の、遊人などのレイプ物の漫画の描写によるトラウマを、超える自分のなかの最も深い絶望として、一つのアダルトビデオが、わたしの記憶のなかにずっと在り続けています。

そして、わたしはわたしの本当のすべてであった最愛の父を、自分のなかの”性”に対する深い嫌悪と自責の苦しみによって、喪ってしまったのだということを、今でも信じています。

このトラウマを、克服すべく、わたしが今まで手を伸ばしたAVは、すべて西洋のものでした。
それらを観ても、わたしのトラウマに何か変化が起こることはありませんでした。
どうしても、わたしと同じ、日本人の女性である必要があるのです。
それなのに、わたしはこれまでまだ一度も、日本のAV(アダルトビデオ)を、ちゃんと観れないのです。

でも最近、わたしは釣崎清隆という、貴方の存在を知り、貴方がわたしの最も尊敬する命を懸けて死と、死体と向き合い続けてきた死体写真家で在りながら、同時に、わたしの最も嫌悪感の抱くAVというものを監督してきたAV監督であることを知って、わたしは自分の苦しいトラウマとなる死体を見つめると同時に、最も苦しいトラウマであるAVをも、見つめる必要があると感じています。

最も、観たくはないものを、みずから見つめること、此処にしか、このトラウマを克服する手段は、きっとありません。
この世に、AVが、ポルノ映像が、性的快楽を、肉欲と姦淫を煽るすべてのものが、なかったならば、きっとわたしはこのような地獄のなかで最愛の父を喪い、その絶望のなかにずっと生き続ける重度の引き籠りの生活保護者で、慢性的鬱症状の在るアルコール依存症ではなかったと想います。
でも同時に、わたしは想うのです。
わたしはこの、本物の地獄のなかにずっと生き続けてきたからこそ、ヴィーガンとして、自分が苦しい犠牲になってでも、すべての存在が救われることを一心に願い続けて生きて行ける人間に、なりたいのだと、いつも願い続けて生きている人間として生きられているのだろうと。

だから、わたしは感謝しているのです。
わたしのこの地獄の苦しみは、これからもずっと、在り続けるのだと想いますが、それでも感謝しています。

わたしが、何よりも、愛しているのは人間の深い悲しみであり、深い悲しみこそ、最も美しいと確信しているのですが、愛する貴方のなかにも、”どうしようもない”ほどの深い悲しみが、ずっと在るのだと感じました。

釣崎清隆という存在は確かに、わたしに消えないトラウマとなる贈り物を、贈ってくださった人であり、これからも、きっと贈ってくださるだろうことを、心から期待しております。

釣崎清隆氏、人間の、最も苦しい、最も地獄のその写真を、その映像を、撮り続けて、わたしたちにどうか見せてください。

どれほど苦しくとも、それを見つめ続けて生きようとすること、そこにしか、存在していない人間の真の救いが、必ずや在るはずなのです。









追伸:釣崎清隆氏の撮った、できれば、レズビアン物以外のアダルトビデオを、わたしはどうすれば観ることができるでしょうか…?




