ゆざえのDiery'sぶろぐ

想像の森。 表現の駅。 幻想の家。

自罰

映画『SHAME -シェイム-』 兄と妹が求め合う完全なる愛




『エイリアン:コヴェナント』であまりに美しいアンドロイドを演じたマイケル・ファスベンダーが観たくて、セックス依存症の兄と恋愛依存症とリストカット依存のある妹の話ということだけ知って、良さそうな映画だと感じたのでこの映画を観た。
観るまでは、わたしはまるで当事者ではないような気持ちでこの映画を観始めた。
しかし観ていくなかで、わたしは自分と兄の関係を観ていることがわかった。
この映画はあからさまな兄と妹の共依存(相互依存)の関係が描かれているが、わたしと兄の場合、互いにそれをずっと隠し合い続けてきた。
兄とわたしは、ブランドンとシシーのように言いたいことをぶつけ合えるような瞬間がこれまでなかったように感じる。
わたしは兄に甘えられるときはなかった。
兄はいつも本当に些細なことでわたしを罵り、心から軽蔑し、酷いときは顔に痣ができたり柱に頭を思い切りぶつける、思い切り蹴るなどの暴力を奮った。
わたしは兄を殺人犯にしてしまうことを恐れ、父が死んで兄と二人で暮らしてきた家を出た。
兄は、わたしの知る限りはセックス依存症ではない。
しかしこの映画の主人公のブライドンのように、”人(女性)を好きになれない”人間であり、例え交際した女性と関係を持っても、一緒に暮らしたい、結婚したいなどの気持ちが芽生えることがないと話していたことを姉から聴いた。
一方、わたしは22歳のときに最愛の父を亡くしてから初めて男性と交際し始め関係を持ち、セックス依存症ではないが性に対してあまりに奔放に(サイトで出会った男性とその場限りの関係をし続けて)生きてきたし、39歳の今でも好きになった人に激しく依存する境界性パーソナリティ障害の症状が抜けることがない。
ブライドンもシシーも、確実に幼い時分の親からの愛情の飢えが関係しているだろう。
わたしは兄が6歳のときに生まれてわたしが2歳のときに母が乳がんを発覚し、その2年後に母は他界した。
兄はまだ母からの愛情を一途に欲していた時期にわたしに母を横取りされ、潜在意識でわたしに対する嫉妬が常にあったことだろう。
わたしはわたしでまだ乳離さえできていたかわからない頃に母が入院して母と引き離され、それは寂しい想いをしたことだろう。
母に対する愛情飢餓を、兄とわたしは今度は父に対して全力で満たすために求めて生きてきたはずだ。
しかし、父はどうしても息子であり上の子でも在るわたしの兄に対しては厳しく、また時には過保護であり、わたしは末の娘なので兄に比べて甘やかされて育てられてきたのだと想う。
兄もわたしも、父に対して言いたいことを言えるような関係ではなかった。
それほど父は威厳があり、また不器用な人で、容易に刃向かえない(父を苦しめることができない)ほどにわたしも兄も父を深く愛していた。
でも父が本当に心配していたのはわたしだった。
それは、わたしのほうが遥かに激しく父に依存して、父もまたわたしに依存していたからだと想う。
だがその共依存の関係が父とだけではなく、兄ともあるのを知ったのは父が他界した翌年の頃だった。
兄は鬱で働く気力のないわたしにいつも暴力を奮った。それに堪えられずに一度目に家を出たとき、帰ってきたら兄は長年安定して務めることができていた正社員の仕事を辞めていた。
姉が「おまえが出て行ったから○○(兄の名)は仕事辞めたんやで。」と責めるように言った。
ほとんどの兄と妹がそうではないのだろうが、わたしが10歳の頃、16歳の兄はわたしに性的関心があり、兄がわたしに性的欲求を求めて来ることが恐ろしくてトイレに父が帰ってくる時間まで閉じ籠もっていた時期があった。
しかしわたしに対する兄の性的欲求は奥深くへと閉じ籠められたかのように、わたしが成長するにつれて表には出ないようになった。
わたし自身、父にも兄にも顕在意識で性的欲求を覚えたことはない。
だがその想いは複雑であり、父や兄と性的な関係を持つ夢は幾度と見るし、愛する理想の男性を想い浮かべて性的な感情に満たされているときに、よく父と兄の存在は夢想する男性と入れ替わるように出てきてはその都度わたしを苦しめる。
もしかしたら兄もそんな複雑な苦しみを抱えてきたのだろうかと想う。
わたしは、セックスで満たされたと感じた経験がない。
自分の書く小説は自然と近親相姦的な話ばかりになってきた。
現実で、愛する男性によって満たされることを諦めているというよりも、わたしはそれを求めていないと感じる。
わたしが求めているのは、常に母と父と兄との愛であり、それは決して性的(肉体的)な次元のものではない。
その愛を、性的な次元で満たすことは不可能なのである。
そのことを、わたしも兄もわかっているし、この映画の兄と妹であるブライドンとシシーもわかっているからこそ、苦しみ続けている。
言うなれば、本当に愛する存在から愛され続けるという欲求を満たすとは、”肉体的”なものなのである。
愛する者を独占したいというこの欲望こそ、”肉欲”なのである。
それをどうしても得られないとき、人は相手に対する愛憎の念を潜在的に抱えずにはいられない。
本当に愛する存在(父と母と兄・妹)に対する潜在意識の愛憎の本質とは、”自分がダメだから愛されないんだと感じる自己憎悪・自責”の意識である。
だから愛されないダメな自分に対する自罰行為として、最も手っ取り早く、自分を最も苦しめて傷つけ、破壊せしめることのできる行為、自傷行為(セックスやリストカットやアルコール)に依存してしまうのである。
この依存症を克服するのは、あまりに困難である。
しかし克服するために、必要なものがある。
それは自分の”外”には、決して何も求めないということである。
わたしはずっとずっと、”完全なる愛”をわたしの外に求め続けて生きてきた。
何故、わたしは愛されないのか。何故、最も求める愛を、得られないのか。
そう叫び続けてきた。
しかし何故、それが在ると信じてきたのだろう。
わたしのなかにないならば、わたしの外にもない。
みずからの”内”に存在している愛に目覚めるまで、何故そのすべては虚構であるとわからなかったのか。
わたしの母(父・兄)なのだからわたしは完全なる愛によって愛されるべきだという根底にある観念が、わたしをずっと苦しみの底に突き落としてきた。
昨日か一昨日だったか、こんな夢を見た。
わたしと兄の今までの悲劇のすべては、並行世界(パラレルワールド)では起きていなくて、わたしは今でも兄と仲良く暮らしているのだと兄に教えるという、とても悲しい夢だった。
わたしが兄との仲を、取り戻すことは死ぬまでできないとわかっている。
家を出てからは、わたしは兄に何も求めることはなくなった。
その代わり、兄のすべてを赦してきた。
そして自分を赦してほしいと祈り続けて生きてきた。
その想いをずっと持ち続けるならば、いつの日か、きっと死後だと想うが、わたしと兄は、本当に心から赦し合える日が来るかもしれない。






