ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

自殺映像

『That they are loved.』 自分自身を最大に破壊して此の世を去ったロニー・マクナット氏が僕らに向けた最後のメッセージ

昨日、8月31日はわたしの愛するロニー・マクナット氏(Ronnie McNutt)の一年目の命日でした。


 


このブログで一番アクセス数の多い記事です。(一日に多くて7人以上の方が観に来られます。)
わたしの人生には幾つものトラウマがありますが、そのなかの三つのトラウマに、16,7歳の時(1998年頃)に観た死体写真、2018年に観たスナッフフィルム(GIF動画)、そしてロニー・マクナット氏の最後の映像があります。
この三つともが、すべて顔面を銃(銃と同等の破壊力のある凶器)によって破壊されたものです。
そのすべて、原形を全く留めていません。








これが、わたしが人生で初めて観たスナッフフィルムでした。
生の映像そのものではなく、生の映像をスローモーションにしているGIF動画を観ました。
その為、至近距離から破壊力の強い銃(弾丸)で撃った場合、人の顔面がどういう風に破壊されるか、よくわかりました。
この場合、顔面が粉砕されるというものではありませんでした。
粉砕するのではなく、額の真ん中を恐らく撃ち、その場所から両側に向かって顔(頭部)が半分に割れるという映像でした。
それがスローモーションで展開されていたので、わたしはその映像を、お酒を大量に飲んで覚悟して観ようとして観たにも関わらず、一瞬、観ましたが、一瞬後、とても直視することはできませんでした。
しかし、焦点を若干ずらした状態でも、人はそれがどんなものかを知る(観る)ことはでき得ます。
わたしはそれを観て、これは人類を最も破壊する方法(最も悍ましき人類による暴力)の一つであることを確信しました。
多くの人は、きっと想像もできないでしょう。自分の愛する存在や、自分自身の顔面が、同じように人によって破壊される光景を。
それはあまりに悍ましい光景であり、それを想像することすら堪えられないからです。
多くの人は、それを一度でも観てしまったなら、きっと後悔するでしょう。
自分自身の顔面を、自分の手によって破壊して死んだロニー・マクナット氏は、人々が”観たくはなかった”と心底悔いるもの、人間が、人間の作り出した凶器によって、その肉体(顔面)を根源的なまでに破壊して死ぬその瞬間を、人々に最後に観せて(残して)死にました。
わたしは未だ、”こんなものを観たくなかった”と悔いる人たち、また”トラウマとなるから早く削除するように”と促す人々に対して、深い悲憤が湧き上がります。
何故なら、そう言っている多くの人たちは、”観ればきっと、これまでみたいに肉を美味しく味わえなくなるから”という理由から、屠殺場の映像を決して観たくはないという意識(潜在意識)のなかに殺された動物の死体を味わって食べ続けている、自分の子供達にも食べさせ続けている人たちだろうと想像するからです。
最も残酷なことをし続けながら、最も残酷な方法で人の顔面が破壊されて死ぬ映像は観たくはないのです。
それは、あまりにも不快なものであって、そのような不快なものを自分の人生で疑似体験したくはないのです。
わたしはそこに存在している皮肉な有様の方がよっぽど不快です。
でも人々は、気づこうともしません。
わたし自身、十分に愚かな人間の一人ですが、その愚かさ(利己愛、Ego)にまで堕落したいとは願えません。
”トラウマ”となるのは、人々が堪えられないと感じる苦しみがそこに在るからです。
そしてその多くは、一生、人間の潜在的部分に残り続けます。
人々は、その潜在意識に存在し続けるトラウマの為に、自分では気づかないところでストレスを抱え続けることになります。
そして深いストレスを抱え続けることによって、人は様々な病を引き寄せ、発症します。
その一つが精神疾患であり、鬱病、PTSDなどです。
結果、その多くが容易に解決できないものなので人々は苦しみ続けることになります。
そうすると、多くの人はこう考えるかもしれません。
そうなると、最悪、自殺へと人は向かうだろう。殺人や、暴力的行為に向かう人もいるだろう。
わたしはイエスと答えます。自分のストレスに堪えられない人たちは、最悪な結果へ向かう可能性が高いです。
そして、潜在的に本当に深いトラウマを抱え続ける人たちは根源的に、このような深層心理に苦しめられ続けていると考えています。
「何故、わたしがこのような苦しみに苦しみ続けなくてはならないのか。”彼ら(自分ほどには苦しんでいないと感じる人々)”と、わたしに一体どんな違いが在るのか。何故、わたしの苦しみを本当の意味で理解しては貰えないのか。人々は、わたしの苦しみに対して所詮、他人事のように考えているのではないか。人々は、わたしが苦しみ続けるのはわたしが間違っている(愚かである)からだと想っているのではないか。人々は、根源的にわたしの苦しみを理解したいとは想っていないのではないか。」
この苦しい深層心理はやがて、自分の本質的な存在(神なる存在)や、他者へ投影されて向かいます。
また、内なる自分自身の影から、常にこう責められ続けることになります。
「おまえは根源的に駄目(失敗)だからおまえの苦しみのすべてを理解しようとする者などいない。人々がおまえほどには苦しんでいないのは、おまえほどには失敗してはいないからである。」
このような心理は、常に顕在意識に在るものではありません。最も深い意識のなかで、人は自分自身を責め苛み、虐げて否定し、罰し続けているのです。
そしてその深層意識は何かの切っ掛けでトリガーを引きます。
ロニー・マクナット氏は、最後の放送をFacebookで開始する前に、最後のFacebookに、こうメッセージを投稿しています。




