自分は1981年生まれで80年代と90年代に、最も重要な経験をして来たと言える人間である。
97年に酒鬼薔薇事件が起きて深く影響され(5年間、彼と自分を重ね合わせ、恋をし続け)、97,8年に兄の持っていたBURSTで釣崎清隆の撮った死体写真を観て衝撃を受け、深くトラウマとなり続けながらも、丸尾末広の「笑う吸血鬼」や糞尿まみれの童貞厠之助や「少女椿」の徳利児鞭棄などに本物のエロスを感じ、月刊ガロを読み耽り、猟奇的なものに官能的なものを覚え、フィッシュマンズの佐藤伸治の死に泣きながら暮らしていた90年代(十代)を生きて来て、最も愛する漫画家は華倫変で、生涯の師匠は町田康であるわたしが、サブカルチャーにあまり詳しくなくて、”カウンターカルチャー”という言葉すらつい最近知った。
Tattoo、ドラッグ、人体改造、エロ、ハードコア類…どれも興味がないのである。
はっきり言って、何一つそこに惹かれるものはない。
寧ろ、不快さを感じるし、面白くない。
そんなわたしが一番愛する映画とはアレックス・コックス監督、ゲイリー・オールドマン主演の「シド・アンド・ナンシー」である。
わたしが、約24年振りに、昔の「BURST」を買い占め、この「BURST GENERATION」を買ったのは主にたった一つの理由、死体と、釣崎清隆という人間を見つめるためである。
読んでいて、ほとんどはつまらぬ記事だと感じたのだが、非常に切ない気持ちにさせられるものも幾つかあった。
だが全体的に切なく、嗚呼、この雑誌きっと続かないんじゃないのか。という儚さを感じさせられる感覚であり、直観的にこの雑誌は、今この世界に求められているように感じなかったのである。
だが全体的に切なく、嗚呼、この雑誌きっと続かないんじゃないのか。という儚さを感じさせられる感覚であり、直観的にこの雑誌は、今この世界に求められているように感じなかったのである。
今求められているものとは、本当に反吐の出るくだらないものばかりであって、本物(本物の死体や、本物の人間の悲しみ)を切実に知りたいと願っている人間など、絶滅危惧種なのである。
例えば『父のロリータ』という記事は自分の境遇と凄く重なるものがあり、不快な苦しみと同時に人間の底知れぬ悲しみを感じて、とても良い記事だと感動したのだが、こういった記事を毎回読みたいのだと願う読者はどれくらいいるだろうか。
現代の大きな社会問題として”孤独死”の問題があって、孤独に暮らす人間にとって、明日は我が身の問題でもある。
浴室のドア下のコンクリートの床に頭を打ち付け、べっとりと黒い血痕と頭髪がそのまま付着しているその写真を掲載し、読者に、彼女の父親の最期を、想像させてくれる記事が、この時代にどれほど有り難いことか、どれほど貴重であることか、ほとんどの人は、知ることもない。
死体写真と同じく、人間の最期を嘘偽りなく観せてくれることを安心できる、決して消費されはしない、一生残り続けるであろう記事を載せてくれるこの雑誌自体もまた絶滅危惧種であり、そんな雑誌を、ほとんどの人は一度も手には取らず、死んでゆくことだろう。
p.s.釣崎清隆が撮ったからなのか、わからないが、青木ヶ原樹海の髑髏が、またも、どの死体より、どの生きた人間よりも優しい幸せそうな顔で安らかに眠っているのだった。
わたしは本当にこれまでずっと髑髏恐怖症だったのに、彼の撮った髑髏があんまりに愛おしくて、最近、髑髏を連れて帰りたくてしょうがない。
最後に、この雑誌にわたしからの御願いがある。
本当の地獄の苦しみの末に亡くなったであろう自殺者の死体(仏様)の次のページに、エロが来るのだけは、やめて戴きたいと願う。