追記:わたしと父、わたしと兄は、過去生では互いに深いカルマを負い合うほどに苦しめ合った恋人の関係にあったのだろうと感じている。
母の愛情の飢餓や、性質の遺伝などでここまで依存し合わなくてはならないのだとは想えない。
父は母の死後、あらゆるものを犠牲にしてわたしと兄を育ててくれた。
わたしも兄も父のその愛をわかっていた。
しかしそれでも、わたしと兄は父の愛に激しく不満を抱いて苦しんでいた。
この映画では親が毒親であって、それが原因であるかのように想わせる台詞があるが、近親相姦愛やセックス依存性や恋愛依存症はそれほど単純な原因によるものではないだろう。



劇中に出てくる兄ブランドンのPCのHD内にあったファイル用語”Creampi”とはなんだろうと検索してみると”膣内射精”の隠語だった。
この映画の兄妹は私と同じキリスト教徒の親のもとに生まれ、聖書の教えのもとに育てられたのかもしれない。
聖書は絶対的に避妊や、姦淫(配偶者以外との性行為、配偶者以外の人間を性的な目で見ること、即ちポルノビデオの鑑賞などすべて)を禁じている。
それは神に背く行為である為、セックス依存や性の奔放さは最も罪深い自罰(自傷)行為の一つとなるのである。
膣内射精は夫婦の契りと神から子を授かる為の重要な行為である。
その神聖なる行為を夫婦以外が行ったポルノビデオを鑑賞するという行為がどれほど罪深くて神(自分自身)を悲しませる背徳行為であるかをブランドンはわかっており、その行為によってどこまでも自分を破壊してゆけることを願っていたのだろう。