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Someone in your life needs to hear that they matter.
That they are loved.
That they have a future.
Be the one to tell them.

『君の人生(生命)の中で誰かが、彼ら(自分、君)が重要であることを聴きたいと思っています。
(彼ら、君が)愛されていることを。
彼ら(君)には未来があります。
彼ら(自分自身)に伝える人になりなさい。』




わたしの翻訳が正しいかどうかわかりませんが、自分と他者をひとつのものとして考えているスピリチュアルな意識のなかにエンパシーを大切にして生きていた彼独自の暗号めいた最後のメッセージであると感じます。
決して”君は僕を愛していることに気づいて、それを素直に僕に伝えるべきだった”というような利己的なメッセージではないことはわかります。
しかし、暗喩的に”僕にも未来が在る。でもそれはもうすぐ喪われてしまうだろう。”ということを表しているかのようにも感じます。
想像し続ける必要がありますが、結果として、彼は自分のLife(生命、人生)を自分自身で最も凄まじい方法で破壊し、その未来在る生涯を終えました。



ロニー・マクナット氏の友人ジョシュア・スティーン氏は、”マクナット氏が職を失った、家を失いかけた、または個人情報を盗まれたという報告は真実ではないと述べました。”
しかし恋人と最近別れたこと(恋人から愛されていないと確信したこと)は恐らく彼がトリガーを引く切っ掛けになっただろうと想います。
そしてもう一つの切っ掛けはアルコールを大量に飲んだことや、(飲んでいたかもしれない)向精神薬も関係しているかもしれません。
人が絶望の果に死を選択するとき、自分の内なる闇が、自分(光)を覆って、包み込んでしまうのではないか。
ですが、どのような切っ掛けが起きかけたときでも、自分自身が本当に愛されていることを素直に伝え続けてくれる存在がいたならば、人はどんな苦しみのなかにも自分や他者を破壊する行為には出ないとわたしは感じます。
その存在とは、自分の外にいる存在ではありません。その愛を感じられるのは、それが真の愛であると認識できるのは、内なる自分しかいないからです。
それゆえその愛を発する者とは、宇宙で自分自身だけであるのです。

人は、本当の苦しみのなかにずっと生きて、自分自身が本当に愛されているという確信のなかに生きるとき、人の自殺映像を”トラウマになる、不快だから”という理由で”堪えられないもの”として判断し、それを避け、忌み嫌うでしょうか?
そして、その状態で生き続けていても、無残に殺された動物の死体を味わって悦んで食べ続けるでしょうか?