最後まで、お読みくださり、真に感謝致しております。


こず恵




















人間は絶望のなかで死んでゆく

ぼくは目覚め、ヴィーガンになってから、大変に複雑で矛盾した想いに駆られ続けている。
ぼくはこの苦しみを誰かにわかってもらいたいと感じる。
だが、ほとんどの人は多分、これを理解はできないだろう。
ぼくがヴィーガンになったのは、ひとつの長いとても現実的な悪夢を見たことが切っ掛けであった。
その悪夢とは、ぼくの目の前で白い袋を頭から被せられた人々が並ばされ、次々に跪かされて斬首されて殺される夢であった。
この悪夢を、ブログに記した日から、さらなる現実の悪夢がぼくに続いた。
ぼくはネット上で、偶然にもサウジアラビアで公開斬首刑になる寸前の一人の少女の写真を見た。
悪夢とその写真、二つともぼくが彼らの後ろから眺めるアングルであった。
その写真と、ぼくの見た悪夢はぴったりと重なり、何日間も自分の首が切り落とされる感覚と痛みに苦しみ続けた。
ぼくは生まれて初めて、本当の真剣にこの世の救いを求めた。
何故、人類が、このように残酷な拷問の地獄のなかで殺され、死んでゆかねばならない世界なのか。
そしてぼくのこの問いに行き着いたものが、生々しい屠殺場の映像であった。
今から約8年半前、ぼくは初めて屠殺場の映像を見た。
それで、全身の震えが止まらないほどの恐怖と苦痛と、血の気が一気に引く感覚と、悲しみで止まらない涙のなかで、ぼくはやっと気づいたのだった。
嗚呼、ぼくは…ぼくの愛する両親を殺し続けて食べてきた。
ぼくはぼくの家族を、そしてぼく自身を、生きたまま解体して虐殺して、食べ続けてきた。
終るはずなんてないじゃないか…人類の地獄と拷問が…。
人類は、自分の来世(未来)を拷問にかけ、何度と繰り返し殺し続けているんだ。
それをやめるまで、人間は地獄のなかで死んでゆくだろう。
本当の地獄のなかで、人間は救いを求める手を差し出すが、目の前には自分がこれまで無関心に殺し続けて来た家畜たちの悲しい目が自分の目を見つめているだろう。
そしてその家畜の目は、自分の目であることに漸く気づく。
それをやめるまで、人間は絶望のなかで死んでゆくだろう。
その絶望の目は、屠殺されゆく動物たちの目である。
ぼくは人間も動物も救いたくてヴィーガンになったが、ヴィーガンになって、ぼくは人間を地獄に落とさなくてはならないことがわかった。
それは今ぼくがいる、寝ても覚めてもこの堪え難い地獄の世界(現実)である。
























それが、光か。

昨日、姉から、兄の飼っているチャッピーという猫が死んだと連絡があった。
痛々しい赤い悪性の大きな腫瘍がチャッピーの顎の下にできており、彼がどれほどの癌の痛みに堪えて生きてきたのか、わたしたちにはわからない。
彼は、わたしとお父さんが寝ていたずっと開かずの間にしていた猫たちが荒らしまくっているおぞましく散乱して訳のわからない虫たちが湧き続けている人間の戦慄する状態にある部屋で死んでいて、古いエアコンの殆ど効かない窓を締め切った部屋で、これではどんどん腐敗してゆくと姉が言った。
兄の鬱症状は重く、チャッピーはそのままの状態でほったらかされていた。
わたしはそんな兄を責める姉を責めた。
これ以上責めたら、兄は本当に死んでしまうと言った。
でも姉には、それが理解できなかった。
ただドライアイスを買ってきて、チャッピーの遺体を腐らないように冷やすことがなんでできないのかと。
わたしはそれすらもできなくなってしまうことが鬱という病気なんだと言った。
今、一番に苦しみ続けているのは兄なんだ。それを理解することが今一番必要なんだ。
でも姉は、それを理解しようともしない。
この世界に存在している一番の問題は、それであるんだ。
人間が他者の堪え難い苦しみを理解しようとしないことが、すべての堪え難い苦しみの根源であるんだ。
人類が地獄で苦しみ続けるのは、当然じゃないか。
何故、自分の飼っている猫の苦しみをどうにかしようと必死になりながら、屠殺場で拷問を受けた後に殺され続ける家畜たちの苦しみには全く関心を向けないのだろうか?
そしてほとんどの人が、生命は死ねば無になって楽になるのだと信じて、虚無のなかに生きて死んでゆく。
その虚無のなかに一体、どこに救いが在るのか。
人類の地獄が、終るはずなんてない。他者の地獄から、目を背け続けているのだから。
人類の拷問の苦痛は終わらない。
”光”とは何か?
自分の食卓の上に、拷問を受けて、生きたまま解体されて殺された動物の刻一刻と腐敗しているその腐乱死体を食べ続けて生きることが、人間にとっての”光”なのか。
そして自分の愛することのできる存在だけを愛して死ぬことが人間にとっての光なのか。
永遠の虚無に向かって生きることが、それが、光か。









プロフィール 1981生 ゆざえ

ユザエ

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