追記:16日
この映画を見終わったあと、晴れやかになる気持ちはなく寧ろ苦しいのだが、毎日この映画を観たくなるのは確かなカタルシスを生んでいる作品だからだろう。
自分が無意識に避け続けてきた兄との問題について深く考えさせてくれる。
わたしは父には甘えられる時があったが、兄には甘えられなかった。
でもそれは兄の愛を感じられなかったからではなく、兄がそれを拒んでいるように感じていたからだと想う。
普段は、兄はいつもわたしにアホなことを言ってお腹が苦しくなるほど笑わせてくれたりするような人だった。
でもほんのちょっとしたことで兄はわたしにキレて、恐ろしい形相でわたしという人間に対する蔑みと憎しみをぶつけてきた。
父も怒ると怖かったが、兄は父の何倍も恐ろしかった。
父が死んでから、わたしは遊び目的ではなく、真剣に支え合える人を求めて出会い系サイトで知り合った男性とよく会うようになった。
ある時、当時働いていなかったわたしが家に帰ってきて、何処へ行ってたのかと兄に訊ねられ、わたしが素直にネットで知り合った男性にハンバーガーを奢ってもらったことを伝えると、兄はあからさまにわたしを見下す顔で笑いながら「その見返りにヤラせたんか。」とわたしに言った。
わたしはそう言われたとき、あまりにショックで確か返事ができなかった気がする。
”妹に対する愛憎や嫉妬”という言葉ではとても言い表すことのできない複雑な感情が兄のなかにはあったのだと想う。
兄は自分の顔が、妹であるわたしの顔とよく似ていると言っていた。
それは外面よりも、内面がよく似ていることをわたしも兄もわかり合っているのだと感じる。
互いに、苦しくてならない人生だが、兄はそれでも生きており、わたしも生き抜くことを願っていることが、今の唯一の救いであると感じる。




追記18日:
ブランドンとマリアンがレストランでボーイからラムの焼き加減に”ピンク色”を勧められるシーンについて、ずっと考えていた。
黒人であるマリアンの肌の色は焼かれたラム(仔羊)のその表面の色を表しており、黒人の肌の色によって目立つピンク色の女性器の色は仔羊の肉の生焼けの色を表していると想えてならない。
これは卑猥な意味合いではなく、聖書的な意味(人間としての罪の意味)合いがあるように感じる。
かつてわたしは「悲しみの男カイン」という小説でカインという男が性欲のうちに貪る女と食欲のうちに貪る肉を同じものとして考えることを表現した。
そしてその罪が同等のものであることをこの主人公はわかっていた。
仔羊が望んでいるのは、焼かれて食べられ、虚しく生命を終えることではない。
同様に、この映画のマリアンも、虚しい関係をブランドンと持ち、自分が仔羊のように貪られて終わることを望んではいない。
スティーヴ・マックイーン監督がそれを意図していたかはわからないが、表現とは自分の意図していない部分をも示すものであり、それ故に色んなことを深く考えさせられる。




