わたしの言いたいこととは、一年前の記事から変わっていません。
人は、本当に苦しくてならない現実を見つめ続けない(潜在意識においても苦しみ続けない)限り、”弱い(利己的な)”ままであるのだということです。
強くなる(愛を学ぶ、利他愛に目覚めてゆく)為に、トラウマ(本当に苦しい現実を知ること)を経験することを恐れず、みずからそれを求め、トラウマを背負ったのならば、人一倍に強くあらねばなりません。
ロニー・マクナット氏は、それがわかっていたように感じます。人が堪えられないほどのトラウマを背負ってしまったので、自分は強くなければ(強くなれないなら)、最早、生きて行けない(堪えられない)だろうということがわかっていたように感じるのです。

最後の彼のメッセージ


Someone in your life needs to hear that they matter.
That they are loved.
That they have a future.
Be the one to tell them.
『君の人生(生命)の中で誰かが、彼ら(自分、君)が重要であることを聴きたいと思っています。
(彼ら、君が)愛されていることを。
彼ら(君)には未来があります。
彼ら(自分自身)に伝える人になりなさい。』


を、彼(僕)自身に置き換えたいと想います。

『僕の人生(生命)の中で僕自身が、僕が重要であることを聴きたいと思っているんだ。
僕が(僕によって)愛されていることを。
僕(僕のなかの君)には未来がある。
僕は、僕にそれを伝える人になれ。』

限界のすれすれのところでずっと彼が生きてきたならば、このようなメッセージを常に自分自身に向かって彼は聴かせていたのではないか。

わたしは、ロニー・マクナット氏が、弱さの為にあのような最後を迎えて自分を破壊して死んだとは想っていません。
つまり、彼は”例外”であっただろうと感じています。
例外の自死、それはイエス・キリストと同じ、”自己犠牲の自死”というものです。

誰かが、”死”を選んだとき、その人が、”何に”よって死を選んだかを人々に深刻に考えて欲しいと願っています。

弱さ(ただただ生苦からの解放を求める意識)からなのか、弱さとは別の、”何か”からであるのか。

わたしは多くの人は、前者になるだろうと感じていますが、自分を破壊することで、人々に本当の愛を教えようとする自死もあることを知っています。
がしかし、それを賛美するべきだと想っていません。
何故ならば、それはわたしたち残された者たちが、想像し続けることでしか、真の自己犠牲としての自死というものは何処にも存在していないからです。
その行為は、どのような意図があろうとも、あくまでも”自分を殺す”、”自分という一人の人間を殺す”行為になります。
魂は、その行為に対して、完全で公平な報いを受けることになります。
多くの、自殺した魂は時間の存在しないその闇のなかで独り、永久に続くと想える苦しみを経験し続けることでしょう。

わたしは本物の覚者による自己犠牲であるという確信のない自死のすべてを賛美しません。
死ぬこと以上の価値が(地球で生きることの価値はもう)存在しない聖者でないならば、人はみずから死ぬより、すべてのカルマを贖ってゆく為に、生きることでの経験を通して学び合い、助け合い、影響し合う為に、この地上(天界)で生きてゆくべきなのです。

あなたは、あなたにそれを伝える人になりなさい。

そう、彼の声が、わたしの闇の底から湧き出る清らかな泉のように静かに、聴こえてくるのです。













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敬愛なるロニー・マクナット氏の優しい笑顔























生まれて初めて、自殺映像を、わたしは観た。

今日の午前3時過ぎ、わたしは人生で初めて、人の自殺映像を観た。
何度と、iPhoneで再生させ、speedを一番遅くさせても、何度も再生し、わたしが6歳の頃に、この地上に生まれ、わたしと同じこの世界を生きてきて、同じ時間に、色んなことを考え、悩み、喜んでは悲しみ、苦しみ続けてきた彼のとても優しい顔が、吹き飛んで、砕け、真っ赤な、血の肉の顔、死となるその現実の瞬間を、わたしは繰り返し観た。