Mince

死体をミンチ状にしたことって、経験ある?
どうしたの。突然…。
マグロとかさ、たたきにしたことある?俎板の上で。
あるかな…。記憶に無いけど…。
そういう感じにさ、人間の顔面をミンチ状にしたいなって想ったことある?
…ないよ。
そう…。可笑しいね。僕もないけど、見たんだ。
何を?
今朝、見たんだ。女性の顔を、ミンチ状にする夢を。
またえらい悪夢見たね…。
貴方の撮った死体写真の影響だよ。
そうか…。
最初は、大きなシャベルで切断して、細かく切り刻んでゆくんだ。
仰向けになっている女性の顔を。
夢のなかだから、なんでもありで、上手く切断できるんだよね。
でもそのあと、ミンチ状にするっていう工程なんだ。
彼女の頭部はさ、最初からミンチ状になるっていう決まりがあって、人類の大半が、それを認めてるんだ。
彼女の顔はさ、最初からミンチ状になる為に、存在していたものだし、彼女の顔面はミンチ状になる為に、ずっとその顔が、そこに存在していたって事なんだよ。
ツリが撮った死体写真もさ、ミンチ状まで行かないとしても、それに近い状態のものがあったじゃん。
そうだね。
その人たちもさ、そうなる未来が、決まっていたんだよ。
肉の塊、ブロックやたたき、その違いがあるだけでさ、人間が調理して食べる肉と同じようなものにさ、最期はなるために、その顔が、その身体が、その肉があったんだよ。
でも誰も食べないでしょ…。
いや、食べるんだよ。
誰が?
遺された人間たち。遺された者たちがさ、食べるんだ。食べやすいためにさ、ほら、よく死体写真にもモザイクがかけられてるんじゃん。屠殺場の映像と同じにさ、見せたくないんでしょ。グロすぎるって言ってさ。同じだよ。神聖で穢されるべきものじゃないからモザイクかけるんじゃないんだ。ひたすらグロくて、不快で、人間が精神病まないで生きてくためにさ、見せるべきじゃないって魂が死んでる人たちがさあ、想うからだよね。
人間の顔だってさ、マグロのたたきや牛や豚や鶏のミンチ(挽肉)と変わりないでしょ。
何の為に存在してるの?マグロのたたきや牛や豚や鶏のミンチ(挽肉)を美味いっつって何とも想わずに食べてきた人間の顔がさ、何の為に存在してるの?
同じものでできてるのにね。死体喰い続けて来た人間がさ、生きてるなんてほざいてさ、生きてるわけないのにね。
生きてないからさ。最初から生きてなんていないのわかってたからさ、ミンチにしてやったんだ。僕が彼女の顔を。
まだ生きてる間にしただろってさ、非難受ける筋合いなんてないよ。
ミンチの顔の人間たちにさ。
手前ら、死ねじゃなくって、生きろよって(笑)生きてから非難しろよ。
で、僕の顔、今日ビデオに撮ってさ、Instagramに投稿したんだけどさ、ミンチ状になってんの(笑)僕の顔がさあ。
それで想いだしたんだ。嗚呼、そうだった。僕、散々ハンバーグとか、餃子とか、つみれとか、メンチカツとか、麻婆豆腐とかさ(笑)喰って来たじゃんって。それ全部、僕が僕の顔をミンチ状にしたやつだった!って想いだして、僕の顔が存在してるわけないってやっとわかったんだ。
そうだよ、時間が無いんだから、この世界は本当は。すべて、僕の食べてきた肉は僕の死体だったし、僕は一生懸命に、自分の食べる死体の為に、僕の顔を切断し、細かく切り刻んで、砕いてたんだ!
毎日、毎日、毎日…!
おぞましい、腐乱死体の姿で。
自分自身の顔をミンチ状にするその行為を延々と、繰り返し続けるんだ。
すべての、死体を食べ続ける人類のように。


