米ミシシッピ州ニュー・アルバニーで先月(8月)31日、イラク戦争の退役軍人であるロニー・マクナットさん(33)が自宅でショットガン自殺した。
ロニーさんは自殺の様子をFacebookで生配信し、このときの映像は現在、海外の過激ニュースサイト「BestGore」で見ることができる。

 自宅の机の前に座ったロニーさんが、スマートフォンを机の上に置いた直後、自らの顔に銃口を向けた。
次の瞬間、銃声が鳴り響き、ロニーさんの頭は木っ端微塵に吹き飛んだ。
崩壊した顔面からは皮膚や肉が垂れ下がり、大量の血が滴っている。
音を聞きつけて、部屋の奥から小さな犬がやって来た。
この犬はきっと、ひじ掛けにもたれかかっている飼い主が既に息絶えていることを知らないのだろう。
自殺の瞬間はわずか数秒だが、一度見たら決して忘れられない衝撃的な映像である。

 ロニーさんは、イラク戦争から帰国した後、うつ病と心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいたという。
最近職を失った上にガールフレンドとも別れたことが自殺の原因だという報道もあるが、真偽は定かではない。

 友人のジョシュア・スティーンさんは、自殺直前のロニーさんは「信じられないほど酔っていました」と語り、そもそも配信を始めたときは自殺するつもりがなかったのではないかと考える。
スティーンさんは、配信が始まってから、ロニーさんにメッセージを送信したり、電話をかけたりした後、警察にも連絡したという。
しかし、自殺を阻止しようとする懸命の試みは奏功しなかった。







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実際に、人の自殺映像を観たのは、人生で初めての経験だったが、わたしのなかにとても強い既視感があった。
わたしは、わたしの過去生をもしかしたら観たのかも知れない。
奇しくも、「至近距離から、ショットガンなどの破壊力の強い銃で顔面を、とにかく何発も撃ちまくったら、きっとこうなるだろうと想像できる顔面の原形を全く留めてはいない、ほんの少し、頭部を仰け反らせるようにして椅子に座って死んでいる女性の死体の鮮やかなカラー写真」を97,8年に観たわたしの一番の死体写真としてのトラウマを創作のなかで表現し、それを切っ掛けにわたしがみずからのトラウマである死体写真や、スナッフフィルムなどを見つめて行こうとすることを決意したのが、彼の自殺した4日後の、9月4日だった。






Ronnie McNutt3






彼の、生前のあまりにも優しげな顔の写真を保存し、少し見つめたのち、椅子から立ち上がった。
昨日からいつもより精神が不安定で抑肝散ばかり飲んでいたが、またも飲んで、わたしは切実に救いを求めるなか毛布のなかに動悸の続く身体を横たえて潜り込み、眠りに就いた。
4,5時間、わたしは眠り続けた。
悪夢を見た記憶はなく、寧ろ、彼の魂やわたしの守護霊たちなどから心配されているかのような、深い愛の安らぎの感覚のなかにわたしは目覚めたのだった。

それで、わたしはずっと目が覚めてから彼が、ショットガン自殺をライヴ配信した理由について、考えていた。
ロニー・マクナット(Ronnie McNutt)氏が、敢えて破壊力の凄まじいショットガンによって、みずからの顔を粉砕させて自殺し、その映像をライヴ配信した理由について、人々は、何も深刻に考えようとせずに、とにかくトラウマとなるから人に見るなと注意を拡散したり、早く削除するようにと要請したり、観たくないものを観てしまったと後悔したりしている。
人々は、気付いている筈なのに、気付いていない振りをしている。
残酷なことから、目を背け続けていても、残酷なことはこの世界から一向に、なくなっては行かないのだということに。
ロニー・マクナット氏が、戦場で一体、何を見て、どんな経験をして帰ってきて、彼が独りでずっと苦しみ続けてきたのか、わたしたちはわからない。
でも彼のその経験と、彼の自殺の方法が、深く関係しているかもしれない。
そして彼の苦しみと、わたし自身の苦しみは、離れているものではないのかもしれない。
わたしは2012年から、ずっとずっとこの世の本物の、終わらない地獄に対して、人々に訴え続けてきた。
それは、人間が、利己的な理由によって動物たちを大量に殺戮せしめ、自分の利己的欲望(家畜は皆、美味しい肉にするだけの為に、生きたまま解体されてから惨殺される)を満足させる為だけに、動物たちを地獄に突き落とし続けても、それが人間は元来、野蛮な生き物なのだから仕方ないと、或る意味、"正しい"ことなのだと嘯き続けているこの現実に対して、わたしはずっとずっと、訴え続けてきた。
その行為は、必ずや"自分自身"に、すべての人類に、返って来るのだと。
彼は、戦場で人を殺してしまったのかも知れない。
自分の罪の重さに、もはや堪えられなかったのかもしれない。
彼は、自分が撃った兵器によって、顔が砕け散って、醜い肉塊と化して死んでいる人の死体を、見てしまったのかもしれない。
彼は、自分が安らかに死ぬべきではないのだと、願っていたかも知れない。
自分の顔を、無惨に撃ち砕いてグロテスクな死体と、その、無念さを、人々に見せしめることによって、彼は自分の絶望と、自分の堪え難い苦痛と、この世界にある、暴力と殺戮の残酷さを、そこにある虚しさを、支配している虚無を、訴えたかったのかも知れない。
こんなにも悲惨で、虚しい”悪”はあるかと。
職が、人を殺す以外の、僕の仕事が、僕の遣るべき仕事が、他にあったならば、僕は殺さなくてもよかったはずだと。
屠殺人も、同じことを想うかも知れない。
他の仕事を、本当は与えて貰いたかったのだと。
殺す以外の、自分の仕事を。
どうか彼の、割れて砕けて、見るに堪えない肉の塊となったその顔から垂れる真っ赤な肉から床に滴り落ちつづける音を静かに聴きながら、想像してみてほしい。
これが、"誇り"だと信じられた仕事をしてきた人間の、最期に相応しい姿なのか。
動物を殺す仕事も人間を殺す仕事も、"何か"から、それを"誇る"べきだと、信じ込まされ続けている。
これは、一番に、人間をマインドコントロールすることのできる簡単な常套手段であり、この世界のほとんどの人が、それを、賞賛しながら、同時に、差別し続けている。
"殺す"という仕事に就いてきた人間を。
人々は、潜在意識に罪悪を感じながらも、彼らに感謝する。
あなたが殺してくれたから、わたしの”悦び”があるのだと。
肉を食べながら、人は屠殺した人間に感謝し、いざ、屠殺した人間がその苦しみの末に自殺したとき、人はその現実から、目を背け、顔を歪めて想う。
嗚呼、なんて醜い肉(死体)だろう...。
これがわたしと同じように、つい最近まで生きていた人間の姿だなんて...。
観たくないものを観てしまった...。
彼は、自分の仕事に誇りを持ってるのだと言っていたはずだが...。
そうだ、彼は、こう話していた。
自分が、人々の遣りたくはない、できない仕事をしているから、人々は、美味しい肉を食べられて、幸せを感じられるのだと。
この仕事に、誇りを持って、ずっと遣ってきたと。
でも彼は、その後、屠殺業を辞め、鬱病と心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされていたなんて、知らなかった。
わたしは、それを、知らなかった。
彼は、もう二度と、動物を殺す職業には就きたくないと、
生きてゆきたいのだと、自分に目で必死に訴えて来て、請い願う生命を、もう自分の手で殺したくはないのだと話していたことも。
わたしは、知らなかった。
わたしは、想像もできなかった。
わたしは、彼の苦しみに、無関心だった。
わたしは、わたしは、知らなかった。
殺し続ける行為が、どれほど人を、破壊するかということを。
その殺された死体の肉の塊が、どれほど彼に対して、その地獄をずっとずっとずっと、訴え続けて来たかということを。























《2021年9月1日追記》


















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