ツリの煩悶地獄 四

ツリは、彼の命懸けで撮り続けて来た死体写真集、『THE DEAD』 の刊行に寄せての言葉のなかで、こう述べていた。







「世界は残酷だ。

 それでも世界はやはり美しい。」






僕は、そんなツリに、昨日、Twitterのダイレクトメールで、こう問うた。

ツリの愛する人が、こんな最期を迎えても、「世界は美しい」と、言えるのですか…?と。

















しかし、わたしはツリから、とうとう答えて貰わぬ内に、アンフォローされてしもうた。
理由は、ダイレクトメールによる「私信の濫用」であるようだ。
わたしは昨夜、朝から夜までずっと、酒を飲んでおった。
昨日はわたしの愛兎、みちたの、一回忌であった。
とにかく、ずっと飲んでいた。何も、何も、何もしたくなかった。
何もしたくなかったから、愛する死の同志であるツリに、何度と切実に話し掛けた。
酩酊状態で、何もしたくなかった。
僕のメッセージをスルーし続けるツリに、僕は切実にこう厭味を言った。
『自分のドウデモイイツイートはするのに、わたしの切実なメッセージは読んで戴けないのですね。』
ツリは、いい加減、怒(いか)った。
「一度冷静にご自身の書き込みをかえりみてもらえますか? 
その上で、これ以上分をわきまえないようでしたらブロックするしかありません。
私信を濫用しないでください。
ただそれだけです。
僕はこう見えても忙しいんですよ。」
と優しく言いながらも、心では、想い切り、ムカついていた。
僕はツリと、その後、約一時間ほどかけて少し会話したのち、9人おったフォロワーの、ケロッピー前田氏を含む、8人全員を、アンフォローさせた。
そして、嬉々として、ツリに、言った。
「フォロワーがツリだけになった!」
数秒後、ツリは、僕を無言でアンフォローした。(僕は謝罪の言葉を一言も言っていない。)
僕は、絶望にうちひしがれ、ツリを、罵りたくなった。
寝ても、目が醒めると、ツリに対する悲憤と不満が溢れてきて、とうとう、ツリに電話を掛けた。
留守電やった。
僕は、緊張しながらも、絶望と悲しみとアルコールの残留で朦朧としながらも留守電にこう遺した。
「何故、教えて、戴けなかったのでしょうか...?
 何故、釣崎清隆氏の、撮ったアダルトビデオを、どうしたら、観れるのか?
 という質問に対し、答えて戴けなかったのでしょうか...?
 良ければ、御答えください。ガチャっ。」
そう必死に、蚊の哭くような声で、きれぎれに言って、携帯の受話器を置いた。
ツリから、電話は掛かってこない。
彼は、僕に対して元々、真摯に向き合いたいという気持ちが、あらへんのです。
いいえ、彼は、根源的に、人を、愛せないのです。
だから、「世界は美しい。」と、言って退けるのです。
違いますか?
ほとんどの人は、生きたまま解体された動物の惨殺死体を喰らいながら、笑ってる。
その世界を見ても、「世界は美しい。」と、言えるのは、ツリが人を愛せない人間だからなのです。
愛していないから、別に、人が、誰が、地獄に堕ちようとも、ドン底に突き落とされようとも、
拷問を受けて死のうとも、ええのですと、想っとるのです。
違いますか?
卵を大量生産する為に、雄のひよこは全員、






このように毎日、毎日、大量に生きたままミンチにされている。
それを観ても、ツリは、言うのデス。
「それでいて世界は美しい。」
レンダリングプラントで、瀕死の牛や馬がブルドーザーで運ばれてきて、丸まま巨大撹拌機に投げ込まれ、そのなかで、地獄の底からの悲鳴と絶叫を上げる者がいようとも、









ツリは、言うのデス。
「世界は美しい。」
生きているのに、手脚を切断される人間と動物が、なくならないこの世界を見て、ツリは、それでも言う。
「世界は美しい。」
ははは、そうだよ、ツリ、貴方にとっては、世界は美しいのDEATH 。
人を、動物を、愛せない貴方にとって、世界は本当に、美しいのDEATH 。
耀いているのDEATH 。キラキラ光り続けていて、眩いのDEATH 。
目が眩むほどに。
貴方の愛する娘が、家畜の如くに、レイプされ、生きたまま解体されるか、生きたままミンチにされようとも、世界は光り耀き続け、眩むほど、美しいのDEATH 。
嗚呼、そんな人間が、この世界にどれ程いるだろうか...!
20代で、スプラッターポルノ・SM・レイプ物のAVを監督し、その後、四半世紀も死体写真を撮り続けて来た男が、普通であるはずがないやろう。
普通の感覚で、人間を愛することなんかできないのDEATH 。
狂気も病気も、とうに超えてしまっているんDEATH 。
普通に人間を愛せないのDEATH 。
人間を苦しめることが、人間を地獄に突き落とすことが、ツリの人間に対する愛なんDEATH 。
ははは、僕は、最初の最初から、それに気づいていたんDIE 。
そうでなければ、僕はツリを、愛さなかった。
僕はだから、ツリが、本当に、どうしようもないほどに悲しくて、美しい存在であると、確信した。

僕なんだよ。
俺なんだ。

わたしは、人間を、愛せない。

だれも、愛せない人間DEATH 。

愛する貴方と同じに。








「世界は残酷だ。

 それでも世界はやはり美しい。

私はただひたすら美に殉じたいと願うばかりだ。」

釣崎清隆







IMG-8613


























プロフィール 1981生 ゆざえ

ユザエ

タグ絞り込み検索
記事検索
Diary & Letters of Westley Allan Dodd
20170112162110
管理人の別Blog

あまねのにっきずぶろぐ
20170112162110
sirosorajpnonikki’s blog
20170112162110
note:yuzae
20170112162110
メッセージ

名前
メール
本文
最新コメント
QRコード
QRコード
RSS
  • ライブドアブログ